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第17話

 (かそけ)き火の揺らめく中、応接間の柾目を踏み越えて奥の廊下へ向かう足音一つ。応接間右奥の廊下の先は二股の分かれ道になっており、普段は片方に道切りが為されている。嫋やかに伸びた手がその麻藁の紐を下ろすと、足音は禁じられた小径へと進み始めた。闇の中に融けるように存在する道の先には、角の丸まって湿気った下り階段があり、ひたひたと段を降りると階下にはサイコロ状に四方をくり抜いた空間と朽ちかけた社があった。広さは前後左右に十メートルほど、電灯どころか電気水道ガス設備の類はなく、昼間にも関わらず闇に覆われている。地面付きの二束三文で買い取ったここがかつてどのように使われていたのか、新石は知らない。ただこの社にはきちんと神を分けられた形跡があり、今宮の証となるべき依代さえ現存している。更に地下という空間でありながら、上から見た時、山の裾に入り込む。このような意匠を以て作られたということは、決してただ山を掘って地下室を作ったわけではないと断言できる。神との接続を意図されたものだ。かつてそこに信仰と感謝が形を結び、神と人が交わっていたという事実を現代に留め置く異常識と常識の交差点である証明である。

 新石は燭台を四方へ置くと、蝋燭に火を点けた。揺らぎとともに現れた光の波は、その姿を露わにして現実と虚構の間にある曖昧な空間を浮かび上がらせていた。まるで朝霧の中を漂う小舟が蜃気楼の島に立ち会ったような心許なさで小さく狭く広がった人の領域は、ほんの一人だけ人間を留めて置けるだけの光の島を作り出して浮かべていた。それは闇の混沌を捏ねて作ったような、形ならざる足場である。

 そこに一人出で立ち、袴姿の新石は頭を下げた。そして持ち出した酒瓶を傾けて杯を煽ると、人ならざる混沌の中に――神の領域へ――踏み出した。

「わたくしは、貴方様に語りやすい言葉を持ち合わせません。あなたがどこのどの御柱であるか知らぬ闖入者(ちんにゅうしゃ)だからです。故に、此度に置きましては(かしこ)み敬い頼らせて頂きますことを慎み申し上げますが、お手間は取らせません。ぜひそこにお座り頂きまして待たれるならば、綵衣(さいい)以て親を(たの)しましむように努め上げさせて頂きますので、ぜひお寛ぎなさり、時折貴方様の良き時にそのお手を煩わせてくださるならば直ちに現世常世にその名は知らしめられることでしょう」

 目を伏せ、語るのは神に向けてである。大いなる異常識、異常識の権化と言ってもいい、その元締たる神に向け、新石は自らの頭を垂れ褒めそやす。人の常識が枡であるならば、神の常識は異常識を包括する更に大きな海を湛える大地に等しい。然るにこれは、新石の神に対する交渉であった。神に向け、大いなる異常識の存在へ向けて助力を賜わろうという尊敬から発される頼み事であった。そう、それほどの大任なのだ。囀子に憑いた異常識、これを囀子を()()()()退()()()のは。

「このような頼み事をさせて頂きますならば、(かわうそ)魚を祭るように貴方様を存じ上げ、また祀り上げさせて頂きますのが常道と痛み入りますことながら、燃眉の急にも劣らぬ事態に置きましては、失礼を承知でこちらへ参らせて頂きました。しかして名は竹帛(ちくはく)に垂るという故事もございます。これよりこちらへ連れます波羅場囀子なる婦女は、蜂に食われ明日は無い身でございます。故にその命貴方様のご助力にて救われれば婦女の生こそ竹帛となり、ひいてはその名に新しい冠を授けることとなるやも致しません。従いまして、畏み申し上げます。お力添え頂けるならば、焔陰を揺らし頂き、そうでなければ焔陰を吹き消し下さい。畏み畏み、申し上げます」

 新石が目を伏せ跪くと、ごおごおと響く気流が逆巻くように髪を散らし蝋燭の焔が激しく揺れた。しかし焔は一本足りとも消えることなく、穏やかに背を伸ばした。新石はゆっくりと頭を下げると、一分近く頭を下げ続けようやく上げた。踵を返した新石は階段を上がると、再び応接間に戻った。

「さて――」

 雑然とした部屋だ。ソファには少年と少女が眠っている。少女の身体の体表からは、白い卵の殻のような皮が剥離して紅いソファの上に落ちていた。フケのように見えるけれど、そうではない。彼女の身体がいよいよ限界を迎え始めている証左である。彼女を蝕む異常識が現実となっている――ということは異常識が常識へと変化し、実体を持ち始めているということである。(いざり)による抑制ももう効果がない。これ以上の打つ手は無くなってしまっている。

「おかーさん、おかーり!」

 手を振るいざりに手を振り返しながら、新石はソファに向かって歩みを進めていく。

「ただいま。いざり、そろそろ取り掛かるから、お願いしたことやってくれる?」

「はい! もう鉢に火は点いてますか?」

「ああ。後は木を並べるだけでいい」

「わかりました! いざりも、がんばるね」

「ありがとう、可愛い子」

 野ウサギのように跳ねながら、躄は玄関へと駆けていく。その背姿を見守って、新石はソファについた。

 煙管を指で掴もうとして、その手が止まった。

「やれやれ」

 これからは神前である。享楽(きょうらく)の気を持ち込んではならない。手持ち無沙汰に視線をやると、囀子の中には蠢く光が見えた。

「……なるほど。これが斎宮くんの言っていた影か」

 体の中を蠢く影、そして刺したのは蜂。患部は闇に隠れようと本能的に動く――いや、この子の身体は()()()()()いた。新石は既に、その異常識の解答を得ていた。その形態、その発生理由、退治方法に至るまでを見つけている。椥辻に酷く謗られることを恐れずに正直に打ち明けるならば、これを退治すること自体は大して難しくないことくらい、一目見た時からわかっていた。それどころか、これまでに相対してきた様々な異常識の中でも、比較的弱く、異常識としての格も低いとさえ評価する。やり方さえ教えれば、椥辻でも退治することが出来るほどだ。だが、今は新石本人がそれと相対しているというのに、新石は決して手を抜かない。それどころか、他の大きな力、つまり祠に祀られる祭神の力さえも借りて、これの対処に当たる。

 なぜか。

 それはひとえに、ただいつものように退治してしまったら、それはそのままこの少女を――波羅場囀子を――殺害することと同意になるからだ。

 それほどに、この少女は異常識を飼っている。

 それほどに、この少女は異常識そのものだ。

 いや、正しく表現しよう。

 この少女は――異常識を自ら育て、慈しみすぎた。

 可能性としては、本来ならば忌まれて然るべき異常なる常識をある種迎合するような形で、もしくはそれを異常と知らない内に埋め込まれ、気が付かない内に異常を取り込んでいたのかもしれない。異常識は常識と触れ合うことでその輪郭を発露させるものであることからして、彼女はそれを異常識とどこかの段階で気が付いたのだろう。そして体内の免疫機能が異常な存在を攻撃するように、彼女は自分の中にある異常を攻撃した。

 新石の読みでは――その異常こそが、『体内を蠢く芋虫』。

 故にこれを無理矢理摘出し退治することは、心臓に出来た癌を心臓ごと摘出してしまう本末転倒な行為に等しい。これを退治すれば、彼女はそのまま死んでしまう。異常識も常識も欠落した、人間かどうかも怪しい空っぽになってしまう。であれば新石の取る方策は殺さず生かさずで外道を取る、想像を絶する残酷に通ずる。

 更に核心に踏み込むなら、これを解決するのに、()()()()()()()

「やれやれ、彼を外に追い出してないと、こんなこと出来もしないよ。恐ろしくて。まあ、彼は彼でそれに気付くかもしれないが、自身の役目の重要さは理解するだろう。正義に興味はないけれど、彼の行動は私にとって重要な価値がある」

 それに、人形(ひとがた)も持っているだろうしね。

 ふう、と煙を吐くように息を漏らして、新石は囀子を抱き上げた。

「死ぬほど辛いよ、囀子ちゃん。けど、手加減しないからよく覚えておきなさい。それが何も説明せずに優しいことだけが取り柄の人間に助けを求めるっていうことの代償なんだ。あなたが斎宮くんに求めた感情の代償は、死ぬほど重い。或いは、死ぬよりも重い」

 階段を降りる音が聞こえる。その先には、焔の陰で織られた一人分の浮島があった。

 そこに囀子が降ろされると、闇には新石が立った。新石は打ち覆いを顔に掛け、袴を締め直した。


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