七 ラストダンスを共に
七 ラストダンスを共に
俺はそれを見下ろすように、彼女の机に置かれた茶封筒を見ていた。毎朝早くから事務所に来てカフェラテを啜っているであろう彼女は、なぜか今日は姿を見せていない。
封筒を手に取るが、住所や郵便番号などの記載もなかった。コンビニで買ってきたものをそのまま使い回しているのだろう。机の引き出しを開けると、いつも入っているはずのゲーム機が今日だけはなかった。
冗談だろう。俺はそう思った。栗栖企画のドッキリか。テーブルの下に隠しカメラでもつけているのだろうか、そんなことを考えながら封筒を開ける。
しかし、中から現れたのは開けた瞬間に発射されるバネでもなく、『ドッキリ大成功』と書かれた古臭いフォントでもなく、小さく彼女の文字で書かれた便箋二枚のみだった。
いよいよ俺は背筋を固くしながら、その手紙を確認する。どうやら栗栖の思惑通り、手紙を初めて見た俺は本気で心配してしまっているらしい。恥ずかしいことに。
一枚目の手紙を手に取った。紙の真ん中に数行に渡って書かれているそれは、寄る辺がなくてお互いに寂しさを紛らわるように密着していた。そのぎゅっと詰まった文字列に目を落として、俺は、本当に落ち着いてはいられなくなった。
そこにある文章を見て――俺は正直に言おう――途端に人恋しくなった。
特等席であるソファーに腰掛け、俺はしばらくの間栗栖を待っていた。彼女が現れたら、俺は真っ先に褒めてやろうとした。『冗談が上手いな』と。しかし、彼女は現れない。貧乏ゆすりが段々と激しくなる中、俺は愉快な音楽を流してネタバラシしてくる栗栖を待っていた。
しかし最後まで、彼女が現れることはなかった。
結構長い間、俺は彼女を待っていた。朝の日差しが差し込んでいた窓辺はすっかり星空を映し出し、部屋はとうに暗くなってシャンデリアを灯している。でも、彼女は現れない。
さて、これで困ったのは、これがドッキリだと信じて疑わなかった俺だった。ここに書かれた言葉は全て、本心からの言葉だったのか。うろたえながら俺はもう一度彼机の前に立ち、その手紙に目線を下ろす。あまり面白いとは言えないような内容が、そこに力無く書かれていた。
『ごめんなさい。急なことで。でも、仕方ないんです。私はもう、あなたとは会うわけにはいかないのです。それがあなたのためでもあり、そして私のためでもあるのです。私なりに色々考えた結果、あなたと離れることにしました。もう、私のことを追わないでください』
そして下の方に小さく、こう付け足されていた。
『一緒に行った秋祭りは、嘘偽りもなく楽しかったです。ですが、私のことを探さないでいただけると助かります。長いようですが、最後に一つ。机の一番下の引き出しを開けてください。それが本当の私です。今まで、嘘をついていて申し訳ありませんでした。さようなら』
俺は、彼女に逃げられたというのか。
今までの俺の言動全てを、コマ送りにして振り返った。
しかし、彼女が消えた意味は分からなかった。
自棄酒を煽りたくなるような、そんな気分になった。
思うに、自棄酒はただ酒を飲みたいんじゃなくてどんな形でもいいから自分を徹底的に傷つけたいという破滅衝動から来るものなんだろうな。現に俺は度数の高い酒を一気飲みしたいし持てる限りの金を引きずり出してギャンブルに全額ベットしたい。とにかく、精神のみが落ちぶれたままだと気が済まなかった。
さようなら、その五文字が今の俺に突き刺さる。一か月前も、女の子にそんなことを言われた。あの時も、世界が爆発する前も、そして今も、皆が俺の前を素通りしていくのだ。
携帯をポケットから取り出したが、メッセージも着信も何も入っていなかった。少し葛藤して、栗栖に電話をかける。彼女との最後のホットラインに、俺は全てを託した。
しかし、数コール鳴った後に、無機質な音声がスピーカーをかき鳴らす。
『おかけになった電話番号をお呼びしましたが、お出になりません』
携帯を持つ手がぶらりと垂れさがる。もうあの時間を取り返すことができないんだという焦燥感が駆け巡り、とにかく足搔かなければならないという義務感に囚われる。
事務所からその手掛かりを探そうとして、俺はハッとする。便箋の内容、机の引き出しを開けろとの指示。本能が突き動かすように、机の引き出し一番下を開く。通販サイトに売られていそうな、白のシンプルなアルバムが中に入っていた。表題『大学時代の思い出』。
そういえば、俺は栗栖の大学時代の話を知らないことに気付く。橋田に失恋した時も仕事中に交わした雑談も、そして河川敷で彼女の半生について聞いた時も、彼女は決して大学生活についての話題を上げたことがなかった。
しかし俺は、彼女の外交的な性格を考えると別に恋人はいなかったとしても楽しい日々を送れていそうな予感がした。友人と旅行で撮った写真なんかを大切にアルバムにしまっているんだろう。俺はそう結論つけながら、純白の汚れ一つないアルバムを開いた。
中を開いて、俺は驚いた。
そこには、なにも入っていなかった。
これは、一体。俺は文字一つも書かれていない空白のページをめくりながら、彼女が伝えたかった意図を必死に汲み取った。せめてなにか、手がかりのようなものはないか。そうして最後のページをめくった時に、一枚の写真がアルバムから零れ落ちたことに気付いた。
俺は、またしても驚くことになる。
そこに映っていたのは、高校らしき制服を着た二人。栗栖と、一人の男の顔が映っていた。
公園でのツーショット、彼女の両手にはテディベアが大切そうに抱えられており、二人の笑顔は今まさに人生を楽しんでいるような溢れんばかりの余裕に満ち溢れていた。
俺は多分、この男を知っている。
この男は、『彼』だ。
彼女の鬱屈とした話からは想像もできないほど明るく、爽やかな顔をしていた。制服姿の栗栖はそれ以上に、はち切れんばかりの笑みを浮かべている。友人の卒業アルバムを見るようなもどかしさを感じつつ、彼女の意図を俺は虚ろな頭で考えた。
そして、一つの結論に辿り着く。
彼女は暗喩したかったのだろう。
自分の大学生活は、既にいない、彼に囚われていたのだと。
望む日々が送れなかったのだと。
俺はデート終わりに佇んでいた栗栖の影を思い出す。誰かの血飛沫のように赤い夕焼けの下で、彼女はトラウマに勝てない自分を卑下するような表情をしている。もうどうでもよくなって、ぼそりと何かを呟いた。そしてそのまま、向こうへと帰っていく男の背中を見つめている。
あんなことを、大学生活でもやっていたのだろうか。
あの毎日元気だった栗栖が。
なぁ、栗栖。
本当のお前は、何を考えているんだ?
だが、そんな内省的投げかけをしたところで彼女には当然届かない。もう遅いのだ。俺は栗栖がよく座っていた椅子に身体を投げて、窓辺を見ていた。今更栗栖に泣きつこうが怒鳴ろうが、それでなにかが変わる訳でもない。もう、遅い。
『私のことは追わないでください』そんな言葉を使っていた。彼女の覚悟は相当なものだ。当然簡単に見つかるような場所には逃げない。仕事をさぼったり他人任せにしながらも、なんだかんだ栗栖は俺より頭が回るのだ。俺の想像の範疇を超えた場所に隠れているに違いない。手すりに力を入れて立ち上がり、冷蔵庫からカフェラテを一つ抜き去った。
ストローを突き刺して、カフェラテを口にする。なんで突然姿を消すんだよ、そんな疑問を抱えたまま飲み込んだカフェラテの味は極悪だった。こうなると分かっていたならミルク八割じゃあなくて純然カカオ百パーセントのブラックコーヒーを買っておいたんだがな。
俺は目を細めてストローを咥えたまま机に近寄って、彼女の手紙を隅の方に追いやった。一瞬見えた二枚目はどうやら暗号らしく、アルファベットの羅列があったが、どうせ俺には解けはしない。時間の無駄というもので、俺は彼女の手紙を視界に入れたくもなかった。
見つけられないという不安があるのもそうだが、そもそも、彼女がここを去ったのは自分の意志ではないか。なぜかは分からない。内容も分からない。だが、彼女は悩み、そして決断をした。これは事実だ。それを俺が尊重しなくてどうする。もしかすると、彼女はトラウマを乗り越えて新しい男と付き合ったのかもしれない。それで俺に前向きになってもらうよう、わざと自分が悪役になるようなヒール行為を働いていたのかもしれない。
栗栖はもう、名前も知らない男と付き合ってこの世界を抜け出したのだ。
これが、彼女が望んだことだ。
一人ではいささか広すぎる事務所に、椅子が回る音が響いた。
無意味と知りつつも、律儀に次の日も俺は栗栖探偵事務所に向かっていた。自分の習性に驚いて仕方がなかった。どうやら俺は、朝目を覚ましたら携帯を触ってしまうように、無意識のうちに栗栖探偵事務所に足を運んでしまっているらしい。養鶏場の鶏もびっくりだ。
ただ、だからといって今の俺に他に向かう場所があるわけでもないんだが。
大衆的な喫茶店の入店音もどきのベルが鳴り響き、俺は栗栖探偵事務所に出勤した。タイムカードのようにえらく便利な文明の利器などあるわけもないので、俺はカバンを下ろすとパソコンを開いた。ちなみに出勤時間も記録はしない。記録しても金にならないからだ。
扉を開くと以前のように栗栖が壁からひょいっと乗り出して「なんだ、君か」と現れるのではないかと少しは期待したが、無意味だった。今のこの事務所は、俺だけなのだ。
することもなく、俺はとりあえず目の前にある雀の涙程度の作業に集中した。普段なら数時間もかかるその作業も、独りで集中したこともあるせいか三十分ほどで終わってしまった。
今日はたったこれだけで一日のタスクが終わった。俺はつい嬉しくなって、自分へのご褒美に冷蔵庫から値を張るスイーツを取り出した。元は栗栖のものだが、もう関係ないだろう。
スプーンでスイーツを掬って、それを咀嚼して飲み込んだ。
「これ、美味しいな」
そう言いかけて、やめた。
そうだった、ここには誰もいないのだ。誰もいないのになんてことを口にしようとしたんだ。俺は黙ってスイーツを飲み込む。静かな事務所に、俺の咀嚼音が聞こえた。
美味しいものを美味しいと共有できない悲しさは、意外と心に来るらしい。
スプーンを手に、気が付くと俺はパソコンで恋活パーティーの日程を検索していた。
別に忘れてもいいのに律儀に検索履歴を覚えているこのパソコンは、持っている知識を全部ひけらかさないと気が済まないうんちく野郎のように、ご丁寧に以前訪れたホームページをマーキングしていた。たまには忘れることも覚えないと、人生苦しくなるぞ?
予算など様々な条件が俺の目に映る。いつぞや大変お世話になったパーティーも知らない顔して一番上に現れている。そんなことしてもまた行くわけがないのに。受付嬢に「また来たんですね」なんて言われようものなら俺は顔から火が吹いて逃げ出したくなるからな。本性を現した橋田に会うのは勘弁だし、雰囲気だけはモデル級の浮気男に会うなどもっての外だ。
そんなことでページを探していると、たまたま今の俺にぴったりとしか思えないパーティーを見つけた。予算も参加条件も日時も、どれもが俺のために存在しているとしか思えない会だった。俺は青色の応募ボタンにカーソルを合わせると、マウスを握る右手に力を込めた。
しかし、三十分が経っても、俺はクリックをすることができなかった。右手の人差し指で押し込むだけなのに、たったそれだけが二十段の跳び箱のように高くそびえ立つ。唖然として行き先を失った右手は、暇を潰すかのようにホームページを上下する。色鮮やかな応募タブが上から下へ、下から上へと流れていく。応募ボタンを押す工程だけが、俺にはできなかった。
結局応募できずに、昼食の時間を迎えて外食を済ませた。その後、俺はなぜか事務所と反対方向に歩み始めた。少し日光に当たりたいと思ったのか。そうでなければ理由が見つからない。
そこから俺は、ちょっとばかり頓珍漢な行動を繰り広げる。
外に出た俺は、意味もないのに調査などで栗栖と一緒に回った場所を一人で訪れて物思いに耽ったのだ。手始めに一番最初の事件、浮気男の張り込み先の駐車場に向かった。
目の前に道が延びていて、近くにはネットカフェがあり、以前監視したアパートが建っている。俺たちが騒ぎながら張り込みしていた駐車場はすでに空っぽになっていた。
栗栖が停めた駐車スペースの前に立ち、そっと落ちていた枯れ草をどける。
俺は栗栖の車を眼前に再構築し、過去の記憶を蘇らせる。
二人で笑い合ったことや、喧嘩して結局仲直りしたことを思い出す。過去、俺たちはここにいたのだ。助手席には俺が座っていて、運転席に名探偵は座している。そろそろ俺がランチタイムを打診して、あえなく否決される頃だろう。その様子を懐かしみ、頬を緩ませた。
しかし、そんな妄想も長くは続かなかった。目の前にあったイメージだけの車はまるで消滅するかのように崩れ落ち、地面に還る。再び無に戻ったその空間を何度見ても、俺の口から溜息が漏れるばかりだった。
なんで、自分はこんなことばかりしているのだろうか。
知ってるくせに。
俺はそれに対して無視を決め込み、駐車場を後にする。次に駅前の噴水広場、そこから電車に乗って彼女の母校や小学校、ほんの少し関係が縮まった河川敷へと向かった。
そして到着すると再び、彼女の幻影を築き上げる。そこにあった幸福を追い求めるように。
駅前の噴水広場にて、「大丈夫?」と雨に濡れた俺を彼女は心配する。彼女の母校にて、「私、この町に住んでたことがあるの」と彼女はためらいがちに俺に告げる。名前も知らないような小学校にて、「不法侵入よ」と彼女は堂々と宣言する。そして、
あの河川敷にて、「馬鹿にした?」と彼女は怯えたような目で話す。
彼女の言葉が、彼女の声で鮮明に再生される。彼女の表情も仕草も背景も、目の前に広がっては一秒後に消滅している。両手で掴もうとしても、指の隙間から白砂のように零れ落ちる。
彼女に会えないということは、この思い出をもう二度と味わえないということだ。新しい思い出を作ることができないということだ。どれだけ歳を取っても記憶が薄れゆこうとも、自分の心は永遠にこの瞬間に取り残されるのみなのか。
それは悲しいことだと、俺は思う。
ふと、自分がそのように考えていたことに驚いた。俺は今まで、彼女を邪険にしか思っていなかったではないか。電車でも尾行でも張り込みでも、誰も着ないような探偵セットを着こなして現れる彼女に、俺は一定の恥じらいと嫌悪を抱いて口撃していたはずだった。そんなハチャメチャな日々を、俺は実は肯定していたというのか。
そよ風が俺の前髪を撫でるように通り、雑草がさらさらと靡いている。心臓に手を当てると、握りこぶしくらいのポンプの鼓動が、生々しく鮮明な血液を運んでいるのが伝わる。
俺はこの胸騒ぎに似たものを、ほんの最近に感じた。
もう一度、深く考える。胸部に当てている右手を震わせながら、今までの彼女との日々を振り返る。運転席のライトに映る横顔、事務所でふと目があった時の不満げな顔、河川敷で見せた人差し指を口に当てた悪戯っぽい笑顔。栗栖と接してきた幾多もの日々を、俺は走馬灯のように記憶を呼び起こす。彼女がいなくなって、俺が真っ先に感じたことはなんだ? 答えは既に分かっているだろう。二文字で終わるその言葉を頭の中で形作りながら、俺は自分の心情に面と向き合う。最近経験したよりも激しい感情、自分の義務を放り出して本能で動きたくなるような情動。「栗栖」今はいない彼女にそう呼びかける。返事は当然来るわけがない。それが悲しくて辛くて寂しくて、目の前に彼女がいないという喪失感に胸が打たれそうだった。
認めろよ、ともう一人の自分が耳元で囁く。もう子供みたいに駄々をこねる時間は終わったんだ。なんで彼女がいなくなってからお前は塞ぎ込んだ? 仕事を放り出してどこかへ消え去った? なんで彼女がいなくなった途端、お前は人恋しくなったんだ?
その答えは知っているだろう。つまり、
お前は、栗栖のことが好きなんだ。
太陽のように照っている彼女の笑顔、山奥の清流を感じさせるような声、深海すらも見通すような機知、そして空のように限りなく突き抜けた活気に女神像のように美しい姿、そんな栗栖の全てを、お前はずっと前から愛らしく感じていたんだ。
だから、認めろよ。もう、大人にならなきゃいけない時が来てるんだぞ。
俺はじっと、その内なる声を聞いていた。
その声が、俺の心臓をぐらぐらと揺らす。俺は、栗栖の隣にいたい。栗栖のことをもっと知りたいし、もっと話したい。彼女と一緒に美味しいものを食べて、それが美味しいと共有したい。星空を二人で眺めるように、綺麗なものを綺麗だと言いたい。お互いに一人で抱え込むのはもうやめて、いくら彼女が俺に隠していようとも、それを全て受け入れて隣にいたい。
これが、俺が今まで経験できなかった、恋なのか。
暇な時さえあれば彼女のことを考えるのが恋なのか、彼女の姿を思い出すだけで胸のトキメキが止まらないのが恋なのか。どんな歴史を辿ってみても、どんなドラマを目撃しても、それが恋だと明確に定義できるものは何一つとしてなかった。誰からも教えられてこなかった。恋という現象はどんな風に起こって、どんな影響を及ぼすのか。あらゆる事象から推測することはできても、この胸の内に起きた感情が本当に恋なのか、絶対的な定義は分からない。
だが、もしこの胸のざわつきが恋だというのであれば、
俺は、これほどまでに幸せなことはない。
俺は前を向く。空を見上げる。悠然と浮かぶ白雲が風によって左へと流されていて、俺は靡いている前髪を抑えた。拍動はメトロノームのように動き続け、呼吸もシンクロするように荒くなる。乾いた酸素が唇から舌を通り抜け、肺へと潜り込む。
それは、苦いようで甘い、そんな味がした。
俺はもう一度、栗栖に会いたい。それで栗栖に嫌われるにせよ見直されるにせよ、俺はもう一度現実の彼女を見ていたい。嫌われる嫌われたくない、そんな理性よりも強い本能が自分を突き動かす。目先の幸福に全細胞が打ち震え、切れかかったはずの情熱がみなぎる。
これが恋だ、俺は思う。俺は、二十年ほどかけてようやくその存在を掴んだ。
栗栖に会うために動き始めるのは、もう時間の問題だった。
走って事務所に戻り、扉を開けると見慣れたシャンデリアが吊るされている。ソファーや机が存在している。しかし、一番大切な存在がいない。俺はつかつかと机の方に歩み寄ると、紙の山から一枚の手紙を抜き去った。
あの時適当に投げた、彼女から贈られたもう一つの手紙。
その紙には、適当にタイピングしたかのような数字列が並んでいた。
『snIawsAnlrriuiawgwitgooiytktnfmoantof』
そしてその下に、
『一、408→508 508→507 501→401 107→207 二、私がよく見て君があまり見ないもの』
原文をそっくりそのまま別の紙に書き写すと、俺は腕を組んで考えた。
そのまま、三時間が経った。進捗を聞かれても困るどころか、挙句の果てには手がかり一つすらも掴むことができず、唯一変わってしまったのは時間だけと言った有様だった。
謎の英字列、これが暗号を示しているということくらいは助手である俺にも分かった。しかし、それをどうやって解けばいいのかが分からなかった。一字飛ばし、反対から読む、思いつく限りの選択肢を取って実践するが、どれも虚しく効果はなかった。以前栗栖から見せられた暗号がたくさん載っている雑誌も、捨てられたのかどこかへ消えてしまった。こうなることなら栗栖に渡されたあの時、血眼になって全文章暗記すればよかったのだ。
そんな非現実的な選択肢を思い浮かべながら、俺は彼女が座っていた椅子にもたれた。きしむような音が聞こえた。天井を仰ぎながら、俺は溜息をつく。
このまま暗号が分からずにいると、俺と栗栖は永久的に二度と会えない。今の俺は、以前の俺より幾分か素直になっている。それだけは、絶対に避けたい。もし彼女と二度と会えないのならば、この気持ちにどうやってケリをつければいいのだろうか。栗栖に会えないことに傷つき、彼女の顔をもう一度見たいと願った。隣にいなくなってから初めて栗栖の大切さに気付いた。彼女と少しでも一緒にいたかった。でも、俺が何度願おうとも彼女は一秒たりとも姿を現さない。俺は試されているのかもしれない。栗栖に、この世界を作った張本人に。どんな難関を乗り越えてでも、俺は愛する人に出会いたいのかと。目を閉じたまま彼女のことを考える。どんな事件よりもどんな出来事よりも、彼女のことを考えている時間の方が遥かに幸福だった。嬉しかった。思い出す彼女の笑顔は、どんな絶景も凌駕する。このまま甘い妄想に浸るのも悪くないが、俺は新しい栗栖を見たい。彼女と新しい思い出を、俺はもっと作りたい。まだ知らない景色を、俺は栗栖と共に見てみたいのだ。
俺は探偵で、栗栖の助手だ。こんな暗号を送られたら、探偵のプライドが廃るではないか。
栗栖探偵事務所の一員として、俺は暗号の紙に視線を落とした。
『私がよく見て君があまり見ないもの』果たしてこれは一体なんだ? 一枚目のアルファベットや二枚目の数字の羅列は暗号形式だと分かるものの、この文に関しては意味が取れるただの日本語だ。栗栖がよく見て自分があまり見ないもの、俺は頭を巡らせた。
事務所を見渡すと実に様々なものが存在している。大量生産されてそうなシャンデリア、商談とかで使われてそうな重々しいテーブル、それぞれ客用と探偵用に分かれたソファーが二つ、暇つぶしによく読む雑誌の本棚、栗栖が座る椅子と作業をする机、そして冷蔵庫、変わっている所は一つもなかった。だが、大方この中に栗栖が指定するものがあるのだ。
栗栖がよく見ていて、俺も何回か見たことがあるもの。あるいは栗栖が「私、これをよく見るの」と口にしていたもの。俺は必死に彼女との記憶を遡り、思い出クイズの答えを探った。深い場所を彷徨って、ふと一つの可能性に思い当たった。
それは、栗栖がよく見ていた女性雑誌だった。
垢抜けた女性が表紙を飾る雑誌は、確かに俺はあまり見ないもので、栗栖が好きなものだった。パラパラとめくると、あるページで強く引っかかる。ページの右上を三角に折られていて、手の動きがそこで止まった。
ページ右側のマーカーで引かれた線を見て、俺はあぁと声を出す。こんな話、確かにあったな。だが、女性雑誌にはこんな話が載っていなかったはずだ。俺は不審に思って本を触っていると、偶然表紙が取れた。どうやら後付けだったらしいその表紙を剝がし、本当の表紙を見ると再び声を出して、俺は確信に至る。これが栗栖の指定していたものだと。
その雑誌の表紙には、大きな懐中時計が描かれていた。
以前彼女から手渡された一冊の暗号雑誌。指定されたページにはマーカーが引かれていてそれは、その時栗栖が話していたレールフェンス暗号を指していた。
そのすぐ横に、白色の付箋が貼ってあった。余白を埋め尽くすように『三、私の好きな数字とは? 太陽 多数決 レモン汁 足し算』と書かれてあった。
解決の糸口が、確かに見えた。
栗栖が遺した手紙には『snIawsAnlrriuiawgwitgooiytktnfmoantof』という暗号とそれのヒントと思しき『一、408→508 508→507 501→401 107→207二、私はよく見て君は何回か見たことがあるもの』があった。その内の二の内容は、以前会話したレールフェンス暗号や『栗栖の好きな数字』というヒントが隠されていた。
じっと考えて、解法の道しるべを探る。お膳立ては整った。これらを用いて、彼女は俺に挑戦状を叩きつけたのだ。挑むもよし、無視するもよし、全ては自分次第の絶好の依頼だ。
俺はいつも栗栖から与えられていた。しかし、今日は初めて彼女から離れて、自分の力で進んで事件に挑むのだ。消えた栗栖への愛を認めた上で、俺は、偉大な一歩を踏み出す。
全て、彼女に会いたいというその一心で。
俺は、シャーペンを手に取った。
数十分後、今まで動き続けていた右手がぷつりと止まった。一息ついて、握っていたペンを置いた。ころころと転がって、小さな影がルーズリーフの隅にほんのりと落ちる。
暗号は、ついに解かれた。
言いもしれない達成感が、全身を包んだ。
この暗号は、二つの形式を用いて作成されていた。
ルート暗号と、レールフェンス暗号。あれほど暗号に明るかった栗栖が使ったのは、俺に教えてくれた二つの暗号だった。その二つのみを用いて、この暗号は作られていたのだ。
一見解読不可能な、一番の矢印と数字のヒント。これは、俺のアパートの部屋番号を模したものだった。『107 207 401 408 501 507 508』真ん中に0が空いた数字列は、いずれも部屋番号と合致する。そして、間の矢印にも意味があるとするならば、それはアパートに見立てた四角形の読む順番を表しているのだろう。四角形、それはルート暗号の使う所である。実際に暗号文の文字数をカウントすると、三十七文字で『五×七余り二』という結果になった。ヒントに当てはめると、丁度408号室と508号室が埋まる計算になる。
対して、レールフェンス暗号のレールの本数は三番目のヒントに眠っていた。『太陽 多数決 レモン汁 足し算』俺はこの文字列に、ある共通項を導き出す。どれも連想できるものに『サン』という音が付いているのだ。『sun 賛成 酸性 算数』これらから考えて、栗栖の好きな数字は三、それがレールの本数だ。
そしてもう一つ大事なのが、解読を行う手順だ。二つの暗号の内、どちらを先に処理するべきか。俺は、暗号のヒントの順番に着目した。このヒントには、数字が割り振られてある。一番にはルート暗号が示唆されて、二番ではレールフェンス暗号を表している。この関係を考えるに、この暗号はルート暗号からレールフェンス暗号を用いて作成されたのだ。
そうすれば作られた手順の真逆を行くことで、鍵穴は解かれる。
俺は完成させた暗号文を見ながら、栗栖に会ったら何を告げるべきなのか、彼女は何を言うのだろうか、それをじっと模索していた。怒っているだろうか、愛想を尽かしているだろうか。そもそも数十万人に一組が帰還できるこの世界で、俺は果たして元の世界に戻れるのか。余計な不安が脳裏をよぎる。もう彼女の隣にいることが出来ないかもしれないと思うと、過去に戻って日々をやり直したくなる。足がすくんで顔を手で覆いたくなる。一度考えた憂いは彼女に会うまで消えることはない。しこりのように胸の中に残り続け、精神を着実に蝕む。他の皆が経験した苦しみを、ようやく俺は実感できたのだ。恋愛というのは、こんなにも息苦しい。
絶対に失敗したくない。そう考えて余計にダメになる。怖い。人間関係が変わることが、怖い。この生暖かい環境で一生良いと感じてしまう。だが、ダメなのだ。俺も大人になる時が来た。二十年近く生きて、今までの自分を捨てる時が来た。恋愛ができず、人生に対して希望も持てず、疎外感を抱いていた自分を。この鬱屈な世界から、逆転させる時が来た。
形も文化も愛情も、時が経てば全てが変わる。だからこそ、俺も変化しなければならない。
それこそ、俺が栗栖を好きになったように。
暗号には、こう書かれてあった。
『 I am waiting for you. A town of twinkling stars. 』
日本語訳にすると『私はあなたを待っている。星が煌めく街』。
俺は、その街を知っていた。忘れもしない、栗栖が話題にしたからだ。
俺は事務所でカフェラテを飲みながら、星が降るその時を待っていた。
夜空が浮かんでいる。俺は重い腰を上げた。パソコンから流れるクラッシックを断ち切ると、たちまち事務所は張り詰めたような無音に包まれる。靴音が鮮明に聞こえ、衣服が擦れる音さえも薄い鼓膜を震わせる。俺は机の上に置いた紙袋を開く。肩幅にかなりのゆとりがある襟付きのオーバーサイズの長袖白ニットに、裾口が広がった黒色のフレアパンツ。星空が降るまでの間、急いで服屋でこしらえたものだ。正直世界中どこでもありそうだが、自分で決めた組み合わせだからか、ネットで真似した物より遥かに自分に似合っているように思えた。着替えている最中、思い浮かぶのは栗栖の顔だった。彼女は喜んでくれるだろうか、格好良いと思ってくれるだろうか、そんな期待が頭の中で膨らみながら、俺はズボンに足を通した。
服を着ると全身鏡の前に立つ。柄にもなく前髪を触り、意味もなく身体を捻る。糸くず一つも許さないように鏡を凝視する。凝り固まった表情筋と緊張をほぐれさせようと、笑顔の練習をする。しかし、これは持論だが、人間は緊張を解こうとすればするほど相手を意識して固くなると思うのだ。現に俺は、彼女のことを考えて頭が真っ白になってしまっている。
暴れる心音を聞きながら、俺は外へと一歩を踏み出す。トンネルのような階段を抜けて、暗闇を道なりに歩くとライトを点けた車が俺のすぐ横をすれ違う。風が俺の衣服をひらひらと靡かせた。秋風と呼ぶには冷たいものが、衣服の中をすり抜ける。
もうじき、冬になる。栗栖と出会った秋は終わりを告げて、そこから長い冬がやってくる。白い吐息をつきながら、マフラーに顔を埋める日々がやってくる。
その時、俺の隣は一体どうなっているのだろうか。
駅に着くと列車に乗った。心なしか、突然の冬の訪れに乗客は身体を震わせているようだった。ダウンのような厚着があちらこちらに散見される。列車は発進すると大きな音を立てて、ギアを上げるように速度を上げていく。オレンジ色の照明が車内を灯し、車掌のアナウンスが鳴り響く。音質の悪いトランシーバーのような声を背景に、俺は服にくるまりながら流れゆく車窓を見つめていた。ぽっかりと空いた暗闇に映るのは、いつ何時でも俺の神妙な顔つきだ。
「ご乗車ありがとうございます。次の駅は……」
数十分電車に揺られて、目的のアナウンスを聞いた俺は荷物をまとめた。
刀が似合うような古臭い駅を出て、側面に止まっているタクシーの扉を叩く。「どこまでで」「あそこの天文台へ」
また車窓を見ていると、言葉も交わさずタクシーは発進した。それから、十分が経った。
「こちらで到着です。お代金の方を……」
代金を支払うと、タクシーは俺に背を向け走り出す。目の前には、あの天文台が建っていた。
靴と土が擦れる音以外には何も聞こえない。白く光っているロビーに向かって進むたび、息が詰まるような緊張に苛まれる。
俺は、いまから好きな人に会うのだ。
生まれて二十年、人生初の大勝負だ。
自動ドアが開き、俺は中に入った。研究所みたいな見た目のロビーが顔を覗くと、「お連れの方ですね。お待ちしておりました」カウンターに座るその人は俺を見るなり通してくれた。
階段を上り、バルコニーへと向かう。最初に栗栖が俺の家を訪れた時を思い出す。
あの時、栗栖は俺の扉を叩いてくれた。
そして今度は、俺が栗栖の扉を叩く番だ。
扉の前に立つ。この世界に来た時あの瞬間から、俺は栗栖に影響されっぱなしだった。そしてそれは、今も変わらない。彼女に、人間として一番大切な部分を影響されている。
意を決する。重い音を立てて、その扉は開いた。
「あら、遅かったわね」
そこには、私服姿の栗栖千花が立っていた。
青いカーディガンを夜風にはためかせ、栗栖は安らかな表情を浮かべて佇んでいた。
「もう少し、早く来ると思ってたんだけどな」追い詰められた犯人が自白するように、栗栖はそう呟いた。「ちょっと難しかったかしら?」
俺はバルコニーの扉を閉めて、栗栖の方へと一歩近寄った。扉が閉まる、重たい音が夜空を響く。この空間には、なにもない。車の扉も客用のソファーも机も、俺と彼女を隔てるものは一切存在しない、二人だけの空間だった。
「姿を消すときに、もう一切未練なんてなくそうって思ってたんだけどね。でも、やっぱり手紙を残すことにしちゃった」
まるで赤子をあやすように、彼女は風に煽られる衣服を押さえつける。俺は口を閉じたまま、暗がりに紛れる彼女に見惚れていた。ふと、目線が合った。彼女はありったけの余裕を醸し出すように目元をふっと緩ませると、いつぞやのような口調で呟いた。
「私のこと、嫌いになった?」
嫌うわけがない。だが、どう答えるのが正解なのか、俺には分からなかった。
彼女の瞳はブラックホールのように深く艶美に、俺の視線と言葉を吸い込んだ。彼女の綺麗な瞳を見るだけで、ここに到着する前に考えていたあれこれも崩れ去るように霧散した。神社で金縛りに遭ったように、彼女のシルエットから目を離すことができない。口を開くことすらもできない。嫌われたくない、失敗したくない、綱渡りのような恐怖が呼吸を浅くする。
「まぁ、あの職員の人たちには迷惑をかけたけどね。あの人たちに無理を言ったら、なんとか許してもらったの。『もしかしたら、私に会いに来てくれる人がいる』ってね」
彼女の指先がバルコニーの手すりに触れる。白く細長いその皮膚は、鉄の棒に当たってもその柔らかなふくらみを保って滑っている。それは白球を砂の上で転がすように静寂で、天使が舞い降りた時のように神々しかった。
「あの暗号も、雑誌の仕掛けもアルバムの準備も、俺がこうなることを期待して作ったのか」
俺が発した疑問に、彼女は頷いた。
「そうだよ。あの暗号も雑誌も、全部私がやったこと。私は君の下を去らないといけない。でも……やっぱり嫌だった。せっかく頑張って作った日常を、壊すことも嫌だった」
彼女の大きな瞳が、より一層澄んでいく。
「だから、君に全部任せたの。私のアルバムも、中身が空っぽで驚いたかしら?」
てへ、彼女はわざとらしく舌を出す。「今まで嘘、ついちゃってごめんね?」
「あれが本当の私。栗栖千花は君が知っているようないつでも明るくて強くて冗談をよく飛ばす活発な女の子じゃない。それは、『探偵・栗栖千花』の役目。本当の私は一つ行動を起こすことすらも怖いような、臆病なくせに強がりな人間なの。……失望、させたかな」
それだけ話すと栗栖は深呼吸をして、身体を翻して背中を見せた。
そして、自身の大学生活のことを語り始めた。大学生になって一発見返してやろうかと考えていたこと、臆病な自分を捨てて、新しい自分に生まれ変わろうとしたこと。でも、人を誘うことが怖くなって尻すぼみしてしまったこと。そして結局悪化して一人ぼっちになって、どうすればいいか分からず嫌気が差したこと。彼女は、俺が知らない全てを話し尽くした。
そして、と彼女は言葉を続ける。
「そんな中、世界爆発が起こった。私はその時すでに独りぼっちだったから、当然こっちの世界に爆発してきた。なんとなくは分かってたけど、でもやっぱり嫌だった。人間失格の烙印を押されたような気がして。でも、これはこれでチャンスだと思った。私と同じような悩みを持つ人間がたくさんいるってことだからね。下は下を見て安心するってわけでもないけどさ、やっぱり上ばっかり見すぎてもなんだか不安になっちゃうじゃん。上の相手が上にいるほど、下の私がちっさく見えるから」
手すりに腕をかけて、彼女は前を見つめる。暗に私の方を見るな、と告げられたようだった。
「だから、私はこの世界爆発を好機と捉えた。今度こそ負け分を取り返すことができると考えた。私は、勇気を出して男の人を誘って出かけてみた」
俺は、こんな栗栖の一面を初めて知った。
「でも、結果は失敗だった。男の人と二人きりになると頭がなんだかパンクしちゃうの。何を話したらいいんだろう、今、どんなリアクションをすればいいんだろう。私、嫌われてないのかな。そんなことが頭によぎって、ついにはなにも喋ることができなくなってしまうの。返事もできないまま、デートの終わり際に放たれる申し訳なさそうな表情は、ヒヨドリがミニガンで撃たれた時みたいにすっごく私の心臓に効いたよ」
彼女は、俺が想像している以上に普通の人間だった。
「これだから私は、捨てられちゃったりするのかな」
モノローグを終えた彼女は、自虐気味に乾いた笑い声をあげる。天を仰いだ彼女の背中は、寿命を迎えた風船のように、不安定に上下していた。
「……君はどう思う?」
栗栖の私服が、存在を主張するようにふわりと揺れていた。
「はは、冗談」
今までとは一変した柔らかな声で、栗栖は振り返って手すりに身体を預けた。彼女に何もしてあげられない無力な俺を、彼女は真剣な眼でじっと見る。
「だから、私たちはこれ以上仲良くなるわけにはいかないんだ」
どんな言葉よりもこの言葉が、俺の心臓に鉛のように沈み込んだ。
俺は寒さに口を痛ませながら、かろうじて、「どうして」と呟いた。
彼女は、今すぐにでも消えそうな声で「だって」と呟いた。
そして、今にも溶けそうな一本の蝋燭のように、朧げな声でこう告げた。
「捨てられるのが怖いんだ」
彼女の姿に、様々な依頼者の姿が重なった。心に苦悩を抱え続けた彼らと同じ目をしていた。
「もしこのまま仲良くなって、私と君が愛し合うようなことがあれば――この世界のルールによって、私たちは元の世界の元いた場所に帰ることになる。その時――どうして私たちは一緒に戻ることができないの? どこに住んでいるかも分からないのに、せっかく結ばれたと思ったら引き離されてしまうのはどうして? 私は、バラバラになってしまうのが怖いの。そのまま永遠に、君と会えなくなる気がして」
この世界のルールを俺は思い出す。愛が結ばれると、元の居場所に戻ることができる。
ただ、隣に愛する人がいるとは限らない。
「元の世界で待ち合わせ場所を決めたらいいじゃないか」俺は言った。
「何か連絡先でもいい、繋がる手段を持っていれば、俺たちは必ず再会できる」
しかし栗栖は、それを強く否定した。
「待ち合わせ場所を決めたって、現れないかもしれないじゃない。連絡先を交換したって、返事を無視するかもしれないじゃない。私はもう、怖いの。人に裏切られることが。私の隣を通り過ぎることが。高校二年生の夏の日を、私はもう繰り返したくない。あんな目に遭うくらいなら、私はこのままでいい」
彼女の両目には、全てに裏切られたような悲壮感と激しい悔恨が同居していた。
「振られたくない。消えて欲しくない。怖いから。泣きたくなるから。君と別れてしまったら、私は一体誰と過ごせばいいの。君がどこかへ消えてしまうなんて、私は嫌だ」
そんなわけがない。彼女の言葉を上書きするように、俺は断言する。
「俺は絶対に消えるわけがない、約束は絶対に守る。あの日の河川敷で、俺はそう言ったじゃないか。栗栖の悩みに付け込むようなことはしない。それなのに、どうして、なぜ」
一寸先も見えないような細い暗闇の中、彼女の耳がその瞬間、太陽のように赤らんだ。
そして、まるで隠し事を告白する高校生のように、視線を泳がせながら呟いた。
「私は、君のことが大好きなの」
酸素が向こうへ逃げてしまうような、そんな息苦しさを覚えた。そして心臓に手を当てて、自分が激しく動揺していることに気付いた。
栗栖は、そのまま俺の眼球を見つめ直し、言葉を重ねた。
「どんな無茶なことを言っても、どんな訳の分からないことを言っても、嫌な顔をしながら私の冗談に付き合ってくれるところとか、不愛想に見えても実は私のことを考えてくれてたりするところとか、私が好きな格好をして勝手に暴れ回っても受け入れてくれるところとか――とにかく君のそんなところが、私は大好きなの」
ここまでに感情的になる姿を見るのは、初めてのことだった。
「最初に君に声をかけた時、私は別に誰でも良かった。ただ君が隣に住んでいるというだけで、別に私は話し相手になればいいかな、リハビリになればいいかな、って思うくらいだった。でも、今はもう違う。君が良いの。君じゃなきゃダメなの」
彼女の両目はもう既に、血管が切れたかのように血走っていた。
「君は分かんないかもしれないけどね、あの河川敷で話を聞いてくれた時、私とっても嬉しかったんだ。私、きっと嫌われるって思ってたから。きっと見下されるって思ってたから。だけど君は、私を受け入れてくれた。本当に嬉しかった。地球が反対にひっくり返っても忘れられないほど嬉しかった。……他の人に話したら、いっつも引かれるような話だから」
いつの間にか栗栖の頬には、一筋の涙が零れていた。
間断を許さず、語気を強めながら、彼女は独白を重ね続ける。
「一緒に秋祭りに行った時も、立て看板を見て飛び出した私を君は文句をつけながらついてきた。射的も輪投げもどれもこれも楽しくて楽しくて、私の大切な思い出だった。勇気を出して私がくだらないことを言っても、君はそれをすべて受け入れて言葉を返してくれている。演じた私をそのまま楽しんでくれて、私に居場所を与えてくれている。何から何まで、君には感謝しかないし、君と過ごしてきた日々は私のどんな日々よりもかけがえのないものだった」
声に感情を乗せながら、栗栖は頬に流すその一筋の線をより濃く、深くしていた。
役所の人間が言っていたことを思い出す。どんな人にも、『心の闇』は存在すると。
「だから、私はもうこれ以上失いたくないの。あの時みたいに、夏のあの日のように、私はもう大切な人を失いたくないの。怖いんだ。君ともう話せなくなって、隣ががらんと空いてしまうのが。私は、とっくに君に恋をしてしまったんだから」
「だから」彼女は喉が潰れて無くなるほどの悲鳴を上げる。
「だから私のことを嫌いになって。私を嫌いなまま、私を構ってよ。私を嫌いなまま、私の話を聞いてよ。私を嫌いなまま、私と手を繋いでよ。私は嫌われるのはもちろん嫌だけど、でも、もっともっと君の顔を見ていたい、君にもっともっと構ってほしいの」
彼女は両手を広げて、今にも迎え入れて欲しいと言わんばかりに歩み寄る。
「私は君の顔を見ているだけで幸せなんだから、もうこれ以上幸せを望むこともない。私は君のことを陰で見るだけでいい――それで私が救われる。もし、もしこれ以上を望んでしまったら、私は一生君の顔を見れないことになるのだから」
俺の服を両手で掴み、涙ぐんだ上目遣いで栗栖はじっとしがみつく。
「私は、私だけが愛しても構わない。一方的な恋でもいい、報われない恋でもいい。それでも君の側にいることが幸せなの。君の横顔を見るだけで、どんな悩みも我慢できるの。この世界から一生抜け出せないかもしれないこと、少女漫画みたいな彼氏彼女らしいことをなに一つすることなくこのまま死んでしまうかもしれないこと。夜中に考えたら怖くて眠れなくなるようなことも、君の声や顔や仕草を想像するだけで前向きになれてしまうの」
「だから、お願い」膝から崩れ落ちゆく彼女は、燃え尽きたように呟いた。
「私の下を離れないで――」
俺の服を掴んでいた彼女の両腕が、ぽとりと床に落ちた音がした。
俺は、その両手を見つめたまま、どうすることもできずにその場に突っ立っていた。静けさが再び訪れて、夜風が俺たちの間を通り抜ける。彼女を踏まないように気を付けて、バルコニーの手すりに肘を置いた。空を見上げると無数の星が煌めいて、俺の知らない空が一面に広がっていた。無数の流れ星が、広大な宇宙を切り裂くように墜落している。
今、俺の後ろには栗栖千花が疲れ果てた様子で座り込んでいる。
全てを吐き出した彼女は、魂も抜けてしまったかのように何も発することがない。
俺は、緩慢に流れる時間に任せて、彼女の言葉をもう一度繰り返す。数か月間もの間隠していた本当の自分について、そして、彼女が俺に抱いてくれている好意について、もう一度深く考え直す。
真っ先に頭に浮かぶのは、やはり栗栖の告白だった。『君のことが大好きなの』甘く幸福なその言葉を、全身で噛み締めるように振り返る。もしかすると、俺はその言葉を一番求めていたのかもしれない。俺の恋は、既に成立されていたのだ。
しかし、栗栖の本当の一面を見てたじろいでしまっている自分がいることにも気づいていた。
皮肉を言いながらも胸の内では愉快だった探偵の栗栖は仮の姿で、本当の彼女は他人の目を常に気にして生きているような女の子だった。そして、それが彼女の『闇』だった。
俺は、そんな彼女を受け入れることができるのか?
答えは、決まっている。
最初にインターフォンを鳴らしたあの時、河川敷で指切りをしたあの時、彼女の姿はどんな宝石すらもかすんで見えるほど、美しかった。車の中で仲直りをしたあの時、雨の日の噴水前隣で濡れてくれたあの時、どんな聖人すらも浅ましく見えるほど、優しかった。
あんな欠点一つで、今の俺を変えることができると思うなよ。
俺は、彼女を両方の世界で一番愛した人間なんだ。
栗栖は言った。『君と過ごした日々はどんな日々よりもかけがえのないものだった』確かにそうだ。俺も変わりが見つからないような、そんな日々を過ごさせてもらっていた。彼女が笑顔になるたびに、俺も幸せになって微笑んでいた。
そしてそんな彼女が、今ではすっかり縮こまっている。
彼女の姿が、以前の俺と重なった。
橋田の告白を断った時、絶望の淵にいた俺を栗栖はわざわざ救ってくれたじゃないか。
それなのに、どうして同じことをしない?
栗栖の願いは、この現状に満足してこれ以上失うことを避けようとする、自分の古傷を思い出さないように目を逸らして、そのまま細々と生きていくことだ。ただ、それだけだ。
だが、俺は栗栖の願いを叶えられそうにない。
俺が、栗栖のことを好きだからだ。全てを受け入れたからだ。
俺は、もっと他のことをしてみたい。手を繋いでみたいし、二人で一緒に語り合ってみたい。なにか下らないことに熱中して、気が付けば夜が更けていた、なんてこともしてみたいんだ。多分、栗栖がそれをしたいと思っているくらいには俺も同じことを考えているんだ。
だから、立ち向かわねばいけない。
俺は、彼女に救われてばかりいた。今度は、俺が恩返しをする番だ。
自分のこの感情に正直になって、栗栖のその感情を受け入れて、そして変化する。絶えず変化する関係性を受け入れる、それが、恋をする資格というものだろう?
「なあ、栗栖」
俺は、背中を見せる彼女に声をかける。栗栖が振り返ると、両手を彼女の前に差し伸べる。彼女は俺の両手をじっと見た後、添えるようにして手を置いて、立ち上がる。
彼女は、身体を震わせながらこう呟いた。「……なに?」
変わり果てた彼女に、俺は一つ告げる。
「栗栖の願いは、叶いそうにはない」
よく見える月明かりの下で、彼女の目が一瞬にして曇った。
「それはなぜかというとだな」
深呼吸をして、一言一句頭に思い浮かべて、口を開く。
「俺は栗栖のことが好きだからだ」
その瞬間彼女の瞳孔が大きく広がり、俺の顔を反射して光った。
「俺は栗栖のことを嫌いになれない。栗栖が俺の側にいると幸せなように、俺も栗栖の隣にいるのが幸せなんだ」
今までの彼女との思い出を脳裏に点滅させながら、彼女に投げかける。
そこに後悔は、一つもなかった。
「車のライトで照らされる栗栖の横顔も、無邪気に笑うその笑顔も、俺にとっては特別で、どれ一つとっても美しくて、優しくて、それだけで生きている意味があるように思えた」
「いいの。そんなことはもう考えなくてもいい。私を好きにならないで」
彼女の言葉を無視しながら、俺はさらに言葉を続けた。
「栗栖に話しかけられる時、俺は凄く嬉しかった。自分でも気づいてなかったんだけど、栗栖の声を聞くだけで一日が充実した気持ちになるような、雨の日なのにすっかり晴れ上がった気持ちになるような、そんな気分になるんだな。最初はそれが分からなかったけど、今ならはっきりと分かる。栗栖が俺の家のインターフォンを押したあの時、とっくに始まっていたんだ」
「やめて、もうやめて。お願い」栗栖は俺の両手を力強く掴み、首を横に振って否定する。
「だから、簡単に言うぞ?」
この数か月、色々なことを学んだ。
最初の依頼では愛し合うことの難しさ、ストーカー男からは自分の気持ちに正直になることの大切さ、橋田からは好きな人と付き合いたいという心、最後の依頼では人には諦めきれない想いがあるということを。車内で栗栖と喧嘩したり、突然彼女が消えてしまったりと危なっかしい場面はいくつもあったが一つ一つ恋について学んでいった今だから言える。
俺は、君のことを――
「愛してる」
言葉にしたその刹那、周りの酸素が薄くなる。ありったけの酸素を集めて、彼女にぶつける。
「もし向こうの世界に戻ったとしても、まず真っ先に君を探す。例え栗栖が姿を消そうとも、今日この日のように探し出してやる。海外に行こうものならば、俺だって海外に飛び込んでやる。外国語は苦手だが、栗栖のことは得意だからな。どこに行くかくらい、警察の奴らよりも詳しいに決まってる。だから、安心してくれ。俺は絶対に逃げないし、隠れもしない。元の世界に戻っても、またこうして二人で会おう」
だから、俺は最後の一押しを彼女に告げる。
「俺は、栗栖のことが好きだ」
彼女は両手を俺の腕辺りまでもっていき、頭を強く押し付ける。彼女の目から零れた涙が、服に当たって少し冷たかった。栗栖は強く押し付けたまま、ぐりぐりと頭を横に振る。
「そんなこと言わないでよ。初めてなんだから、恥ずかしいよ。嬉しいよ」
俺は彼女の言葉に、ふっと笑みを溢す。
「でも、嫌だ」
彼女がひとしきり泣き終えるまで、俺は彼女を抱きとめていた。
涙が収まったところで、彼女は俺から頭を離した。
「ごめん、服汚れちゃったね」
「良いんだ、気にしなくて。また新しいのを買えばいい」
栗栖は両手を離さないまま、顔を俯けて口元を緩ませた。「ありがと」
俺は彼女の片手をそっと離し、バルコニーに寝そべった。栗栖も俺と肩をくっつけるようにして寝そべった。俺は漆のような黒い宇宙に、欠片のように散らばった星々へ、指を差した。
「星、綺麗だな」
「そうだね」
間近で見る彼女の横顔は、見ている自分まで熱くなってしまうほどに赤かった。
涼を求め、手に力を入れて立ち上がった。栗栖も俺を見て、同じように立ち上がる。
俺と栗栖は、付き合っている。
そして、やってみたかったことがあったのを思い出した。
「栗栖、一つ、お願いがあるんだ」
いきなり頼まれた彼女は微笑んだまま首をかしげる。「なに?」
俺は、その恥ずかしいお願いを口にした。
「馬鹿じゃないの」栗栖は噴き出すように笑った。そして、目線を逸らしてこう答えた。
「……まあ、別にいいけど」
俺はその言葉に感謝して、栗栖と面と向き合った。
そしてほぼ同時に背中に手を回し、抱きとめる。
「馬鹿、手が震えてるじゃないの」俺がそれほど不自然だったのか、彼女はからかった。
「仕方ない」俺は諦めたように笑って、言った。
「だって俺、非リアだったから」
「大丈夫、知ってる」
時間が許す限り、絵に描いたような満天の星空の下、俺たちはそうしていた。
今日は、色々あった。様々な思いが交錯して、激しい火花を生み出した。
変わったことが、二つあった。
俺と栗栖が、手を繋ぐようになったのだ。
そして栗栖は、俺のことを「成瀬くん」と呼ぶようになった
翌日、いつものようにドアノブを捻ると、いつものように軽いベルの音がする。その音に合わせて栗栖が顔を覗かせた。「あ、成瀬くんだ」嬉しそうな顔を浮かべる彼女は、机の引き出しからゲーム機を取り出した。「また新しいゲーム買ったんだよ」
「もうそろそろこの世界から消えてなくなるというのに、よく新しいゲームを買ってこれたな」
栗栖はくすぐったそうにしていたから、俺は「褒めてはないからな」と釘を刺しておいた。
「もう、この世界でやり残したこととかないの?」
「んー、特にはないかな」栗栖はゲームをいじりながら、他人事のようにそう呟く。
「あ」と彼女は言いかけた。
「どうした?」
「色々とショッピングとかしてないなって。映画を見て服とか買ったり、花とか買ったり。そんなありきたりな日常を、私はやってみたいかな」
「確かにそれもいいかもな」俺はニヤリと笑って、立ち上がった。
この世界から消えるプロセスは、俺には分からない。
それは一瞬で終わることかもしれないし、徐々に身体が消滅していくのかもしれない。
だが、もう爆発するなんて物騒なことはないだろう。
「ねぇ」
振り返ると、栗栖が声をかけていた。
「また、会えるよね?」
俺はその言葉がおかしくて、つい笑い声をあげた。
「当たり前だろ、また会おう」
栗栖の言葉に、強く頷いた。
その時には、きっと会えるさ。
だって俺たちは、リア充なんだから。
俺たちはこうして、遅咲きの愛を手に入れた。
誰もが簡単に手に入った幸福を、俺たちは二十年がかりで手に入れた。
何から何まで全てがまともだったとは、決して言えない。
でも、これは俺と栗栖が掴んだ、たった一つだけの愛なんだ。
「成瀬くん」
栗栖は俺の方を向き直り、にっこりと笑った。
「まだやり残したことが、一つだけあるね」
「そうだな」
栗栖の笑顔につられて、俺も自然と笑みが出る。
「今日の初デート、なにしよっか?」
これで、このヘンテコな世界の物語は終わる。
栗栖は笑顔で、俺に手を差し伸べる。俺はその手を取って、栗栖の手を握り返す。
もし神様がいるとするならば、
もう少しだけ、この世界にいさせてほしい。