風にのって。
午前の海から戻って、シャワーを浴びてから、ずっとクローゼットの前で迷っていた。
決めていたはずの服が、なんだか急に子どもっぽく思えてきて。
鏡の前で何度も着替えて、結局選んだのは、白いフリルのブラウスに、紺のフレアスカート。
ちょっと大人っぽく見える気がして、でも、風で裾がひらっとなったら恥ずかしいかも……って思いながら。
それでも――シンくんになら、少しくらい見てほしい気もした。
髪も、今日はいつもと少しだけ変えてみた。
片側だけ、耳の下でリボンでゆるくまとめて。
麦わら帽子の邪魔にならないように、低めの位置で。
気づいてくれるかな……いや、気づかなくていいのに。
……どっちなの、私。
午後の陽射しが少し傾いて、道ばたに落ちた影が、じわじわと長く伸びはじめたころ――
「そろそろ来るかな」って思いながら、私はすまし顔で駄菓子屋の角に立っていた。
海で遊んだ余韻が、まだ肌に残っている。
腕にはうっすらと日焼けの跡。
波の音と笑い声が、まだ耳の奥でそっと響いている気がした。
そこに、自転車を押しながら、シンくんがふいに現れた。
「よっ、待った?」
「……ううん、今来たとこ」
そう言ったけど、ほんとはちょっと前からドキドキしながら待ってた。
胸のあたりが、時間と一緒にゆっくり膨らんでいくみたいで。
シンくんは私の顔をちらりと見て、一瞬きょとんとしたあと、キャップのつばを親指で押さえながら言った。
「なんか……昨日と、ちょっと違うな」
「……え?」
「髪。リボン。なんかその、ちがうやろ。あと、その服も……大人っぽいな」
ぽつりとそう言って、すぐ目をそらしてしまう。
私も帽子のつばをぎゅっとつかみながら、うつむく。
「べつに……たまたまだもん」
だけど――気づいてくれた。
それだけで、もう今日はうれしくてたまらない。
自分でも照れてしまうくらい、顔がぽっと赤くなるのがわかった。
Tシャツの袖をまくって、キャップを後ろ向きにかぶったシンくんは、午前中よりなんだか背が高く見えた。
日に焼けた腕が、ちょっとだけまぶしくて――
私、なんでこんなとこ見てるんだろう。
「これからさ、ちょっとだけ、いいとこ行こうぜ」
「どこ?」
「行きゃわかるって」
当たり前のように自転車の荷台をぽんぽんと叩いた。
「乗れよ」
少し戸惑いながら、私はちょこんと荷台に腰かけた。
「……ほんとにここでいいの?」
「へーきへーき。おれ、ばあちゃんも乗せたことあるし」
シンくんが軽く笑う。
自転車が動き出す。
その瞬間、ふわっと風が吹いて、荷台がゆらりと揺れた。
私は思わずシンくんのシャツのすそをきゅっとつまむ。
でも、それだけじゃ不安で、ぐらりとした身体を支えるように、もう片方の手で荷台のフレームをぎゅっと握った。
「ほら、もっとちゃんとつかまっとけって」
シンくんの声が少しだけ笑ってて、でもどこかあたたかかった。
スカートの裾がめくれそうになって、慌てて押さえる。
だけど心は、どこか浮き立っていた。
坂道をぐんぐん駆けのぼる。
シンくんの背中が近くて、でも風に溶けて遠くなる。
麦わら帽子が飛びそうになる。
髪が頬に貼りついて、笑いたくなる。
まるで冒険みたい。
ふたりしか知らない、夏の通り道。
「ほら、ちゃんとつかまっとけって」
シンくんが振り返らずに言った。
バランスを取ろうと、私は慌てて片手で麦わら帽子を押さえ、もう片方の手でシンくんのお腹のあたりに腕をまわすようにして、ぐっとつかまる。
Tシャツ越しに感じる体温と、ぴんと張った腹筋の感触に、どきんと胸が鳴った。
顔が真っ赤になってるのは私だけかな。
「落ちたらシャレにならんけん」
真剣な声だけど、なんか嬉しそうに聞こえた。
海辺から少し離れて、道はゆるやかに山のほうへ向かっていく。
舗装された道の両側には、野バラやすすきが揺れていて、ときおり白い蝶がひらひらと飛んでいた。
「もうちょいで、いいとこ通るんよ」
そう言ったあと、シンくんはぐっとペダルを踏み込んだ。
自転車は少し高台に出て、視界がぱっと開けた。
「わ……!」
思わず声が出た。
山の斜面に沿ったその道は、右手にゆるやかに曲がっていて、ずっと向こうまで続いている。
その下には、内海湾が大きな弧を描いて、きらきらと光っていた。
「すごい……海、広いね」
「だろ? あそこが弁天島、あっちは赤鼻ってとこ」
シンくんが軽く指を差す。
横顔が、ちょっと得意げ。
「詳しいね」
「小さい頃から、ばあちゃんと散歩してたからな」
シンくんの声を心地いい風が運んで。
リボンが頬をさらさらとくすぐる。
潮と草の匂いが混ざって、どこか懐かしいにおい。
私はシンくんの背中を見ながら、そっと目を細めた。
「もうちょい行ったらな、アイス食べよ」
「アイス?」
「醤油ソフトクリーム。知っとる? この辺じゃけっこう有名なんだぞ」
「しょうゆ……ソフト?」
ちょっと眉をひそめていると、シンくんは楽しそうに笑う。
「うさんくさいって顔したな」
「え?」
何で分かったの?
顔、見えてないのに……。
「だって、しょっぱいのに甘いの?」
「まあ、食ってみいって。絶対うまいから」
自信満々のシンくんの声に笑ってしまう。
ここから見える景色が全部キラキラして見える。
どうして――。
「ちょっと下るで、しっかりつかまっとけよ」
シンくんの掛け声と同時に、自転車がぐんと前に傾いた。
なだらかな坂道を、一気に風を切って走り出す。
思っていたよりもスピードが出て、体がふわっと浮きそうになる。
とっさに、シンくんのお腹のあたりに回していた腕に、ぎゅっと力が入った。
自然とシンくんの背中に体を寄せる。
スカートの裾がパタパタと跳ねて、麦わら帽子が風で飛びそうになる。
押さえた片手から伝わる、風の勢いと、胸の高鳴り。
「きゃっ……!」
小さく声が漏れる。
でも、それは怖いんじゃなくて――まるで、ジェットコースターみたいで。
横に結んだ髪がなびく。
フッと風の中に甘い様な匂いが混じってきた。
やがて、平らになった道を、自転車は坂道の余韻を残しながら進んでいく。
家が一つ、また一つ通り過ぎていく。
木造の黒い壁に沿った銀色のパイプから、ところどころ白い煙が上がっている。
さっきの匂いが町を包んでいるくらいに濃くなってきた。
「もうすぐだ」
道路を隔てた大きな駐車場に入って行く。
小さな醤油工場の前に着いた。
「キュッ」とブレーキの音がして、シンくんが振り返る。
「着いたぞー。降りて」
「……うん」
私は小さく返事をして、そっと荷台から降りる。
足を地面につけたとたん、じんわりとお尻にしびれが広がって、なんだか変な感じがした。
恥ずかしさをごまかすように、そっとスカートの裾を払う。
でも――それすら、どこか楽しかった。
「大丈夫か梨花?……疲れた? 怖くなかった?」
すぐ隣でシンくんの声がした。
「ううん。……ちょっとドキドキしたけど、楽しかった」
笑って見せると、シンくんは肩を撫で下ろして、片頬にえくぼを浮かべた。
木の柱と瓦屋根の古い建物。
その一角に、木製のカウンターと小さな売店がある。
店先に醤油ソフトクリームという旗が風に揺れていた。
「こんにちはー」
「お、真治くんかい。今日は友だちと一緒かいな」
「うん、東京から来とる子」
「じゃあ、ふたつやな?」
「うん。しょうゆミックスで」
私はちょっとだけ顔をしかめながら、それでも受け取った。
「やっぱ、そういう顔すると思った」
シンくんが鼻の下を指でこすりながら、ニヤニヤしている。
私は思わず、頬をふくらませた。
見抜かれて、ちょっとだけ悔しかったから。
それ以上、何も言えなかったけど――
わかってたくせに。
ほんのり焦げ茶色のアイスは、見た目は普通のミルクソフトに近い。
だけど、一口食べたとたん、びっくりした。
「……なにこれ、おいしい」
「だろ? ちょっとキャラメルっぽくない?」
甘さの中に、ふわっと香ばしい風味が広がる。
醤油ってこんなにやさしい味になるんだ。
私はもう一口、ゆっくりとかじった。
「東京にもあったらいいのに」
「そしたら、また来いってことやん」
シンくんが笑った。
その顔が、陽に照らされて少し赤くなって見えた。
それから、少し寄り道をした。
坂道の途中にある、小さな花畑。
観光客にはほとんど知られていない場所だけど、地元の人が大切にしているって、シンくんが言っていた。
そこには、背の低いコスモスとマリーゴールドが風に揺れていた。
木でできた小さな柵があって、その内側にベンチがひとつ。
「ここ、知ってる?」
「……ううん」
「俺も前に偶然見つけた。花の中って、なんか落ち着くよな」
ベンチに並んで座って、ふたりでアイスの最後をぺろりと平らげた。
私は、スカートの裾をそっとなでる。
風が吹いて、少しだけめくれそうになった。
だけど心は、もうどこかとっくに浮かび上がっていた。
この午後、きっとずっと覚えてる。
目の前で風にそよぐ花と、隣で微笑むシンくんの横顔と、小さく溶けたソフトクリームの甘さと。
全部、夏のなかにしまっておきたいと思った。
散歩がてらに歩いていると、ふと、醤油の匂いが辺りに漂ってきた。
黒塗の壁に導かれる様に角を曲がると、見覚えのある坂道が目の前に現れた。
私は、何かを確信したみたいに、そのまま歩みを進めた。
途中、小さな柵の前で足が止まる。
風に揺れるマリーゴールドとコスモス。
今も変わらず、この場所を誰かが大切にしてくれていた。
あのとき、ベンチに並んで座った記憶が、ふいに蘇る。
ソフトクリームの甘さ。
スカートの裾が揺れた感触。
花の匂い。
そして、隣でまぶしそうに笑っていた横顔。
手すりにそっと指を添えると、風が髪をなでて通り過ぎた。
私は目を閉じて、心の中にしまってあった午後を、そっと取り出す。
――忘れてないよ。
そう心の中でつぶやいて、もう一度だけ花の中を見つめた。
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