たからもの
やがて、波が少しだけ高くなってきて、私たちは砂浜の方へ戻っていった。
ざくざくと砂を踏む足音と、波の寄せては返す音だけが、耳の奥で静かに響いている。
濡れた髪が背中にはりついて、ひんやりとした感触が、さっきまで海にいた余韻みたいに残っていた。
服と帽子は、広げたシートの上で陽なたぼっこ中。
私はその隣にペタンと座ると、じんわりとお尻と足に、陽のぬくもりが染み込んできた。
シンくんは鞄の中をごそごそと探り、お菓子の袋と小さめのクーラーボックスを取り出す。
その中からペットボトルを一本引っ張り出すと、キャップを回して私に差し出した。
「梨花、飲みな」
その声は自然で、でもちょっとだけ得意げにも聞こえた。
「ありがとう」
私は素直に手を伸ばし、ボトルを受け取る。
その冷たさが、火照った手のひらに心地よかった。
それよりも、シンくんが自分のために用意してくれたことが嬉しかった。
こんなふうにされたの、もしかしたら初めてかもしれない。
少し照れくさくて、でもずっと持っていたくなるようなボトルだった。
口元が少しゆるんで、なんでもない顔を装いながら。
でも、心の中ではそっと小さく、息を吸い込んでいた。
――シンくんって、やっぱり、やさしいんだ。
そっと、唇をつけると、甘さ控えめのスポーツドリンクが喉をすべり落ちていく。
私もポシェットの中を探って、包み紙にくるまれたキャンディーを取り出した。
「シンくん、これ……あげる」
シンくんは一瞬目を丸くして、それから、ちょっと照れたように笑った。
たったひとつのキャンディーなのに、こんなに嬉しそうに笑ってくれるなんて。
渡してよかったな、って思った。
……ううん、きっと、もっと素直に言えば――
ほんとは、ただ。
シンくんに笑ってほしかっただけかもしれない。
「ありがとう……何か、たべるのもったいないな」
「どうして?おいしいよ」
「そっか」
シンくんはそのキャンディーを、宝物でもしまうみたいに鞄のポケットへそっと仕舞った。
それにしても、シンくんの鞄の中って、さっきから、いろんなものが次々と出てくる。
「魔法の鞄みたいだね」
「へへ」
嬉しそうに笑って、ゴクゴクと喉を鳴らしてスポーツドリンクを飲んでいる。
そんな仕草にも見惚れてしまう。
どうしてこんなに目が離せなくなるんだろう。
「この少し先に、見せたい場所があるんだ」
「どんなの?」
「それは、行ってからのお楽しみや」
シンくんが言うだけで、胸が高鳴る。
こんなにドキドキワクワクした事って今までなかった。
私はうつむいて、そっと手を胸に当てる。
鼓動が、いつもよりずっと速い。
「どうした?つかれたか?」
シンくんがハイハイするように近づいて来て、私の顔を覗き込む。
「ううん、大丈夫」
慌てて顔を上げた瞬間、思った以上にシンくんの顔が近くて――
カーッと頭に血がのぼった。
シンくんの大きな瞳に射抜かれて動けない。
何も言えなくなって、ただ見つめ合ったまま、ふたりとも動けなかった。
ほんの一瞬だけど、時間が止まってしまったような感覚。
やがて、シンくんはお決まりのように鼻の下を人差し指でこする。
「あ、そうしら、行くぞ」
照れ隠しみたいな声と動きで、すっと立ち上がると、私に手を差し出してくれた。
私はその手を、少し迷ってから握った。
あたたかくて、ちょっとだけ力強い手。
立ち上がると、麦わら帽子をかぶり直して、シンくんの背中を追って歩き出す。
波打ち際の柔らかい砂を踏みながら、ふたりで岩場の方へと向かった。
シンくんは先に立って水の溜まった窪地をのぞきこみ、「お、いたいた」と声をあげる。
しゃがみこんで、指をそっと差し出した。
「見て、カニ」
小さなカニが、岩陰にちょこちょこと逃げこむ。
「すごい……」
私は思わずしゃがみ込み、シンくんの隣に腰を下ろす。
湿った岩肌に手をついた拍子に、バランスを崩しそうになった。
「わっ……!」
「だいじょぶ?」
シンくんが反射的に手を伸ばし、私の手首をぐっと支える。
驚くほど自然な動き。
一瞬、視線が合う。
ふたりの距離はとても近くて、私はドキンと心臓が跳ねる音を聞いた気がした。
「……ありがと」
なんとか体勢を立て直しながら、私は小さくはにかんだ。
シンくんはすぐに手を放し、「お、おう」とつぶやきながらそっぽを向く。
日焼けした頬が、うっすらと赤く見えたのは、きっと陽のせいだけじゃない。
「なあ、これ……やる」
ポケットから取り出した小さな巻貝を、シンくんが手のひらに乗せて差し出した。
淡いクリーム色に波の模様が浮かんだ、つややかな巻貝だった。
「きれい……」
私は両手で受け取り、指先でそっと撫でる。
ツルツルでなめらか。
海の中から出てきた小さな宝石みたいで、じんじんとあたたかいものが広がっていく。
「東京じゃ、こんなのないんだろ? だから……」
「うん!ありがとう、宝物にする」
シンくんはまた鼻の下をこすって、照れ隠しのように「へへっ」と笑った。
その笑顔が可愛くて、でも、シンくんの視線が、時折ちらりと自分に向けられていることに気づいて、心がソワソワする。
私は自分の水着姿が急に気になってきて、そっと腕を胸の前に組んだ。
でも、いやじゃない――むしろ、うれしい気持ちすらあった。
「もう少し奥行ってみる? でっかいタイドプールがあるんや」
「タイド……?」
「ほら、干潮のときだけできる、天然の水たまりみたいなやつ」
「うん、行ってみたい」
ふたりは岩場を伝って、さらに奥へと進んでいく。
潮風が少し強くなり、麦わら帽子を押さえながら、私はシンくんの背中を追った。
途中、滑りやすい場所ではシンくんがさりげなく手を差し出す。
そのたびに、私の手は少し震えながらシンくんの手に重ねられ、短く「ありがとう」と言う。
「ここ、だれも来んけん、ふたりじめやな」
シンくんの声が風に混じって聞こえたとき、私はふっと笑った。
風と波の音だけが響く、ふたりきりの秘密の場所。
その時間が、私にとって何より特別に感じられた。
タイドプールに足を入れると、冷たい水がふくらはぎを包み、底には丸い石や小さな貝が沈んでいた。
水面の揺らぎが足元を照らし、光がキラキラと踊る。
「わっ、これなに?」
私が叫んで、指さした先には、紫がかった小さなヒトデが張りついていた。
「ヒトデやん。触ってみる?」
「う、動かないの……?」
「動くよ。ほら」
シンくんが指先でそっと水から持ち上げると、ヒトデはぬるりと吸い付くような感触を残して、私の指にも移った。
「うわぁ……なんか……くすぐったい……」
私はくすっと笑い、シンくんの方を見上げた。
そのとき――
突然、波がタイドプールに小さく流れ込んできて、ふたりの足元をさっと濡らす。
「きゃっ……」
思わず足を滑らせそうになった私を、すぐに、シンくんの腕が私を支えてくれる。
ぎゅっと抱きとめられるような形で、ふたりの距離がぐっと近づいた。
「……だ、大丈夫か?」
シンくんの腕の中で、私はうなずく。
心臓が、さっきよりもっと、はっきりとドキドキしていた。
肌のぬくもりがこんなにも近くて、少し怖くて、それ以上に――
あたたかかった。
そしてシンくんもまた、何か言いかけて口をつぐみ、照れたように「気ぃつけろよ」と言って、そっと手を離した。
シンくんの手が離れて、ふたりの間にそっと波音だけが戻ってくる。
私は少し恥ずかしさを紛らわせるように、タイドプールの水面に手を浸した。指の先を伝って、冷たい水がしゅるりと流れる。
その水の中に、小さな影がひらりと動いた気がして、思わず声が出た。
「見て、こっちにもいるよ。小っちゃい魚……!」
「お、ほんまや。めっちゃ細かいな。これ、ハゼかも」
シンくんは岩の縁に膝を立てて座り、片手で水面をそっと指し示す。
その横顔に、つられて私も岩に腰を下ろす。
ふたりの足先が、透明な水の中で並んで揺れていた。
波の音と、風に揺れる葉のざわめきが、ゆっくりと午後の静けさを編んでいく。
「シンくん、海って……ずっとこう?」
「んー、日によってぜんぜんちゃう。今日みたいに穏やかな日ばっかやないよ。台風のあとは、めっちゃ荒れる」
「……なんか、生きてるみたいだね」
「せやな。怒ったり、笑ったり、泣いたり。海って、そういうとこあるかも」
その言葉を聞いて、私はちらりとシンくんの方を見た。
表情まではわからなかったけど、横顔がちょっとだけ大人っぽく見えた。
私は、そんなシンくんのことを、もう一度ちゃんと見てみたくなった。
さっきまでふざけてたのに――なんか、ずるい。
シンくんの瞳は、遠くの水平線のほうをじっと見ている。
そして、ふいにシンくんがぴょんと立ち上がる。
「なあ、あっちの岩の上、登ってみる?」
「え、登れるの?」
「平気平気。俺が先に登るから、ついてきいや」
岩場の先にある、少し高い平たい岩の上。
シンくんは慣れた様子でひょいとよじ登ると、上から手を差し出してくれた。私はおそるおそる、その手を借りて登る。
その手はあたたかくて、少しだけ汗ばんでいた。
ちゃんと支えてくれてるって、わかる。
なんでもないみたいな顔してるけど――
こっちが勝手にドキドキしちゃうんだよ。
「わ……!」
岩の上に立った瞬間、視界がぱっと開けた。
どこまでも続く青い海。
風が強くなって、麦わら帽子が飛びそうになる。
シンくんが、私の帽子のつばを押さえてくれた。
「飛んだら、もう取りにいけんからな」
「ありがとう……」
その声も手の動きも、まるで当たり前みたいに自然で。
でも、私にとってはひとつひとつが――
うれしくて、くすぐったくて。
なんかもう、今日は優しさを、たくさんもらってばっかり。
ふたり並んで腰を下ろすと、岩の下のタイドプールが遠くに見えた。
光の粒が水面で跳ねて、まるで時間まできらきらしているみたいだった。
「ここ、好きなんだ。誰もおらんし、風も気持ちええし」
「うん……わたしも、好き」
シンくんが横で、そっと笑ったような気がした。
――この時間が、ずっと続けばいいのに。
そう思った瞬間ぽーっと体が熱くなったのは気のせいじゃない。
……ちゃんと、覚えておきたいな。
今日のこと、全部。
ホテルの部屋の窓からは、あの秘密の海は見えない。
でも、風のにおいが、どこか似ている気がした。
私はそっとバッグの中から、小さなポーチを取り出す。
ファスナーを開けて、ティッシュに包んだものをそっと取り出すと――
そこには、あの日シンくんがくれた巻貝が、変わらない姿でおさまっていた。
淡いクリーム色に、波の模様がうっすらと浮かんでいる。
色あせもせず、傷ひとつないまま。
まるで、時間だけが止まってしまったみたいに。
私はそれを両手に包み、ゆっくりと耳に当ててみた。
……ざあっ……
風の音。
波の音。
そして――ふたりの笑い声。
気のせいかもしれない。
でも、確かに聞こえた気がした。
夏の陽ざしと潮風のまじった、あの午後の記憶が、音になってよみがえる。
「……シンくん」
巻貝の奥に眠っていたその名を、私は心の中でそっと呼んだ。
誰かと笑いあう日もあった。
恋をしたことも、きっとあった。
でも――
あの夏に、あの人と過ごした日々の中で感じたものは、たぶん、どこかちがっていた。
あんなふうに心の底から笑えたのは、それきりだったかもしれない。
あの日の鼓動だけが、胸のどこかで、今もそっと息をしている。
たった五日間だったはずなのに。
忘れられない。
そんな人が、本当にいるんだってことを、私は、あの夏で知ったのだと思う。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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