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9/16

浴衣は知ってる

午前中に見た、シンくんの姿が、頭から離れなかった。

あのとき、どうしてだろう。

胸がきゅっとして――

泣きそうになった。

べつに悪いことなんかじゃない。

あの子はきっと、昔からの知り合いで、笑いかけるのも自然なこと。

シンくんは、やさしいから。

なのに――なのに、どうしてあんなに寂しくなったんだろう。

私はまだ、シンくんのことをよく知らない。

この島のことも、この夏のことも。

でも、知らないからこそ惹かれて――

もっと知りたいって思った。

もっと、そばにいたいって思った。

あの子には、もうずっと前から知ってる顔を見せていた気がして。

そのことが、ちょっぴり――ううん、けっこう、くやしかった。

夕暮れが近づくころ、ひとりで縁側に座って、空を見上げた。

さっきより少し高くなった雲。

風の匂いも涼しくなった気がする。

庭の草の先が、かすかに揺れていた。

この島の夏が、今日も静かに過ぎていく。

「……ちゃんと笑えるかな、私」

そうつぶやいて、私はゆっくり立ち上がった。

胸の辺りをさすってもやもやを、ほんの少しだけ置いていくように。

――大丈夫。浴衣に袖を通せば、空気までしゃんとする気がする。

背筋が、自然と伸びる気がした。

夕暮れどき、坂手の集落にひとつ、またひとつと灯りがともり始める。

私は、祖母に手伝ってもらって、藍色の浴衣に袖を通した。

白い撫子の柄が、一面に咲いている浴衣。

いつもより、少しだけ大人になったみたいな気がして、くすぐったい。

でも、歩くたびに布が足にからんで、裾がもたついてしまう。

慣れない感触に、なんだかうまく歩けなくて、そわそわする。

結い上げた髪も、見慣れないうなじも、どこかよそゆきの私みたいで。

つい、何度もうなじに手をやってしまう。

――ちゃんと、笑えるといいな。

そう心の中でつぶやいて、私はそっと玄関の引き戸を開けた。

下駄の音が、ぽこぽこと静かな道に響く。

夕焼け空が、少しずつ群青に変わっていく。

風が浴衣の袖を揺らすたび、空気が入り込んできてそわそわした。

途中、庭先で水をまいていたおばあさんとすれ違った。

「まあ、かわいいねえ」と笑いかけられて、私は思わず顔が熱くなった。

うつむいたまま、小さく会釈をして通り過ぎる。

足もとばかり見ていたら、下駄が石に引っかかりそうになって、あわてて姿勢を立て直した。

神社の坂道にさしかかると、ほのかに屋台の甘い匂いがした。

砂糖と醤油が混じったような、懐かしい夏のにおい。

浴衣の裾を押さえながら、一段一段、ゆっくりと石段をのぼっていく。

待ち合わせの神社の鳥居前に着いたとき、シンくんはまだ来ていなかった。

境内では、出店の提灯が風にゆれていて、金魚すくいやヨーヨー釣りの呼び込みの声が、にぎやかに響いている。

薄紅色の夕焼けが山の端に沈みかけて、茜色が空と雲を染めていく。

蝉の声はいつの間にかおさまり、かわりに草むらの奥から、リーンリーンという小さな虫の声が、ひっそりと届いてくる。

私は、背伸びしてあたりを見回した。

振り向いて、また前を見て、目をこらす。

シンくん、どこかな――

頬を上げて、ひとり笑ってみる。

大丈夫、大丈夫。

小さく息を吐いて、自分に言い聞かせた。

そんなときだった。

「おっ、かわいいおねえちゃん、一人?」

突然かけられた声に、私はビクッと肩を震わせた。

振り返ると、中学生くらいの男の子がふたり、少し気取ったような足取りで近づいてくる。

視線をそらして、そのまま無視しようとしたけれど、ふたりはしつこく話しかけてきた。

「ねえねえ、俺たちが案内してあげるよ」

片方の男の子が、ぐいっと顔を近づけてのぞき込んできたとき、私は息を飲んだ。

浴衣の袖を握りしめる手に、じんわり汗がにじむ。

心臓の音がどんどん大きくなっていく。

目を合わせないようにしながら、勇気をふりしぼって、小さな声をふるわせる。

「……待ち合わせ、してるんで……」

その瞬間、男の子のひとりが私の腕を掴んだ。

びくっと体がこわばって、思わず顔を上げる。

もう一人も、にやにや笑いながら反対の腕を掴んでくる。

心臓が、ドクンと跳ねた。

「やめてください!」

思わず叫んで腕を引いた拍子に、ふたりの手がすっと離れて、私はバランスを崩してしまった。

あっ、と思ったときにはもう、後ろに倒れかけていて――

背中に、やわらかくて、でもしっかりとした温もりが触れた。

「梨花、大丈夫?」

耳元で聞こえたその声に、私はハッと顔を上げた。

その顔を見た時、ふっと体から力が抜けて、目がウルウルしだす。

そこには、紺地に白い金魚模様の浴衣を着たシンくんがいた。

いつものTシャツ姿とは違って、なんだか少し背が高く見える。

「……ああ?」

掴んでいた男の子たちが、目を細めてにらんでくる。

「なんだ、坊主の連れか?」

「俺たちに譲れよ、この子」

シンくんは、私の手をそっと取って、ゆっくりと立たせてくれた。

そのまま何も言わず、にっこり笑って、私の肩をやさしく抱きかかえるようにして歩き出す。

けれど、背中にぴたりと手をかけてきた男がひとり。

「おい、坊主、聞いてんのか?」

シンくんは、すこしだけ足を止めて、肩越しに静かに言った。

「聞いてるよ。でも、この子はお前らには似合わない。やめときな」

その声は、静かだけど、まっすぐだった。

「はぁ?」

「こんな人が多いとこで騒ぎにしたくないやろ、高島さんに、杉村さん」

男の子たちは、名前を呼ばれた瞬間に目を見開いた。

「俺、秋倉真治。いつでも相手になるよ」

「……秋倉……?」

それ以上、何も言わずに男たちは、そそくさと逃げるように離れていった。

去っていく背中を見送るあいだも、私はドキドキが鳴りやまなかった。

「……怖かったろ、ごめん」

シンくんは、気まずそうに頭をぽりぽりとかきながら、少し照れたように笑った。

私はぶんぶんと首を振る。

「ううん……助けてくれて、ありがとう」

声は小さかったけど、ちゃんと届いたみたいで、シンくんはふっと笑って、鼻の下を指でこする。

その仕草がいつものシンくんで、全身から気が抜けたようにホッとした。

二人の浴衣の裾を、屋台の匂いを含んだ風が、サラッと触っていく。

シンくんが私をチラチラと見ていた。

「そ、それより……」

「ん?」

「浴衣、似合っとる」

一瞬、目が合った。ふっと胸がふわっと跳ね、私はスッと浴衣の襟に指を添える。

「……ほんと、に?」

下駄の鼻緒が指の間でむずむずして、上目遣いにシンくんの口元をみた。

「本気」

力がこもったシンくんの声に、ぱっと顔が熱くなったのを感じて、私は視線を逸らした。

髪のうなじあたりが急にそわそわして、なんだか落ち着かなくて、手をそっと添えてしまう。

鼓動だけがどくどくしていて、息を吸うたび胸がくすぐったい。

シンくんの横顔をちらりと見て、それから、ふと――思い出した。

「……シンくん。あの人たち……なんで逃げたの?」

「んー……オレんち、合気道やっとるんよ。島じゃちょっと……有名、かな?」

シンくんは、ちょっと照れたように片側の頬を上げた。

「へえ……シンくんって、そういう人だったんだ……」

思わずそうつぶやいた自分の声が、ちょっとだけ上ずっていた気がした。

なんだか、いつものシンくんじゃないみたいで――

かっこよさのポイントがプラスされてしまう。

私は視線を足元に落として、下駄の鼻緒を指でこする。

どうしよう、なんか、ずっとドキドキしてる。

「そういう人って、どんなんや」

声を出して笑うシンくんに、私も、思わずくすりと笑った。

笑えたからか、ちょっとだけシュッと顔を上げた。

「じゃ、行こか。祭り、楽しまんと損やろ」

サラッとシンくんは手を差し出してきた。

私は躊躇うことなくその手を握る。

そしてニコリと微笑み合った。

シンくんに手を引かれて、私は提灯の灯りの中へと足を踏み入れる。

境内は、子どもたちの笑い声や出店の呼び込みの声が、ひっきりなしに聞こえてくる、すっかり祭のにぎわいに包まれていた。

「梨花、たこ焼き食べる?」

という声がどこかから聞こえてきて、太鼓の音が遠くでドン、と響いた。

「うん!」

焼きそば、たこ焼き、りんご飴、チョコバナナ。屋台の匂いが混ざりあい、風に乗って鼻をくすぐる。

ふと、思った。

――あの子は、手を繋いでなかった。

でも、私は。

いま、こうしてシンくんと手を繋いでる。

この手のあたたかさが、全部、私だけのものみたいで――

それだけで、心にこびり付いていたもやもやが、ふっと消えていく気がした。

屋台の明かりは、夜が深まるごとに輝きを増していく。

シンくんの横顔が、オレンジ色の提灯に照らされて、まるで知らない誰かみたいに見えて――

Tシャツ姿より少し大人びた浴衣と、くしゃっと笑う表情のアンバランスが、なんだか――ずるい。

「梨花、射的しようぜ」

キラキラした目のシンくん。

「え? 私、やったことない……」

「じゃ、俺が先。見とけよー」

そう言ってシンくんは、木の台の前にしゃがみ込む。

構えた銃が少しぶかぶかで、でも妙にさまになってるのが、なんか可笑しくて。

紙で巻かれた弾が飛び、ぱん、と空気を弾く音がした。

最初は外れたけれど、三発目で小さなくまのぬいぐるみが、ぽとりと落ちた。

「やった!」

「すごい!」

思わず声をあげる私に、シンくんはぬいぐるみを手にして、ちょっと照れくさそうに差し出してきた。

「ほら、梨花にやる」

「えっ……私に?」

「だって、今日の主役やろ? 島での初めての夏祭りやし」

茶色のぬいぐるみの目が、ちょこんと私を見上げている。

嬉しいのに、なんだか胸がぎゅっとなる。

シンくんがそう言ってくれたことが、嬉しすぎて、うまく笑えなくなる。

私たちはそのあとも、いくつかの屋台をまわった。

りんご飴を持つと、手がべたついて、ふたりで指を見せ合って笑う。

ヨーヨー釣りでは、すぐにゴムが切れて失敗したけど、シンくんは「まあ、そういうもんや」って肩をすくめてえくぼを見せる。

ああ、私、こんなふうに笑ってる。

今はもう、午前中に見たあの女の子のことなんて、どこにもいない。

時々、シンくんの横顔をこっそり見てしまう。

少し高くなった声も、ちょっと早足になる歩き方も、なんだか今日は、少し違って見えた。

手を繋いで歩くたび、心が跳ねる。

――シンくんは、私の手を離さない。

その事実だけで、手から伝わる温もりが全身を巡っていって、優しさに包まれていく。

シンくんがくじ引きを見つけて、「運試しやな」と引いたのは五等だったけど、当たりくじを引いたみたいに嬉しそうに笑ったその顔は、私のとって、一等だし――百点満点。

私も金魚すくいに挑戦して、すぐに紙が破れてしまったけど、店のおじさんが「一匹サービス」と言って小さな金魚を袋に入れてくれた。

「名前、つけよか」

「うん、あとで考える」

そう言ったけど、私はなんとなく心に浮かんだ名前を、心の中で温めていた。

綿あめを買って、ひとつをふたりで分け合う。

ピンクの雲みたいな甘いふわふわを、シンくんが頬張ると口元に砂糖がついて、私はつい笑ってしまう。

「なに?」

シンくんが小さく首をかしげて、私の顔をのぞき込む。

「口、白くなってるよ」

「あ、まじで?」

指で拭おうとして照れ笑いするシンくんの顔が、やけに近く感じて――

私は慌てて目を逸らして、綿あめに顔を埋めた。

楽しくて、楽しくて、ささいなやり取りさえ、胸がじんわりする。

「花火、そろそろかな」

シンくんの声に、空を見上げると、さっきまで茜色だった空はすっかり夜に変わり、星がちらほらとまたたきはじめていた。


空は、あの頃と同じ色をしていた。

夕暮れと夜の境目――

群青に染まりかけた空が、じわじわと星を飲み込んでいく。

私は、静かに神社の境内を歩いていた。

白いシャツに、すこし裾の長いスカート。

浴衣じゃない、今日の私。

風が吹くたび、布地がひらりと揺れて涼しげに見える。

でも私は、なんだか落ち着かなくて、裾ばかり気にしていた。

手を繋いで歩いた道を、今はひとりで歩いている。

綿あめの甘い匂い。射的の木の台。

十年前のあの夜と、少しだけ違って、でも少しだけ似ている景色。

でも、なんだか、遠く見える。

バッグの中にそっと手を入れる。

指先が触れる、小さな茶色いくまのぬいぐるみ。

少し毛並みはくたびれて、耳のあたりがよれている。

でも、その目は、あの日のまま、私を見ていた。

なんでもないような顔で歩きながら、心の中に、小さな声がずっと鳴っている。

“ちゃんと持ってきたよ”

“ちゃんと覚えてるよ”

誰にも見せないまま、バッグの奥にそっと連れてきた、私だけの宝物。

夜が静かに深まっていくなか、私は提灯の灯りに染まる境内を、ゆっくり歩き続けた。

あの時の待ち合わせじゃないけど、時々、きょろきょろしてしまう。

面影ある人影を探してしまう。

彼が――ひょいって、現れるような気がして。

この手の中に、あの夏の約束を忍ばせたまま。

あの日の花火が、今夜、もう一度咲きますように――

お読み頂きありがとうございます_(._.)_。

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