愛・剣・死
◆
朝靄が立ち込める森の中で、剣士は愛剣を抜いた。
刃が朝露を弾く。
その輝きに剣士の瞳は恍惚とした光を宿した。
柄を握る手に、剣の鼓動が伝わってくる。
そう、剣士にとって剣は生きていた。
鋼の中に宿る魂を、剣士だけが感じ取ることができる。
「また朝から剣の手入れ?」
勇者が呆れたような声を上げる。
赤い髪を後ろで束ね、革の鎧に身を包んだ勇者は、既に出発の準備を整えていた。
剣士は答えない。
ただ柔らかい布で刃を拭き上げていく。
一筋の曇りもない刃に自分の顔が映る。
その顔は恋する者のそれだった。
聖女が焚き火に薪をくべながら苦笑した。
「もう三時間も磨いているわよ」
白いローブに身を包んだ聖女の金の髪が、朝日を受けて輝いている。
その美しさに気づかない男などいないだろう。
剣士を除いては。
賢者は魔導書から顔を上げることもなく呟く。
「恋人みたいなものね、あの剣は」
黒いローブの賢者は、その鋭い洞察力で真実に最も近いところにいた。
その言葉に剣士の手が一瞬止まった。
恋人。
違う。
これは恋などという生温いものではない。
剣士にとって、この剣こそが全てだった。
信仰にも似た、絶対的な愛。
それが剣士と剣を結びつけていた。
鋼の冷たさ。
研ぎ澄まされた刃の美しさ。
戦いの中で見せる残酷なまでの切れ味。
全てが愛おしい。
剣士の指が刃の腹を撫でる。
ひんやりとした感触が指先から全身に広がっていく。
この感覚。
他の何にも代えがたい。
「出発するわよ」
勇者の声に、剣士はゆっくりと剣を鞘に納めた。
鞘に収まる瞬間の、あの微かな金属音。
それすらも剣士の心を震わせる。
完璧な調和。
剣と鞘が一つになる瞬間の美しさ。
剣士は立ち上がり、剣を腰に差した。
その重みが心地よい。
常に共にある証。
魔王城への道のりは長い。
だが剣士にとって、それは剣と共に過ごせる至福の時間でもあった。
歩くたびに剣が揺れ、太腿に当たる。
その感触すらも愛おしい。
森を抜け、草原を横切る。
風が吹くたびに、剣の鞘が腰で揺れる。
まるで剣が風と戯れているようだった。
「ねえ、剣士」
聖女が並んで歩きながら話しかける。
「その剣、特別なものなの?」
剣士は少し考えてから、小さく頷いた。
特別。
そんな言葉では表現しきれない。
「どんな風に?」
聖女の好奇心に満ちた瞳が剣士を見つめる。
剣士は腰の剣に手を置いた。
この剣との出会いは十年前。
まだ駆け出しの傭兵だった頃、ある廃墟で見つけた。
埃にまみれ、錆に覆われていた剣。
誰もが見向きもしなかった。
だが剣士には分かった。
その錆の下に眠る、真の輝きが。
三日三晩かけて錆を落とし、刃を研いだ。
そして現れたのは、この世のものとは思えない美しさだった。
波紋のような刃文。
完璧なバランス。
そして何より、手に取った瞬間に感じた一体感。
これだ、と剣士は確信した。
運命の出会いとは、このことを言うのだと。
「聞いてる?」
聖女の声で現実に引き戻される。
剣士は小さく頷いただけで、それ以上は語らなかった。
「もう、つれない人」
聖女が頬を膨らませる。
その仕草は愛らしかったが、剣士の心を動かすことはなかった。
「魔物よ!」
賢者の警告と同時に、剣士は前に出た。
巨大な熊型の魔物が唸り声を上げている。
黒い毛皮に覆われた体躯は、軽く三メートルを超えていた。
剣士は剣を抜いた。
抜刀の瞬間、世界が変わる。
音が消え、時間が緩やかになる。
剣と一つになる感覚。
陽光を受けて煌めく刃。
美しい。
何度見ても、この瞬間に心が震える。
魔物の爪が振り下ろされる。
剣士は最小限の動きでそれを躱し、横薙ぎに一閃した。
刃が肉を断つ感触。
骨を断ち切る手応え。
血飛沫が舞う。
剣が魔物の肉を切り裂く感触が、柄を通じて手に伝わってくる。
剣が喜んでいる。
その本来の役目を果たせることに。
この瞬間のために生きている。
剣が剣として最も輝く瞬間。
それを感じるために。
魔物が断末魔の叫びを上げて倒れる。
剣士は血に濡れた刃を見つめた。
鮮血に濡れた刃は、妖艶な美しさを放っていた。
まるで化粧を施された美女のように。
「怪我は?」
聖女が駆け寄ってくる。
剣士の左腕には深い爪痕があった。
肉が裂け、血が流れている。
「治療するから」
聖女の手が傷口に触れる。
温かい癒しの光が傷を塞いでいく。
聖なる力が剣士の体を巡る。
だが剣士の目は、ただ剣に注がれていた。
刃についた血を丁寧に拭き取る。
一滴も残さず、優しく、愛おしむように。
「ありがとう」
聖女がそう言った。
「私たちを守ってくれて」
剣士は首を横に振る。
守ったのではない。
ただ剣に、その本来の仕事をさせたかっただけだ。
「でも、結果的に私たちを守ってくれたでしょう?」
聖女が微笑む。
その笑顔は、多くの男を虜にしてきたに違いない。
純粋で、優しく、そして少し寂しげな笑顔。
「あなたって、本当に優しいのね」
剣士は答えない。
優しさなど持ち合わせていない。
ただ剣への愛があるだけだ。
◆
夕暮れ時、一行は小さな村にたどり着いた。
宿屋は一軒しかない。
「部屋は二つしか空いてないって」
勇者が宿の主人と話して戻ってくる。
「私と聖女と賢者で一部屋、剣士で一部屋ね」
賢者が肩を竦める。
「まあ、しょうがないわね」
夕食は質素なものだった。
固いパンと薄いスープ、それに少しの干し肉。
だが旅の空の下で食べる野営の食事に比べれば御馳走だ。
「明日には峠を越えるわ」
勇者が地図を広げる。
「そうすれば、魔王城まであと一週間」
聖女が不安そうに呟く。
「本当に、私たちだけで魔王を倒せるかしら」
「大丈夫よ」
賢者が魔導書をめくりながら答える。
「私たちには勇者の聖剣があるし、私の魔法もある」
「それに剣士もいる」
勇者が剣士を見る。
「ね?」
剣士は小さく頷いた。
魔王など、どうでもいい。
ただ、最強と謳われる敵と剣を交えられる。
それだけで十分だった。
夜。
宿屋の一室で、剣士は剣を膝に乗せていた。
月光が窓から差し込み、刃を青白く照らす。
月の光を受けた剣は、昼間とはまた違った美しさを見せる。
神秘的で、どこか妖しい輝き。
剣士は指先で刃の平を撫でた。
冷たい。
硬い。
そして限りなく美しい。
剣士の体温が刃に移っていく。
だが剣は決して温まらない。
永遠に冷たいまま。
それがいい。
人肌の温もりなど、剣には似合わない。
唇を刃に近づける。
金属の味がした。
鉄と、かすかに血の味。
昼間の戦いの名残だろうか。
舌先で刃の表面をなぞる。
危険な行為だ。
少しでも力加減を誤れば舌を切る。
実際、剣士の舌には無数の小さな傷があった。
だがその緊張感すらも愛おしい。
剣に傷つけられることすら、愛の証のように思える。
扉を叩く音がした。
剣士は舌を引っ込め、剣を脇に置いた。
「入っていい?」
勇者の声だ。
剣士は立ち上がり、扉を開けた。
勇者は薄い寝間着姿で立っていた。
赤い髪を下ろし、いつもの凛々しさとは違う、女性らしい柔らかさを見せている。
「眠れなくて」
勇者が部屋に入ってくる。
賢者の寝息を確認してから、剣士の近くに座った。
「明日から峠越えでしょう?」
勇者が窓の外を見る。
「危険な道のりになるわ」
剣士は頷く。
峠には獰猛な魔物が多い。
剣にとっては良い相手だ。
勇者の視線が床に置かれた剣に向けられる。
「本当に大切にしているのね」
剣士は頷いた。
大切。
そんな言葉では足りない。
「いつから?」
勇者の問い。
剣士は少し考える。
いつからだろう。
気がついた時には、既に剣が全てだった。
「私たちのことは?」
勇者の問いに、剣士は沈黙で答える。
仲間。
それ以上でも以下でもない。
「そう……」
勇者は寂しそうに微笑んだ。
月光が勇者の横顔を照らす。
美しい横顔だった。
多くの男が恋をするだろう。
「でも、いつか振り向いてくれるかもしれないでしょう?」
勇者の手が剣士の手に触れる。
温かい。
人の温もり。
だが剣士には、それは不要なものだった。
剣士は窓の外を見た。
月が雲に隠れていく。
「あなたの過去を知りたい」
勇者が囁く。
「どうして剣を、そんなに愛するようになったの?」
剣士は目を閉じた。
過去。
あの女は幼い俺を捨てたが、俺は剣を捨てたりはしない。
そんな事を思う剣士。
瞳に一瞬影が差す。
「聞かせて」
勇者が促す。
だが剣士は首を振った。
過去など、もはやどうでもいい。
「──そっか、厭な事を聞いちゃってごめんね。おやすみなさい」
勇者が立ち上がる。
扉の前で振り返った。
「でも、諦めないから」
勇者が部屋を出て行く。
剣士は再び剣を手に取った。
月は完全に雲に隠れ、部屋は闇に包まれた。
だが剣士には見える。
闇の中でも、剣の輝きが。
人の温もりなど要らない。
この冷たい鋼の感触だけがあればいい。
◆
翌朝、一行は峠に向かって出発した。
山道は険しく、足場も悪い。
「気をつけて」
賢者が杖で足場を確かめながら進む。
「この辺りは岩竜の縄張りよ」
岩竜。
峠に棲む強大な魔物。
その鱗は岩のように硬く、並みの剣では傷一つつけられないという。
剣士の手が剣の柄に触れた。
試してみたい。
この剣なら、きっと。
突然、地面が揺れた。
「来るわ!」
賢者の叫びと同時に、岩肌から巨大な竜が姿を現した。
全長十メートルはあろうかという巨体。
灰色の鱗が朝日を受けて鈍く光る。
「散開!」
勇者の指示で、一行は散り散りになる。
岩竜が咆哮を上げた。
その声は山全体を震わせる。
剣士は剣を抜いた。
いつもの感覚。
世界が研ぎ澄まされていく。
岩竜の動きが、手に取るように分かる。
尾を振るってくる。
剣士は跳躍してそれを避け、竜の背に飛び乗った。
剣を振り下ろす。
硬い。
だが、確かに刃が通った。
鱗が砕け、血が噴き出す。
剣が喜んでいる。
強敵と渡り合える喜び。
竜が身を捩って剣士を振り落とそうとする。
剣士は剣を鱗に突き立てて体を支える。
「無茶よ!」
聖女の声が聞こえる。
だが剣士には関係ない。
剣が活きている。
それだけで十分だ。
勇者の聖剣が竜の脇腹を切り裂く。
賢者の雷撃魔法が竜の頭部に炸裂する。
聖女の防御結界が仲間を竜の攻撃から守る。
そして剣士は、ただ斬り続けた。
硬い鱗を、厚い皮を、強靭な筋肉を。
剣が全てを切り裂いていく。
この感触。
この手応え。
生きている。
剣も、自分も、今この瞬間を生きている。
竜が最後の咆哮を上げて崩れ落ちた。
剣士は竜の死骸から飛び降りる。
剣は竜の血に濡れ、赤黒く染まっていた。
「すごい……」
聖女が息を呑む。
「あんな戦い方、見たことない」
賢者も驚きを隠せない。
「まるで死を恐れていないみたい」
死。
剣士にとって、それは恐れるものではなかった。
剣と共にあれば、死すらも美しい。
「怪我は?」
勇者が心配そうに剣士を見る。
剣士の体は傷だらけだった。
竜の爪が掠めた跡、鱗で切れた傷、無数の打撲。
「すぐ治療するわ」
聖女が駆け寄る。
その手から温かい光が溢れ、傷を癒していく。
剣士は治療を受けながらも、剣から目を離さない。
竜の血に濡れた剣を、愛おしそうに見つめている。
旅は続く。
山を越え、谷を渡る。
魔物との戦いは日常となった。
剣士は常に最前線に立つ。
森の中で出会った人食い花。
巨大な花弁が開き、毒の花粉を撒き散らす。
剣士は息を止め、一気に距離を詰めた。
剣が茎を断ち切る。
緑の体液が噴き出し、花は断末魔の震えと共に枯れていく。
沼地で遭遇した大蛇。
全長二十メートルはある巨体が、泥の中から突如として現れた。
剣士は大蛇の口の中に飛び込み、内側から切り裂いた。
危険極まりない戦法。
だが剣にとっては、これ以上ない活躍の場だった。
廃墟で待ち受けていたアンデッドの群れ。
腐った肉から悪臭が漂い、蛆が湧いている。
剣士は嫌悪感など微塵も見せず、ただ斬った。
腐肉を斬る感触も、剣にとっては経験の一つ。
「無茶をしすぎよ」
賢者が傷だらけの剣士に言う。
夜、焚き火を囲んでの会話だった。
「このままじゃ、魔王城に着く前に倒れるわ」
剣士は肩を竦めるだけだ。
倒れても構わない。
剣と共に戦えるなら。
「どうしてそこまで」
賢者が首を傾げる。
「理解できないわ」
理解される必要はない。
剣士と剣の関係は、二人だけのものだから。
戦わなければ、剣はただの鉄の塊になってしまう。
それは耐えられない。
剣は戦うために生まれた。
人を斬るために、魔物を倒すために作られた。
その本質を発揮させることこそが、剣への愛の証明だった。
「あなたにとって、私たちは何?」
賢者の瞳が焚き火に照らされて揺れる。
剣士は少し考えてから、口を開いた。
「仲間」
それだけだった。
「それだけ?」
賢者が苦笑する。
「つれないのね」
剣士は焚き火に薪をくべる。
火の粉が舞い上がり、夜空に消えていく。
「でも、嫌いじゃないわ」
賢者が呟く。
「そういう一途なところ」
一途。
確かにそうかもしれない。
剣士の愛は、ただ剣にのみ向けられている。
◆
ある夜、賢者が剣士の天幕を訪れた。
「話があるの」
賢者は剣士の向かいに座る。
剣士は剣を磨く手を止めない。
月光を受けて、刃が青白く輝く。
「あなたの剣術の秘密を知りたいの」
賢者の瞳が月光に光る。
知識欲に満ちた、探究者の目。
「どうしてそんなに強いの?」
剣士は手を止めた。
強さ。
それは技術の問題ではない。
愛の問題だ。
剣を道具として見る者に、真の強さは宿らない。
剣と一つになること。
剣の望みを理解し、それに応えること。
剣が斬りたがっている角度を察知し、剣が求める速度で振るう。
それができれば、自然と強くなる。
「教えてくれる?」
賢者が身を乗り出す。
その瞳には、剣術への興味以上のものが宿っていた。
女としての興味。
剣士のような男に惹かれる自分への戸惑い。
剣士は首を振る。
教えられるものではない。
これは理屈ではなく、感覚の問題だから。
「そう……」
賢者は立ち上がる。
黒いローブが揺れる。
「でも、あなたのことをもっと知りたい」
賢者の手が剣士の頬に触れる。
冷たい手だった。
魔法使いの手。
「私じゃ、ダメ?」
剣士は賢者の手をそっと外した。
申し訳ないとは思う。
だが、心に偽ることはできない。
賢者が天幕を出て行く。
その後ろ姿に、諦めきれない想いが滲んでいた。
剣士は剣を抱きしめた。
お前だけが分かってくれる。
お前だけが必要だ。
剣は何も答えない。
ただ月光を反射して、静かに輝いているだけ。
それでいい。
剣は語らない。
だからこそ美しい。
◆
ある日、一行は大きな街に到着した。
魔王城まであと三日の距離。
最後の補給地点だった。
「今夜は豪華に行きましょう」
勇者が提案する。
「最後の晩餐になるかもしれないし」
縁起でもない、と聖女が眉をひそめる。
だが確かに、魔王との戦いを前に英気を養う必要はあった。
街一番の宿屋に部屋を取る。
久しぶりの柔らかいベッド、温かい風呂。
「極楽ね」
賢者が湯上りの顔で微笑む。
夕食は豪華だった。
肉料理、魚料理、新鮮な野菜、上質なワイン。
「乾杯」
勇者がグラスを掲げる。
「魔王討伐の成功を祈って」
剣士も形だけグラスを合わせる。
酒は飲まない。
剣を振るう感覚が鈍るから。
「剣士は本当に酒を飲まないのね」
聖女が不思議そうに見る。
「一滴も?」
剣士は頷く。
酒に酔うより、剣に酔う方がいい。
食事の後、剣士は自室に戻った。
剣を抱えて窓際に座る。
街の灯りが剣身に映り込む。
美しい。
いつ見ても、どんな時でも美しい。
扉が開いた。
振り返ると、聖女が立っていた。
「入ってもいい?」
剣士は頷く。
聖女は剣士の隣に座った。
白いドレスに着替えている。
「明日には魔王城ね」
聖女の声は震えていた。
恐怖だろうか。
「怖いか?」
剣士が尋ねる。
珍しく、自分から口を開いた。
剣士は以前、彼らを仲間だと言った。
そう、仲間なのだ。
捨て駒ではない。
剣士には余り人間への情はないが、仲間をどうでもよいなどと思う男でもなかった。
「……ええ」
聖女が頷く。
「でも、それ以上に」
聖女の手が剣士の手に重なる。
「あなたを失うのが怖い」
剣士は聖女を見た。
青い瞳に涙が浮かんでいる。
「死なないで」
聖女が懇願する。
「お願い、無茶をしないで」
剣士は答えられない。
剣が望めば、命など惜しくない。
「私、あなたが好き」
聖女の告白。
剣士は窓の外を見た。
月が昇っている。
「剣なんかより、私を見て」
剣なんか。
その言葉に、剣士の中で何かが冷たく固まった。
剣を侮辱する者と話す事などなかった。
仲間でも許されない事はあるのだ。
無論、絶対的な関係の亀裂というわけではないが、気は悪くなる。
「ごめんなさい」
聖女が謝る。
「そんなつもりじゃ」
剣士は立ち上がった。
部屋を出て行こうとする。
「待って」
聖女が剣士の袖を掴む。
「お願い、行かないで」
剣士は振り返らずに言った。
「一度は許す。もう剣を悪く言うな」
それだけ言って、剣士は部屋を出た。
聖女の泣き声が背中に聞こえたが、振り返らなかった。
屋上に出る。
月明かりの下、剣を抜いた。
一人、型の稽古を始める。
基本の型から、応用の型へ。
剣が空を切る音が、夜の静寂に響く。
美しい。
月光の下で舞う剣の軌跡。
銀の線が空中に描かれては消えていく。
「見事ね」
声がして、賢者が姿を現した。
「眠れないの?」
剣士は型を続けながら頷く。
明日の戦いに備えて、剣と対話している。
「聖女が泣いていたわ」
賢者が屋上の縁に腰掛ける。
「あなた、きつく言ったんでしょう」
剣士は答えない。
ただ剣を振るい続ける。
「でも、分かるわ」
賢者が夜空を見上げる。
「あなたにとって、剣は命より大切なものなのね」
剣士の動きが一瞬止まる。
理解者がいた。
「私も似たようなものよ」
賢者が魔導書を取り出す。
「魔法に全てを捧げてきた」
魔導書のページが風にめくれる。
「だから、少しだけ分かる」
賢者が立ち上がる。
「でも、たまには人の温もりも悪くないわよ」
そう言って、賢者も去っていった。
剣士は一人、朝まで剣を振り続けた。
剣と語らい、剣と共に夜を明かした。
◆
魔王城が見えてきた。
黒い尖塔が空を突き刺すように聳えている。
瘴気が城を覆い、空は暗く淀んでいた。
「ついに来たわね」
勇者が緊張した面持ちで言う。
聖剣が腰で光を放っている。
聖女が祈りを捧げ、賢者が防御魔法を展開する。
剣士は剣を抜いた。
最後の戦い。
剣にとって最高の舞台だ。
刃が震えている。
いや、震えているのは自分の手か。
武者震い。
剣も興奮しているのだろう。
城門が開く。
中から魔物の群れが溢れ出してきた。
下級悪魔、スケルトン、ゴーレム。
数は百を超える。
「行くわよ!」
勇者の号令と共に、戦いが始まった。
剣士は真っ先に敵陣に飛び込んだ。
剣が唸りを上げる。
右に薙ぎ、左に斬り上げる。
スケルトンの骨が砕け散り、悪魔の血が噴き出す。
剣が生きている。
剣が喜んでいる。
それが分かる。
これほど多くの敵を斬れる機会など、そうはない。
剣士の顔に笑みが浮かぶ。
それは戦いを楽しむ笑みではない。
愛する者の喜びを感じる、慈愛の笑みだった。
「剣士!」
聖女の叫び声。
巨大な斧が剣士の背中を掠めた。
ゴーレムの一撃。
深い傷から血が流れる。
だが剣士は振り返りもしない。
ただ前へ、前へと進む。
剣と共に。
勇者の聖剣が光の斬撃を放つ。
賢者の魔法が敵を薙ぎ払う。
聖女の回復魔法が仲間の傷を癒す。
そして剣士は、ただ斬り続けた。
いつしか、剣士の周りには死体の山ができていた。
剣は血に濡れ、赤黒く染まっている。
それでも剣士は止まらない。
剣が求める限り、斬り続ける。
城門前の戦いが終わった。
「すごい……」
勇者が息を呑む。
剣士が倒した魔物の数は、他の三人の合計を超えていた。
「でも、無理をしすぎよ」
聖女が剣士の傷を治療する。
全身傷だらけだった。
「このままじゃ、魔王と戦う前に」
剣士は聖女の手を押しのけた。
まだ戦える。
剣がまだ戦いたがっている。
城の中は薄暗く、瘴気が充満していた。
壁には不気味な紋様が刻まれ、時折赤く脈動する。
「気をつけて」
賢者が警告する。
「魔力の濃度が異常よ」
剣士には関係ない。
ただ剣を握り、前に進む。
廊下を進むたびに、新たな魔物が現れた。
影から襲いかかる暗殺者型の悪魔。
天井から降ってくる蜘蛛型の魔物。
壁から生えてくる触手。
剣士は全てを斬り捨てた。
剣が魔物の血を吸うように、赤く染まっていく。
まるで剣が成長しているようだった。
大広間に出た。
そこには上級悪魔が待ち構えていた。
「人間どもめ」
悪魔が嘲笑う。
「ここが貴様らの墓場だ」
三体の上級悪魔。
それぞれが下級悪魔の百倍の力を持つ。
「散開!」
勇者の指示で、各自が一体ずつ相手をする。
剣士の相手は、四本の腕を持つ剣の悪魔だった。
それぞれの手に曲刀を持っている。
剣と剣の戦い。
剣士の血が沸き立った。
悪魔の四本の剣が同時に襲いかかる。
常人なら一瞬で切り刻まれるだろう。
だが剣士には見えた。
四本の剣の軌道が。
そして何より、自分の剣が教えてくれる。
どう動けばいいのかを。
剣士は最小限の動きで攻撃をいなし、カウンターを返す。
悪魔の一本の腕が飛んだ。
「ぐあああ!」
悪魔が怒りの咆哮を上げる。
「人間ごときに!」
攻撃が激しさを増す。
だが剣士は冷静だった。
剣と一体となり、水が流れるように攻撃を受け流す。
そして隙を見つけては、確実に悪魔を斬りつける。
二本目の腕が落ちる。
三本目。
そして最後の一本も。
腕を全て失った悪魔が膝をつく。
「ば、馬鹿な……」
剣士は剣を振り上げた。
そして、容赦なく振り下ろす。
悪魔の首が転がった。
他の二人も、それぞれの敵を倒していた。
「やったわ」
聖女が安堵の息をつく。
だが、これは前哨戦に過ぎない。
階段を上る。
上に行くほど、瘴気は濃くなっていく。
「もうすぐよ」
勇者が聖剣を握りしめる。
最上階。
巨大な扉の前に立つ。
「行くわよ」
勇者が扉を押し開ける。
◆
玉座の間。
魔王が待っていた。
巨大な体躯。
漆黒の鎧。
そして、禍々しいオーラ。
「よくぞ来た、勇者よ」
低い声が響く。
「そして、その仲間たちよ」
魔王が玉座から立ち上がる。
手には巨大な魔剣。
「我が名はベルゼビュート」
魔王が魔剣を掲げる。
「この世界の支配者だ」
戦いが始まった。
魔王の放つ闇の魔法が空間を歪める。
重力が変化し、立っているのも困難になる。
勇者の聖剣が光を放ち、闇を切り裂く。
賢者の魔法が炸裂し、魔王の魔法を相殺する。
聖女の結界が仲間を守る。
そして剣士は、ただ斬った。
斬って、斬って、斬り続けた。
魔王の鎧は硬い。
並みの剣なら刃が立たないだろう。
だが剣士の剣は違った。
愛を込めて振るわれる剣は、不可能を可能にする。
鎧に亀裂が入る。
「ほう」
魔王が興味深そうに剣士を見る。
「面白い剣だ」
魔王の魔剣と剣士の剣が激突する。
火花が散る。
衝撃が剣士の腕を痺れさせる。
だが、剣は折れない。
剣が魔王の剣と渡り合っている。
剣士の顔に笑みが浮かぶ。
そうだ、お前は強い。
どんな敵にも負けない。
剣が魔王の肉体を切り裂くたびに、剣士の心は震えた。
これだ。
これこそが剣の本懐。
最強の敵と相対し、その命を断つこと。
魔王の反撃で剣士の体は傷だらけになった。
左腕はもう動かない。
右脚からは血が止まらない。
肋骨も何本か折れている。
それでも剣士は止まらない。
剣がまだ戦えるから。
剣がまだ斬れるから。
「愚かな」
魔王が剣士を見下ろす。
「そこまでして戦う理由があるのか」
剣士は答えない。
ただ剣を構える。
理由など必要ない。
剣が望むから戦う。
それだけだ。
激戦が続く。
勇者の聖剣が魔王の左腕を切り落とす。
賢者の究極魔法が魔王の魔力を削る。
聖女の奇跡が仲間の致命傷を癒す。
そして剣士は、魔王の隙を見逃さなかった。
全身全霊を込めた一撃。
剣が魔王の胸部装甲を貫く。
「ぐっ」
魔王がよろめく。
「とどめよ!」
勇者の聖剣が魔王の心臓を貫いた。
光が玉座の間を満たす。
魔王が崩れ落ちる。
「終わった……」
魔王の最期の言葉。
「だが、これで終わりではない……」
魔王の体が塵となって消えていく。
戦いは終わった。
剣士は血に濡れた剣を見つめた。
美しい。
今この瞬間の剣が、最も美しい。
魔王の血を吸い、最強の敵を倒した剣。
これ以上の栄光があるだろうか。
「やったわ!」
聖女が歓声を上げる。
「私たち、勝ったのよ!」
賢者も安堵の表情を浮かべた。
「長い戦いだったわね」
勇者が剣士に近づく。
「ありがとう」
その瞳には涙が浮かんでいた。
「あなたがいなければ、勝てなかった」
剣士は剣を鞘に納めた。
鞘に収まる時の、あの心地よい音。
それを聞きながら、剣士は満足感に包まれた。
勝利の余韻など、剣士には関係ない。
ただ剣が、その役目を全うしたことが嬉しかった。
魔王城を出る。
瘴気は晴れ、青空が広がっていた。
「帰りましょう」
聖女が微笑む。
「みんなが待ってるわ」
◆
王都への道のり。
来た時とは違い、穏やかな旅だった。
魔物もいない。
戦いもない。
剣士には、少し物足りなかった。
王都への凱旋。
人々の歓声が響く中、勇者パーティーは英雄として迎えられた。
花吹雪が舞い、人々が名前を呼ぶ。
「勇者様!」
「聖女様!」
「賢者様!」
そして。
「剣士様!」
剣士は、ただ黙って歩いた。
称賛など必要ない。
剣と共に戦えた。
それで十分だった。
王城での謁見。
王が勇者たちを讃える。
「よくぞ魔王を倒してくれた」
王が玉座から言う。
「褒美を取らせよう。望みは何か」
各々が望みを言っていく。
そして剣士の番が来た。
「何も」
剣士の答えに、王が驚く。
「何も望まぬと?」
剣士は頷いた。
既に最高の褒美は得ている。
剣と共に最強の敵と戦えた。
それ以上の褒美などない。
王城での祝宴。
貴族たちが集い、勇者たちを讃える。
音楽が流れ、人々が踊る。
剣士は壁際に立ち、ただ腰の剣に手を置いていた。
剣の感触を確かめるように。
「踊らない?」
聖女がドレス姿で近づいてくる。
青いドレスが、聖女の美しさを際立たせていた。
剣士は首を振る。
踊りなど、剣の動きに比べれば退屈だ。
「つまらない人」
聖女は微笑む。
「でも、そんなあなたが好き」
剣士は答えない。
好きと言われても、どう反応すればいいのか分からない。
聖女の手が剣士の手に重なる。
「ずっと一緒にいたい」
剣士はゆっくりと手を引いた。
一緒にいる相手は、既に決まっている。
聖女の瞳に悲しみが宿る。
しかし剣士は踵を返し、その場を去った。
聖女の呼ぶ声が聞こえたが、振り返らなかった。
祝宴の後、勇者が剣士を呼び止めた。
城の庭園。
月明かりの下、二人は向かい合った。
「これから、どうするの?」
剣士は肩に担いだ荷物を示す。
旅立つつもりだった。
まだ世界には、剣を振るうべき場所がある。
「待って」
勇者が剣士の腕を掴む。
「私と一緒にいて」
その瞳は真剣だった。
月光を受けて、赤い髪が燃えるように見える。
「愛してるんだ、あなたを」
勇者の告白。
剣士は勇者の手をそっと外した。
愛。
その感情は、既に剣に全て注がれている。
他に分け与える分など、残っていない。
「どうして?」
勇者の声が震える。
「私じゃダメなの?」
剣士は腰の剣に手を置いた。
これが答えだ。
剣以外に愛するものはない。
剣と共にあれば、それで十分。
賢者も現れた。
黒いドレスに身を包み、いつもとは違う妖艶な雰囲気を纏っている。
「行くのね」
その表情は諦めたような、それでいて未練の残るものだった。
「私も、あなたが好きよ」
賢者が苦笑する。
「知識欲だと思っていたけど、違った」
賢者が剣士に近づく。
「あなたという人間に惹かれていた」
剣士は一歩下がる。
これ以上近づかれては困る。
「でも、勝てないのね。剣には」
賢者の瞳に理解の光が宿る。
「あなたの剣への愛は、人間への愛とは次元が違う」
剣士は頷いた。
そうだ。
勝負にすらならない。
最初から、剣以外に愛するものなどなかったのだから。
「一つだけ教えて」
賢者が問う。
「剣の何が、そんなにあなたを惹きつけるの?」
剣士は少し考えてから、口を開いた。
「完璧だから」
それだけだった。
人間のように裏切らない。
人間のように変わらない。
人間のように醜くない。
ただ美しく、強く、永遠に剣であり続ける。
脳裏にふと女の影がよぎった。
剣士を女の影。
お守り代わりにと持たせてくれた短剣は、幼い剣士の命を幾度も救った。
決して、裏切る事なく。
三人の女性を残し、剣士は王都を去った。
振り返ることもなく。
ただ腰の剣の重みを感じながら。
◆
新たな旅の始まりだった。
放浪の旅が始まった。
魔王軍の残党はまだ各地に潜んでいる。
剣士はそれらを探し出し、倒していった。
剣のために。
剣に戦いを与えるために。
北の雪山では、氷の竜と戦った。
吹雪の中、視界も効かない状況での戦い。
だが剣士には剣の位置が分かる。
剣が導いてくれる。
氷の竜の息が全てを凍らせる。
剣士の体も、徐々に感覚を失っていく。
だが剣を握る手だけは離さない。
最後の一撃で、竜の心臓を貫いた。
竜が断末魔の叫びを上げて倒れる。
剣士も雪の上に倒れ込んだ。
凍傷で指先の感覚はない。
だが剣はしっかりと握られていた。
東の砂漠では、砂の魔人と対峙した。
砂嵐を操り、姿を自在に変える強敵。
剣が砂を切っても、すぐに再生する。
だが剣士は諦めない。
剣が諦めていないから。
魔人の核を探し、見つけ、斬る。
それを何度も繰り返した。
ついに魔人の真の核を見つけ、両断した。
砂が崩れ、魔人は消滅した。
南の密林では、植物の魔王と戦った。
巨大な食虫植物が森全体を支配している。
蔦が剣士を絡め取ろうとする。
毒の花粉が充満する。
剣士は息を止め、剣で蔦を切り払いながら進む。
本体にたどり着くまでに、半日かかった。
巨大な花の中心に、核がある。
剣士は躊躇なく飛び込み、核を両断した。
植物の有害な体液にまみれながら、剣士は脱出した。
服は溶け、体中に火傷を負った。
だが剣は無事だった。
それだけで十分だった。
西の荒野では、岩の巨人と激突した。
身長二十メートルはある巨体。
一撃で大地が割れる。
剣士は巨人の体を駆け上がり、急所を狙う。
だが岩の体は硬く、なかなか刃が通らない。
それでも剣士は斬り続けた。
剣を信じて。
ついに岩に亀裂が入る。
そこに全力の一撃を叩き込んだ。
巨人が崩れ落ちる。
剣士も瓦礫の下敷きになりかけた。
だが最後の瞬間、剣を突き立てて体を支えた。
剣が剣士を救った。
ある村では、盗賊団から人々を守った。
百人を超える盗賊団。
村人たちは絶望していた。
だが剣士一人で十分だった。
夜襲をかけてきた盗賊たちを、剣士は迎え撃つ。
松明の明かりの中、剣が舞う。
盗賊たちは次々と倒れていく。
頭目が現れた。
巨漢で、大斧を振るう。
「たかが一人で」
頭目が嘲笑う。
だが、その笑いはすぐに凍りついた。
剣士の剣が、大斧を真っ二つに切り裂いたから。
そして次の瞬間、頭目の首が飛んだ。
残った盗賊たちは逃げ散った。
村人たちは剣士を英雄として称えた。
だが剣士は礼も受け取らず、去っていった。
またある町では、暴走した魔法生物を斬った。
魔法実験の失敗で生まれた怪物。
触れるもの全てを腐らせる。
剣士は間合いを計り、一撃で仕留めた。
剣が腐食することはなかった。
剣士の愛が、剣を守っているかのように。
年月が流れた。
剣士の名は各地に轟いていく。
「一人で魔物の群れを全滅させた剣士がいる」
「神業の様な剣技を振るう」
「まるで剣と一体になっているようだった」
人々は剣士を英雄と呼んだ。
詩人たちは剣士の武勇を歌にした。
だが剣士にとって、それはどうでもいいことだった。
名声など必要ない。
ただ剣と共にあれればいい。
剣が剣として存在できればいい。
ある時、かつての仲間たちの噂を聞いた。
勇者は女王となり、国を治めている。
聖女は大司教となり、人々を導いている。
賢者は宮廷魔導師となり、後進を育てている。
皆、それぞれの道を歩んでいる。
剣士も自分の道を歩いていた。
剣と共に生きる道を。
◆
二十年が過ぎた。
剣士の髪に白いものが混じり始める。
顔には深い皺が刻まれた。
動きも若い頃ほどの切れはない。
だが剣は変わらない。
相変わらず美しく、鋭い。
それが少し羨ましくもあり、誇らしくもあった。
それでも剣士は戦い続けた。
剣が錆びることを恐れて。
剣が忘れられることを恐れて。
もう大きな脅威はない。
魔王軍の残党もほぼ壊滅した。
それでも剣士は、小さな魔物でも見つけては斬った。
山賊が出れば退治し、猛獣が現れれば倒した。
剣を振るう理由を探し続けた。
ある日、剣士は思った。
もう潮時かもしれない、と。
世界は平和になった。
剣を振るう必要も減った。
剣士は山深い場所で庵を結んだ。
人里離れた、静かな場所。
剣と二人きりで過ごせる場所。
もう魔物もほとんどいない。
戦う相手もいない。
それでも剣士は毎朝、剣を振った。
夜明け前に起き、剣を手に取る。
朝靄の中、剣が空を切る。
その音が山にこだまする。
一振り、また一振り。
基本の型を、何度も何度も繰り返す。
美しい。
老いても変わらない剣の輝き。
朝日を受けて光る刃。
完璧な重心。
研ぎ澄まされた切れ味。
人は老いるが、剣は老いない。
人は衰えるが、剣は衰えない。
それが少し、羨ましかった。
同時に、誇らしくもあった。
自分が愛したものは、永遠に美しいままだ。
秋が来た。
山の木々が色づく。
剣士は庵の前で剣を磨いていた。
何時間もかけて、丹念に。
刃の一寸一寸を、愛おしむように。
ふと、若い頃を思い出した。
勇者たちと旅をした日々。
だが、それも遠い昔のこと。
今は剣だけが現実だ。
冬が来た。
雪が山を白く染める。
剣士の手は震え、もう剣をしっかりと握ることができない。
関節が痛み、筋肉が衰えた。
それでも剣を振ろうとする。
雪の中、よろよろと立ち上がる。
剣を構える。
だが、剣が手から滑り落ちた。
雪の上に横たわる剣。
剣士は膝をついて、それを拾い上げようとする。
指が剣の柄に触れる。
冷たい。
あまりにも冷たい。
もう、この手では剣を握れない。
涙が頬を伝った。
それは悲しみの涙ではない。
これまで共に在れたことへの感謝の涙だった。
剣士は剣を雪の上に立てた。
切っ先が空を向く。
最後の時が来たと、剣士は悟った。
恐れはない。
剣と共に生き、剣と共に死ぬ。
それが剣士の選んだ道だった。
そして、それは間違っていなかった。
剣士は剣の前に正座した。
震える手で、剣の柄を支える。
最後の力を振り絞って。
「ありがとう。お前と共にいられて、幸せだった」
剣は答えない。
ただ雪を反射して、白く輝いている。
その輝きが、まるで応えているように見えた。
剣士は身を乗り出した。
切っ先が喉に触れる。
冷たい。
だが、それは慣れ親しんだ冷たさだった。
五十年間、毎日触れてきた冷たさ。
剣士は微笑んだ。
これでいい。
これが自分の望んだ最期だ。
剣に殺されること。
愛するものに殺されること。
これ以上の幸福があるだろうか。
最期の瞬間、剣士は思った。
人は剣を道具だと言う。
だが違う。
剣は友であり、恋人であり、人生そのものだった。
それを理解できたことが、自分の誇りだった。
剣士は目を閉じ、体重を前にかけた。
切っ先が喉を貫く。
痛みはない。
ただ、剣と一つになる感覚があった。
温かい血が雪を赤く染める。
剣士の体が剣に寄りかかるように倒れた。
その顔には、安らかな笑みが浮かんでいた。
まるで愛する者の腕の中で眠るような。
そんな死に顔だった。
春になって、山に入った木こりが剣士を見つけた。
剣に寄りかかるようにして死んでいる老人。
その表情の穏やかさに、木こりは息を呑んだ。
「まるで……」
木こりは呟いた。
「恋人に抱かれて眠っているみたいだ」
剣士の遺体は麓の村に運ばれた。
村人たちは、この老人が伝説の剣士だと気づいた。
かつて村を盗賊から救った、あの剣士だと。
村人たちは英雄の死を悼み、手厚く葬った。
だが誰も、剣を遺体から離そうとはしなかった。
それがあまりにも自然に、一体となっていたから。
まるで剣と剣士が、一つの存在であるかのように。
剣士は剣と共に埋葬された。
墓標には名前もない。
ただ「剣と共に生きた者、ここに眠る」とだけ刻まれた。
王都では、剣士の死が報告された。
老いた女王、かつての勇者が涙を流した。
大司教となった聖女が、剣士のために祈りを捧げた。
宮廷魔導師の賢者が、一人静かに瞑目した。
皆、それぞれの想いを胸に、剣士の死を悼んだ。
やがてその墓も忘れられ、草に覆われた。
だが土地の人々の間では、ある言い伝えが残った。
風の強い日、あの山から剣の鳴る音が聞こえる、と。
それは風が墓標を撫でる音かもしれない。
あるいは……。
剣士と剣が、今も共に在ることの証かもしれない。
永遠に。
完全に。
美しく。
(了)