ひみつ
「……なあ、帰る前に、もうひとつだけ行きたい場所があるんだ」
花畑を抜けて、ゆるやかな坂道を歩いていたとき、不意にシンくんがそんなふうに言った。
空にはまだやわらかな陽が残っていて、遠くの雲が橙色ににじんでいた。
けれど、風にまじる草の匂いが濃くなって、空気の温度も、肌に触れる感触も、ほんの少しだけ変わってきているのがわかる。
昼の光が夕暮れの色に染まりはじめる、その一瞬の境目。
「どこ?」
私がたずねると、シンくんはちょっとだけ口元を緩めて、小さく笑う。
「ついてきて」
それだけ言うと、また自転車の荷台をぽんぽん、と軽く叩いた。
その仕草が二人だけの合図みたいに思えて、きゅんとなって、私は何も言わずに頷いた。
それだけで、ほんとうに十分だった。
スカートの裾を気にしながら、そっと荷台に腰をおろすと、シンくんがちらりと私を振り返る。
いつもより、ほんのすこし真面目な顔。
「……ちゃんとつかまっとけよ。さっきより道、ちょっと悪いけん」
その言い方が、ちょっとだけお兄さんみたいだった。
私は軽く頷いて、風であおられる麦わら帽子を押さえると、もう片方の手をそっと、でもためらわずに、シンくんのお腹のあたりへ回す。
さっきよりも、ずっと自然にできた。
どきどきするというより、なぜだか、それが“ふつう”のように思えた。
やわらかなTシャツ越しに伝わる体温。
ぴんと張った背中の感触。
シンくんは、何も言わなかった。
だけどきっと、気づいていたと思う。
私の手の位置も、背中にそっと伝わる鼓動も。
「じゃあ、行くぞ」
シンくんは、ひとこぎ、ふたこぎとペダルを踏みはじめた。
自転車がゆっくりと、でも力強く進んでいく。
ちゃんと自分の足でペダルを踏んで、どこかへ連れていこうとしている動きが、なんだかとても頼もしく感じられた。
舗装の甘い道に差しかかると、車輪が小さく跳ねて、少しだけ体が揺れる。
そのたびに、私はシンくんに近づいて、しっかりとしがみついた。
夕暮れに染まる風が頬をなでて、帽子のリボンがひらりと揺れる。
どこへ向かっているのかはわからない。
でも、背中越しに伝わるぬくもりが、ちゃんとそこへ導いてくれる気がしていた。
もうすぐ陽が暮れそうな空。
そんな気配を、肌で感じながら、私たちは小さな冒険の続きを走り出した。
道はだんだん細くなっていった。
舗装された道を外れて、ガタガタと草むらを抜けていく。
背中越しに感じる揺れは少し激しくなったけれど、不思議と怖くなかった。
木々がだんだんと増えて、小さな林の中へと入っていくと、空の光がすこしずつ遠のいていく。
けれど、木漏れ日がところどころに差し込んでいて、その光が、ゆれる葉のすき間からぽつりぽつりと地面に落ちていた。
シンくんの背中ごしに、その光が踊っているのが見える。
緑のトンネルの奥で、蝉の声が少し遠くに聞こえて、風が葉を揺らすたび、世界の音がふっとやわらかくなる。時間が、さっきまでとは違う速さで流れている気がした。
しばらく走ると、自転車がゆるやかに止まった。
「着いた」
そう言ったシンくんの声は、いつもよりちょっとだけ低くて落ち着いていた。
私はそっと荷台から降りる。
足元の草がふかふかしていて、体が少し傾いたけど、すぐに踏みとどまった。両手でスカートをそっと整えながら顔を上げると、目の前には、林を抜けた先にある小さな岩場が広がっていた。
まわりを木々に囲まれていて、ふいにぽっかり空いた空間。
地面の一部は日差しが届いていて、そこに手作りのベンチみたいな板がぽつんと置かれていた。
枝にくくりつけられた空き缶の風鈴が、風に揺られてカランと音を立てる。
缶の表面には子どもらしい落書きみたいな絵が描かれていて、それがどこか、いとしく見えた。
「ここ……」
思わず、声が漏れた。
「俺の秘密基地」
シンくんが、すこし得意げに言う。
胸を張るようなその横顔に、夕陽が差していた。
「誰にも言っちゃダメだからな。ここ、ほんとは俺だけの場所だったん」
そう言いながら、シンくんは自転車を木の陰に止めて、慣れた足取りで草をかき分けていく。
私はそのあとを、足音を忍ばせるようにして、そっとついていった。
「このベンチ、シンくんが作ったの?」
「んー、ばあちゃんちの裏にあった板で。それっぽくしただけ」
振り返りもせずに、シンくんは肩越しに答える。
「すごい……」
ほんとうはもっとちゃんと感想を言いたいのに、うまく言葉が見つからなくて、私はそのまま、ベンチに腰を下ろした。
木の香りと、土の匂いと、遠くからかすかに聞こえる波の音。
さっきまで風を切って走っていたとは思えないほど、そこは静かで、まるで世界から少しだけ切り離された場所みたいだった。
少しして、シンくんも隣に腰を下ろした。
並んだ肩が、ほんの少しだけ触れそうで、でもちゃんと離れている。
その距離が、なんだかむずむずする。
でも、嫌じゃない。
むしろ――嬉しいと思ってしまう自分がいた。
「この場所、夕焼けがきれいなんだ」
シンくんがぽつりとつぶやく。
「ここから見える海、なんか広くてさ。空の色が、全部映るんだよ」
私はその言葉に促されるように、ゆっくりと顔を上げた。
――ほんとだ。
海が、金色に染まっている。
昼間の青さとはちがう、夕方だけの、あたたかくてやわらかい光。
それが、ゆるやかに波の上をすべっていく。
きらきら、きらきらと、まるで溶けていくように。
風が吹いて、髪がふわっと浮いた。
結んだリボンも、それに合わせてそっと舞う。
シンくんのシャツの裾も、音もなく揺れていた。
「ここ、すごくいい場所だね」
私がそう言うと、シンくんはちょっとだけ照れたように笑った。
口元が、いつもより柔らかくほころんでいる。
「だろ?」
その笑顔に、胸がきゅっとした。
――どうしよう。
また、変な気持ちになってる。
鼓動が、耳の奥でどくんどくんと鳴っている。
静かなこの場所に、その音だけが響いている気がして、なんだか恥ずかしくなる。
シンくんは、ベンチに肘をついて、あごを乗せたまま、空をぼんやりと見上げていた。
その横顔が、夕陽の光で橙色に染まっていて――
――なんか、ずるいな。
どうしてこんなときに限って、こんなにまぶしい顔をするんだろう。
私は、ほんの少しだけ、まぶしさから目をそらすように、帽子のつばを指先でつまんだ。
夕焼けが山の向こうへ沈みかけていて、まわりの空気がすこしずつ夜の匂いに変わっていくころだった。
「梨花はさ、また島に来る?」
シンくんがぽつりとつぶやいた。
不意に聞かれて、私は一瞬だけ言葉に詰まる。
胸に浮かんだ気持ちは、すぐに声にできないほど大事なものだったから。
「……うん。来たいなって、思ってる」
声は小さかったけど、でもちゃんと届くように。
それは、ほんとうの気持ちだった。
「来年も?」
「……うん」
「じゃあさ、来年の夏も、ここ来ような」
シンくんが、まっすぐに言った。
迷いのないその声が、頭に心にしんと響く。
「夕焼け、また一緒に見よう」
「……うん、見る」
うまく笑えたか、自分でもわからない。
でも私はそう答えた。
視線を落として、足元のサンダルのつま先をじっと見つめる。
だって、顔を上げたら――涙が出そうだったから。
言葉のかわりに、あたたかくて、すこしだけ苦しくて、でもどこか嬉しくて。
私の中に、夏の夕暮れがそのまま入り込んできたみたいだった。
ふたりでそのまま、しばらく黙って夕陽を眺めていた。
風が、木の枝に結ばれた風鈴をそっと鳴らした。
カラン――と、小さな音が空気をすべるように広がって、そのあとを追うみたいに、さらさらと枝たちがやさしく揺れた。
草のにおいが、ふわりと鼻先をとおる。
まるで、夏が静かに息をしているみたいに。
気がつけば、その吐息の中に――
少しずつ、「今日の終わり」が混ざりはじめていた。
「……帰るか」
「……うん」
立ち上がったとき、ふとシンくんがくるりと振り返った。
なにか言いかけたように見えたけど――そのまま口を閉じた。
「なんでもない」
そう言って、シンくんはまた、私より少し前を歩いていく。
でも私は、気づいていた。
さっき、ほんの一瞬。
シンくんの右手が、そっと伸びかけていたことを。
触れるか触れないか、そのぎりぎりのところで――
やめた、あの動き。
私は、その背中を追いかけながら、帽子を押さえて歩き出した。
風が少し強くなってきて、スカートの裾がふわりと舞う。
土の匂いも、どこか濃くなっていた。
林を抜ける少し手前で、シンくんがふと立ち止まる。
その横顔が、夕焼けに照らされて、金色にふちどられていた。
「……あのさ」
「うん?」
「今日の梨花――かわいかった」
ぽつりと、それだけ。
キャップのつばを親指でいじりながら、目は合わせないまま。
耳までほんのり赤く染まっているのが、夕陽のせいだけじゃないってわかる。
心臓が、どくん、と大きな音を立てた。
さっきまで暑かったはずなのに、背中にすっと冷たいものが通り抜けて、なのに顔だけぽっと熱くなる。
声が出せなくて、ただ、小さく頷いた。
うまく笑えなかったけど、それでも、ちゃんと気持ちは伝わった気がした。
シンくんは、それ以上なにも言わず、またいつものように、少し前を歩きはじめた。
だけど私にはわかる。
さっきより、ほんの少しだけ――その歩幅がゆるんでいたこと。
私は、口の中で小さくつぶやいた。
「……また来るね」
風が、その声をふわりとさらっていった。
空にまぎれて、どこかへ消えていったようでいて――
でもたしかに、約束した気がした。
ふたりだけの、夕焼け色のひみつ。
ホテルの窓の向こうに、オレンジ色の光がゆっくりと海を染めていた。
夕陽は、山の稜線の上でほんの少し揺れながら、空と海の境界を曖昧にしている。
波の上に落ちた光が、ゆらゆらと金色に伸びて、見ているだけで心がほどけていくようだった。
昔とまったく同じじゃない。
海の色も、風の匂いも、少しずつ違っている。
なぜかきゅっとする。
あの夏の日、あの場所で見た夕陽を、ふと思い出していた。
自転車の荷台に乗って、彼の背中ごしに風を切って走ったあの日。
坂を越えて、木々に囲まれた岩場に着いて。
「秘密基地」と彼が呼んだ、あの小さな場所で、並んで見た夕陽。
何も言わずに、ただ並んで見ていた。
でも、それだけで胸がいっぱいだった。
言葉なんて、たぶんいらなかった。
ただ、そこに一緒にいるだけでよかった。
思い出す。
帰り道の途中で、彼がふと立ち止まって、振り返ったこと。
そして、あのとき――
右手が、すこしだけ、伸びかけたこと。
あの手を、もし取っていたら。
……そんなことを、今になって考えてる。
本当は、ずっと来たかった。
だけど……怖かったんだ。
もし、あのときの気持ちが私だけのものだったら?
もし、向こうはもう私のことなんて覚えていなかったら?
それとも、もう別の誰かと並んで、あの夕陽を見ていたら――?
そんなことを想像するたびに、足がすくんで動けなくなった。
だけど――十年前の私が”あの日”約束したから。
「また会おうね」って、ちゃんと声にして言ったから。
たとえ会えなくても、忘れられていたとしても――
それでも来なきゃいけないと思った。
忘れてたわけじゃくて、忘れられなかった人がいるってことを、自分で確かめたくて。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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