届いたよ
私は、鏡の前でお母さんに選んでもらった水色のブラウスをそっと整える。
胸のところに小さな白いボタンがついていて、それをひとつずつ指先でなぞると、なんだか少しだけ大人になった気がした。
ひらりと揺れる白いスカートは、お気に入りだけど、風が吹くとふくらんでしまうから、階段を下りるときは、いつも少しだけスカートのすそを押さえるようにしてる。
髪は、今日は結ばずにそのまま下ろした。
肩のあたりでふわふわと揺れる髪に、麦わら帽子をちょこんとかぶると、頭の中で「うん、これでいい」と声がする。
足元のサンダルは、お気に入りの白い革のやつ。
少し歩きづらいけど、今日はそれでも履きたかった。
「行ってきます」
の声を残して外に出る。
エアコンで冷めていた肌を、むーんとした夏の空気が包みこむ。
今だけは、それが温かく感じる。
薄い水色の雲ひとつない空のもと、家々の瓦には朝の光がうすく反射して、まるで小さな銀色のかけらがちりばめられたみたいだった。
ゆっくりと目を覚ましていく坂手の集落は、どこかまだ夢の中にいるみたいに静かで、風の音さえも、そっと耳元でささやいているように聞こえた。
タン、タンと地面を鳴らす音が、自分の足音とは思えないくらい、どこか不思議で、ふわふわして気分で、シンくんとの待ち合わせ場所へ向かった。
おばあちゃんの家から少し離れた、田んぼのそばの十字路。
そこにある、葉っぱがもこもこと茂った一本の木。
その、少しだけ涼しい木陰が、今日のふたりの秘密の待ち合わせ場所。
シンくんはまだ来ていなくて、私は木の傘の中でワクワクしながら辺りを見回した。
稲穂の金色の海が波打って気持ち良さそうに身を任せている。
ジーーー……
頭の上から蝉の声が降ってくる。
どこから聞こえてるのかなって、帽子のつばを少し押さえて空を見上げた。
そのとき。
「おーい」
蝉の声にまけないくらい大きな声。
キュンと胸が高鳴って、顔がほころぶ私。
「シンくん!」
手を振る私に、道の向こうから虫取り網をかかげたシンくんがぴょんぴょん跳ねるように走ってきていた。
麦わら帽子を深くかぶって、水色のハーフパンツに、真っ白なTシャツ。
日焼けした腕や足が、きらきらと陽に照らされて――
まるで夏そのもの、って感じがした。
島の子って雰囲気だけど、今日はなんだか、いつもより少しだけきれいな格好かもしれない。
それに――
シンくんの服、水色と白で……私と、ちょっとだけおそろいみたいだった。
“ペアルック”なんて言ったら、きっとシンくんに笑われちゃうかもしれないけど。
でも、それでもうれしくて。
それだけで、“今日は特別”って思ってる気がして、私は少しだけ胸がそわそわしだす。
「おはよ、梨花」
「おはよ、シンくん」
ふたり並んで歩き出す。
シンくんは「こっち」と言って、稲穂の中へと続くあぜ道を指さした。
私たちは、朝露をふくんだ草を踏みながら、その細い道を進んでいく。
すぐわきの水路は、朝の光を受けて、ゆらゆらと水面がきらめいていた。
そのきらきらは、まるで私たちのあとをついてくるみたいに、いつまでも並んでいる。
時々、その静かな鏡のような表面を、アメンボがすうっと滑っていく。
小さな波紋が、まるで声もなく笑ってるみたいに広がって――
私は、なんでもないその風景さえ、少し特別に感じていた。
「なんか、今日の俺ら、服逆やけど、お揃いやな……」
シンくんが帽子のつばをつまんでチラッと私を見た。
その日焼けした頬を、汗がひとすじ、静かに流れる。
「そうだね……」
“お揃い”って、ちょっと大人っぽくて照れくさいけど、でもシンくんに言われると、すごくうれしいのに、苦しくもなるのはどうしてなんだろ。
山の方から吹いてきた風がさらっとすれ違う。
気づけば、私も帽子のつばを触っていた。
あぜ道はそのまま山道へ続いていて、木立の中を静かに抜けていく。
まだら模様に光る地面のつぶつぶが、葉が音を立てるたびに、リズムを取って踊っているようだった。
スカートをふわりと揺らす風が、汗ばんだ肌に思いがけず涼しくて――
私は、裾を押さえることもせずに、もっと吹いてほしいなって思った。
土で、でこぼこした道は、サンダルでだと、少し歩きにくくなって、ペースが落ちる。
それに気づいたシンくんは、ゆっくりと歩幅を合わせてくれる。
当たり前のように。
あれ――?
一瞬だけ、シンくんの表情が曇った気がした。
その時、草むらからはバッタが飛び出して、「あっ」という声と共に、シンくんが網を振るけど、うまくいかない。
「むずかしいなぁ」
「こっちにも飛んできた!」
笑いながら追いかけるうちに、風が吹いて、私の帽子がふわりと宙に舞う。
シンくんが「待って!」って叫んで、さっと走り出す。
帽子は風に揺れながら転がって、でも、シンくんはあっという間に追いついて、ぱしっとキャッチしてくれた。
「はい」
にかっと笑いながら、ちょっと息を弾ませて差し出してくれる姿が、なんだかすごくかっこよくて――
もうかっこいいのポイントはあふれちゃてて、やっぱり――
ドキドキするって、なんでだろ……変なの。
日陰を見つけて、ふたりで木の下に腰を下ろす。
シンくんは胡坐をかいて、私は膝を立てて、肩が触れそうな距離に座る。
草や土のにおいも、ざらざらした感触も、知らないうちに当たり前になってた。
シンくんは麦わら帽子を片手に、私に風を送るみたいにゆっくりと扇いでいる。
やさしさの波が寄せるたび、フワッと私の火照った頬をやわらかく触れていく。
その横顔からは、さっき、ちょっとだけ見えた気がした曇った感じはもうなくて――
でも、時々なんだか、ぼーっとしてるようにも見える。
……気のせい、かな。
視線を落とすと、草の海にぽつん、ぽつんと、小さな白い花が浮かんでいるように見えた。
私は、ふたりの間に咲いていたそのひとつを、そっと摘んだ。
指先に伝わる感触はふわっとしていて、でも芯があって、ちょっと不思議だった。
そのまま、鼻先にそっと近づける。
ふんわりと草のにおいがして、でも少しだけ甘いような気もして。
「これ、押し花にできるかな」
「できるんちゃう? 絵日記に貼ったらええやん」
シンくんの声は、いつもののんびりした調子で、私は「うん」とうなずいた。
「ちょっと貸してみ」
シンくんの手がひょいっと顔の前に出てきた。
「ん?」
首を傾げながら、摘んだ花をシンくんに手渡す。
シンくんは白い歯を見せてそれを受け取ると、膝を立てて私の帽子を触り始めた。
カサカサと頭の上で音がする。
こんなことでも、やっぱりきゅうってなる。
「……よし、できたぞ」
シンくんは私の顔の真ん前で、指で鼻をこすった。
クリッとした目の真っ直ぐな瞳が見つめてくる。
もう、ずっと変なのに……ずるいし、くやしい。
私は、帽子を脱ぐのを言い訳に、視線を逸らして両手をそっと頭にのばした。
指先が少し震えてたけど、気づかれませんように――
そんなふうに思いながら、ゆっくりと帽子を外す。
そこには、花の茎が上手に編み目に差し込まれていて、白い小さな花がちょこんとついていた。
通り抜けたそよ風が、ひらりと花びらを揺らす。
「かわいい!」
「だろ」
得意気に笑うその声に、この間の「かわいい」って言ってくれたことを思い出した。
“私のこと、またそう思ってくれてるのかな”って、なんとなく、聞いてみたくなった。
でも――
口にしたら、笑われちゃう気がして。
それに、自分でもよく分かってない気持ちを、うまく言葉にできなくて。
結局、私は下唇を噛んだまま、小さな花びらを見つめるだけだった。
背中にある木の方から、ミンミンゼミが鳴き始める。
ミーン……ミーン……ミー……
何回目かの繰り返しの時、シンくんが「いこっか」と立ち上がった。
私は慌てて頷いて、帽子をかぶり直す。
日が少し高くなって、暑さがじわじわと肌にまとわりついてきたころ――
シンくんの案内で、ため池のほとりまでやってきた。
その水面は鏡みたいで、山の緑や空の白や青を映し出していた。
ときどき風が通るたびに、ふるえるような波紋が広がる。
日陰には鳥が気持ち良さそうに浮かんでいた。
ふと、シンくんが小さな石をひとつ拾って、手のひらでくるくると転がした。
「どっちが遠くまで石を投げられるか、競争しよ」
「いいよ、負けないからね!」
私もシンくんの言う通り、少し平べったい小石を選んで、力いっぱい投げてみる。
すると、ちょんっ、ちょんと弾んで近くに落ちただけだった。
「上手いやん、梨花」
「えへへ、そうかな」
「じゃあ、お手本見せてやる」
シンくんは小石を持った手の指先で鼻の下をこする。
そして野球のピッチャーのように石を放った。
石は水面をひゅっとすべって――
ぽん、ぽん、ぽん。
波紋を作りながら飛び跳ねるように進んでいく。
遠くの方で静かに「ぽちゃん」と音を立てた。
「うわ、すごい!」
私がピョンと小さく跳ねて喜ぶと、
「へへん、男の子やからな」
シンくんは、胸を張るようにして得意げに笑った。
私もつられて、ふふっと笑ってしまう。
でも、ふっと静かになる時間があった。
風が吹いて、草の音がさわさわと耳に届く。
それに連れられて、とんぼや蝶が、ゆらゆらと周りを舞っていた。
しばらく黙っていたけど、私は、そっとシンくんの横顔をうかがった。
いつもより、少しだけうつむいて見える。
「ねえ、シンくん……今日、なんか元気ない?」
声に出した途端、心臓が少しどきどきした。
でも、ちゃんと聞きたかったから。
シンくんはびっくりしたように私を見て、それからすぐ、少しだけ目をそらした。
「……そっか。ばれてるか」
弱々しく笑って、ぽつりとつぶやくと、地面にぺたりと座ってしまった。
私は隣に、スカートの裾をそっと足に挟んでしゃがむ。
ちょっとだけ袖が触れる距離。
シンくんは、チラッと私を見て、フッと息を吸って肩を落とした。
「……昨日、病院から電話があってな。弟の熱が……さがらんって……」
言葉の終わりの方は、力が抜けた感じだった。
「……でも、俺はここにおるやん。なんもできんのに、遊んでばっかでええんかなって……」
なんだか泣きそうな声に聞こえて、こんなシンくん初めてで、私は小さくうなずくことしかできなかった。
私はふと、シンくんの優しさを思い出した。
頑張って浮かべた微笑みで話しかける。
「弟くんのこと書いた絵馬、見せてくれたよね」
「……ああ」
シンくんの声が、かすかに震えている。
私は、シンくんの膝に置かれた手を両手で包んだ。
「あの……約束の木って、願いを叶えてくれるんでしょ。だったら大丈夫だよ、絶対、弟くんの病気治るよ」
ぽかんと、私を見るシンくん。
いつも笑ってた、シンくんの顔。
かたっぽだけえくぼができて、白い歯も見せて。
その顔をしてくれたらシンくんが元気になった証拠のように思えて。
ただ、わたしが見たかっただけかもしれない――
シンくんの笑顔を。
「わたしもね、誰かのことで、胸がぎゅってなることあるよ。何もできなくて、悔しくて……でも、シンくんが笑ってくれると、私、うれしいよ」
私の笑顔、ちゃんと届いてるかな、って思いながら笑う。
シンくんは、目と口をまんまるにしながら私を見つめて、それから、ふわりと笑った。
その顔を見たら、スーと肩から力が抜けていって、包んだ手も離していた。
「梨花、やっぱ変わっとる」
「……ひどい」
咄嗟に少し膨れて見せる。
だけど、笑うのをふたりともこらえきれないで、くすくすと笑い出す。
それから、シンくんは、お決まりの鼻の下を指でこすって。
私を見つめる。
ちょっとだけ潤んだ瞳で。
でも、その顔には、えくぼと白い歯。
見慣れた笑顔。
「ありがとう、梨花」
語尾が上がる、やわらかい響きの、ありがとう。
どうしてだろう、私がシンくんに元気になって欲しかったのに、そのひと言が、こんなに嬉しい気持ちで溢れるの。
私は何もしてないのに、どうして。
バサバサって音がして、ため池で休んでいた鳥が舞い上がった。
風がぬるくて、さっきよりも日差しが強くなってる気がした。
頬に落ちる光がまぶしくて、私は帽子をぎゅっと押さえる。
今あるこの気持ちって、シンくんにも届いているのかな――。
そのとき、ふたりのお腹がグゥ〜ッと間の抜けた音を立てた。
一瞬見つめ合って、それぞれ慌ててお腹を押さえる。
「腹減ったし、一回うち戻ろ」
立ち上がったシンくんが、帽子をくいっと直しながら振り返る。
その表情は、さっきより少しだけ明るいように思えた。
「うん、そうだね」
私も、スカートのすそをぱんぱんとはたいて立ち上がる。
「じゃあ、午後は港で待ち合せな」
「わかった、またあとでね」
「おう、またあとで」
見つめ合って、にこっと笑う。
シンくんは片手をひょいとあげて、私は少し手を振り返した。
草の間を通ると、元気な蝉の声に包まれる。
それに背中を押されるように、私は歩き出す。
ひゅう、と吹いた風が、草を揺らしながら進んでいく。
まるで、何かを運んでいこうとするみたいに。
――シンくんの役に立てたらいいな。
風にのって、そっと届けばいいのにって、思った。
ホテルの部屋のカーテンをそっと引くと、すでに夏模様の景色が、目いっぱいに広がっていた。
まぶしいほどの青。
雲の白。
遠くの緑。
そのすべてが、やわらかく、私を包み込む。
窓を開けると、生ぬるい風がふわりと部屋に流れ込み、長く伸ばした髪をフワッとなびかせた。
深く吸い込んだ匂いに、少しだけあの頃の気配がまじっている気がする。
虫取り網を持って山に入って、ため池で小石を投げ合った日。
そう、あの時のふたりは――
水色と白の、上下違いのリンクコーデ。
おどけたようでいて、どこか照れくさくて、でもちゃんと“おそろい”だった。
だけど、あの日の彼は、どこかぽつんとしていた。
少しだけ俯いて、遠くを見ていた。
だから私は、ただ、あの笑顔が見たくて――
不器用なりに、私なりの精一杯を込めて、言葉を探して、手を握った励まし。
それが届いたとき、語尾がふわっと上がる「ありがとう」に、胸がふわりとあたたかくなった。
気づけば――
元気になってほしいと願っていた私のほうが、何か大切なものを、かけがえのないものを受け取っていたような気がしていた。
窓辺に立って、両手をぐーんと上に伸ばす。
スッと笑みがこぼれて、こしょこしょっと喉の奥で笑いがこみ上げる。
スマホケースの中にそっと忍ばせた、白い花の押し花。
そう、日日草。
パウチに閉じこめた空気が、今もあの瞬間を覚えていてくれる気がした。
私はクローゼットを開けて、ハンガーにかかったラベンダーのワンピースに手を伸ばす。
指先で布の感触を確かめながら、ほんの少しだけ、息を吸い込む。
今日、この服を着ること。
それは、なんとなくじゃなくて――
ちゃんと、決めていたこと。
袖を通しながら、そっと勇気をもらえるような気持ちになる。
着替えを済ませて、髪を左右に分けて、ていねいにヘアゴムで結んでいく。
あの日と同じ位置に、同じように結べてるかな……と、ふっと思い、鏡越しにそっと覗き込む。
次に、ドレッサーに向かい、メイク道具をひとつずつ並べて、時間をかけて、ゆっくり、丁寧に。
鏡に映る自分の顔に、優しく色をのせていく。
ファンデーションをのばす手元に、少しだけ力が入る。
まつ毛を少しだけ持ち上げて、目元がきゅっと引きしまると、心まで少し凛としたような気がした。
リップは迷って、控えめなピンクベージュを選んだ。
そのたびに、何かがふわりふわりと弾み出す。
目尻に細くラインを引いたとき――
ふいに、あのときの私が「大丈夫だよ」って、そっと手を添えてくれているような気がした。
そして今の私は、ちゃんと前を向いて、ここに立っている。
もう、あの頃のように、胸の高鳴りに戸惑ったりしない。
この気持ちを信じて、向き合えばいい。
鏡の前に立ち、そっと微笑んでみた。
懐かしさと、今の自分が、そこで静かに重なっていた。
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