潜って浮かんで
「友達と海に行ってくる」
そう言って玄関を出た私は、空を見上げる。
クレヨンで塗りつぶしたような、濃くて真っ青な空。
その青の広がりに、胸の内のワクワクが重なっていく。
朝の光に包まれながら、待ち合わせの場所、駄菓子屋さんへと向かって、ペタン、ペタンとビーチサンダルの音を弾ませていた。
水着の上にTシャツとデニムのハーフパンツを重ねて、小さな麦わら帽子を被って。
手提げ袋を片手に、肩から提げたポシェットの中には、小さなキャンディーの包み。
昨日のお礼に、シンくんに渡したくて、そっと忍ばせた。
夕凪島には一年生の頃から、夏休みの度に母に連れられて来ていたけど、何だかんだ、今まで海だ泳いだことがなかった。
――今日は初めての海。
ワンピース型の水着は、今年のために買ってもらったばかりで、まだ誰にも見せたことがない。
花柄のフリルが少しだけ大人っぽくて、ちょっと照れくさくて。
だけど不思議と、今日なら平気な気がした。
だって、シンくんに会えるから。
なんだか分からないけど、すごく――
すごく楽しみだった。
駄菓子屋さんは、まだ開いていなくて、シャッターが下りたまま。
その前で、シンくんが地面に胡坐をかいて待っていた。
背中を丸めて、何やら大きな鞄を抱えている。
その姿を見つけた瞬間、頬が緩んでいた。
キャンディが入っているポシェットの紐を握りしめて、少しだけ背筋を伸ばして近づく。
私の足音に気づいたのか、シンくんが顔を上げ、すっと立ち上がる。
「梨花、おはよ」
嬉しそうにえくぼを浮かべ――
そして、いつものように鼻の下を指でこすった。
気がついたら私も笑っている。
「おはよう、シンくん」
「へへ、ちゃんと来たな」
シンくんが足元に置いていた鞄を肩に掛けると、中からがしゃがしゃと何かがぶつかる音がした。
「なに、それ?」
「ん? 今は内緒」
にこりと白い歯を見せるシンくん。
その笑顔は、昨日よりもほんの少し、近くに感じた。
「こっち、ついてきて」
そう言って、港とは反対方向に歩き出すシンくんを、私は少し小走りに追いかける。
商店街を抜けると、蝉の声に混じって、ザー、ザザ―っと波の音が近づいてきた。
やわらかな淡い潮風が通り抜ける海沿いの道。
シンくんのTシャツの裾と、私の髪をふわりと触っていく。
ガードレールの向こうに広がるのは輝く海。
波が朝日を跳ね返すたび、海の上に小さな星が散らばったみたいだった。
「海、きれい……」
思わず漏れた言葉に、シンくんがちらっと振り返る。
「そうか? 普通やと思ってたけど」
「ううん、初めて近くで見るの。海って、こんなにきれいなんだね」
「ふーん」
どこか意外そうに、それでも嬉しそうに、シンくんの瞳は、まるで珍しいものでも見るように、じっと私を見つめていた。
なんでそんな顔するの。
そう言いかけて、やめた。
喉のあたりが、くすぐったくなる。
「あ、もうちょっとだから」
シンくんはスッと視線を外した。
「……うん」
道がカーブし、トンネルの手前で脇道に入る。
細い坂道を下っていくと、木々の間からしっとりと潮風が流れ込んできた。
カサカサっと葉を揺らす音と一緒に、まるで海が私たちを呼んでいるみたいだった。
「ここ」
林を抜けた瞬間、ぱっと視界が開けた。
出迎えてくれた白い砂浜。その向こうには――
どこまでも青い海が目の前に広がっている。
「……わぁ」
声が自然に跳ね上がる。
私は両手を胸の前に組んだまま、見たことのない風景に、目も心も奪われていた。
「へへ、すごいやろ」
シンくんが得意げに鼻をこすりながら笑う。
「うん。すごい」
「地元の人しか知らんからな、梨花に見せたかったんや」
私はその言葉にコクンとうなずいた。
私のためになんていわれたことなかったから、少しびっくりしたのと、嬉しいのと――
「ありがとう、シンくん」
ドキドキと早くなった鼓動に気づかれませんように。
「ええよ、気にすんなって」
シンくんは木陰の砂地に鞄を下ろして、中からシートを取り出すと、手際よく地面に敷きはじめた。
「この上に、荷物置きな」
私は頷いて、麦わら帽子、手提げ袋、ポシェットをそっと置く。
そして最後に服を脱いだ。
――水着になるなんて、ちょっと、やっぱり恥ずかしい。
サーッと風が肌をなでていく。
肩口のフリルが風にそよぐ。
肩や背中が、普段よりもずっと空気に触れている気がして。
私は少しだけ、腕で自分の体を隠すようにしながら、こっそりとシンくんの方を見た。
シンくんはというと、Tシャツを脱いだだけで、下のカーゴパンツが水着だったらしい。
日焼けした腕と背中が陽の光に照らされて、なんだかまぶしく見えた。
胸がきゅんっとなって――
かっこいいな、と思って……見惚れてしまう。
そのとき、ふいにシンくんが振り向いた。
視線が合わさる。
シンくんは、ちょっとだけ、目を見開いて――
「……おぉ」
なんでもないような顔をしながら、まるで銅像のように動かない、でも、耳がほんのり赤く染まっていく。
「な、なんか変じゃない?」
思わず聞いてしまった私に、
「あっ、いや……似合っとる。めっちゃ、似合っとるよ」
シンくんは、すぐにまた鼻の下を指でこすった。
「そ、そ、そしたら準備運動な」
「う、うん」
言われるまま、私は体を伸ばしたり、肩を回したりする。
その間にシンくんは、浮き輪を口で膨らませていた。
ぷーっと頬を膨らませる顔が可笑しくて、つい吹き出しそうになる。
唇をきゅっと結んで、なんとか笑いをこらえた。
「いくぞ!」
シンくんは首からゴーグルを二つ下げ、片手に浮き輪を持って、海へと駆け出していく。
白い水しぶきが飛び、足元から透明な水が弾ける。
私もそのあとを追って、波打ち際で深呼吸一つ。
よし……。
ちょっぴり怖さもあるけど、浅瀬へと両手でバランスを取りつつ、片足から踏み入れる。
思ったより冷たくて、思ったよりも温かい海の水が、足先を包み、波が引くたびに砂がくすぐる。
初めての感触が包んでは消えていく。
足元を確かめながら一歩一歩進む。
周りは一面の海。
腰辺りまで浸かるくらい進んだ時。
「梨花、これ使え」
シンくんが戻ってきて、私の頭にそっと浮き輪を被せた。
「ありがとう」
なんだろう、気にかけてくれたやさしさにホッとして、ポッと心が火照る。
浮き輪に腕を預けながら、手をそっと胸元で重ねた。
「この辺から先は急に深くなるからな。無理すんなよ」
「わかった」
やがて足が届かなくなって、波に揺られている。
「潜ってみる?」
「うん」
シンくんは首からゴーグルを二つ外して、一つを私に差し出してくれた。
受け取った私はそっと顔にあてる。
……ちょっと、大きい。
鼻のあたりがもぞもぞして、少しだけ息がこもる。
それでも、なんとか装着してシンくんの方を向くと――
もう、つけてた。
ゴーグル越しのシンくんの顔が、なんだか間抜けで、ちょっと可笑しい。
きっと私も、同じような顔してるんだろうな。
目が合って、ふたりして、くすっと笑い合う。
「せーのっ」
シンくんの掛け声とともに、私たちは一緒に海に潜る。
水の中は静かで、まるで別世界だった。
海底の岩には、小さな貝がぽつぽつと貼りついている。
陽の光がゆらゆらしていて、水に全身が包まれて、なんだか海に溶けてしまいそうな気分。
シンくんは岩の間に手を入れて何かを取っている。
私は息が続かなくなりそうだったから、手を伸ばして浮き輪につかまり、
「ぱあ」
と海面に顔を出した。
ゴーグルを下げて、そのまま首に掛ける。
顔に張り付いた髪を両方の耳にかけて、両手で顔を覆い水を拭う。
少し遅れて顔を出したシンくんが、ゴーグルを外しながら私を見てにこりと笑った。
顔に着いた水滴と、水面に反射した光を浴びたその笑顔が眩しすぎて、手を翳しながら、ただただ見惚れてしまって――
そしたら、ぴゅっと、私の顔に水が飛んできた。
「ちょっ、なに!」
目を細めて笑いながら、私も手のひらで水をすくって反撃する。
「へへ、遅い〜」
すばしっこく逃げるシンくんを、ぷかぷかと浮かびながら追いかける。
なかなか届かなくて、でもそれすら楽しくて、水の上で何度も笑った。
シンくんの背中が、きらきらと光の粒をはじいてる。
手を伸ばしても、ひらりとかわされて、水の中にゆらっと揺れるだけ。
気づけば、はしゃいだまま浅瀬に戻っていて、いつの間にか波打ち際。
浮き輪の底から、ふいに足が砂に触れた。
「おらっ」
今度はシンくんが手のひらで水面を叩いて、わざと大きな水しぶきを上げる。
「わっ、冷たい! もう、やめてよ〜」
そう言いつつも、顔が笑ってしまって、
「えい、えいっ」
私も負けじと両手で水をすくって跳ね返す。
しぶきが太陽の光に当たって、きらっ、きらっと弾ける。
バシャバシャと音を立てて、ふたりして夢中で水をかけ合う。
その音すら、嬉しそうで、ふたりで笑い転げた。
そして、息が少しあがるころ、私たちは浅瀬に並んで腰を下ろした。
水がふたりのふくらはぎのあたりを、さらさらとなでていって、くすぐったい。
いくらはしゃいでも、楽しさがどんどん膨らんでいく。
水の中で、お互いの足がふっと触れる。
それだけで、さっきまでのはしゃぎ声が急に止まって、波の音だけがそっと続いた。
「梨花、泳げるんやな」
「うーん……ちょっとだけ。あんまり深いとこはこわいけど」
「そっか。でも、ちゃんと浮いとったし、もぐれてたし、すごいやん」
「えへへ」
褒められると、なんだかむずがゆくて、でも嬉しい。
そのとき――
ぴゃっ、ぴゃっ。
どこか遠くで鳥の声がした。
シンくんが空を見上げて、それを追うように指を差す。
「あそこ、見てみ。めっちゃ低く飛んどる」
「ほんとだ。お腹、見えた」
「魚でも探しとるんかな」
青空を横切っていく鳥の姿を、ふたりでしばらく見つめた。
羽ばたきながら広げた翼が風を切り、自由に空を泳ぎ、やがて山の方へ飛んで行った。
「……私も、何か見つけられるといいな」
そう言った自分の言葉に、自分でちょっと驚いた。
何が欲しいのか、何を探してるのか、よく分からないけど――
この夏に、大事なものがある気がしていた。
「おーい、こっち来てみ?」
シンくんがまた沖の方へと泳ぎ出す。
「待ってよ」
私は立ち上がって追いかける。
さっきよりは怖くなくて、私は浮き輪を身に着けながら海の中へと入っていく。
水が優しく包み込む。
足が着かなくなった辺りで、私はぐいっと腕を伸ばして、シンくんのあとを追いかけた。
パシャパシャと、水面を切る音が耳元で響く。
シンくんの姿がだんだん小さくなって、追いつけるか不安になったけれど、ふと、シンくんが振り返って笑った。
その笑顔が、まるで私を待ってくれているようで、安心させてくれる。
そのやさしさを目がけて、私は水を掻いた。
すると、シンくんが、ここ、ここと声にはせずに水面を指差している。
息を整え、波に揺られながら、海面に顔をつけてのぞいてみる。
光を反射させながら、小さな魚たちが泳いでいた。
水中をちょこちょこと泳ぐ姿は、まるで小さな星たちが集まったようだった。
私たちは水の中を覗き込みながら、浮かんだまま漂う。
水面で砕けた光が、水中に広がると波の動きに合わせて、目の前にきらりきらりと浮かんでいて、水の底では、ふたつの影が手を繋いでいるように見えた。
「ぱあ」
私は顔を上げ首を振る。
パシャッと音がして、シンくんが片手で顔の水をはらっていた。
波に揺られて視線がふわふわと上下する。
「ね、ね、見えたよ、あれってなんて魚?」
「なんだろ、わかんないや。でも、小っちゃくてかわいいな」
「うん、かわいかった。……ねえ、シンくん」
「ん?」
シンくんが私の方に顔を向けて、片目を細めた。
「この海って、毎日こんなにきれいなの?」
「そうだよ」
「そうなんだ、いいなあ……」
私は水面を見つめながら、浮き輪にあごをのせる。
「また、来たらええやん」
爽やかな声を出しながら、シンくんが水をかきわけ、私の方に近づいてきた。
「……うん」
目を合わせたまま、私は頷いた。
その“また”が、どれくらい先のことなのか、まだ分からない。
でも、そう言ってくれるのが、すごく嬉しかった。
真っ青な空と、きらめく海。
どこまでも続くこの景色の中で、今の私たちは、小さな点みたいにぽつんといる。
でも、その点が、私の中では大きく揺れていた。
――こんな夏、きっと、忘れない。
港の近く、静かな入り江に沿って、私はひとりで歩いていた。
サー、サーっと。
波は穏やかで、時折、小石を転がすような音が足元から届いてくる。
潮の香りが鼻先をかすめる。
あの夏の朝、初めて見た海の色が、ふいによみがえった。
「きれい……」
10年前と同じ言葉が、心の中でこだまする。
少し湿った潮風が髪を揺らして、肌の奥に残っていた記憶にそっと触れていく。
この海に、たしかに私はいた。
そして、彼も――
ここにいた。
足を止めて、私は海を見つめる。
潮の満ち引きが運んでくる音が、どこか遠くから私を呼んでいるような気がした。
たゆたう水面に踊る光が、ふたりの笑い声のようにきらめいている。
海に潜って見えた揺らめく世界にのように。
あの頃から止むことがなかったであろう心地良い水音がこれからも続いていくように。
会えるって、信じてる。
それだけで、今は十分だった。
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