風のブランコ
10歳だった私。
夏休みに帰った母の田舎での、ほんの一週間という短い時間の中での出来事。
あの夏の記憶は、今でも色褪せることなく胸に残っている。
その日、私は母の実家の近く、高台にある神社の公園にいた。
広がる風景を見渡すと、真っ青な海がどこまでも続いていて、そこに点々と浮かぶたくさんの船たち。
近くに遠くに山並みの緑が溢れている。
東京では会ったことのない、ゆったりとした時間の流れと景色たち。
空はどこまでも高くて、雲はもくもくと綿あめのように膨らんでいて、まるで絵本の中に迷い込んだようだった。
私は、ブランコに腰を下ろし、その景色をじっと見つめていた。
四方から迫る蝉の声。
そよそよと吹く風にのってくる潮の香り。
木々がさらさらと揺れて、ツインテールの毛先がふわふわとなびいていく。
私はひとり、暑いけれど心地よい夏の空気に包まれていた。
ふと気がつくと、いつまにか、隣のブランコに帽子を被った男の子が座っていた。
目が合った、その瞬間。
胸がきゅんと苦しくなって、思わず、足で地面を踏ん張って、座面にお尻をつけたままブランコを後ろへぎゅっと引いた。
すると彼も、まるで真似をするかのように、同じようにブランコを引いて、ぴたりと私の横に並ぶ。
ちらりと様子をうかがうと、彼はにこっと笑う。
左頬にだけ、ふわりとえくぼができる。
その小さな表情が妙に印象的で、視線をそらせなくなった。
白いTシャツに、デニムのハーフパンツ。
たぶん、地元の子。
さらさらと風に揺れる髪に、女の子のようなぱっちりした瞳。
日焼けした頬に白い歯をのぞかせて笑うその顔。
――なんだか、ぜんぶのことが楽しいって思ってるみたいな笑顔で。
初めて会ったのに、どこか懐かしいような、不思議な子。
彼は、ひょいっと軽く飛び跳ねて、ブランコに腰掛けると、そのまますーっと前へ滑り出した。
すると、ブランコの動きに合わせてリズムよく、足を曲げたり伸ばしたり動かして。
みるみるうちに高く、大きく揺れはじめた。
風を切る音とともに、身体ごと空へ舞い上がっていくようなその姿が、とても自由で、眩しくて。
なんだか、かっこよく見えて。
思い立った私は、少し遅れて、真似をしてブランコを漕ぎはじめる。
すると――
普段こんなに高く漕げたことはなかったのに。
ツインテールとワンピースの裾が風と遊んで。
足を思い切り伸ばすたび視界が上下し、空が近づいてくる。
雲に手が届きそうで、体がふわふわと浮かんでいくようだった。
「危ないよ!」
突然、風の中をつんざくような声に、私はハッと我に返った。
調子に乗って漕ぎすぎていたのか、ブランコの鎖がきしみ、金具がぎしりと音を立てる。
揺れが変な方向にぶれて、私が思わず手すりをギュッと握りしめ身をすくめた。
そのとき――
彼が勢いよく飛び乗ってきた。
私を足で挟むようにすぐ後ろに立ち、グッと体重をかけて、揺れをそっと鎮めてくれる。
その動きがあまりに自然で、なんだか映画のワンシーンみたいで――
「よし!」
ブランコが止まると、彼は、トンと音を立てて地面に降り立つ。
そして、私の前に回り込んで来て、
「大丈夫か、痛いとこないか?」
目線を合わせるように屈んで顔を近づけてきた。
大きな瞳が心配そうに私を見つめている。
ハッとして胸の前で手を組みながら、私は小さく頷く。
「ありがとう……」
「気をつけてな」
ちょっと得意げに、鼻の下を人差し指でこするしぐさ。
思わず笑いそうになったけれど、私はぎゅっと唇を結んでこらえた。
なんだか――
ほんとうに、可愛かったから。
「お前、島の子じゃないな」
彼は両手を挙げて伸びをしながら、ちらりと私の顔を覗きこむ。
その目がまっすぐで、ちょっとだけドキッとする。
「うん、そうだけど」
私は少しだけ背筋を伸ばした。
「ふーん、そっか。名前は? 俺は秋倉真治。真実の“真”に、治療の“治”で“真治”」
唐突な自己紹介だったけど、ちゃんと漢字まで教えてくれるのが、ちょっとだけおかしくて。
「私は、倉科梨花。果物の“梨”に、お花の“花”で“梨花”」
「ふーん、梨か。梨は旨いから好きだ」
――別に、私のことを言ってるわけじゃないのに、どうしてだろう。
その声に、ぽっと頬が熱くなった。
「梨花は、どこから来たんだ?」
さりげなく呼ばれた名前に、ちょっとドキッとする。
風が強く吹いたわけでもないのに、髪が揺れた気がした。
「東京……」
「へー、すごいな」
声に驚きはあるけど、決して遠ざける感じじゃなくて、むしろ少し羨ましそうな、それでいて嬉しそうな、そんな響き。
彼はまたブランコにひょいっと腰掛ける。
「真治くんは、島の子なの?」
さすがに呼び捨ては出来ない。
けど、名前で呼んでみる。
「真治でいいよ」
「え?でも……」
「照れるなよ」
彼は帽子を脱いで軽く髪をかきあげた。
風で乱れた前髪を直すような、何気ないしぐさだけど――
もしかしたら、照れているのかも。
「じゃあ……シンくんでいい?」
「……おう」
ニコッと、白い歯を見せて笑う。
その笑顔がふいにまぶしくて、くすぐったくて、私は足元のサンダルを見つめた。
つま先を合わせたり、少し浮かせたり――。
「そう、俺はずっと島っ子だな」
「島っ子?」
「へへっ」
シンくんは小さく笑って、またゆっくりとブランコを揺らし始める。
座面がぎぃときしむたび、影の中から陽だまりにと行ったり来たり。
そのリズムも、風を受ける姿も、どこか清々しくて。
見入ってしまう。
「俺、小学五年だけど、梨花は?」
「同じ、五年生」
「そっか、同い年か」
空を見上げ、なんだか嬉しそうに微笑むシンくん。
その表情を見て、私までつられて笑ってしまう。
「梨花、こっちに友達おらんやろ? 遊び相手になってあげるよ」
「え、あ、ううん……でも、いいよ」
戸惑いながらも、私の中に浮かんだのは、ほんの少しだけ嬉しい気持ち。
シンくんと、また一緒に遊べるのかもしれないっていう期待。
「なんで? どうせヒマなんだろ?」
あっけらかんとしたその言葉に、思わず頬をふくらませそうになる。
でも――
たしかに、ヒマと言えばヒマだった。
「明後日さ、お祭りあるし。夜には花火も上がるんだ。穴場スポット、教えるから」
ぐいぐいと言葉を重ねてくるシンくんに、私は押し切られるように、小さく頷いた。
「一応、お母さんに聞いてみる……」
「ああ、そうだな。ダメだったらどうしようかな……まあ、しょうがないか」
急に肩の力が抜けたような声。
どうしてだろう。
胸の辺りがもやもやして、ちくりとした。
別にイヤって言ったわけじゃないのに、シンくんが勝手にそうやって“終わらせる”のが、ちょっとだけ、さみしかった。
急にまわりの音が小さくなった気がして。
何も言えなくて、私はブランコの影を見つめていた。
さっきまでふたりで並んでたのに、影の形が少し離れて見えて、どうしてだろう。
ちょっとだけ胸がきゅってなる。
「あ、フェリーだ! かっこいいよな!」
シンくんは、軽やかにひょいっとブランコから飛び降りる。
そのまま駆け足で公園のフェンスへ向かうと、ぴょんとよじ登って、港のほうを指さした。
「ほら、こっちおいでよ」
手招きするシンくんに誘われて、私は駆け寄り、そっとその隣に並ぶ。
フェンス越しに見下ろす海には、白い波を切りながら、ゆっくりとフェリーが港に向かってきていた。
「なあ、梨花はいつまで島におるん?」
海を見たままのシンくんの優しくて温かい声。
「えっと、20日まで」
「じゃあ……」
シンくんは指折り数えている。
「……あと、4日か」
あと4日――
それが、どれほど特別な時間になるか、そのときの私はまだ知らなかった。
フェリーが坂手港に着いた。
私はフェリーターミナルに繋がる通路を、人の流れに混ざって歩く。
一歩一歩噛みしめるように、足先にまで意識が伝わっているように。
足を運ぶリズムよりドキドキとした早い鼓動を伴って。
ロビーには乗船待ちのたくさんのお客さんがいた。
どこかしこも会話や笑顔が咲いていて、こっちまで微笑ましくなる。
それを目にしながら通っていると、エントランスの方から流れてきた淡い潮の香りがふわりと鼻先をかすめる。
懐かしい匂い。
導かれるように、建物から出て立ち止まる。
むわっとした熱気と、蝉の合唱が私を包む。
片手を胸に当てて、小さく息を吐く――
「……ただいま」
声には出さず、風に向かってつぶやいていた。
私の視線は上がり、自然と高台にあるフェンスを捉えている。
あの神社も、あの木も、あの公園のブランコも。
きっと、まだ、そこにある。
風がひらひらとスカートを追い越していく。
深く息を吸い込んで、私は足を踏み出す。
約束に向かって――。
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