①⓪
「無理をさせてすまない。頷くか首を横に振るかでいいから答えて欲しい」
「……!」
「満足な食事を与えられなかったのか?」
二人の間に沈黙が流れている。
ティンナール伯爵はギルベルトに逆らうな、とも言ったことを思い出してヴァネッサは彼の問いに静かに頷いた。
(大丈夫……ここにティンナール伯爵はいないわ)
ギルベルトは「つらいことを聞いてすまなかった」そう言って、ヴァネッサの涙をハンカチで拭う。
そこで初めて自分が泣いていることに気がついた。
「すまない……」
ギルベルトの悲しげな表情を見て、ヴァネッサは首を横に振った。
彼が悪いわけではないからだ。
優しく涙を拭ってくれたギルベルトが噂のように悪い人物には思えない。
むしろヴァネッサを心配して、気にかけているように見えた。
けれどそれと同時に侍女たちとエレーヌの言葉が頭を過ぎる。
『シュリーズ公爵は表舞台に一切出てこない。前妻もみーんな死んでる。アンタも結婚するんだからそうなるに決まっているわ』
『シュリーズ公爵はアンタを人体実験するために大金を払って買ったの! 今からどんな苦痛が待っているのかしら。体を引き裂かれる? 毒で苦しむのかしら』
これから手のひらを返されるかもしれないが、ヴァネッサは自分が見たものを信じることに決めたのだ。
(それにギルベルト様は信頼できる気がする。だって初恋のレン先生に似てるんだもの……!)
前世からずっとずっと医師や看護師たちには心の底から感謝していた。
彼らがいなければここまで十七歳まで生きながらえることはできなかった。
詳しくはわからないが、ギルベルトは公爵でもあり医師でもあるのかもしれない。
(あとでレイさんやセリーナさんに聞いてみましょう!)
ヴァネッサは心を強く持たなければと言い聞かせていた。
植え付けられ続けたトラウマは根深くヴァネッサを苦しめて、追い詰めてくる。
気を抜けば記憶に引き摺られてしまい、頭の中が真っ白になってしまう。
(大丈夫……大丈夫よ、ヴァネッサ)
ヴァネッサは深呼吸をしているが、呼吸は落ち着くどころか荒くなっていく。
ギルベルトは茶色の四角いカバンから包み紙を出す。
「これとこれを食後に飲んでみてくれ」
「……!」
「肌の塗り薬はレイたちに入浴の後に塗ってもらうように」
ヴァネッサは差し出された包み紙を持ったまま硬直していた。
ギルベルトに薬なのかと問いかけようと思うが声が出てこない。
口をパクパクさせていると、彼の真っ赤な瞳が細まる。
ヴァネッサは大きく肩を跳ねさせた。
(恐怖を感じると体が全然思い通りに動かないのね。どうしたらいいのかしら)
ギルベルトは立ち上がり「また来る」と言い残して去って行ってしまった。
彼が扉から去って行き、ヴァネッサは無意識に強張っていた体から力を抜いた。
(……わたしの反応をよく見て気遣ってくださっているのね)
と、同時にギルベルトが置いていった包み紙を開く。
匂いを嗅いでみるが、なんの匂いもしない。
ほんのりと草のような香りもしなくもないが、刺激臭などはまったくなかった。
恐る恐る粉を手に取り、ペロリと味を確かめてみるが舌が痺れたり痛みがあることもない。
(も、もしかしてこれを飲み続けて人体実験を? 体調の観察をするつもりなのかしら。それにしては扱いが手厚いわよね。まるで客人のようだわ……実験をするのなら牢の中に入れたっていいはずなのに)
ヴァネッサはスープを半分ほど飲んでから、ギルベルトに言われた通りに薬を水で流し込んだ。