ばいばい、特等席
言葉足らずな彼女と、寂しがりやな彼。
「嘘をつくならバレるな、浮気は死刑」____。
嫉妬、執着を嫌うからこそ、常にどこか一歩引いた彼女・咲良は、彼の浮気に気付いてしまい…。
彼の転勤を機に、遠距離恋愛がスタートした2人の、終わりの始まり。
ごめん。
たった3文字、それは確かに重く放たれた。
手のひらを広げて、掬わなきゃ。
溢さないように、無くさないように。
けど、みるみる視界から消えて、落ちた。
わたしには、拾うことができなかった。
…違う。拾うことを、諦めた。
絶対に、嘘だけはつかないで。
つくなら、突き通して。
浮気は、死刑だから。
するなら、絶対バレないようにして。
気付かなければ、それは存在しないから。
「…私、言ったよね?」
「うん、…ごめん。本当にごめん。
こんなこと言ってももう取り返しつかないけど…目の前で、俺の言葉で、咲良さくらが、傷つくのは嫌で。だけど…」
そんなにこっちを、見ないでよ。
「だけど、何」
この時点で、すでに興味関心は失われていた。
アクセルを踏み込む。高速道路は合法でぶっ飛ばせるし、信号もないから今のわたしの心にはぴったりだ。
景色が一気に流れていく。
視界が滲んだが、ぎゅっと瞬きして取り戻す。
「何で今なのよ」
待ちに待った、デートのはずだった。
史上最強の寒波が去って、ようやく暖かくなって。
この日のために、春服だって買った。
店員さんが、似合いますって勧めてくれたやつ。
霞んだピンクの、ふわふわの。
いつも、甘え下手でごめんね。ちょっと、雰囲気変えてみたんだけど、どうかな。
試着室で、そんなことを考えていたのが懐かしい。
…まだまだ自分も可愛いところがあるもんだ。
彼は、知らない女と寝ていたと言うのに。
ふわふわの袖が邪魔になって肘まで捲る。
「もちろん、もう終わりだよ」
「待って、待ってよ、聞いて!
…寂しかったの、咲良が会ってくれないから!」
なんだそれ。静かな怒りが込み上げる。
「あんたさ、全部間が悪いんだよ。どうせ嘘つけないなら、これが最後のデートだと思って、やりきれよ。何途中で申し訳なくなってんだよ」
ああ、もう最悪だ。
全部全部。
「…ごめん。けど、どうすればよかった?転職する時、遠距離選んだのはそっちでしょ?週末の電話も、月一で会うのも、お互い話して決めたことでしょ?それ以上、縛らない約束でしょ?…少しは大人になってくれたと思ってた」
大人になろう、私たち。
遠距離は、お互いの信頼でしか成り立たない。
…だから、絶対に、嘘だけはつかないで。
つくなら、突き通して。
あと、浮気は、死刑。
もし万が一するなら、絶対バレないようにして。
気付かなければ、それは存在しないから。
浮気の一つも隠せないようなら、見込みはない。
中途半端な根性なし。
ひとつ、この暴露に車内を選んだことで、最後までわたしを責めることができる方法を取ったことだけは、賢かったと褒めてもいい。
けど、もう終わり。
「降りて」
「降りない。聞いて、別れたくない」
「何言ってんの、降りて」
「咲良は寂しくなかったの?!」
「…寂しくなかった」
「少しも?」
なんなの。
そんな目で見ないでよ。
わたしだって…私だって、私だって!
「……優ゆうも頑張ってると思って、そうすれば、寂しくなかった。今日会うのが楽しみで楽しみで、何でも頑張れた」
こんなこと言うのはもちろん初めてで、彼は目を見開いてフリーズしている。
多分彼には今、何も見えていないだろうな。
そんなどうでもいいことを、もう1人の客観的な私が考えていた。
…なんだ、私の方が重いじゃん。
束縛が嫌い、自由が欲しい。
お互いに自立していて、会えばプラスにはなるけど妨げにはならないような相手。
執着なんて、見苦しい。
嫉妬なんて、くだらない。
…そんな自分を見たくない。見せたくない。
昔からそう。ただそれだけを貫いて、正義だと固く信じて。
でも実際は、ただ私が愚かで、つまらない人間だっただけ。
「ごめんね」
再び車を走らせる。優は、なにも言わない。
「もう、私から解放されな」
ここから彼の家は、そう遠くない。
でも、車内の空気に耐えられなくて、高速道路を降りてすぐに窓を開けた。
じん、と目頭が痛いのが悔しい。
きっと、雨が上がって花粉が舞ったせいだ。
「今までありがとう」
家賃3万のアパートが、後ろからわたしを嘲笑っているような気がした。
扉を閉めた彼が一瞬何かを言いかけたように見えたが、すぐに車を出す。
彼を助手席に乗せる時の運転席が、わたしにとっての特等席だった。
特等席に座っている時はいつも、車窓が何倍にも綺麗で。
……綺麗で。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
世の中的には男女逆転とも言われそうな2人の、別れ際。
どちらかに共感して読んでいただければ嬉しいです。