ラムネとビー玉
「なあ、神社、見てみるか?」
ふいにシンくんが言った。
港を見下ろすフェンスの上で風を受けながら、気持ち良さそうに笑っている。
「この公園の、すぐ奥にあるんだ」
「うん」
私は軽く頷いた。
今日、初めて会ったのに、シンくんといると、あまり緊張しない。
フェンスからひょいっと飛び降りたシンくんは、私を見て鼻の下を指でこする。
「ついてきて!」
スタスタと歩き出すシンくんの背中を追う。
神社へ向かう道は、ブランコの後ろ側にあった。
ゆるやかな坂になっていて、真夏の陽射しに照らされた石段が、じんわりと熱を帯びていた。
「こっち、こっち」
シンくんは、私の少し前を歩きながら、時おり振り返っては手を振ってくる。
その影が石畳に揺れ、額には細かい汗がにじんでいる。
私も手の甲で額をぬぐいながら、その後をついていく。
「ここが、さっき言ってた神社だよ」
ところどころ苔むした鳥居をくぐると、空気がひんやりと変わった気がした。緑が多くて、蝉の声が少し遠くに感じる。
境内には小さな祠と木造の拝殿。
風鈴が軒下で揺れて、ちりんちりんと涼やかな音を立てていた。
「ほら、あそこ」
シンくんが指差した先には、境内の奥、少し小高くなった場所に一本の大きな木が立っていた。
枝を大きく広げ、まるで空を支えるようにどっしりと聳えている。
「“約束の木”って呼ばれてるんだ。島じゃちょっと有名なんだぜ」
「やくそくの、き?」
「……そう。ここでお願いしたことは、叶うって言われてるんだ」
私は一歩、木のそばへ近づいてみる。
幹を囲うように結びつけられた細い縄に、たくさんの願いが下がっていた。
色とりどりの短冊や絵馬、なかには小さな布や折り鶴まで。
どれも色あせてはいるけれど、その分だけ想いが残っているようで、胸がじーんとする。
シンくんが、木の根元に近づいてしゃがみ込む。
「これ見て。字、ヘタクソだけど、俺が去年書いたやつ」
私はスカートの裾を足でそっと挟んでから、シンくんの隣にしゃがみこんだ。
縄に結ばれた、手のひらほどの絵馬には、ぎこちない字で「おとうとのびょうきがなおりますように」と書かれていた。
私はハッとして、両手を胸に当てた。
絵馬の文字は、たどたどしいけれど、まっすぐな気持ちがこもっていて――
胸がぎゅっとなる。
「……優しいんだね」
「いや、別に……」
シンくんは照れ隠しのように、また鼻の下を指でこする。
でも、その横顔が妙に大人びて見えて、近くにいるのに遠くに感じて、目を離せなかった。
黙って木を見上げている眼差しが、やさしくて。
僅かに上がった口の端が、やわらかくて。
弟のことを思っているのかなって、私も同じように顔を上げた。
差し込んだ光の粒が、絵馬や短冊の願いを見届けるように、ゆらゆらと揺れながら、ひとつひとつを照らしていた。
短冊が風に揺れ、カサカサと優しい音を立てている。
それはまるで、木と短冊が風とおしゃべりをしているようだった。
「おなか、すかん?」
隣を見ると、シンくんが私を見つめていた。
大きな瞳がすぐ近くにあって、思わず瞬きをする。
「え?」
私の声に、シンくんは白い歯を目一杯見せて笑う。
なんかその笑顔が、今度はとっても近くに見えて、ぽーっと眺めていた。
「うまいラムネがある店、知ってるんだ。いこっか」
「うん」
ゆっくりと立ち上がると、シンくんも私に合わせるように腰を上げた。
風が木の葉を揺らし、絵馬がカランと鳴る。
「こっち」
そう言って、シンくんは私の前を歩き出す。
神社をあとにして石段を下る。
私は約束の木のことが気になって、何度も振り返っていた。
公園まで戻ってくると、私たちは坂道を下り、坂手港の方へ向かう。
シンくんは小さな路地をよく知っていて、「こっちが近道だよ」と言いながら、人ひとり通れるかどうかの細い道をするりと抜けていく。
右に左に進んで、なんだか迷路の中を歩いているみたいだった。
しばらくして、ぱっと目の前に海が広がる。
「ここが坂手港。あの船、さっき見たフェリーだよ」
「ほんとだ……」
公園からは小さく見えたフェリーが、大きな体をどっしりと休めていた。
港の近く、道沿いにある小さな商店街。
その一角に、古びた木の看板がぶら下がったお店があった。
軒先には色あせた暖簾が揺れ、店の前には、黒白模様の猫が、日陰で気持ちよさそうに寝転んでいた。
ときどき耳だけがぴくりと動いて、風の音を聞いているみたいだった。
「こんにちはー」
シンくんが元気よく声をかけると、中から腰の曲がった、おばあちゃんが顔を出した。
「おや、真治くんかい。また来たん?」
「うん、今日は観光の子連れてきた」
「ふふ、いらっしゃい。好きなもん選んでね」
おばあちゃんは、目のまわりのしわまで笑ってるみたいで、知らないはずなのに、なんだか「おかえり」って言われた気がした。
「ここ、駄菓子屋の“しもだ”さん。うまい棒とかいっぱいあるぞ」
自慢気に言いながら、シンくんは私を手招きする。
店内に入ると、すぐに甘い匂いが鼻をくすぐった。
瓶に詰まったカラフルな飴玉や、箱にぎっしり詰まったベビースター、スナック、チョコ、ガム……壁際に並ぶ棚の上には、所狭しとお菓子が並んでいる。その品数に圧倒されて目移りしていると、シンくんは慣れた様子でいくつか手に取りながら、「これ美味いよ」とか「それ、地元じゃ人気」とか、私にも次々と勧めてくれる。
懐かしいような、初めて見るような、不思議な空間。
ふと、ラムネの瓶が目に留まる。
小さな手でそっとそれを取って、光にかざしてみた。
中のビー玉が、コロンと揺れる。
「これ、飲んだことない」
「え、マジ? 東京の子なのに?」
シンくんが驚いた顔をして、ちょっとだけ首をかしげる。
「ラムネはあるけど、この瓶、ビー玉入りなんだね。なんか、かわいい」
「よし、じゃあ開けてやるよ」
瓶を受け取ったシンくんは、手際よくポンと栓を押し込む。
ビー玉が「カチャン」と音を立てて、瓶の中を跳ねた。
「ビー玉、飛ぶから気をつけてな」
その顔がどこか得意そうで、私は思わずくすっと笑いそうになる。
すると、シンくんが瓶を私に差し出しながら、いたずらっぽく笑った。
「乾杯、しよっか」
「え、ここで?」
「いいじゃん。今日、会った記念!」
楽しそうななシンくんの笑顔につられて、ふたりで瓶を掲げて、軽く合わせた。
カチン、と小さな音が響く。
「かんぱーい」
一口飲もうと傾けたそのとき――。
「ん……っ?」
ビー玉が、ちょうど飲み口をふさいで、ラムネが出てこない。
もう一度角度を変えても、今度はしゅわしゅわ音だけして、中身はまったく口に届かない。
「……あれ、飲めない……」
困った顔をしていると、シンくんが横から覗き込んで笑った。
「ふふっ、やっぱりそうなるんよな」
「え? どうすればいいの?」
「ちょっと貸して。ビー玉が詰まらないように、ここのくぼみにビー玉を引っかけるようにして――ほら、こんな感じ」
そう言いながら、瓶を軽く傾けて手本を見せてくれる。
たしかに、うまくビー玉が横にずれて、飲み口がふさがれていない。
「これでいける。やってみ?」
「うん、やってみる」
もう一度、今度は言われた通りに瓶を傾けて、そっと口をつける。
すると――
「……っ、飲めた!」
ラムネのしゅわしゅわが口の中ではじけて、ほんのりとした甘さが広がった。
「おいしい……」
そう言いながら、私はその瓶を両手で包み込む。
ラムネの涼しさも、ビー玉の音も、なんだか全部が特別に思えた。
シンくんはとなりで、「初めてのラムネ、合格!」なんて冗談めかして笑っている。
その笑顔もまた、ビー玉みたいに、きらきらしていた。
ラムネの瓶越しに揺れる夏の陽射しが、ふたりの間で跳ねる。
不意に視線が合って、私は思わずふっと笑ってしまう。
笑い声が重なって、蝉の声にまぎれるように、小さく弾けた。
それから、お店の前の小さな木のベンチに並んで座っておやつのひととき。
シンくんはラムネを一口飲むと、瓶の口を親指でなぞりながら、ぽつんと言った。
「なあ、梨花は泳げるん?」
「え?得意じゃないけど」
なんとなく、問いかけの意味を測りかねて、少しだけ首を傾げた。
「明日、海に行こうぜ」
そう続けたシンくんの目が、キラキラしていた。
まるで、すごく楽しいことを思いついたんだって顔。
「海?」
「泳げるとこあるし、岩場もある。貝も採れるし、魚も釣れるぞ。朝8時、ここで待ち合わせな」
嬉しそうに早口で言うその姿に、こっちまでわくわくしてくる。
「……うん」
返事をした直後、どきどきが加速する。
明日また会える。
それが、とっても嬉しい。
「――あ、そうだ」
シンくんは指をパチンと鳴らす。
「着替えるとこないからさ、水着、着てきたほうがいいかも。上にTシャツとか着とけば平気だし」
わざと軽く言ってるように見えるけど、その横顔はほんの少し赤くなっている気がして。
私はとっさにラムネに口をつけて、しゅわしゅわを飲み込む。
「わかった。そうする」
うなずきながら、胸がそわそわする。
なんだか、うまく呼吸ができない。
――なんでかな。
「絶対来いよ?寝坊すんなよ?」
いたずらっぽく笑いながらも、どこか真剣な声。
「……うん、行くよ」
口にしたとたん、心の中のなにかが、ほわっと膨らんだ。
あたたかくて、くすぐったくて、名前のない気持ち。
そして、駄菓子屋からの帰り道。
夕焼け空の下、商店街の角まで並んで歩いた。
ふいに立ち止まったシンくんが、空を見上げて、それから少しだけ体をこちらに向ける。
「じゃ、また明日な」
「うん、また明日」
そう言って背を向けて歩き出そうとしたけど、なんだか足が前に出なかった。
何かに、きゅうっと引っ張られる。
ふと、後ろを振り返る。
その瞬間、少し離れた所で、シンくんも振り返っていた。
影が私に向かって真っすぐ伸びている。
目が合う。
風が吹く。
二つに結んだ私の髪がふわりと舞い、西の空の色がそっと頬を染める。
潮の匂いがスッと通り過ぎた。
そして、シンくんが大きく手を振る。
笑っている。
うれしそうに、まっすぐに。
夕空を背にした、その笑顔が、私の心にしっかりと焼き付いた。
だけど、こんなに離れるのが寂しいと思ったことは、初めてで。
なんでもないような時間なのに。
ただの夕暮れのひとときなのに。
――明日、また会える。
そんなことが、なんだか嬉しくてたまらなかった。
あの頃、彼に連れられて来た駄菓子屋の前で、私は足を止めた。
シャッターは降りたままで、色褪せた看板の文字は陽に焼け、すっかり輪郭がにじんでいる。
それでも、軒下の隅に、小さな木のベンチだけは残っていた。
ふたり並んで腰かけて、ラムネを飲んだ、あの場所。
肩がすとんと落ちる。
「……飲みたかったな」
唇の裏で、消え入りそうな声がひとつ、溶けていく。
口の中にしゅわしゅわとその感覚が甦ると、瓶の中のビー玉が、かんかんと跳ねる音がどこからか聞こえたような気がした。
懐かしさと切なさが混じった何かが、喉の奥につかえて、思わず鼻の奥がつんとする。
「……また、来たよ──」
声には出さず、心の内だけで、そっと、つぶやいた。
そのとき、
「にゃあ」
どこからか、白と黒のぶち模様の猫が姿を現した。
すっと尾を立て、何か知っているような顔で、私の足元をすり抜けていく。
あの頃から、この町にずっといたような、そんな風格で。
私はただ、その背を見送った。
ゆっくりと、記憶と風の流れる方へ。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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