①⑦
この二週間、ヴァネッサは何度か悪夢に魘されたことがあった。
目を覚ますと必ずギルベルトがヴァネッサを見つめていた。
『……大丈夫か?』
ヴァネッサは頷くと、彼は『……そうか』と、安心したように微笑む。
額に滲んだ汗を拭ってくれて、ヴァネッサが落ち着くまでそばにいてくれた。
そんな彼の表情がヴァネッサを不思議な気持ちにさせた。
最初は彼がレン先生に似ているからだと思っていた。
次第に献身的なギルベルトが気になって仕方ない。
体も心も弱っていたからだと言い聞かせてみるものの、気づくとギルベルトのことを考えてしまう。
それに深く刻まれた隈を見て、ギルベルトのことが心配になっていた。
彼のために何かをしたい、そう思うのは当然のことだろう。
それなのにギルベルトはなかなか許可してくれない。
「はぁ…………わかった。やり方を変えよう」
「やり方、ですか?」
「ヴァネッサ……君は俺の妻だ」
「…………へ?」
ギルベルトの発言にヴァネッサは驚き、目を丸くした。
まさか彼にこんなふうに言われるとは思わなかったからだ。
(そうだったわ! わたしはギルベルト様の元に嫁いできたんだった……今まで患者と医師といった関係だったからすっかり忘れていたわ)
だが、彼はヴァネッサを妻として扱わないと言った。
『君と形式上は結婚してはいるが……そのように思わなくていい』
最初に言われた言葉はよく覚えている。
「ですが形式上は結婚しているけれど、そう思わなくていいとおっしゃったではありませんか!」
「それは君があんな状態だったからだろう? 俺は妻として扱わないとは言っていない。今はそんなことを気にしている場合ではないという意味で言ったんだ」
「……!」
「勘違いさせたのなら申し訳ないが、気を遣わせたくはなかった」
セリーナの『誤解されやすい』『口下手』だと言っていた意味が初めて理解できたような気がした。
それに妻として否定されたわけではないと知り、ヴァネッサはとても嬉しかった。
「それに君がやりたがっている掃除や洗濯は侍女たちの仕事だ。これからは公爵夫人として、貴族として振る舞わなければならないだろう?」
「…………!」
「ヴァネッサ……?」
ヴァネッサは戸惑いを隠せない。
ギルベルトにこんなふうに言われてしまえば恋愛経験がない前世の記憶と人に優しくされたことがないことも相俟って、意識してしまうではないか。
(こんなっ、すぐに好きになっちゃだめよ……!)
顔を真っ赤にしたヴァネッサにギルベルトも気まずそうに視線を逸らす。
(夢にまで見た結婚、旦那様がギルベルト様だなんて……!)
ヴァネッサが心の中で興奮していると、ここで重大なことに気づく。
(わたしは……ギルベルト様に相応しくないんじゃないかしら)
掃除と洗濯などは、毎日といっていいほどやっていた。
物置きで息を殺して暮らしていたヴァネッサはかろうじて貴族の令嬢としての知識はあるがまったくわからない。
「ギルベルト様、申し訳ありません」
「……?」
「わたしには公爵夫人は相応しくありません。何も……知らないのです」
これではギルベルトの役に立てないとヴァネッサは落ち込んでしまう。
すると彼は励ますように優しくヴァネッサの手を取った。
「ギルベルト様?」
「ゆっくりでいい。君にはまだまだ時間はたくさん必要だ」
「…………え?」
今までにない優しくて少し悲しい表情でこちらを見るギルベルトを見つめていた。
「君の新しい居場所はここだ。ヴァネッサ」
「…………!」
ヴァネッサの心臓が忙しなく脈を打つ。
シルバーグレーの髪がサラリと揺れた。
長い前髪の隙間から見える赤い瞳が呆然とするヴァネッサを映し出している。
「ギルベルト様……?」
「今は何も考えなくていい。たくさん食べてゆっくり休んでくれ」
ヴァネッサは小さく頷いた。
なんだか彼にうまく丸め込まれたような気がしていた。
これも大人の余裕だろうか。
(確かギルベルト様は二十九歳になるんだったかしら。大人の余裕を感じるわ)
だが、これでは今まで通りベッドで寝たままになってしまう。
せめて散歩だけでも許可をもらおうと、ヴァネッサは部屋を出ようとするギルベルトを引き留めるように声を上げる。
「あの、ギルベルト様……!」
「どうした?」
「そろそろ外で散歩をしてみてもいいでしょうか」
「……。ああ、セリーナかレイを一緒に連れていけ」
「わかりました」
ヴァネッサはパッと瞳を輝かせた。
散歩の許可が出たということは、部屋の中ではなく外に行けるということだ。
手を合わせてヴァネッサが喜んでいると、隣にいたセリーナが「よかったですね」と微笑んだ。
「ありがとうございます。ギルベルト様」
「…………!」
ヴァネッサは満面の笑みを浮かべてギルベルトにお礼を言う。
彼は頷いてから部屋を出て行った。