⑨
長いシルバーグレーの前髪を分けた彼の仕草は初恋のレン先生にそっくりだと思った。
いつの間にか恐怖は消えて、自由に体が動くようになる。
(わ、わたしってシュリーズ公爵のことをなんて呼べばいいのかしら……)
考えても誰も教えてはくれないし、結婚した後のマナーは習っていない。
とりあえず間違えてもいいかと、ジェフたちの真似をして呼んでみることにした。
「だ、旦那様……あの……」
「君と形式上は結婚してはいるが……そのように思わなくていい」
「え……」
「無理にそう思わなくていいと言っているんだ」
ギルベルトの冷たい言葉を聞いて胸がズキリと痛んだ。
(形式上……そう、よね。わたしと会ったことすらないのに結婚をしたんだもの)
シュリーズ公爵はヴァネッサを妻だと認めていないということだろうか。
それも仕方ないことだろう。
彼は大金でヴァネッサを買ったと聞いた。
妻ではなく所有物という意味かもしれない。
(たとえ人体実験されたとしても、ティンナール伯爵邸にいるよりはマシだわ。あのままあそこにいたらいつかは死んでしまっていたもの)
そう思うと怖くなるが怪我を手当てしてくれたり、温かい食事を用意してくれた。
ギルベルトのことはまだ怖いが、ヴァネッサを邪険にする様子もない。
ヴァネッサは恐る恐るギルベルトに問いかける。
「あの……なんと、お呼びすれば?」
「何でもいい」
「では、ギルベルト様……と」
ヴァネッサが彼を見上げながら名前を呼ぶと彼の目が大きく見開かれた。
「ああ……それでいい。それで食事はとれそうか?」
「あ……」
ヴァネッサは落ちたスプーンを見ていた。
粗相をしてしまったと、慌ててスプーンを拾おうとするとするがギルベルトに止められてしまう。
「レイ、新しいものを」
「はい、ただいまお持ちいたします」
いつの間にかギルベルトの後ろに控えていたレイは新しいスプーンを取りに行った。
ギルベルトは近くにあった椅子に腰掛けて、テーブルにあった紙と羽根ペンを手に取る。
ヴァネッサとギルベルトの間にはかなりの距離がある。
(気を遣ってくれているのかしら。それとも近づきたくないとか……? ギルベルト様の考えがよくわからないわ)
ヴァネッサが今から何をされるのか警戒していた時だった。
「そのまま食事を続けてくれ。それから今からいくつか質問をしたい。答えられる質問にだけ答えてくれ」
「…………え?」
「いつから咳が出るようになった? よく出るのは朝か? 夜か?」
「……!」
「他の症状はあるのか? 肌の赤みについてだが、主に痛むのか。それとも痒みが強いのだろうか?」
ヴァネッサはこのやり取りに懐かしさを感じていた。
毎朝する医師との会話、そのものではないか。
ギルベルトは公爵で貴族のはずだ。
それに先生と呼ばれることも拒絶している。
(ギルベルト様は医師なのかしら……?)
前世と同じやりとりに安心感を覚えて、ヴァネッサは問いかけに答えるために口を開く。
「咳は……幼い頃から。夜から早朝にかけてが多いですが常に。高熱もよく出ていて……肌はずっと痒みを伴います」
「なるほど。食欲は?」
ギルベルトはヴァネッサの答えを素早く書き込んでいるではないか。
「食欲は……ありましたけど、あまりその……」
ティンナール伯爵家でのことを思い出すとガタガタと震える手。
『シュリーズ公爵家では何も言わずにいるだけでいい。ここであったことは絶対に話すんじゃない……! わかったなっ!?』
ティンナール伯爵の脅しとも呼べる言葉がヴァネッサを支配する。
話したいのに話せない不思議な感覚だった。
ヴァネッサの奥深くに植え付けられた恐怖はなかなか消えはしないようだ。