④
(もし……エディットたちが言っていることが本当だったら?)
今までヴァネッサは何のために生きてきたのだろうか。
緊張や喉の渇きから咳き込んでいると、エディットは『まったく、うるさいわ』と嫌な顔をした。
ヴァネッサはなんとか咳を我慢するために唇を閉じる。
『うるさい咳をやっと聞かなくていいし、鬱陶しいやつの顔を見なくていい……なんて幸せなんでしょう!』
『コホ……こほっ』
『準備が終わったら、さっさと出て行きなさい! ここにアンタの居場所はないのよ?』
ヴァネッサは侍女に引きずられるようにして部屋を後にする。
行きたくない、その言葉も息苦しさから声が出なかった。
『でも本当に誰にも愛されずに最後まで惨めよねぇ』
エディットの呟くように言った言葉がヴァネッサの心を抉る。
愛されている彼女にはヴァネッサの気持ちを理解することはない。
投げ捨てられるようにして廊下に出た。
フラフラと壁に寄りかかりながら咳き込んでいると、いつの間にか両親がヴァネッサの前に立っていた。
ヴァネッサは二人に助けを求めるように手を伸ばす。
(助けて……お願い、行きたくないっ!)
すると父はヴァネッサの髪を掴んで引き上げた。
『何の役に立たなかったが、今回ばかりはお前を褒めてやる!』
『…………え?』
『シュリーズ公爵も役に立たない令嬢ばかり嫁にとっているという変わり者だ。こちらも厄介払いもできて金も手に入った。これ以上、嬉しいことはない……!』
父は興奮しているようだった。
金が手に入るのが嬉しいようだが、父が金に困窮していることすらヴァネッサは知らなかった。
幼い頃から虐げられていたヴァネッサには何もわからない。
『シュリーズ公爵家では何も言わずにいるだけでいい。ここであったことは絶対に話すんじゃない……! わかったなっ!?』
『……は、はい』
『シュリーズ公爵の言うことに逆らうなよ! 戻ってきても居場所はない。いいな……?』
父に唾を吐きかけながらそう言われて頷いた。
何の説明も受けないまま馬車に押し込まれてしまう。
突然、何も知らない暗闇に放り投げられてしまったようだ。
悲しいのに涙すら出てこない。
咳き込みながら壁にもたれるようにしてヴァネッサは馬車で揺られていた。
(……誰もわたしを必要としない。わたしはいらない存在なんだわ)
どのくらいそうしていただろうか。
窓の外を見る余裕なんかなかった。体の震えを押さえながら、痒みが増した真っ赤な肌を掻きむしる。
(醜い……だから愛されない。このままわたしはどうなってしまうの?)
初めての場所、初めての空気……近づいていく死。
幼い頃から今までずっと苦しんできた。
死んだ方が楽になれると思っていたのにヴァネッサは死ぬのが怖い。
(体はバラバラに引き裂かれてしまうの? 実験って何をするの? 毒で苦しんで……? あそこで暮らすよりもつらいのだとしたら、怖い……わたしはっ)
馬車が停まり、投げ捨てられるようにシュリーズ公爵邸の前へ。
御者はまるで汚いようなものを見るようにヴァネッサに視線を送り、傘だけを放り投げたまま何も言わずに去っていく。
ヴァネッサが顔を上げると大きな門が歪んで見えた。
その奥ティンナール伯爵家よりもずっと立派な屋敷は圧迫感があり、ヴァネッサにとっては恐ろしく思えた。
その場から動けずにいたヴァネッサは水たまりに座り込む。
次第に体は冷えていく。
なんとか気持ちを落ち着かせた。
立ち上がり、屋敷が濡れてしまうから傘をささなければと思っていた時だった。
燕尾服を着ていた初老の男性と白衣を着た男性がこちらに近づくたびにヴァネッサは恐怖に苛まれる。
一歩後ろに下がり叫ぼうと口を開くが咳で阻まれてしまう。
「……ゴホッ、ごほ」
「──大丈夫か!?」
シルバーグレーの髪、男性がこちらに近づいてくる。
赤い目と目が合った瞬間、ヴァネッサはパニックに陥り近くにあった傘の端を自らの首に突き刺そうと振り上げたのだった。