夜長の足取り
秋が近づくにつれ、虫の音は徐々にやかましくなっていた。初めは風流を感じられた音色も、今では鼓膜を突っつくような雑音に変じている。私はとうとう耐えきれずに布団を飛び出した。
廊下の電気を点け、意味もなく蛇口の水を手ですくい、乾いたとも湿ったとも言えぬ口に運んだ。遠くでは変わらず虫の音が響いている。カーテンの向こうには瓦屋根の一軒家が映るのみで、果たしてこのしんとした風景のどこに声の主がいるのかと不思議になる。
それとも彼らの声は幻聴で、窓の奥にある絵画のような静けさだけが真実であり、秋夜の騒音は全て私の一人芝居だったのかも、なんて妄想まで浮かんでくる。
考えなしに含んだ水のおかげか、眠気のもやは動き回れる程度に薄れていた。私は寝床へつく意欲も湧かず、家でじっとしているのも虚しい気がして、前髪を少し手櫛でいじってから外へ出た。
扉一枚越えただけで、虫の大合奏はさらに迫力を増した。彼らの歌は夏が遺した湿気とともに頬を撫で、その音圧に怯みながらも「当たり前か」と息を吐く。野生の住処は元より夜の世界で、私たちはそれから逃げるように「家」の概念を作ったのだ。
そう考えると、なんだかやかましさもマシになるような気がしてきた。虫たちへの申し訳なさすら感じ始めていた。私は軽くなりかけた肩をのそりと回し、アパートの軋む階段を一歩一歩降りていった。
外へ来たものの行く当てはなかった。記憶にない小道を探るのも何か不安で、私は歩き慣れたいつもの道を歩んでいた。そもそも深夜徘徊などあまり経験がなく、高校時代に背伸びしてやったのが一回、サークルの飲み帰りの酔い覚ましが一回。まだまだ初心者であった。
別にやろうと思えばいつでもできた。だが、カロリーが重かったんだ。夜になると知った道も違う表情を見せる。その様がどこか幻想的で、それでいてちょっぴり怖くて、習慣化するには心臓の強度が足りなかった。
やがて私は住宅街の中のT字路に差し掛かった。左側に行けばシエラレオネ色のコンビニ。まっすぐ行けば、ほどほどに栄えた駅の近くへ出る。
進むべき道はすぐに決まった。空きっ腹がくぅと悲痛に鳴いたのだ。私は左へ曲がることに決め、値上げしたチキンナゲットのことと電子マネーの残高についてぼんやりと考えながら歩み始めた。
相変わらず虫たちは歌っていた。角には背丈の高い電灯があり、その上空を見上げてみると、曇った闇空を蛾の影がひらひら舞っている。歌い手と踊り子、観客の私が揃っていれば舞台は完成だ。私は意外なところで芸術の秋を感じていた。
そのときだった。
「ねえ」、と後ろから声がしたのだ。
電流が走ったように背筋が伸び、私はくるんと振り向いて声の主を探した。
だが、そこには誰一人いなかった。ただ虫の演奏が続くばかりで、路地の闇の静寂さに変化はない。確かに声はしたのに。
私は現実と認識の矛盾を前に、這い寄るような恐怖を覚えていた。別に聞き間違いじゃない、記憶の中にはあの意味をもった二文字がこびりついている。不穏な予感が肌をそよがせた。私はいてもたってもいられずに、ふとアスファルトを蹴り、不器用なフォームで夜の中を駆けていった。
「らっしゃっせー」
聴き慣れたメロディとともに、夜には似つかわしくない光へ足を踏み入れた。どこか無機質な匂いが鼻に飛び込む。いつもなら何とも思わない光景が、今は最上の安らぎになっていた。
店奥の冷食コーナー前で立ち止まり、先ほどの出来事を思案する。あれは男とも女ともつかぬ声色の平淡な声だった。なぜ私に? なぜ姿が見えなかった?
いくら考えても答えは出ない。側から見れば冷食のチョイスで悩み続ける優柔不断な客だったろう。やがて遠くから入店音が鳴り響き、二回目の「らっしゃっせー」を聞いたところで私はハッとした。
さっきの声の主だったらどうしよう。もし私を尾けてきてる奴だったら。
すたすたと足音が近づいてくる。私は首を回して背後を見つめていた。どうしようもなく怖いのか、それとも無謀な怖いもの見たさか、足は柱のように固まって動かない。ただじっと、張り詰める鼓動を抑えるように拳を握るしかなかった。
「……ねえ、まだトイレットペーパーあったっけ?」
「分かんね。一応買っとくか」
冷食コーナーに姿を現したのはスウェット姿のカップルだった。彼らはじっとたたずむ私を見つけると、怪訝な目を向けながらも後ろを過ぎ去っていった。
彼らがいなくなり、残ったのは小さな安堵だった。事態が一段落したことで私の脳には冷静さが舞い戻ってきた。
そうして少しおかしい気分になった。不審者に怯えていた私の方が、彼らにとってはよっぽど不審者だったろう。さっきの声だって同じ事かもしれない。「ねえ」は私が作り出した幻で、警戒すべき相手は本当は私自身だったのかもしれない。
心の荷がふっと軽くなるような感じを覚える。私は冷食を選び損ねたふりをするように首をかしげ、チキンナゲットを購入して店を出た。
レジ袋をふらっと提げながら帰り道を歩む。「ねえ」の犯人のことは気に留めていなかった。また声がすれば全力で走ればいいだろうけど、もはや第三者がいたなんて私には思えなかったのだ。
あの場には私と虫たちだけ。全ては静謐と喧噪のギャップが生み出した独りよがりな妄想。それが答えだと決めつけた方が色々なつじつまが合う。
ふと私は、昔の恩師に聞いた話を思い出していた。脳に強い疲れが残っていると幻聴が起こるのだと。だから夜中のネットサーフィンも辞めて早寝するようになったのだと。
きっと私も同じ状況なんだろう。今年の夏は茹だるような暑さだったから、脳どころか全身、末端神経に至るまで真っ赤に染まる日々だった。まだ秋口に入って数日、あの疲れが尾を引いているに違いない。
とりあえずはチキンを食べれば眠くなるはずだ。それから布団に身を投げ出して目をつむってみよう。今なら虫たちの鳴き声も、ちょうどいい子守歌になるだろうから。
私は聞きなじんだポップスを口ずさみ始めた。秋の夜はまだまだ長いんだ、少しくらい演奏に混ぜてくれたっていいだろう。
……夜の散歩も悪くないな。
私の心臓は淡々と、それでいて弾むようにリズムを刻んでいた。




