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愛・剣・死

作者: 埴輪庭

 ◆


 朝靄が立ち込める森の中で、剣士は愛剣を抜いた。


 刃が朝露を弾く。


 その輝きに剣士の瞳は恍惚とした光を宿した。


 柄を握る手に、剣の鼓動が伝わってくる。


 そう、剣士にとって剣は生きていた。


 鋼の中に宿る魂を、剣士だけが感じ取ることができる。


「また朝から剣の手入れ?」


 勇者が呆れたような声を上げる。


 赤い髪を後ろで束ね、革の鎧に身を包んだ勇者は、既に出発の準備を整えていた。


 剣士は答えない。


 ただ柔らかい布で刃を拭き上げていく。


 一筋の曇りもない刃に自分の顔が映る。


 その顔は恋する者のそれだった。


 聖女が焚き火に薪をくべながら苦笑した。


「もう三時間も磨いているわよ」


 白いローブに身を包んだ聖女の金の髪が、朝日を受けて輝いている。


 その美しさに気づかない男などいないだろう。


 剣士を除いては。


 賢者は魔導書から顔を上げることもなく呟く。


「恋人みたいなものね、あの剣は」


 黒いローブの賢者は、その鋭い洞察力で真実に最も近いところにいた。


 その言葉に剣士の手が一瞬止まった。


 恋人。


 違う。


 これは恋などという生温いものではない。


 剣士にとって、この剣こそが全てだった。


 信仰にも似た、絶対的な愛。


 それが剣士と剣を結びつけていた。


 鋼の冷たさ。


 研ぎ澄まされた刃の美しさ。


 戦いの中で見せる残酷なまでの切れ味。


 全てが愛おしい。


 剣士の指が刃の腹を撫でる。


 ひんやりとした感触が指先から全身に広がっていく。


 この感覚。


 他の何にも代えがたい。


「出発するわよ」


 勇者の声に、剣士はゆっくりと剣を鞘に納めた。


 鞘に収まる瞬間の、あの微かな金属音。


 それすらも剣士の心を震わせる。


 完璧な調和。


 剣と鞘が一つになる瞬間の美しさ。


 剣士は立ち上がり、剣を腰に差した。


 その重みが心地よい。


 常に共にある証。


 魔王城への道のりは長い。


 だが剣士にとって、それは剣と共に過ごせる至福の時間でもあった。


 歩くたびに剣が揺れ、太腿に当たる。


 その感触すらも愛おしい。


 森を抜け、草原を横切る。


 風が吹くたびに、剣の鞘が腰で揺れる。


 まるで剣が風と戯れているようだった。


「ねえ、剣士」


 聖女が並んで歩きながら話しかける。


「その剣、特別なものなの?」


 剣士は少し考えてから、小さく頷いた。


 特別。


 そんな言葉では表現しきれない。


「どんな風に?」


 聖女の好奇心に満ちた瞳が剣士を見つめる。


 剣士は腰の剣に手を置いた。


 この剣との出会いは十年前。


 まだ駆け出しの傭兵だった頃、ある廃墟で見つけた。


 埃にまみれ、錆に覆われていた剣。


 誰もが見向きもしなかった。


 だが剣士には分かった。


 その錆の下に眠る、真の輝きが。


 三日三晩かけて錆を落とし、刃を研いだ。


 そして現れたのは、この世のものとは思えない美しさだった。


 波紋のような刃文。


 完璧なバランス。


 そして何より、手に取った瞬間に感じた一体感。


 これだ、と剣士は確信した。


 運命の出会いとは、このことを言うのだと。


「聞いてる?」


 聖女の声で現実に引き戻される。


 剣士は小さく頷いただけで、それ以上は語らなかった。


「もう、つれない人」


 聖女が頬を膨らませる。


 その仕草は愛らしかったが、剣士の心を動かすことはなかった。


「魔物よ!」


 賢者の警告と同時に、剣士は前に出た。


 巨大な熊型の魔物が唸り声を上げている。


 黒い毛皮に覆われた体躯は、軽く三メートルを超えていた。


 剣士は剣を抜いた。


 抜刀の瞬間、世界が変わる。


 音が消え、時間が緩やかになる。


 剣と一つになる感覚。


 陽光を受けて煌めく刃。


 美しい。


 何度見ても、この瞬間に心が震える。


 魔物の爪が振り下ろされる。


 剣士は最小限の動きでそれを躱し、横薙ぎに一閃した。


 刃が肉を断つ感触。


 骨を断ち切る手応え。


 血飛沫が舞う。


 剣が魔物の肉を切り裂く感触が、柄を通じて手に伝わってくる。


 剣が喜んでいる。


 その本来の役目を果たせることに。


 この瞬間のために生きている。


 剣が剣として最も輝く瞬間。


 それを感じるために。


 魔物が断末魔の叫びを上げて倒れる。


 剣士は血に濡れた刃を見つめた。


 鮮血に濡れた刃は、妖艶な美しさを放っていた。


 まるで化粧を施された美女のように。


「怪我は?」


 聖女が駆け寄ってくる。


 剣士の左腕には深い爪痕があった。


 肉が裂け、血が流れている。


「治療するから」


 聖女の手が傷口に触れる。


 温かい癒しの光が傷を塞いでいく。


 聖なる力が剣士の体を巡る。


 だが剣士の目は、ただ剣に注がれていた。


 刃についた血を丁寧に拭き取る。


 一滴も残さず、優しく、愛おしむように。


「ありがとう」


 聖女がそう言った。


「私たちを守ってくれて」


 剣士は首を横に振る。


 守ったのではない。


 ただ剣に、その本来の仕事をさせたかっただけだ。


「でも、結果的に私たちを守ってくれたでしょう?」


 聖女が微笑む。


 その笑顔は、多くの男を虜にしてきたに違いない。


 純粋で、優しく、そして少し寂しげな笑顔。


「あなたって、本当に優しいのね」


 剣士は答えない。


 優しさなど持ち合わせていない。


 ただ剣への愛があるだけだ。


 ◆


 夕暮れ時、一行は小さな村にたどり着いた。


 宿屋は一軒しかない。


「部屋は二つしか空いてないって」


 勇者が宿の主人と話して戻ってくる。


「私と聖女と賢者で一部屋、剣士で一部屋ね」


 賢者が肩を竦める。


「まあ、しょうがないわね」


 夕食は質素なものだった。


 固いパンと薄いスープ、それに少しの干し肉。


 だが旅の空の下で食べる野営の食事に比べれば御馳走だ。


「明日には峠を越えるわ」


 勇者が地図を広げる。


「そうすれば、魔王城まであと一週間」


 聖女が不安そうに呟く。


「本当に、私たちだけで魔王を倒せるかしら」


「大丈夫よ」


 賢者が魔導書をめくりながら答える。


「私たちには勇者の聖剣があるし、私の魔法もある」


「それに剣士もいる」


 勇者が剣士を見る。


「ね?」


 剣士は小さく頷いた。


 魔王など、どうでもいい。


 ただ、最強と謳われる敵と剣を交えられる。


 それだけで十分だった。


 夜。


 宿屋の一室で、剣士は剣を膝に乗せていた。


 月光が窓から差し込み、刃を青白く照らす。


 月の光を受けた剣は、昼間とはまた違った美しさを見せる。


 神秘的で、どこか妖しい輝き。


 剣士は指先で刃の平を撫でた。


 冷たい。


 硬い。


 そして限りなく美しい。


 剣士の体温が刃に移っていく。


 だが剣は決して温まらない。


 永遠に冷たいまま。


 それがいい。


 人肌の温もりなど、剣には似合わない。


 唇を刃に近づける。


 金属の味がした。


 鉄と、かすかに血の味。


 昼間の戦いの名残だろうか。


 舌先で刃の表面をなぞる。


 危険な行為だ。


 少しでも力加減を誤れば舌を切る。


 実際、剣士の舌には無数の小さな傷があった。


 だがその緊張感すらも愛おしい。


 剣に傷つけられることすら、愛の証のように思える。


 扉を叩く音がした。


 剣士は舌を引っ込め、剣を脇に置いた。


「入っていい?」


 勇者の声だ。


 剣士は立ち上がり、扉を開けた。


 勇者は薄い寝間着姿で立っていた。


 赤い髪を下ろし、いつもの凛々しさとは違う、女性らしい柔らかさを見せている。


「眠れなくて」


 勇者が部屋に入ってくる。


 賢者の寝息を確認してから、剣士の近くに座った。


「明日から峠越えでしょう?」


 勇者が窓の外を見る。


「危険な道のりになるわ」


 剣士は頷く。


 峠には獰猛な魔物が多い。


 剣にとっては良い相手だ。


 勇者の視線が床に置かれた剣に向けられる。


「本当に大切にしているのね」


 剣士は頷いた。


 大切。


 そんな言葉では足りない。


「いつから?」


 勇者の問い。


 剣士は少し考える。


 いつからだろう。


 気がついた時には、既に剣が全てだった。


「私たちのことは?」


 勇者の問いに、剣士は沈黙で答える。


 仲間。


 それ以上でも以下でもない。


「そう……」


 勇者は寂しそうに微笑んだ。


 月光が勇者の横顔を照らす。


 美しい横顔だった。


 多くの男が恋をするだろう。


「でも、いつか振り向いてくれるかもしれないでしょう?」


 勇者の手が剣士の手に触れる。


 温かい。


 人の温もり。


 だが剣士には、それは不要なものだった。


 剣士は窓の外を見た。


 月が雲に隠れていく。


「あなたの過去を知りたい」


 勇者が囁く。


「どうして剣を、そんなに愛するようになったの?」


 剣士は目を閉じた。


 過去。


 あの女は幼い俺を捨てたが、俺は剣を捨てたりはしない。


 そんな事を思う剣士。


 瞳に一瞬影が差す。


「聞かせて」


 勇者が促す。


 だが剣士は首を振った。


 過去など、もはやどうでもいい。


「──そっか、厭な事を聞いちゃってごめんね。おやすみなさい」


 勇者が立ち上がる。


 扉の前で振り返った。


「でも、諦めないから」


 勇者が部屋を出て行く。


 剣士は再び剣を手に取った。


 月は完全に雲に隠れ、部屋は闇に包まれた。


 だが剣士には見える。


 闇の中でも、剣の輝きが。


 人の温もりなど要らない。


 この冷たい鋼の感触だけがあればいい。


 ◆


 翌朝、一行は峠に向かって出発した。


 山道は険しく、足場も悪い。


「気をつけて」


 賢者が杖で足場を確かめながら進む。


「この辺りは岩竜の縄張りよ」


 岩竜。


 峠に棲む強大な魔物。


 その鱗は岩のように硬く、並みの剣では傷一つつけられないという。


 剣士の手が剣の柄に触れた。


 試してみたい。


 この剣なら、きっと。


 突然、地面が揺れた。


「来るわ!」


 賢者の叫びと同時に、岩肌から巨大な竜が姿を現した。


 全長十メートルはあろうかという巨体。


 灰色の鱗が朝日を受けて鈍く光る。


「散開!」


 勇者の指示で、一行は散り散りになる。


 岩竜が咆哮を上げた。


 その声は山全体を震わせる。


 剣士は剣を抜いた。


 いつもの感覚。


 世界が研ぎ澄まされていく。


 岩竜の動きが、手に取るように分かる。


 尾を振るってくる。


 剣士は跳躍してそれを避け、竜の背に飛び乗った。


 剣を振り下ろす。


 硬い。


 だが、確かに刃が通った。


 鱗が砕け、血が噴き出す。


 剣が喜んでいる。


 強敵と渡り合える喜び。


 竜が身を捩って剣士を振り落とそうとする。


 剣士は剣を鱗に突き立てて体を支える。


「無茶よ!」


 聖女の声が聞こえる。


 だが剣士には関係ない。


 剣が活きている。


 それだけで十分だ。


 勇者の聖剣が竜の脇腹を切り裂く。


 賢者の雷撃魔法が竜の頭部に炸裂する。


 聖女の防御結界が仲間を竜の攻撃から守る。


 そして剣士は、ただ斬り続けた。


 硬い鱗を、厚い皮を、強靭な筋肉を。


 剣が全てを切り裂いていく。


 この感触。


 この手応え。


 生きている。


 剣も、自分も、今この瞬間を生きている。


 竜が最後の咆哮を上げて崩れ落ちた。


 剣士は竜の死骸から飛び降りる。


 剣は竜の血に濡れ、赤黒く染まっていた。


「すごい……」


 聖女が息を呑む。


「あんな戦い方、見たことない」


 賢者も驚きを隠せない。


「まるで死を恐れていないみたい」


 死。


 剣士にとって、それは恐れるものではなかった。


 剣と共にあれば、死すらも美しい。


「怪我は?」


 勇者が心配そうに剣士を見る。


 剣士の体は傷だらけだった。


 竜の爪が掠めた跡、鱗で切れた傷、無数の打撲。


「すぐ治療するわ」


 聖女が駆け寄る。


 その手から温かい光が溢れ、傷を癒していく。


 剣士は治療を受けながらも、剣から目を離さない。


 竜の血に濡れた剣を、愛おしそうに見つめている。


 旅は続く。


 山を越え、谷を渡る。


 魔物との戦いは日常となった。


 剣士は常に最前線に立つ。


 森の中で出会った人食い花。


 巨大な花弁が開き、毒の花粉を撒き散らす。


 剣士は息を止め、一気に距離を詰めた。


 剣が茎を断ち切る。


 緑の体液が噴き出し、花は断末魔の震えと共に枯れていく。


 沼地で遭遇した大蛇。


 全長二十メートルはある巨体が、泥の中から突如として現れた。


 剣士は大蛇の口の中に飛び込み、内側から切り裂いた。


 危険極まりない戦法。


 だが剣にとっては、これ以上ない活躍の場だった。


 廃墟で待ち受けていたアンデッドの群れ。


 腐った肉から悪臭が漂い、蛆が湧いている。


 剣士は嫌悪感など微塵も見せず、ただ斬った。


 腐肉を斬る感触も、剣にとっては経験の一つ。


「無茶をしすぎよ」


 賢者が傷だらけの剣士に言う。


 夜、焚き火を囲んでの会話だった。


「このままじゃ、魔王城に着く前に倒れるわ」


 剣士は肩を竦めるだけだ。


 倒れても構わない。


 剣と共に戦えるなら。


「どうしてそこまで」


 賢者が首を傾げる。


「理解できないわ」


 理解される必要はない。


 剣士と剣の関係は、二人だけのものだから。


 戦わなければ、剣はただの鉄の塊になってしまう。


 それは耐えられない。


 剣は戦うために生まれた。


 人を斬るために、魔物を倒すために作られた。


 その本質を発揮させることこそが、剣への愛の証明だった。


「あなたにとって、私たちは何?」


 賢者の瞳が焚き火に照らされて揺れる。


 剣士は少し考えてから、口を開いた。


「仲間」


 それだけだった。


「それだけ?」


 賢者が苦笑する。


「つれないのね」


 剣士は焚き火に薪をくべる。


 火の粉が舞い上がり、夜空に消えていく。


「でも、嫌いじゃないわ」


 賢者が呟く。


「そういう一途なところ」


 一途。


 確かにそうかもしれない。


 剣士の愛は、ただ剣にのみ向けられている。


 ◆


 ある夜、賢者が剣士の天幕を訪れた。


「話があるの」


 賢者は剣士の向かいに座る。


 剣士は剣を磨く手を止めない。


 月光を受けて、刃が青白く輝く。


「あなたの剣術の秘密を知りたいの」


 賢者の瞳が月光に光る。


 知識欲に満ちた、探究者の目。


「どうしてそんなに強いの?」


 剣士は手を止めた。


 強さ。


 それは技術の問題ではない。


 愛の問題だ。


 剣を道具として見る者に、真の強さは宿らない。


 剣と一つになること。


 剣の望みを理解し、それに応えること。


 剣が斬りたがっている角度を察知し、剣が求める速度で振るう。


 それができれば、自然と強くなる。


「教えてくれる?」


 賢者が身を乗り出す。


 その瞳には、剣術への興味以上のものが宿っていた。


 女としての興味。


 剣士のような男に惹かれる自分への戸惑い。


 剣士は首を振る。


 教えられるものではない。


 これは理屈ではなく、感覚の問題だから。


「そう……」


 賢者は立ち上がる。


 黒いローブが揺れる。


「でも、あなたのことをもっと知りたい」


 賢者の手が剣士の頬に触れる。


 冷たい手だった。


 魔法使いの手。


「私じゃ、ダメ?」


 剣士は賢者の手をそっと外した。


 申し訳ないとは思う。


 だが、心に偽ることはできない。


 賢者が天幕を出て行く。


 その後ろ姿に、諦めきれない想いが滲んでいた。


 剣士は剣を抱きしめた。


 お前だけが分かってくれる。


 お前だけが必要だ。


 剣は何も答えない。


 ただ月光を反射して、静かに輝いているだけ。


 それでいい。


 剣は語らない。


 だからこそ美しい。


 ◆


 ある日、一行は大きな街に到着した。


 魔王城まであと三日の距離。


 最後の補給地点だった。


「今夜は豪華に行きましょう」


 勇者が提案する。


「最後の晩餐になるかもしれないし」


 縁起でもない、と聖女が眉をひそめる。


 だが確かに、魔王との戦いを前に英気を養う必要はあった。


 街一番の宿屋に部屋を取る。


 久しぶりの柔らかいベッド、温かい風呂。


「極楽ね」


 賢者が湯上りの顔で微笑む。


 夕食は豪華だった。


 肉料理、魚料理、新鮮な野菜、上質なワイン。


「乾杯」


 勇者がグラスを掲げる。


「魔王討伐の成功を祈って」


 剣士も形だけグラスを合わせる。


 酒は飲まない。


 剣を振るう感覚が鈍るから。


「剣士は本当に酒を飲まないのね」


 聖女が不思議そうに見る。


「一滴も?」


 剣士は頷く。


 酒に酔うより、剣に酔う方がいい。


 食事の後、剣士は自室に戻った。


 剣を抱えて窓際に座る。


 街の灯りが剣身に映り込む。


 美しい。


 いつ見ても、どんな時でも美しい。


 扉が開いた。


 振り返ると、聖女が立っていた。


「入ってもいい?」


 剣士は頷く。


 聖女は剣士の隣に座った。


 白いドレスに着替えている。


「明日には魔王城ね」


 聖女の声は震えていた。


 恐怖だろうか。


「怖いか?」


 剣士が尋ねる。


 珍しく、自分から口を開いた。


 剣士は以前、彼らを仲間だと言った。


 そう、仲間なのだ。


 捨て駒ではない。


 剣士には余り人間への情はないが、仲間をどうでもよいなどと思う男でもなかった。


「……ええ」


 聖女が頷く。


「でも、それ以上に」


 聖女の手が剣士の手に重なる。


「あなたを失うのが怖い」


 剣士は聖女を見た。


 青い瞳に涙が浮かんでいる。


「死なないで」


 聖女が懇願する。


「お願い、無茶をしないで」


 剣士は答えられない。


 剣が望めば、命など惜しくない。


「私、あなたが好き」


 聖女の告白。


 剣士は窓の外を見た。


 月が昇っている。


「剣なんかより、私を見て」


 剣なんか。


 その言葉に、剣士の中で何かが冷たく固まった。


 剣を侮辱する者と話す事などなかった。


 仲間でも許されない事はあるのだ。


 無論、絶対的な関係の亀裂というわけではないが、気は悪くなる。


「ごめんなさい」


 聖女が謝る。


「そんなつもりじゃ」


 剣士は立ち上がった。


 部屋を出て行こうとする。


「待って」


 聖女が剣士の袖を掴む。


「お願い、行かないで」


 剣士は振り返らずに言った。


「一度は許す。もう剣を悪く言うな」


 それだけ言って、剣士は部屋を出た。


 聖女の泣き声が背中に聞こえたが、振り返らなかった。


 屋上に出る。


 月明かりの下、剣を抜いた。


 一人、型の稽古を始める。


 基本の型から、応用の型へ。


 剣が空を切る音が、夜の静寂に響く。


 美しい。


 月光の下で舞う剣の軌跡。


 銀の線が空中に描かれては消えていく。


「見事ね」


 声がして、賢者が姿を現した。


「眠れないの?」


 剣士は型を続けながら頷く。


 明日の戦いに備えて、剣と対話している。


「聖女が泣いていたわ」


 賢者が屋上の縁に腰掛ける。


「あなた、きつく言ったんでしょう」


 剣士は答えない。


 ただ剣を振るい続ける。


「でも、分かるわ」


 賢者が夜空を見上げる。


「あなたにとって、剣は命より大切なものなのね」


 剣士の動きが一瞬止まる。


 理解者がいた。


「私も似たようなものよ」


 賢者が魔導書を取り出す。


「魔法に全てを捧げてきた」


 魔導書のページが風にめくれる。


「だから、少しだけ分かる」


 賢者が立ち上がる。


「でも、たまには人の温もりも悪くないわよ」


 そう言って、賢者も去っていった。


 剣士は一人、朝まで剣を振り続けた。


 剣と語らい、剣と共に夜を明かした。


 ◆


 魔王城が見えてきた。


 黒い尖塔が空を突き刺すように聳えている。


 瘴気が城を覆い、空は暗く淀んでいた。


「ついに来たわね」


 勇者が緊張した面持ちで言う。


 聖剣が腰で光を放っている。


 聖女が祈りを捧げ、賢者が防御魔法を展開する。


 剣士は剣を抜いた。


 最後の戦い。


 剣にとって最高の舞台だ。


 刃が震えている。


 いや、震えているのは自分の手か。


 武者震い。


 剣も興奮しているのだろう。


 城門が開く。


 中から魔物の群れが溢れ出してきた。


 下級悪魔、スケルトン、ゴーレム。


 数は百を超える。


「行くわよ!」


 勇者の号令と共に、戦いが始まった。


 剣士は真っ先に敵陣に飛び込んだ。


 剣が唸りを上げる。


 右に薙ぎ、左に斬り上げる。


 スケルトンの骨が砕け散り、悪魔の血が噴き出す。


 剣が生きている。


 剣が喜んでいる。


 それが分かる。


 これほど多くの敵を斬れる機会など、そうはない。


 剣士の顔に笑みが浮かぶ。


 それは戦いを楽しむ笑みではない。


 愛する者の喜びを感じる、慈愛の笑みだった。


「剣士!」


 聖女の叫び声。


 巨大な斧が剣士の背中を掠めた。


 ゴーレムの一撃。


 深い傷から血が流れる。


 だが剣士は振り返りもしない。


 ただ前へ、前へと進む。


 剣と共に。


 勇者の聖剣が光の斬撃を放つ。


 賢者の魔法が敵を薙ぎ払う。


 聖女の回復魔法が仲間の傷を癒す。


 そして剣士は、ただ斬り続けた。


 いつしか、剣士の周りには死体の山ができていた。


 剣は血に濡れ、赤黒く染まっている。


 それでも剣士は止まらない。


 剣が求める限り、斬り続ける。


 城門前の戦いが終わった。


「すごい……」


 勇者が息を呑む。


 剣士が倒した魔物の数は、他の三人の合計を超えていた。


「でも、無理をしすぎよ」


 聖女が剣士の傷を治療する。


 全身傷だらけだった。


「このままじゃ、魔王と戦う前に」


 剣士は聖女の手を押しのけた。


 まだ戦える。


 剣がまだ戦いたがっている。


 城の中は薄暗く、瘴気が充満していた。


 壁には不気味な紋様が刻まれ、時折赤く脈動する。


「気をつけて」


 賢者が警告する。


「魔力の濃度が異常よ」


 剣士には関係ない。


 ただ剣を握り、前に進む。


 廊下を進むたびに、新たな魔物が現れた。


 影から襲いかかる暗殺者型の悪魔。


 天井から降ってくる蜘蛛型の魔物。


 壁から生えてくる触手。


 剣士は全てを斬り捨てた。


 剣が魔物の血を吸うように、赤く染まっていく。


 まるで剣が成長しているようだった。


 大広間に出た。


 そこには上級悪魔が待ち構えていた。


「人間どもめ」


 悪魔が嘲笑う。


「ここが貴様らの墓場だ」


 三体の上級悪魔。


 それぞれが下級悪魔の百倍の力を持つ。


「散開!」


 勇者の指示で、各自が一体ずつ相手をする。


 剣士の相手は、四本の腕を持つ剣の悪魔だった。


 それぞれの手に曲刀を持っている。


 剣と剣の戦い。


 剣士の血が沸き立った。


 悪魔の四本の剣が同時に襲いかかる。


 常人なら一瞬で切り刻まれるだろう。


 だが剣士には見えた。


 四本の剣の軌道が。


 そして何より、自分の剣が教えてくれる。


 どう動けばいいのかを。


 剣士は最小限の動きで攻撃をいなし、カウンターを返す。


 悪魔の一本の腕が飛んだ。


「ぐあああ!」


 悪魔が怒りの咆哮を上げる。


「人間ごときに!」


 攻撃が激しさを増す。


 だが剣士は冷静だった。


 剣と一体となり、水が流れるように攻撃を受け流す。


 そして隙を見つけては、確実に悪魔を斬りつける。


 二本目の腕が落ちる。


 三本目。


 そして最後の一本も。


 腕を全て失った悪魔が膝をつく。


「ば、馬鹿な……」


 剣士は剣を振り上げた。


 そして、容赦なく振り下ろす。


 悪魔の首が転がった。


 他の二人も、それぞれの敵を倒していた。


「やったわ」


 聖女が安堵の息をつく。


 だが、これは前哨戦に過ぎない。


 階段を上る。


 上に行くほど、瘴気は濃くなっていく。


「もうすぐよ」


 勇者が聖剣を握りしめる。


 最上階。


 巨大な扉の前に立つ。


「行くわよ」


 勇者が扉を押し開ける。


 ◆


 玉座の間。


 魔王が待っていた。


 巨大な体躯。


 漆黒の鎧。


 そして、禍々しいオーラ。


「よくぞ来た、勇者よ」


 低い声が響く。


「そして、その仲間たちよ」


 魔王が玉座から立ち上がる。


 手には巨大な魔剣。


「我が名はベルゼビュート」


 魔王が魔剣を掲げる。


「この世界の支配者だ」


 戦いが始まった。


 魔王の放つ闇の魔法が空間を歪める。


 重力が変化し、立っているのも困難になる。


 勇者の聖剣が光を放ち、闇を切り裂く。


 賢者の魔法が炸裂し、魔王の魔法を相殺する。


 聖女の結界が仲間を守る。


 そして剣士は、ただ斬った。


 斬って、斬って、斬り続けた。


 魔王の鎧は硬い。


 並みの剣なら刃が立たないだろう。


 だが剣士の剣は違った。


 愛を込めて振るわれる剣は、不可能を可能にする。


 鎧に亀裂が入る。


「ほう」


 魔王が興味深そうに剣士を見る。


「面白い剣だ」


 魔王の魔剣と剣士の剣が激突する。


 火花が散る。


 衝撃が剣士の腕を痺れさせる。


 だが、剣は折れない。


 剣が魔王の剣と渡り合っている。


 剣士の顔に笑みが浮かぶ。


 そうだ、お前は強い。


 どんな敵にも負けない。


 剣が魔王の肉体を切り裂くたびに、剣士の心は震えた。


 これだ。


 これこそが剣の本懐。


 最強の敵と相対し、その命を断つこと。


 魔王の反撃で剣士の体は傷だらけになった。


 左腕はもう動かない。


 右脚からは血が止まらない。


 肋骨も何本か折れている。


 それでも剣士は止まらない。


 剣がまだ戦えるから。


 剣がまだ斬れるから。


「愚かな」


 魔王が剣士を見下ろす。


「そこまでして戦う理由があるのか」


 剣士は答えない。


 ただ剣を構える。


 理由など必要ない。


 剣が望むから戦う。


 それだけだ。


 激戦が続く。


 勇者の聖剣が魔王の左腕を切り落とす。


 賢者の究極魔法が魔王の魔力を削る。


 聖女の奇跡が仲間の致命傷を癒す。


 そして剣士は、魔王の隙を見逃さなかった。


 全身全霊を込めた一撃。


 剣が魔王の胸部装甲を貫く。


「ぐっ」


 魔王がよろめく。


「とどめよ!」


 勇者の聖剣が魔王の心臓を貫いた。


 光が玉座の間を満たす。


 魔王が崩れ落ちる。


「終わった……」


 魔王の最期の言葉。


「だが、これで終わりではない……」


 魔王の体が塵となって消えていく。


 戦いは終わった。


 剣士は血に濡れた剣を見つめた。


 美しい。


 今この瞬間の剣が、最も美しい。


 魔王の血を吸い、最強の敵を倒した剣。


 これ以上の栄光があるだろうか。


「やったわ!」


 聖女が歓声を上げる。


「私たち、勝ったのよ!」


 賢者も安堵の表情を浮かべた。


「長い戦いだったわね」


 勇者が剣士に近づく。


「ありがとう」


 その瞳には涙が浮かんでいた。


「あなたがいなければ、勝てなかった」


 剣士は剣を鞘に納めた。


 鞘に収まる時の、あの心地よい音。


 それを聞きながら、剣士は満足感に包まれた。


 勝利の余韻など、剣士には関係ない。


 ただ剣が、その役目を全うしたことが嬉しかった。


 魔王城を出る。


 瘴気は晴れ、青空が広がっていた。


「帰りましょう」


 聖女が微笑む。


「みんなが待ってるわ」


 ◆


 王都への道のり。


 来た時とは違い、穏やかな旅だった。


 魔物もいない。


 戦いもない。


 剣士には、少し物足りなかった。


 王都への凱旋。


 人々の歓声が響く中、勇者パーティーは英雄として迎えられた。


 花吹雪が舞い、人々が名前を呼ぶ。


「勇者様!」


「聖女様!」


「賢者様!」


 そして。


「剣士様!」


 剣士は、ただ黙って歩いた。


 称賛など必要ない。


 剣と共に戦えた。


 それで十分だった。


 王城での謁見。


 王が勇者たちを讃える。


「よくぞ魔王を倒してくれた」


 王が玉座から言う。


「褒美を取らせよう。望みは何か」


 各々が望みを言っていく。

 

 そして剣士の番が来た。


「何も」


 剣士の答えに、王が驚く。


「何も望まぬと?」


 剣士は頷いた。


 既に最高の褒美は得ている。


 剣と共に最強の敵と戦えた。


 それ以上の褒美などない。


 王城での祝宴。


 貴族たちが集い、勇者たちを讃える。


 音楽が流れ、人々が踊る。


 剣士は壁際に立ち、ただ腰の剣に手を置いていた。


 剣の感触を確かめるように。


「踊らない?」


 聖女がドレス姿で近づいてくる。


 青いドレスが、聖女の美しさを際立たせていた。


 剣士は首を振る。


 踊りなど、剣の動きに比べれば退屈だ。


「つまらない人」


 聖女は微笑む。


「でも、そんなあなたが好き」


 剣士は答えない。


 好きと言われても、どう反応すればいいのか分からない。


 聖女の手が剣士の手に重なる。


「ずっと一緒にいたい」


 剣士はゆっくりと手を引いた。


 一緒にいる相手は、既に決まっている。


 聖女の瞳に悲しみが宿る。


 しかし剣士は踵を返し、その場を去った。


 聖女の呼ぶ声が聞こえたが、振り返らなかった。


 祝宴の後、勇者が剣士を呼び止めた。


 城の庭園。


 月明かりの下、二人は向かい合った。


「これから、どうするの?」


 剣士は肩に担いだ荷物を示す。


 旅立つつもりだった。


 まだ世界には、剣を振るうべき場所がある。


「待って」


 勇者が剣士の腕を掴む。


「私と一緒にいて」


 その瞳は真剣だった。


 月光を受けて、赤い髪が燃えるように見える。


「愛してるんだ、あなたを」


 勇者の告白。


 剣士は勇者の手をそっと外した。


 愛。


 その感情は、既に剣に全て注がれている。


 他に分け与える分など、残っていない。


「どうして?」


 勇者の声が震える。


「私じゃダメなの?」


 剣士は腰の剣に手を置いた。


 これが答えだ。


 剣以外に愛するものはない。


 剣と共にあれば、それで十分。


 賢者も現れた。


 黒いドレスに身を包み、いつもとは違う妖艶な雰囲気を纏っている。


「行くのね」


 その表情は諦めたような、それでいて未練の残るものだった。


「私も、あなたが好きよ」


 賢者が苦笑する。


「知識欲だと思っていたけど、違った」


 賢者が剣士に近づく。


「あなたという人間に惹かれていた」


 剣士は一歩下がる。


 これ以上近づかれては困る。


「でも、勝てないのね。剣には」


 賢者の瞳に理解の光が宿る。


「あなたの剣への愛は、人間への愛とは次元が違う」


 剣士は頷いた。


 そうだ。


 勝負にすらならない。


 最初から、剣以外に愛するものなどなかったのだから。


「一つだけ教えて」


 賢者が問う。


「剣の何が、そんなにあなたを惹きつけるの?」


 剣士は少し考えてから、口を開いた。


「完璧だから」


 それだけだった。


 人間のように裏切らない。


 人間のように変わらない。


 人間のように醜くない。


 ただ美しく、強く、永遠に剣であり続ける。


 脳裏にふと女の影がよぎった。


 剣士を女の影。


 お守り代わりにと持たせてくれた短剣は、幼い剣士の命を幾度も救った。


 決して、裏切る事なく。


 三人の女性を残し、剣士は王都を去った。


 振り返ることもなく。


 ただ腰の剣の重みを感じながら。


 ◆


 新たな旅の始まりだった。


 放浪の旅が始まった。


 魔王軍の残党はまだ各地に潜んでいる。


 剣士はそれらを探し出し、倒していった。


 剣のために。


 剣に戦いを与えるために。


 北の雪山では、氷の竜と戦った。


 吹雪の中、視界も効かない状況での戦い。


 だが剣士には剣の位置が分かる。


 剣が導いてくれる。


 氷の竜の息が全てを凍らせる。


 剣士の体も、徐々に感覚を失っていく。


 だが剣を握る手だけは離さない。


 最後の一撃で、竜の心臓を貫いた。


 竜が断末魔の叫びを上げて倒れる。


 剣士も雪の上に倒れ込んだ。


 凍傷で指先の感覚はない。


 だが剣はしっかりと握られていた。


 東の砂漠では、砂の魔人と対峙した。


 砂嵐を操り、姿を自在に変える強敵。


 剣が砂を切っても、すぐに再生する。


 だが剣士は諦めない。


 剣が諦めていないから。


 魔人の核を探し、見つけ、斬る。


 それを何度も繰り返した。


 ついに魔人の真の核を見つけ、両断した。


 砂が崩れ、魔人は消滅した。


 南の密林では、植物の魔王と戦った。


 巨大な食虫植物が森全体を支配している。


 蔦が剣士を絡め取ろうとする。


 毒の花粉が充満する。


 剣士は息を止め、剣で蔦を切り払いながら進む。


 本体にたどり着くまでに、半日かかった。


 巨大な花の中心に、核がある。


 剣士は躊躇なく飛び込み、核を両断した。


 植物の有害な体液にまみれながら、剣士は脱出した。


 服は溶け、体中に火傷を負った。


 だが剣は無事だった。


 それだけで十分だった。


 西の荒野では、岩の巨人と激突した。


 身長二十メートルはある巨体。


 一撃で大地が割れる。


 剣士は巨人の体を駆け上がり、急所を狙う。


 だが岩の体は硬く、なかなか刃が通らない。


 それでも剣士は斬り続けた。


 剣を信じて。


 ついに岩に亀裂が入る。


 そこに全力の一撃を叩き込んだ。


 巨人が崩れ落ちる。


 剣士も瓦礫の下敷きになりかけた。


 だが最後の瞬間、剣を突き立てて体を支えた。


 剣が剣士を救った。


 ある村では、盗賊団から人々を守った。


 百人を超える盗賊団。


 村人たちは絶望していた。


 だが剣士一人で十分だった。


 夜襲をかけてきた盗賊たちを、剣士は迎え撃つ。


 松明の明かりの中、剣が舞う。


 盗賊たちは次々と倒れていく。


 頭目が現れた。


 巨漢で、大斧を振るう。


「たかが一人で」


 頭目が嘲笑う。


 だが、その笑いはすぐに凍りついた。


 剣士の剣が、大斧を真っ二つに切り裂いたから。


 そして次の瞬間、頭目の首が飛んだ。


 残った盗賊たちは逃げ散った。


 村人たちは剣士を英雄として称えた。


 だが剣士は礼も受け取らず、去っていった。


 またある町では、暴走した魔法生物を斬った。


 魔法実験の失敗で生まれた怪物。


 触れるもの全てを腐らせる。


 剣士は間合いを計り、一撃で仕留めた。


 剣が腐食することはなかった。


 剣士の愛が、剣を守っているかのように。


 年月が流れた。


 剣士の名は各地に轟いていく。


「一人で魔物の群れを全滅させた剣士がいる」


「神業の様な剣技を振るう」


「まるで剣と一体になっているようだった」


 人々は剣士を英雄と呼んだ。


 詩人たちは剣士の武勇を歌にした。


 だが剣士にとって、それはどうでもいいことだった。


 名声など必要ない。


 ただ剣と共にあれればいい。


 剣が剣として存在できればいい。


 ある時、かつての仲間たちの噂を聞いた。


 勇者は女王となり、国を治めている。


 聖女は大司教となり、人々を導いている。


 賢者は宮廷魔導師となり、後進を育てている。


 皆、それぞれの道を歩んでいる。


 剣士も自分の道を歩いていた。


 剣と共に生きる道を。


 ◆

 

 二十年が過ぎた。


 剣士の髪に白いものが混じり始める。


 顔には深い皺が刻まれた。


 動きも若い頃ほどの切れはない。


 だが剣は変わらない。


 相変わらず美しく、鋭い。


 それが少し羨ましくもあり、誇らしくもあった。


 それでも剣士は戦い続けた。


 剣が錆びることを恐れて。


 剣が忘れられることを恐れて。


 もう大きな脅威はない。


 魔王軍の残党もほぼ壊滅した。


 それでも剣士は、小さな魔物でも見つけては斬った。


 山賊が出れば退治し、猛獣が現れれば倒した。


 剣を振るう理由を探し続けた。


 ある日、剣士は思った。


 もう潮時かもしれない、と。


 世界は平和になった。


 剣を振るう必要も減った。


 剣士は山深い場所で庵を結んだ。


 人里離れた、静かな場所。


 剣と二人きりで過ごせる場所。


 もう魔物もほとんどいない。


 戦う相手もいない。


 それでも剣士は毎朝、剣を振った。


 夜明け前に起き、剣を手に取る。


 朝靄の中、剣が空を切る。


 その音が山にこだまする。


 一振り、また一振り。


 基本の型を、何度も何度も繰り返す。


 美しい。


 老いても変わらない剣の輝き。


 朝日を受けて光る刃。


 完璧な重心。


 研ぎ澄まされた切れ味。


 人は老いるが、剣は老いない。


 人は衰えるが、剣は衰えない。


 それが少し、羨ましかった。


 同時に、誇らしくもあった。


 自分が愛したものは、永遠に美しいままだ。


 秋が来た。


 山の木々が色づく。


 剣士は庵の前で剣を磨いていた。


 何時間もかけて、丹念に。


 刃の一寸一寸を、愛おしむように。


 ふと、若い頃を思い出した。


 勇者たちと旅をした日々。


 だが、それも遠い昔のこと。


 今は剣だけが現実だ。


 冬が来た。


 雪が山を白く染める。


 剣士の手は震え、もう剣をしっかりと握ることができない。


 関節が痛み、筋肉が衰えた。


 それでも剣を振ろうとする。


 雪の中、よろよろと立ち上がる。


 剣を構える。


 だが、剣が手から滑り落ちた。


 雪の上に横たわる剣。


 剣士は膝をついて、それを拾い上げようとする。


 指が剣の柄に触れる。


 冷たい。


 あまりにも冷たい。


 もう、この手では剣を握れない。


 涙が頬を伝った。


 それは悲しみの涙ではない。


 これまで共に在れたことへの感謝の涙だった。


 剣士は剣を雪の上に立てた。


 切っ先が空を向く。


 最後の時が来たと、剣士は悟った。


 恐れはない。


 剣と共に生き、剣と共に死ぬ。


 それが剣士の選んだ道だった。


 そして、それは間違っていなかった。


 剣士は剣の前に正座した。


 震える手で、剣の柄を支える。


 最後の力を振り絞って。


「ありがとう。お前と共にいられて、幸せだった」


 剣は答えない。


 ただ雪を反射して、白く輝いている。


 その輝きが、まるで応えているように見えた。


 剣士は身を乗り出した。


 切っ先が喉に触れる。


 冷たい。


 だが、それは慣れ親しんだ冷たさだった。


 五十年間、毎日触れてきた冷たさ。


 剣士は微笑んだ。


 これでいい。


 これが自分の望んだ最期だ。


 剣に殺されること。


 愛するものに殺されること。


 これ以上の幸福があるだろうか。


 最期の瞬間、剣士は思った。


 人は剣を道具だと言う。


 だが違う。


 剣は友であり、恋人であり、人生そのものだった。


 それを理解できたことが、自分の誇りだった。


 剣士は目を閉じ、体重を前にかけた。


 切っ先が喉を貫く。


 痛みはない。


 ただ、剣と一つになる感覚があった。


 温かい血が雪を赤く染める。


 剣士の体が剣に寄りかかるように倒れた。


 その顔には、安らかな笑みが浮かんでいた。


 まるで愛する者の腕の中で眠るような。


 そんな死に顔だった。


 春になって、山に入った木こりが剣士を見つけた。


 剣に寄りかかるようにして死んでいる老人。


 その表情の穏やかさに、木こりは息を呑んだ。


「まるで……」


 木こりは呟いた。


「恋人に抱かれて眠っているみたいだ」


 剣士の遺体は麓の村に運ばれた。


 村人たちは、この老人が伝説の剣士だと気づいた。


 かつて村を盗賊から救った、あの剣士だと。


 村人たちは英雄の死を悼み、手厚く葬った。


 だが誰も、剣を遺体から離そうとはしなかった。


 それがあまりにも自然に、一体となっていたから。


 まるで剣と剣士が、一つの存在であるかのように。


 剣士は剣と共に埋葬された。


 墓標には名前もない。


 ただ「剣と共に生きた者、ここに眠る」とだけ刻まれた。


 王都では、剣士の死が報告された。


 老いた女王、かつての勇者が涙を流した。


 大司教となった聖女が、剣士のために祈りを捧げた。


 宮廷魔導師の賢者が、一人静かに瞑目した。


 皆、それぞれの想いを胸に、剣士の死を悼んだ。


 やがてその墓も忘れられ、草に覆われた。


 だが土地の人々の間では、ある言い伝えが残った。


 風の強い日、あの山から剣の鳴る音が聞こえる、と。


 それは風が墓標を撫でる音かもしれない。


 あるいは……。


 剣士と剣が、今も共に在ることの証かもしれない。


 永遠に。


 完全に。


 美しく。



 (了)

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