ねぎらいの言葉ひとつ
ずうずうしい人間だったと思う。
エイベル様と出会ったのは六歳のときだった。
兄の友人として家にやってきて、私は恋をしたのだ。
優しくされたとか、一緒に遊んでくれたとか、関わりがあったわけではなくて、読んでいた物語の王子様の描写にそっくりだったから、王子様が家にきた! 私の王子様だ! とそんな理由だった。
そんな理由であるのに、私の恋心は続いた。
冷めるどころかどんどん過熱していった。
今にして思えば、自己暗示をかけていたのかもしれない。――いや、でも恋とはそういうものなのか。わからないけれど、私は彼を好きだと思っていたし、アピールもし続けた。
そうして、気づけば十六歳になっていた。
エイベル様は学院で生徒会長をしていた。兄もまた同じく生徒会の役員で、体育祭や学園祭などのイベントには何かと忙しく動く。私は妹という立場を利用して手伝いをした。そんな私を否定的な目で見る人も結構いた。当然だ。彼は私だけの王子様ではなく、学院中の王子様だった。憧れている子も多くいて、ただ昔から知っていて、兄が生徒会をしているからという理由で、無理やり手伝いをして傍にいようとする私は面白くない存在だ。でも、私はそんな声など気にならなかった。彼が好きだった。彼の役に立っていたかった。それでいいと思っていた。
――いや、それは半分嘘だ。
本当は、あれ? と立ち止まりそうになることは何度かあった。でも、それを無視した。違和感を無視し続けた。そうするべきだと、私は何故か信じこんだ。
けれど、いよいよそれを無視できなくなったのだ。
キッカケは、星章夜会だった。
前期試験が終わり、長期休みに入る前に行われる星章夜会。その準備を、私は例にもれず手伝っていた。
生徒会の見知った顔の中に、見ない顔があった。ケイシーという女学生の存在だ。
彼女のことは知っていた。今年、エイベル様と同じ首席になった。生徒会は毎年成績上位者で運営されるが、平民ということで彼女は入会を辞退していた。しかし、今後、彼女と同じ立場の人が現れたときの慣例になっては差別につながると説得して参加することになった。
ケイシー嬢は貴族ばかりの中で最初は委縮していたが、エイベル様が丁寧に説明をして、他のみんなも受け入れ態勢をとっていたので、割とすぐ馴染むようになった。彼女は頭も要領もよくて戦力となってテキパキと仕事をこなし、エイベル様も彼女の意見に耳を傾けた。
学園内の半数は平民であり、これまで平民目線で意見が反映されることは少なかったから、そういう意味でもとても参考になった。
星章夜会で採用された意見は、ドレスの貸し出しだ。
平民の生徒の参加率は低い。あくまで自由参加だし、家の手伝いで忙しいという理由で出席しない。その理由が完璧に嘘ではないが、全部が本当ではなかった。もう一つ別の理由――つまりドレスコードを満たせないからということも起因していた。
平民はドレスなどほとんど着る機会がない。星章夜会のためだけに購入するほど余裕はない。一応、制服でも参加可能とはいえ、きらびやかなドレスを着ている貴族の中に、制服で出席するのは気後れする。それなら出席しない方がいい。
もともとこの学院は貴族のみが通っていて、時代の中で徐々に平民の数も増えていったのだから、制度の見直しが必要だった。これを良い機会として、ドレスの貸し出しが決まった。
貸し出すのはもちろん貴族の令嬢たちだ。
生徒会で告知文を出し、提供者を募った。
だが、協力者はなかなか現れなかった。
それはそうだろう。貴族の中にはいまだに平民によくない感情を持っている者も少なくない。その状況で最初に動くなんて目立つし危険だ。こういうときは高位貴族にお伺いをたて、助力を願うのが穏便な方法だった。
今、学院に通う最も高位の貴族令嬢は、公爵家のミランダ様――私のクラスメイトだ。だから、私から言うべきかとも考えたが、彼女も、私が兄の立場を利用して生徒会の手伝いをしていることを快くは思っていない一人だったから、とてもではないけれど言えなかった。言ったら、何故、あなたが? どんな立場で? と問われるだろう。そして、それはもっともすぎる指摘であり、助力を願うなら、正式に生徒会からするべきことではあった。だから私は助力の件だけを兄に伝えた。
兄は、なるほど、と頷くと生徒会室に行くので私にもついてくるようにと言った。
生徒会室にはエイベル様とケイシー嬢がいて、兄が先ほど私が伝えた内容を二人に告げた。
ドレスが集まらないことについて対策を講じなければと議題に上がっていた。兄は、その打開策になるかもと、それを妹の私が提案したことを誇らしく感じてくれていたのだろう。それは私も同じで、兄たちの――エイベル様の役に立てると浮かれてきた。だけど、
「悪しき風習だな」
エイベル様の反応はよくなかった。
貴族も平民もなくみんなが楽しめる夜会のために協力を求めたのに、高位貴族への根まわしの必要など趣旨に反すると言いたいのだろう。率先して喜んで協力するべきだと。それが貴族の義務だと。
それには、私も思わず反論した。
「ですが、ドレスを貸し出すのは令嬢たちです。親しくない人に自分のドレスを貸すのは躊躇いもありましょう。何か後押しがあれば、納得できるのではないでしょうか」
身に着けるものには思い入れがある。まして普段着とは違うパーティー用のドレスならなおさらだ。他人に貸し出すなら汚れるかもしれない。ほいほいと簡単に割り切れない気持ちを、高位貴族がやるならやらないわけにはいかないと理由づけることで飲み込む。貴族の義務として果たす――感情の折り合い方を悪しき風習と一蹴されるのはあまりにも無理解だと感じてしまった。
「君は狭量なのだな」
すると、エイベル様は今度は明らかに責める口ぶりで言った。
胸のあたりがひんやりとしていくのがわかった。何故、こんな風に言われなければいけないのだろう。目の前がチカチカとして息がうまくできずに黙り込んでいると、兄が言った。
「おい、エイベル。さすがにそれはないんじゃないか。貸し出す側にも事情がある。ルシアは令嬢たちの気持ちを代弁しているだけだろ」
「……そうか。だが、実際のところ君の妹もドレスの貸し出しをしようとはしていない。いつもはやかましいくらいに協力してくるのに」
「お前……」
二人の間に険悪な空気が流れたが、それを止めたのはケイシー嬢だった。
「お二人とも落ち着いてください。今、もめている場合ではないのではないでしょうか? 夜会まで時間がありません。ミランダ様が協力してくだされば他の方々も協力してくれるというなら、話にいく価値はあるのではないですか? このままドレスが集まらない方が問題だと思います」
目的達成のためには、やむを得ないことだという彼女の言葉に、不機嫌そうだったエイベル様は少し考えるようにして、
「まぁ、それはそうだが……」
と聞く姿勢をとった。
「そうですよね。柔軟なお考えはさすがです」
「いや、君の意見はもっともだからね」
エイベル様はケイシー嬢に微笑んだ後、少しだけ表情を強張らせて兄へ告げた。
「……私も少し言い過ぎたようだ」
エイベル様が兄に謝罪をしたが、兄は何も返さなかった。私はぎゅっと拳を握り込んで、盗み見るようにエイベル様に視線を向けた。だが、彼は言うべきことは言ったとばかりに兄の無反応にも、ましてや私になんて目もくれずに、またケイシー嬢へ向き直り、
「ミランダ嬢のところへ行こう。今ならまだ学内にいるかもしれないからね」
とてもあっさり、とても簡単に決断し、善は急げと部屋を出ていく。私はただ黙って二人の後ろ姿を見送った。
パタン、と扉が閉まると
「ルシア」
兄が私を見下ろしていた。その表情は怒っているようにも悲しんでいるようにも見えて、私は身構えた。
「お兄様。ごめんなさい。私が余計なことを言ってしまったせいで」
言いながら、ジクジクとした痛みが貫いた。言葉には力があり、音にした途端に刃になる。私は謝ることなんてないが、謝ることばかりで、混乱と困惑の中に事実を隠し込んで、一番見つめなければならないものを一番奥底に潜らせた。
「いや、余計なことなんかじゃないさ。だから、二人はミランダ嬢のところへ行ったんだ」
「でも……」
「お前は、必要な助言をしたよ」
そう。私は必要なことを言った。貸す側と貸してもらう側。この中で、貸す側の気持ちがわかるのは私だけだから、何故貸し手が現れないか、どうやれば現れるか、私だけわかることで、計画がうまくいくように告げた。ただ彼の役に立ちたかった。それだけだった――でも。
(私は、)
その続きも言葉にはできなかった。
ミランダ様の助力により、彼女の派閥の人や、企画には好意的だったが最初の一人になることに躊躇いがあった人など、様々な令嬢たちが行動を開始して、ドレスは集まりはじめた。
あとは、平民の生徒が参加をするかどうか。
こちらの方はもう少しスムーズだった。生徒会、特に平民の希望の星であるケイシーの発案だったこと、また、一度はドレスを着てみたかったというのとで、想定よりも多くが参加を希望した。そのため、ドレスの数が足りずに、私は足りない分を補うため追加で三着を貸し出した。
そうして、当日を迎えた。
昼間の終業式が終わると、星章夜会の準備に入り、制服からドレスへの着替えが開始される。
夜会のドレスは少々特殊なため、生徒会役員の家からメイドの派遣がされた。我が家からもメイド長含めて三人が手伝いに来た。
準備は着々と進み、平民の女生徒たちがドレスアップしていく。彼女たちの期待した目と、緊張と興奮が混ざり合った空気を肌で感じられた。喜んでくれている。それはとても嬉しい事実だった。
「お嬢様もそろそろ準備なさいますか?」
メイド長に声をかけられ、私は頷いた。
今日のために新調した新しいドレス。上品なゴールドでレースがおり重なりとても美しい。私はこれを着て、ダンスを踊るのを楽しみにしていた。去年の初めての星章夜会は、ピンク色のドレスだった。それを着て、エイベル様と踊った。
見てください、今日のために用意したんです、素敵でしょう? だから、踊ってください。
無邪気に――無邪気を装い、私は自分からお願いした。彼は苦笑しながら踊ってくれた。私は幸せだった。
今年は、ピンクの、可愛らしい、少女のようなドレスではない。今まで着たことがない、大人っぽいドレスだ。
とくとくと心臓の音が聞こえてくる。
私は期待していた。同時に不安も感じていた。言葉には力があるから、言葉にすれば、自覚してしまえば、希望が叶わなかったときの痛みはより強くなる。だから、誤魔化してきたこと。誤魔化してきたのにそれができなくなりつつあった。結果が、すぐそこまできていたからだろう。もう逃げられない。そして、逃げるなんて思っている時点で、その希望は叶わないとうっすらわかっていたのだろう。それでも私はまだ完全には期待を捨てきれないでいた。
着替えを終えて講堂へと向かった。
万が一に備えて、最後の一人の着付けが終わるまで待っていたら遅くなり、すでに人があふれていた。平民の女子生徒だけではなく男子生徒たちも――彼らは皆、制服だが――いて、あちこちで笑い声が聞こえてくる。
私は人込みを縫うようにして歩きながら、エイベル様を探した。
彼は壇上の傍にいた。
近づいていくと、ケイシー嬢の姿もあった。
私は立ち止まった。どうして? という疑問が心に浮かんだけれど、明確な理由なんておそらくないのだろう。運命のいたずら、単なる偶然に過ぎない、それでも。
「そのドレス、よく似合っているよ」
エイベル様が笑顔で告げている。
たしかに、彼女のドレス姿は美しかった。ピンク色の、可愛らしい、少女のような、見覚えのあるドレスが、彼女が着ると可憐であるけれど落ち着いて愛らしく見えた。
私は、そんな風に褒められなかった。
初めてドレスを着た彼女へ、賞賛を送る。気後れしないようにとの配慮――いくつか言い訳を駆け巡らせていると、彼はつづけた。
「こんなにも盛況な星章夜会になったのも、君のおかげだ。本当に感謝しているよ」
「いえ、そんな」
「謙遜することはない。私も生徒会長として誇らしく思う。……そうだ! 礼といってはなんだが、今度お茶でもごちそうさせてもらえないか。近頃評判のカフェがあるんだ」
不思議な感覚だった。講堂には大勢の人がいるのに、少し離れた位置でも彼らの会話がはっきり聞こえてしまう。聞かない方がよさそうという予感があったのに、怖いもの見たさというものなのか、聞きたくないけれど聞いた方がいいという何かの警告だったのか。とてもはっきりと、耳に届いた。
その会話は、うまく意味を理解できなかった。
言葉はわかるけれど、会話の内容はわかるけれど、私にとってどういう意味があるのか、すぐには理解できなかった。
ただ、
「いいなぁ」
小さく漏れ出てしまった瞬間に、すっと心臓を薄く冷たい氷の刃で貫かれたような衝動が走った。
私が望んでいたことが、何であったか。
エイベル様と両思いになって、恋人になること――ではなかった。
この十年で、それが難しいことであるとわかっていた。それでも好きな気持ちが消えない。だから、願いは形を変えた。
好きな人の役に立って、ありがとうと言われたい。
でも、それも叶ったことはなかった。
いつも、私からねだっていたから。
(だって、そうしないと、黙っていても褒められたりしないから)
望まれたわけでもなく、ただ、私が勝手にしていたことに感謝してほしいなんて、それがいかに厚かましいことか。それでも、少しは役に立っているでしょう、と思った。褒めてほしいとアピールして、仕方ないなぁと苦笑いされながらでも私の願いを叶えてもらうことを喜んだ。けれど、私の本当の望みは、アピールして認められることなんかではなかった。彼女のように、何も言わずとも、感謝されたかった。
でも、現実はどうだろう?
――いつもはやかましいくらいに協力してくるのに
少し前に告げられた言葉がよみがえってくる。
不要な手伝いはするくせに、肝心の、彼が求めているときには何もしない、とはっきりと言われた。
私のすることすべて、ズレている。単なる独りよがりで、何の意味もなくて、だから、褒められるはずなんてなかったのだ。
私は講堂を抜け出して、中庭へと移動した。噴水前のベンチに腰掛け、パーティーの喧騒が静まり閑散とした空気に包みこまれてようやく呼吸ができた。
講堂の熱気とはまた別の、自然がつくりだすむわっとした湿気のある暑さが肌を撫でた。
息を吐きだすたびに、じくじくとした心臓の痛みが深くなっていく。呼吸し、痛みを感じ、それを繰り返していると、ぶわっとした感情の糸が喉元へと伸びてくる。だけれど、外側に出る前に呼吸を下して飲み込んだ。
胸に手を当てたままで、ぼんやりと視線を漂わせていると、
「あら、あなた。大丈夫なの?」
と声が聞こえて顔を上げた。
ゆっくりと近づいてきたその人物は、うす暗くなった中で外灯の光に照らされていた。深い青色のドレスに細工されたクリスタルの刺繍がキラキラと輝き、一目見て一級品とわかる。私はそれまで浸っていた鬱蒼とした気持ちを一瞬忘れて、闇夜に舞い降りた妖精のようなその人に惚けた。
「本当に大丈夫?」
「あ……はい。大丈夫です」
私はあわてて立ち上がり、ドレスの裾をつまんで礼をした。
ミランダ公爵令嬢――どうして彼女がここにいるのだろう。
「そのようにかしこまらなくてもよいわ」
私の躊躇いに、彼女は少しだけ息を吐いて、私の隣まで来るとふわりと舞うように座った。彼女が座っているのに、私だけ立っていると、見下ろしているようで居心地が悪く、私も彼女に倣って隣に座った。
時折、風が吹いて首筋を撫でていくのを感じながら、私は先ほどまであった焦燥と、ミランダ様と二人きりでいる空気に、緊張が増していった。
「それで、あなたはどうして泣いていらしたのかしら?」
ミランダ様はまるで無遠慮に尋ねてきた。
こんな風に率直に問われるとは思っていなかったので、私は戸惑った。
「泣いては、いません」
「そう? でもとても悲しそうだったわ」
「……」
「失恋でもしたのかしら」
私は唇を噛んだ。
混乱で忘れていた痛みと羞恥が再び押し寄せてくる。
それから、私の振る舞いを否定的に見ていた彼女の眼差しも思い出していた。
非難の目なんて気にしないと強気でいられたのは、どこかで、それでも役には立っているのだと思っていたから。けれど、そうではなかった。少しも感謝されずにいた。突き詰められた真実に打ちのめされているのに、さらに追い打ちをかけられたら.……考えて身体がこわばっていく。
これは罰なのだろうか。
罰だとして、彼女の非難が正しかったと認めるから、もうわかったから、これ以上は誰にも馬鹿にされたくなくて、
「私が愚かだったんです」
と口にしていた。
「いきなり何を言うかと思ったら、失恋した途端に悲劇の乙女気取り?」
彼女の呆れたような声が響いた。
悲劇の乙女気取り――その評価に足先から冷たくなっていく。だが、言われても仕方がないのかもしれない。人にどう思われても構わないと強行したのに、結果が振るわなかったからと殊勝な態度をとるなど卑怯に映る。
彼女からの辛辣な言葉を聞きたくなくて咄嗟に言った言葉が、かえって攻撃の隙になるなど、惨めだった。
けれど、彼女の追及はそれで終わらなかった。
「そもそも、何が愚かだったというのかしら?」
「……そ、れは、望まれてもいないのに、兄がいるからと生徒会に無理やり参加したりしておりましたから」
私はぽつぽつと返した。自分の愚かさを改めて口にすることは耐え難い。
でも、
「生徒会の方から注意されたわけではないのでしょう? 注意されているのに訪ねていたなら愚かですが」
ミランダ様が告げたのは私の予想とは違った。わかっていてやったのなら自業自得でしょうとか、そのような非難を浴びると思っていた。
「注意はされていません」
「それなら愚かと言う評価は事実ではないのではなくて?」
「ですが……ミランダ様は私の振る舞いを快くは思っていらっしゃらなかったのでは?」
非難されないならありがたいけれど、何故、非難しないのか、私は疑問を口にした。
「ええ、そうね。兄がいるからと出入りすることは公平ではないもの。でも、世の中に公平なんてものはないのよ。それに、あなたを迷惑に思うなら、生徒会から言うべきことよ。そうなっていないのは、少なからずあなたが貢献していたからでしょう。それなのにわたくしが口出すのもおかしな話だわ」
淡々と続いたが、私は静かに首を振った。
「いえ、違います。私は役になんて、」
言いながら、ぎゅっと喉が狭まり、声が震えてしまう。
感謝されたい。
自分からではなく、認められて、喜ばれたい。
でも、それができていたなら、エイベル様はきちんとそう告げる――ケイシー嬢にしていたのを見てしまった。私は役になんて立っていない。
「わたし、は、エイ、ベル様からは、お礼を、言われたことも、なかったですから」
たどたどしくも吐き出した内容が音になるたびに、見ないようにしてきたものがくっきりとした輪郭をなぞっていく。
「ああ、やはり、あの方はそうですのね」
すると、ミランダ様は鼻で嗤った。
ただ甘やかされていたことを自ら暴露した。誤解が解け、今度こそ辛辣な言葉がくるだろう。でも、少し前までにあった身体の強張りは感じなかった。認められずにいたことを、本当に認めてしまったからか。私はなんの役にも立っていなかった。喜ばれたりしなかった。とても滑稽で道化のように振る舞ってきた。
ずっと感じてきた違和感がとかれて、とくまでの恐怖は、とかれてしまえば耐えられない痛みではなかった。
静かな夜の中、みっともなく私の鼻を啜る音が響いて、私をいっそう惨めにさせた。たけど、ミランダ様はそれについては一切言及してはこなかった。
妙な沈黙を破ったのはワルツの音。夜会が始まったのだ。
「あ、……ダンスがはじまったみたいですけれど」
私は気まずさを誤魔化すように言った。
ファーストダンスは出席者の中で一番身分が高い人が踊るのが決まりだ。つまり、今回はミランダ様が踊るはずなのに、このようなところで座っているなんて、会場で探されているのでは? と心配してのことだった。
「いいのよ。わたしは欠席と言って出てきたから」
「え」
「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
ミランダ様はくすくすと笑っている。でも、誰でも同様の反応をすると思う。もう目と鼻の先に会場があり、彼女はそこから歩いてきただろうに。ドレスだっておそらく今日のために用意したもののはずだ。それが、何故?
私の疑問を見透かしたように、ミランダ様は言った。
「先ほどの挨拶もそうでしたもの」
「え?」
「夜会がはじまり、生徒会長様が挨拶をしたのよ。これまでにない参加人数であることを誇らしげに語っていたわ。そして、それはすべてケイシー嬢のおかげだとおっしゃっていたわね」
ミランダ様は微笑んでいた。その笑顔に、私は背筋が凍り付きそうだった。私は彼女が何に怒りを感じているのか理解した。エイベル様は、ドレスの貸し出しに助力したミランダ様について触れなかったのだ。
「あの、ドレスのことは、みんな、ミランダ様の助力があってのことときちんと理解しております」
「みんなが理解しているかどうかなど問題ではなくてよ」
けれど、ミランダ様はピシリと告げた。
「彼らは、わたくしに助力を頼んできた。わたくしはそれに応えた。ならば、礼儀というものがあるでしょう? わたくし一人だけのことなら構いません。けれど、わたくしが動くということは、それが貴族令嬢の指針となるのよ。下級貴族の中には経済的に厳しい者もいる。それでも貴族としての矜持から、ドレスの貸し出しに応じたという令嬢もいるの。ならば、令嬢たちの協力があったことをきちんと述べるのが最低限の礼節ではなくて?」
「それは……おっしゃる通りです。けれど、エイベル様に悪気はなかったのだと思います」
「あなた、まだ彼を庇うの? たしかに愚かだわ」
ミランダ様はまた呆れたように言って、それからひらりと立ち上がった。
「いい。よく状況を見て、そして、考えなさい。悪気の有無など問題ではないのよ。いいえ、むしろ悪気がないからこそ問題ではなくて? つまり彼はやって当然のことをわたくしたちが怠り、自分が言ってやらせたくらいに思っているということではないかしら。傲慢だわ、とても。だって、ドレスを貸すのは彼らではないのですもの」
私がミランダ様に助力を仰ぐのが良いと提案したときのことが思い出された。彼はあのとき、貴族として協力するのは当然で、根回しなど悪しき風習だと否定していた。彼の言い分は立派だと思う。けれど、それを他人に強いるなら、ミランダ様が言う通り傲慢とも言えた。
「あの方、少し独善的なところがあるわ。それを、いつもフォローされていた方が、今回は何もなさらなかったので、このような結末になったのよ」
ミランダ様は、楽しそうだった。
いつもフォロー……それが誰を指すのか、私にもわかった。
「……わたくし、思いますのよ。無礼を許してはいけないの。あなたがそのように自分を責めるなら好きにすれば良いけれど、だからといってあなたがしてきたことすべてを否定するのはあまりにも乱暴なことよ。少なくとも役に立っていたこともあったはずだわ。そうでなければ、あなたの優秀なお兄様が、あなたの振る舞いをけしてお許しにはならなかったでしょう。それもまた事実であると認識しなさい」
ミランダ様の言うように、兄は私が本当に独りよがりな振る舞いをしていたら注意しただろう。
たとえば、もっとずっと幼かった頃、エイベル様が我が家を訪ねてくると私はすっ飛んでいった。だけど、私は出迎えと見送りのときの挨拶のみで、一緒の部屋で過ごすことを兄は認めなかった。彼に私の面倒を見させるような状況にはけしてしなかった。
生徒会への参加もそう――最初に入室が許されたきっかけは、差し入れだった。兄の帰りが遅くなることが続いたから、みんなの分の軽食を準備して届けた。兄は喜んでくれて、食べる間に休憩も兼ねて生徒会室にいれてくれた。今、何をしているかを説明してくれ、その中には私にもできそうなものがあったから手伝いを申し出た。そこから、私は補助役として生徒会に参加するようになったのだ。
参加とは言っても、直接発言することは許されなかった。思うことがあるとき、まず必ず兄を通すようにと言われていた。
分を弁えるようにと、それは絶対のルールだった。その中で、役に立つようにと頑張ったつもりだった。
「でも……私はミランダ様とは違いますもの。頼まれてもいないのに勝手に手伝っていたことを、感謝しろというのは厚かましいですから。それなのにダンスを踊ってほしいとか対価を要求してたんです」
「……あなた本当に厄介な人ね。少し冷静になったほうがよろしいんじゃない? もともとあなたは下心があって近づいたのだから、対価を求めるのは当然のことではなくて? 彼だってあなたの恋心を知っているのだから、それで何も与えないなんてそれこそあなたの恋心を利用していたってことじゃない。怒りこそすれ、何を反省する必要があるのかしら?」
ミランダ様の叱責に、私は言葉を失った。
それはまったく考えたこともないことだったから。
私が黙ったままでいると、
「わたくし、あなたの振る舞いを貴族令嬢としてどうかと思っておりましたけれど、それでもそういう気概をもってやっているのだと、その点に関しては感心しておりましたのに、買い被りだったのかしら」
ミランダ様は今日何度目かの呆れた声で言った。
私はただ笑うよりなかった。
ミランダ様が言うように、そこまでの覚悟と気概をもってしていたわけではなかった。他に方法がなかったからそうしていただけで、ずうずうしいことをしているとうっすらとわかっていた。いつだってそこには後ろめたさがついて回っていた。私は無理をしていた。――私の本心はこんな風なやり方を望んではいなかった。他に方法が思いつかないからそうしていただけ。でも、私が望んだ形をエイベル様から与えられているケイシー嬢を見て、私が叶わないと思っていたのは、私だから叶わないだけと、それが今日、どうしようもないほどはっきりとしてしまった。
「お嬢様。お待たせいたしました」
頭に熱がまわりぼぅっとしているうちに、ミランダ様の馭者が準備ができたと呼びに来た。
「では、ごきげんよう」
彼女はまるで何事もなかったように、そう言うと軽やかに去っていった。本当に、出席せずに帰ったその潔さを私はぼんやりと見送った。
結局、私もそのあと講堂へ戻る気にはなれずに、屋敷に帰った。
せっかく新調したドレスなのに一曲も踊らないままでいたことを残念に思いながらも、メイドに脱がせてもらう。いつものメイドは学院に貸し出しているから不慣れさもあって少しだけ時間がかかった。
なんだかひどく疲れてしまった。
でも、そのまま眠る気になれず、ベッドに入る前に本棚から一冊の絵本を取り出した。
美しい金髪に碧い目の王子様と、栗色の髪に薄いグレーの瞳の少女の表紙。
この本を見て、エイベル様を王子様だと思った。素敵な王子様が私にも現れたと信じた。
もうすっかり内容を忘れていて、私は記憶を呼び起こすようにして絵本を開いた。
王子様が悪い魔女にネズミに変えられて、貧しい家の少女に救ってもらう、そんな夢物語。
ネズミになった王子を見て、婚約者の王女様は彼を罵り追い出してしまう。それを理由に、元に戻ったとき、王子は婚約を破棄する。たとえ私がネズミになっても大切にしてくれた少女こそ、私の妻にふさわしいと言って。
(こんな無茶苦茶な話だったかしら?)
私は少し驚いた。
ロマンチックで素敵な話だと思っていたけれど、大人になった今ではそうは感じなかった。
王女様はネズミが王子とは知らなかったし、ネズミがいきなり寄ってきたら恐怖で叫んでしまうのは普通なのでは? むしろネズミに慣れている少女こそ特異なのではないかしら? 王子様はあまりに一方的すぎない?
冷静に指摘してしまう自分がなんだかおかしくなって笑う。私は、もう、物語に憧れる少女ではなくなっていた。素敵な王子様なんていなかったことも知った。
私は、決断をしなければならない。
「さすが、ミランダ様ご指定の業者ですね」
私は感嘆の声をもらした。
星章夜会から一週間後、長期休みに入っていたが私は学院へ来ていた。
令嬢たちから借りていたドレスを業者へ洗いに出していたが、それが戻ってきた。令嬢たちへ返却する前の最終チェックは必要で、男性や平民のケイシー嬢よりも私の方がいいだろうと兄から頼まれたのだ。ドレスの貸し出しが決まったときからやるつもりでいたので、私は了承した。
「ああ、公爵家御用達の店だから、任せてよかった」
兄は言った。
依頼した業者はミランダ様の指定されたところだった。公爵家御用達なので値段も張る。星章夜会の予算内でなんとか収まる額ではあったが、もう少し安い業者でもいいのではないかという声も当然あがった。だが、ミランダ様は断固として認めず、結局はこちらが受け入れたという経緯がある。
だが値段を出すだけのことはあって、仕事が丁寧だった。幸い、破損されたドレスはなく、汚れがあるものも綺麗になり、各家のラベル付けまでされて戻ってきた。あとは、貸出票と相違がないか順番に見ていけばいいだけの状態だ。私が来なくても問題なかったくらいに、きちんと仕上げられている。
「ルシア嬢!」
溌溂とした声で名を呼ばれた。
金髪の髪に太陽の光が降り注いでキラキラと眩い。私は目を細めて、声の主が近づいてくるのを待った。
「エイベル様、ごきげんよう」
私はカーテシーをした。
顔を上げると、深い碧い目が私を見下ろしていた。
この目に映されるとき、私はいつもどきどきしていた。その名残なのか、まだ少し落ち着かない。けれど、そこにはこれまでにない気持ちも混ざっていた。
彼が私をどう扱っているか――それをきちんと見つめられる。
「何故、打ち上げにこなかったんだい?」
「は?」
挨拶もなく、エイベル様は言った。
打ち上げ――そういえば、星章夜会が終わった翌日に生徒会で打ち上げが行われた。兄からも聞かされていたが、私は出席しなかった。いつもならば、話を聞いて、私もいきたい! と自ら望んだろうけれど、もうそのような気持ちにはならなかったから。
いや、それよりも何故そんなことを聞いてきたのか。
私がいぶかしく思っていると、
「君が来ると思っていたのに、こなかったから、ケイシー嬢が女性一人になってしまったんだよ」
ケイシー嬢が一人? たしかに、生徒会のメンバーは彼女以外はすべて男性で、彼女が参加し始めた当初、私は何かと不便がないかと気を配っていた。でもそれも、別に私の役割というわけではなかった。というよりも、彼女が来る前は私だって女性一人だったけれど、そのような配慮を見せてくれたことはなかった。
改めて、ケイシー嬢と私の扱いの違いを突き付けられて、私は言いようのない不快さを感じた。傷つくのではなくて怒り――それは初めての感覚だった。
ほんの一週間前には、違和感として押し込めていたものが、何の遠慮もなく前面に出て、ふつふつとこみ上げる憤りに私はとても驚いた。この十年、私が優先してきたものが、こんなにもあっさりと最優先ではなくなっている。それは寂しいことであるようにも思えたが、変化の波は、変化してしまえば、もうどうしようもなかった。
世界は変わる。ある日突然。唐突に。
たとえば、ある日、目の前に現れた人を運命の王子様だと思い込んでしまったように。
たとえば、ある日、私の願いは叶わないと悟ってしまうように。
結果が望むものではなくても、理解してしまったものは、世界を変える――そんな自分を少しだけ薄情にも思えたが、どうしようもない。
「来るも何も、わたくし、エイベル様からお誘いを受けてはおりませんので」
私は言った。
「え……いやでも、いつもは何も言わずとも来ていただろう」
彼は、驚いたようにそう返してきた。
その言葉に、私は少し笑った。
その通りだった。
私は呼ばれずとも、自らアピールをしていた。私も頑張ったのですから誉めてください。何度そのように言っただろう。私の言葉を拒否されたことはなかったけれど、でも、それで私が心から喜べたことはなかった。少しずつ削られていったものがあった。それでも、何もないよりはいいと思った。自ら掴みに行った。
それとも、黙っていれば、待っていれば、私が求めるものが手に入ったのだろうか?
私が自分で言ったから、彼は言わなくてもいいとなってしまったのだろうか? その可能性を考え、私は少し苦しくなった。でも、結局はそれもまた可能性であり、想像でしかなかった。実際に何が起きたのか、今の私にとって大切なのはそちらだった。だから、
「ええ、そうですね。ずうずうしい真似をしておりました。大変申し訳なく思っております。今後、そのようなことは致しませんので、ご安心くださいませ」
私はまっすぐに彼を見つめた。金髪の髪に碧い目――私の王子様、王子様だと思っていた人のその目にわずかに動揺が見えたようにも思えたが、私は深々と会釈をしてから、くるりと身をひるがえした。
読んでくださりありがとうございました。
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