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約束の時

私は、口角をあげて、そっと横を見る。

そこには、一人の青年が立っていた。

さらりとした前髪を斜めに流し、大きな瞳。

デニムのハーフパンツに、日焼けした肌に映える白いTシャツ。

陽射しの中、少し眩しそうに目を細めながら、軽く会釈をして――

そして、鼻の下を指で、ちょんとこする。

その仕草に、息が詰まる。

時間が、一瞬だけ止まったように感じた。

「あっ……」

私が思わず声を上げると、

「……あ、これ……なんか、変なクセで」

そう言って笑った青年の顔に、どこか見覚えのある表情が浮かぶ。

――白い歯と片頬に出来るえくぼ。

私はとっさに胸の前で手を組んでいた。

青年は、私の動きを気に留めることもなく、隣のブランコにゆっくりと腰を下ろす。

鉄の鎖がきぃ、と小さく鳴いた。

その横顔も、彼の面影が見え隠れする。

だけど――

どう見ても、あどけなさが残る表情に、私より年下の印象を抱いていた。

なのに、その瞳には、どこか懐かしいまっすぐな光が宿っていた。

かつて、彼が私に向けてくれた、あの眼差しと――

とてもよく似ている。


「……梨花……さん、ですよね」

名前を呼ばれた瞬間、心が跳ねる。

すこしだけ戸惑ったような――

けれど、どこか懐かしい声音。

「……シンくん……?」

私がそっと名前を呼ぶと、青年は少しだけ目を見開いてから、穏やかに首を傾けた。

「はい。弟の、たつきです。樹木のじゅで、たつき

そう言って、青年は深く頭を下げた。

聞きながら、私は少し微笑んだ。

だって、自己紹介の仕方も、シンくんと一緒。

雲が連れてきた日陰が優しく辺りを包んでいく。

「兄から、少しだけ聞いてました。……この島での夏の話。梨花さんのことも……」

「……」

「兄は……」

そこで、樹くんの声がかすかに揺れた。

言い淀んだ樹くんを見つめながら、私の背筋がスッと伸びる。

「……兄は、5年前に、事故で亡くなりました……」

「……うそ……」

頭の中で繰り返される、樹くんの声が、意味が、分からなくて――

真っ白になって何もなくなっていった……。

何も見えない――

聞こえない、匂わない……。

その白影の中に、ただ一つ。

あの日のシンくんの声がよみがえった。

ぎゅっと私の手を握ってくれながら言った言葉――

「嘘はつかん……」

ザザー。

背後の林が一陣の風に揺れて、雲が流れて陽射しが立ち込める。

「……そっか……」

声に出した途端、ブランコを握っていた手が、力なく腿の上にスッと落ちた。

なぜだろう。

どうしてだろう。

――笑ってしまっていた。

視線の先では、小さなアリがちょこちょこと忙しなく動いている。

でも、それを眺めているようで、何を見てるのか分からなくなって。

ゆっくり顔を上げて樹くんを見ると、不思議そうに小首を傾げていた。

その仕草や表情にも、シンくんの残像が重なってしまう――。


「ごめんね……」

口からこぼれた言葉すら、分からなかった。

「いえ……大丈夫ですか?」

樹くんの声色のどこかに、シンくんの音が混じっている。

柔らかい風が運んできた雲の陰。

ツインテールの毛先が頬を波打って、ワンピースの裾をはためかせていく。

シンくんと過ごした日々の、一瞬一瞬の思い出たちがパラパラと捲られていった。

「……約束、覚えていてくれて、嬉しいです。兄ちゃんも……喜んどる」

語尾に力強く想いの込められた声。

樹くんは空を見上げた。

真っすぐに伸びた首筋と、遠くを見るようなまなざしが、シンくんに――

よく似ている。

ぼーっと、見つめていたら、自然と言葉が出ていた。

「……あっ、でも、樹くん、その……病気だったって……」

「はい……」

樹くんは、空に薄っすらと微笑みかけたように見えた。

膝の上で握られた拳が震えていて、微かにそしてゆっくりと首を振るように俯くと、口をシュッと結んだ。


そして、ズボンの後ろポケットに手を伸ばし、小さな絵馬を取り出した。

それを両手で顔の前に持ち、ふっと笑う。

「兄ちゃんが、俺の病気、治してくれたんです……願い叶ったんです」

樹くんの声は震えていた。

そう――

知ってるよ、覚えているよ。

シンくんに初めて会った日、約束の木に案内してくれて。

ぎこちない字で「おとうとのびょうきがなおりますように」って書かれてた絵馬を、照れ臭そうに見せてくれたこと。

「そう……だったんだ」

私は小さく呟くと、そっと目を閉じた。

瞼の裏に、あの木の前で並んで立っていたふたりの姿が浮かぶ。

「……約束の木、覚えてますよね?」

樹くんの問いかけに、私は静かに頷いて、目を開ける。

雲はいなくなっていて、じりじりと陽射しが地面を照り付けていた。


私は目を覚ましたかのように、ゆっくりと立ち上がると、不思議と足が勝手に動いていた。

迷うことなく、風の中を歩くように――

あの場所へ。

絵馬と、記憶と、約束が待つ、あの木のもとへと。

樹くんは私の後を黙って着いてきた。

神社へ向かう道は、あのころと変わっていなくて、ゆるやかな坂を進む。

ピッ、ピッ、鳥のさえずりと、さらさらと揺れる梢を伴って。

その先、夏の陽射しに照らされた、苔に縁どられた石段が、じんわりと熱を帯びていた。

足元は少し震えていたけれど、ちゃんと前を見ていた。

苔むした鳥居をくぐる。

ちりん、ちりんと風鈴の音が出迎えてくれた。

小さな社殿の奥、少し小高くなった場所にある一本の大きな木。

幹を囲うように結びつけられた細い縄に、今も変わらずにたくさんの願いが託されていた。

色とりどりの短冊や絵馬、小さな布や折り鶴まで。


そばに近づくと、クスノキの樟脳のスッとするような清涼感のある香りを吸い込んだ。

私は数ある願いの中からすぐに見つけた。

私達の絵馬は、あの頃は手が届かなくて、シンくんが背伸びしてつけてくれた高い位置にあったのに――

今は、私の目線の高さにある。

『10年後、またふたりでここに来る、シンくん、また会おうね。 倉科梨花』

『そのときまで、ずっと忘れん。梨花、また会おう。 秋倉真治』

肩を寄せ合うような文字。

色褪せてはいたけど、確かにあった。

指でそっと絵馬を擦る。

あの頃、つるっとしていた表面は、今は少しでこぼこして、ざらっとしている。

「……梨花さん、これも見てあげてくれん」

優しい声音。

ほんと、シンくんみたい。

樹くんは、連なるように重なっている絵馬を指さした。

一歩、二歩、近寄ってその絵馬を見る。

ぎこちない文字が書かれた絵馬を一つずつ見ていく。

「早く大人になって、梨花と会えるといいな」

「今年も来たよ。梨花は元気かな」

「梨花のこと待ってるからな」

「梨花の笑顔が、また見れますように」

「梨花、俺、約束ずっと覚えとるよ」

日付はすべて、今日。

8月19日。

「……来てたんだ」

ちりん、ちりん。

風鈴の音にまぎれるように、小さくつぶやいた。

絵馬の角を撫でる指先が震えている。


樹くんは静かに隣で佇んでいた。

目が合うと、ふいに照れたように、鼻の下を指でこする――

まるで、そのクセだけがシンくんを代弁しているようで。

“あの頃のシンくん”がそこにいる気がして――

胸が、きゅうっと痛んだ。

「本当は全部、聞いた訳じゃないんです。兄ちゃんが、俺のために書いてくれた絵馬を取りに来た時に、この絵馬や、梨花さんと約束した絵馬を見つけて……でもな、梨花さん。兄ちゃんは……」

樹くんは、俯いて、両手をグッと握りしめた。

「知ってたよ……」

ぽつんとつぶやくと、私は不意に力が抜けてしゃがみこんでしまった。

「大丈夫?」

その声がシンくんの言い方にそっくりで。

私は黙って頷いた。

スニーカーのつま先辺りに、小さな石で囲われた一角があった。

円を描くように。

「……ああ、それお墓です」

「お墓……?」

「金魚が眠ってます。……梨花さんが兄ちゃんにくれた、金魚」

私は膝をつき、そっと手を伸ばして土に触れた。

お祭の日、金魚すくいの屋台で、掬えなくて、おまけでもらった一匹の金魚。

つけて、あげた名前――


「……ひかり、ちゃん……」

ぷるぷると震える指先から伝わるザラっとした感触。

その名を呼ぶと、ようやく、頬を涙が伝った。

もう、体の中の隅々から溢れてくるものを止められなくて。

ううん、実際は止める気すらなかった。

肩や唇が震えて、目から流れる留まることを知らない、体に染み付いていた想いたち。

その全てが剥がれ落ちていくように。

ぽたぽたと土にしみていく大粒のいくつもの雫。

金魚の眠るその場所を、やさしく濡らして――

「そうそう、その名前でした。……ふつうあの手の金魚は、もって一年くらいなんです、けど兄ちゃん五年も生かしたんですよ……」

「……」

「梨花さんからもらった大切な金魚やから、ここに埋める言うてました。会った時に一緒に手を合わせるんやって……」

その涙声と共に樹くんは鼻をすする。

同じ想いでいてくれたこと、ずっとずっと想っていてくれたこと、大切にしてくれていた、私とのあの5日間の記憶。

それがわかったら、喉の奥から嗚咽が込み上げた。

初めて声をあげて泣いていた。

涙と声だけが、ただひたすら漏れ続けて――

カラン、カラン、シンくんが書いた絵馬が泣いて、風がやさしく頬の涙をさらう。


もう、会えないんだね――

私は震える手をそっと合わせた。

小刻みに揺れる手に着いた土の匂いと、辺りを包む木々の香りが、こころをなだめてくれているようで。

まるで、島が私を慰めてくれているみたいで。

「兄ちゃん……ほんとに……」

引きつったような声の樹くんは、そこでふっと言葉を飲み込んだ。

私は何も言わず、ただ空を仰いだ。

天を覆う枝葉の隙間の青空が滲んで揺らいでいる。

風が、ふわりと髪をなでた気がした。

「梨花……」

「梨花って……ずっと、かわいいわ……」

あの日のあの声が――

確かに聞こえた。

「ねぇ、シンくん……ちゃんと、会いに来たよ」

絵馬や葉がカラカラ、カサカサと笑う。

「シンくん……好きだよ」

木漏れ日が私に向かって降り注ぐ。

キラキラと。

あの夏の日の5日間のように。


挿絵(By みてみん)

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