⑥
私も彼女に感情移入していたのだ。
もしヴァネッサのそばにいられたら……そう思ったことを今でもよく覚えている。
シュリーズ公爵の後悔という番外編は読まないまま私は死んでしまった。
きっと彼やアンリエッタの関係に言及していたに違いない。
(あまりヴァネッサのことをよく知らないのよね……だけど、小説に書いてあるよりもずっとヴァネッサはひどい思いをしていたのね)
嫌がらせのように侍女たちに擦られた肌は熱を持ち血が滲んでいた。
耐えられない痒みは増していき、なんとか掻きむしるのを肌に爪を立てて耐えていた時だった。
ヴァネッサが考え込んでいると、冷たい風が吹き込んでくる。
いつの間にか扉が開いて、目の前に人が立っていた。
「……大丈夫か?」
「……っ!」
ヴァネッサは驚いて肩を跳ねさせた。
急に息を止めたせいで激しく咳き込んでしまう。
「ゴホッ……ゴホゴホ!」
胸を押さえながらヴァネッサは前屈みになる。
(この胸が苦しい感覚をヴァネッサになってまで味わうなんて!)
息苦しさに何度も咳き込んでいると、大きな手のひらがヴァネッサの背を摩る。
(……懐かしいわ。咳き込んでいると、よくお父さんがそうしてくれたっけ)
安心感を覚えて、咳と呼吸が落ち着いてくるとお礼を口にする。
「お父、さん……ありがとう」
「すまないが俺はお前の父ではない」
「──ッ!?」
ヴァネッサは恥ずかしさから顔を上げる。
そこにはシルバーグレーの艶やかな髪と釣り上がった目元は目つきが悪い。
血管が透けたような赤い瞳がこちらを見ている。
何より驚いたのはその顔立ちだ。
(は、初恋のレン先生にそっくり……!)
長い病院生活、出会いも病院の中で異動してきた先生の中で一際目を引いた。
ハーフで背が高く、白衣がよく似合っていた。
看護師たちとレン先生のかっこよさについて話すことが日課だったことを思い出す。
髪色や瞳の色が違うだけでレン先生によく似ていた。
「先生だわ……」
「……俺は君の先生ではないが」
「──ッ!?」
再び思ったことがそのまま口から出てしまい、ヴァネッサは口元を押さえた。
あまりの恥ずかしさに頬が赤く染まっていく。
大きく首を横に振ろうとした瞬間、ズキズキと骨まで響くような痛みにヴァネッサは顔を歪める。
「いたっ……」
「声は出るな。痛みは強いのか?」
ヴァネッサが目を開けると、真剣な表情でこちらを見ている赤い瞳と目が合う。
そして彼の右の手のひらには包帯が巻かれていた。
その理由もわからないまま、ヴァネッサは自分の首元の包帯に触れた。
(シュリーズ公爵家の……お医者なのかしら。でも〝先生〟ではないと言ったわ)
一通り貴族社会の常識は頭に入っているはずなのに、今は役に立ちそうになかった。
しかしエディットたちからの情報によれば、シルバーグレーの髪に赤い瞳がシュリーズ公爵だそうだ。
白衣を着た目の前の彼が、シュリーズ公爵の特徴と一致する。
ヴァネッサが混乱していると……。
「問題なさそうだな。ジェフ、後の世話は任せる」
「……かしこまりました。旦那様」
旦那様と言われたことで、やはりこの人がシュリーズ公爵ではないかと思った。
燕尾服を着た初老の男性は門のところいた人と同じ。
つまりシュリーズ公爵と出迎えてくれたのだろうか。
(シュリーズ公爵はこの屋敷で一番偉い人なのに……普通、こういうものなの? ヴァネッサの知識の中にはないわ)
今までずっと閉じ込められていたヴァネッサにとって、何が常識なのかわからないことも多い。
前世の知識も貴族の社会では何の役にも立たなそうだ。