第11話 夏休みはラジオ体操から始まる
8月1日。夏休み。
セミの鳴き声が降り注ぐ早朝6時。 剛田響のアパート『ひまわり荘』の周囲は、異様な緊張感に包まれていた。
「……完全に包囲されていますね」 「ちょっと剛田! なんで朝っぱらから国家公務員に取り囲まれてるのよ!?」
窓の外を覗いたシズクが震え、その横でジャージ姿のカレンが叫ぶ。 アパートの周りには、黒塗りの高級セダンがズラリと並び、耳にイヤホンを付けた黒服のエージェントたちが数十人体制で待機していたからだ。
「んー? セールスかな? 居留守使っていい?」 「使えるわけないでしょ! 『内閣府』って書いてあるわよ!」
響が寝ぼけ眼をこすっていると、玄関のドアが恭しくノックされた。
「剛田響様。日本政府、特務機関の者です。お話があります」
***
狭い六畳一間に、エリート官僚たちが正座していた。 彼らの目の前には、ちゃぶ台を挟んであぐらをかく響。
「単刀直入に申し上げます」
リーダー格の男が、分厚い契約書と、アタッシュケースをテーブルに置いた。 ケースが開かれると、中には目がくらむような札束と、黄金に輝くバッジが入っていた。
「剛田様。あなたを**『国家特別指定勇者』**として認定し、専属契約を結ばせていただきたい」
「こっ、国家指定勇者ぁ!?」
カレンが素っ頓狂な声を上げる。 それは、Sランク冒険者ですら到達できない、伝説上の称号だ。
「年俸は50億円。さらに都内一等地に邸宅をご用意し、あらゆる税金を免除。その代わり、国家の命じる災害級ミッションに従事していただきます」
破格なんてものではない。 国が丸ごと、一人の高校生を抱え込もうとしているのだ。 シズクとカレンが息を飲む。これを断る人間など、この世にいない。
しかし、響の視線は、契約書でも札束でもなく――壁の時計に釘付けだった。
(……やばい。6時25分だ)
響の額に脂汗が浮かぶ。 男はそれを「契約内容への迷い」と勘違いし、さらに畳み掛けた。
「ご不満ですか? ならば権限も譲渡しましょう。警察組織の指揮権、さらには自衛隊の一部を……」
「あー、ごめん」
響は男の言葉を遮り、バッと立ち上がった。
「その話、ナシで」
「は……?」
男が凍りつく。 50億を、即決で断った?
「な、なぜですか!? 条件が足りませんか!? それとも他国から引き抜きが!?」 「いや、そうじゃなくて」
響はスニーカーのかかとをトントンと合わせ、真剣な顔で言った。
「今から**『ラジオ体操』**に行かないといけないから」
「……は?」
「夏休みだからね。皆勤賞でスタンプ貯めると、お菓子もらえるんだよ。じゃ!」
響はエージェントたちの間をすり抜け、窓を開けた。
「お、お待ちください! たかが体操のために、国家の危機管理を放棄すると……!?」
男が慌てて響の腕を掴もうとする。 だが、響はその手を「ひょい」と避けると、窓枠に足をかけた。
「たかが体操じゃないよ。**『新しい朝が来る』**んだぞ? 遅刻したら希望の朝が始まらないじゃん」
トンッ。
軽い足音を残し、響は窓から飛び降りた。 そして、原付バイクでも追いつけない速度で走り去っていった。
「……」
残されたエリート官僚たちは、呆然と開いた窓を見つめていた。 沈黙を破ったのは、カレンの乾いた笑い声だった。
「あはは……聞いた? 50億よりスタンプカードだって」 「す、さすが響さんです……ブレませんね……」
***
近所の公園。
スピーカーから流れる爽やかな音楽に合わせて、響は清々しい顔で腕を振っていた。 その周囲には、数百人の「黒スーツの男たち」が整列し、キレッキレの動きで体操をしている。
「オヤジ! 腕の振り、完璧です!」 「おう! みんなもちゃんと膝曲げろよー!」
剛田組の構成員たちだ。 彼らもまた、ボスの日課に付き合うために毎朝早起きしているのだ。
「ふぅ。間に合ってよかったー」
体操が終わり、町内会長のおじいちゃんからスタンプカードにハンコを押してもらう響。 その笑顔は、さきほどの50億円を見た時よりも遥かに輝いていた。
「よし、明日も頑張ろう! シズクちゃん、神楽さんも明日から来る?」
追いついてきた二人に、響がカードを見せびらかす。
「……あんたが大物すぎて、私たちが悩んでるのが馬鹿らしくなったわよ」 「ふふ、そうですね。響さんは、これでいいんです」
世界中が彼の力を求めても、彼はスタンプ一つで満足する。 その「欲のなさ」こそが、最強の男の証明なのかもしれない。
「あ、そうだ。明日は海に行こうと思うんだ」 「海?」 「うん。シズクちゃんの配信の企画でさ。剛田組のみんなも慰安旅行で連れて行っていい?」
「「「ウッス!! ありがとうございます!! オヤジ!!!」」」
公園に野太い声が響く。 こうして、国家エージェントを袖にした最強高校生の、波乱の夏休みが幕を開けた。
次なる舞台は、海。 もちろん、彼がただの海水浴で終わるはずがないのだが――。




