六 いびつな同盟関係は破られる
六 いびつな同盟関係は破られる
全てを語り終えたのか、栗栖は俯いた。
「これが私の全てよ」
消え入りそうな声が、俺の耳に届く。両手に付いた芝生を払って、俺は座っていた河川敷から空を見上げた。そのまま世界が終焉しそうなほどに赤く、美しい夕焼け空が広がっていた。
一方で、俺の隣に座っている彼女は自分の膝元に視線を落としたきり、なにも動かない。零れる髪の隙間から、真っ黒な目をした彼女の顔を眺めた。
そういうことか、と俺は一人ごちに納得した。栗栖の秘密を、俺はようやく知った。
少々電波的とはいえ、彼女のような容姿端麗で活発な人間がこの世界にいるのは、はっきり違和感と呼ぶにふさわしかった。探偵として共にしたあの日から、俺は常に疑問視し続けていたのだ。どうして彼女が、この世界にいるのだろうと。だが、それもはっきりした。
彼女は、ある意味で俺たちと同じだった。
彼女は高校一年生の時、恋をしてそれが実った。しかし、一年後に『別れよう』と告げられた。彼のことが本当に好きだったから、彼女はそれがトラウマになって、新しい恋に踏み出せずにいる。誰かと付き合いたい、だけど怖い。そんなジレンマに頭を悩ませているとあの日、世界が二つに爆発した――俺は栗栖から聞いた粗方の話を、ざっと脳内でまとめた。
「なんか、恥ずかしいよね。もう子供じゃないってのに、こんな子供じみたことしてて」
彼女の瞳が、夕陽に照らされて潤むように輝いている。それは薄い膜でくるんだ水風船のように弱く、指先が触れただけで壊れてしまいそうなほどに脆かった。今まで隠してきた過去をばら撒いて、それと反比例するように感情が募っているのかもしれない。
目の前に伸びる川を見る。水面に映る太陽は、ゆらりゆらりと揺れて燃え盛るようなオレンジ色に煌めいていた。あれほど長かった一日が、ようやく終わりを迎えようとしていた。
「そうか? 別に気にすることもないだろう」
気休め程度にしかならない言葉を、俺は彼女に送った。どんな彼女の話でさえ、俺は態度を変えるわけにはいかない。そう誓ったのだ。仮に彼女が犯罪に手を染めたとしても、俺は、それを聞いたうえでいつもと変わらず罵倒する。それが彼女に対する、精一杯の親切なのだ。
「いいえ、恥ずかしいわ。身体だけ成長して、私の心は成長できていないのだから」
俺の視線に気付いたのか、彼女は顔を振りそっぽを向いた。栗色の髪が、越えられない壁のように俺と彼女を引き裂いた。
風が吹いている。今日はやけに沈黙が多かった。俺は目のやり場に困って意味もなく虚空を眺め続けていると、とても小さく、震えた声が耳に届いた。
「馬鹿にした?」
静かな夕暮れだった。神経を研ぎ澄ませれば、拍動の音すらも聞こえそうな瞬間に彼女は、嘘にまみれた明るい冗談を口にすることもなく、たった一つの本心を口にした。
そんな彼女を見ながら、俺は考える。栗栖は俺に暗に問うているのだろう。
『今まで通り、態度を変えずに接してくれるか?』
口で答えるのは簡単だ。『あぁ、そうに決まってる』そう言葉にすればいい。なにも困ることはない。だが、それだけでは栗栖は納得しないのも理解していた。俺が前に嘘をついたように、言葉上では何にでもなれる。ただ、今必要なのはその言葉で固めた仮面ではなく、全てを曝け出す決断なのだ。車で張り込みをしたあの時、俺は彼女に、一つ嘘をついている。
肺にある酸素を時間をかけて吐き出すと、俺は彼女を向いて声を出した。
「馬鹿にするわけがない。約束しただろう。『その話を聞いても、何も思わない』と」
「でも」栗栖が顔を埋めたのが、髪の揺れで分かった。
「俺も、似たようなことがあるんだ」それを確認して、俺はさらに言葉を重ねる。
「自分が酷く気にしていて、誰からにも気づかれたくなくて、そのためにあちこちを嘘で塗り固めるようなことが、俺にもあるんだ。しかもそれは、子供じみて恥ずかしいものときた。中学時代のラブレターを成人式で衆目に晒されるような、そんなくだらなくてちっぽけな悩みだ」
「なに、それって」言葉に釣られるように、栗栖は俺の方を振り向き、その正体を探った。
彼女は本音をぶつけた。なら、俺もそうしないと不公平というものだろう。
俺は栗栖に、全てをぶちまけた。
「俺は以前、車の中で『彼女がいたことがある』そう言ったな。あれは、嘘だ。本当の俺は今まで一度も誰とも付き合ったことがなくて、ましてや手すらも繋いだことがないんだ。あまり言いたくはないが、子供はコウノトリが運んできてくれるって、俺は本気で信じてる」
この時、俺は初めて自分からコンプレックスを他人に打ち明けた。
「なに、コウノトリが運んできてくれるって。今時田舎の一人娘でもそんなこと言わないよ」
栗栖は俺の言葉が面白かったのか、しばらく笑い続けていた。俺は再度話を続ける。
「俺だって、恋愛に興味がなかったわけではない。クラスで一番可愛い子と喋ったら確かにちょっと気分は上がるし、他人の惚気話を聞いていたら自分の現状に物足りなさを感じる程度には、俺も健康的な人間だった。でも、きっと、怖かったんだ。変化をすることが」
一度話を切り出せば、言葉は淀みなく溢れていく。自分が今まで知らなかった部分もやがて言葉になり、本当の自分の一面に気付く。
「だから多分、俺は羨ましかったんだろうな。皆簡単に女の子と仲良くなって、恋人ができて、いつも容易く理想の日々を送っている。だけどその反対に俺は、いまだそんな幻想的な日々を送れずじまいでいる。……俺には、恋ができないんだ。自分が傷つきたくないだとか恥ずかしい思いをしたくないだとか、そんな予防線で自分自身を雁字搦にしてしまって動けないんだ。大多数の人間がしているような恋のあれこれを、俺はまだ経験できていない。その癖自分から一歩を踏み出さず、他人から嫌われる、その一点ばかりを気にしてしまう臆病者だった。俺は羨ましくて憧れてたのかもしれないな。簡単に行動を起こすことができる皆に」
世界爆発が起こる前、俺は幸せそうに歩くカップルを見つけては常に舌打ちをしていた。その姿を見るだけで胃がムカムカとしてきそうだった。幸せそうな奴全員、不幸になってしまえばいい――『リア充は爆発してしまえばいい』そう思っていた。
だが、本当は違った。
俺はきっと、彼らみたいになりたかったんだ。
自分が爆発されてきて、ようやくその真実に辿り着いた。もうとっくに手遅れで、気付いたところで何かが変わるわけでもない。過去が変わる訳でもない。俺は、あったかもしれない過去と未来に思いを馳せる。俺がもう少し素直になれて、人と交わることを覚えていたら。
それは、きっと充実した人生なんだろうなと。
「だから、俺には分かる。栗栖の悩みが、悩んでいる時が、想像つく。俺は栗栖のことを馬鹿にしない。もし馬鹿にしたら、俺なんてもっとコケにされなきゃいけないだろう?」
俺は、肩を竦めて自虐的に笑った。その様子を見て、栗栖は「確かに」と身体を揺らして笑っていた。「確かに君は、もっとコケにされなきゃいけないね」
栗栖が笑っている。今思えば、俺が人を元気づけたのはこれが人生初めてのことだった。
俺だって、いつか憧れていた皆みたいになれるだろうか?
地上から、際限なく伸びる空を見上げる。天井のないその空は、終わりなく伸びて朱色に染めていた。不思議と、今の俺はこの空のように気分が晴れ晴れとしていた。
「給料に見合った働きをしてないし、なにより顧客を全然呼んでこないもの」
栗栖は白い歯を見せていたずらっ子のように微笑む。俺はわざとらしい溜息を吐きながら、ぼやくようにして答えた。「もっと他の仕事で忙しいんだよ。尾行ばかり押し付けられてな」
俺たちはそうして、心地よい空間に身を委ねていた。
しかし、時間はあっという間に過ぎ去る。空は日曜大工が黒ペンキで二度塗りをしている最中のように、薄灰色に染まりつつあった。そろそろ寝床の心配をしつつも、どうしても俺は河川敷から動くことができなかった。それは俺が今までに感じたことのない――体育祭が終わってもグラウンドに居続けたくなるような――雰囲気だった。もう少しだけ、この空気を味わっていたい。俺と栗栖は、生暖かい空気に身を任せて、月が昇るのを待っていた。
星が一つ二つと見え始め、高校生が教室から追い出されるような暗さに差し掛かる。栗栖の横顔を覗こうとしても、暗がりでうまく見えなくなってきた。そんな時、彼女はほんのり顔を綻ばせて、口を動かした。「今日はいろいろとありがとう。嬉しかったよ」
俺は恥ずかしくなって彼女から目線を逸らした。この動揺を、他人に悟られたくはなかった。
「いやいや、どうってことはない。俺だって栗栖に感謝しなければならない。ありがとう」
彼女は一体、どういった表情をしていたのだろう。それは分からない。代わりに、後ろから忍び笑いをするような声が聞こえて、暖かい声がした。
「いやいや、どうってことはないよ。ワトソン君」
すっかり、彼女は元気になっていた。振り向くと、彼女が目を細めていた。
「君は、強いね」栗栖はそう言った。「私は君みたいに、強くはないよ」
「そんなこともないよ。栗栖だって、前に俺が失恋して泣いてた時に助けてくれたじゃないか」
そんなこともあったね、と栗栖は笑った。そして、彼女はこほん、と咳払いをした。
「今日はありがとう。私はもう、大丈夫だよ。なんせ私は『探偵・栗栖千花』だから。探偵はこんなことでへこたれないの。へこたれるのは、嵐の密室殺人事件で解決できなかった時だけ」
そんな機会が一度でもあるとは思えないが、頼もしかった。彼女が上司で本当に良かった。
「約束しよっか」
透明で清らかな彼女の声が聞こえる。薄暮の中、その表情が見えないのが心残りだった。
「なにを?」
俺の言葉に栗栖は困惑した顔を浮かべている、ような気がした。
「君が言ったじゃないの。今日私たちが話したのは『明日寝たら忘れること』なんでしょ?」
すっかり忘れていた。俺は彼女に平謝りをする。
「まあいいわ、許すから。早く顔を上げて」
栗栖は、右手の小指を前に突き出した。
「これは?」俺がそう聞くと、彼女はこう答える。
「指切りしましょう。約束の指切り」
「子供みたいだな」俺はそう笑って、自分の右手も差し出した。「うるさいわ、いいじゃない」栗栖もそう反論しながら、右手を動かした。彼女の右小指に自分の指を絡める。
だが、俺は両手が震えてうまく絡めることができなかった。
「なにしてんの、もしかして緊張してるの?」
どうやらそうらしく、恥ずかしいことに俺は指を組むことすらも緊張しているらしかった。
女の子の肌に触れる機会がない人間特有の、実に馬鹿馬鹿しい緊張だった。女の子の指とは、いったいどんな感覚なのだろう。俺は、女性に触れ合うことが恥ずかしくて仕方ないらしい。
「本当に女の子と手を繋いだことないんだね」俺の不甲斐ない様子に栗栖は笑顔で馬鹿にした。
「うるさいな、これが俺のコンプレックスなんだよ」俺も笑い合いながら、力が入りすぎた右手を彼女に合わせる。初めて触れる女性の肌は、柔らかくて想像以上に冷たかった。
暗がりの中で、絡み合った彼女の指だけがはっきりと見えた。
「じゃあ、言うよ?」
小指同士の骨が当たるような感覚がありながら、二つの右手は上下する。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます。指切った」
栗栖の号令に合わせて、二つの小指がほどかれた。彼女に触れたこの感触が、依然として俺の右手に残り続ける。それは悪いものではなかった。
「嘘をついたら針千本飲ませるだなんて、よくよく考えると怖いな、これ」
「確かにね」栗栖は笑った。「あとで手芸用品店にでも行こうかしら」
「おいおい、本当に針千本飲ませようなんて考えてないだろうな」
俺の問いに栗栖はやや間を開けて、それは、はちきれんばかりの笑顔を浮かべた。
「さぁ、どうかしらね?」
右手の人差し指を唇に当てて子供っぽく微笑むその表情は、俺の内にある全ての苦悩を吹き飛ばすほどに美しかった。
そんな流れで河川敷を後にした俺たちは、昇った月に急き立てられるように宿泊場所を探した。携帯で調べた一番近くのホテルに向かうと、運良く部屋は二つ開いているらしく、お互いそれぞれでチェックインした。
自分の部屋に入ると荷物を放り投げて、シャワールームで汗を流す。どれだけ身体を石鹸で上書きしようとも、数刻前に絡み合った右手の衝撃とその余韻は忘れることができなかった。
手を閉じたり開いたりしながら、俺は一人で夜を過ごす。
電気を消すときも、床に就く時も、瞼の裏側に浮かぶのは栗栖の顔だった。
朝、身体を起こした俺はそのままチェックアウトを済ませた。
「おはよう、今日は眠れたかしら?」
「あぁ、しっかりと」お互い、昨日の話はしなかった。
調査を再開し、捜索人が向かいそうな場所を片っ端から訪れる。彼女の生家がある辺りや行きつけのカフェ、そして最寄りのスーパーなども一通り確認したが、どうやら彼女は現れていないようだった。昨日と同じように再び行き先を見失った俺たちは、栗栖の母校を横目にしながら、十分ほど歩いた。すると、彼女は足を止めて前を指差し始めた。
「どうしたんだ?」と訊ねる俺に、栗栖は目も合わせず呟く。「お祭りやってるみたい」
彼女の視線の先には一つの立て看板が置かれていた。どうやら秋祭りの案内が書かれているらしく、駐車場などの簡単な地図や日程表などが記されていた。秋祭りなんて懐かしい。最後に行ったのはいつぶりだろうか、そんなことを考えていると栗栖が再び口を開く。
「でも、なんだかおかしいわ」
タンスから知らない小学校の卒業文集が出てきた時のようなリアクションを取っている栗栖は、顎に手を当ててなにかを考えこんでいる様子だった。探偵服で考えこむな。通行人が通り魔が起きたのかと不安になってしまうだろ。そんな思いも虚しく、彼女は鷹のように目つきを鋭くして俺に質問をした。「おかしいところが一つあるんだけど、分かった?」
「お前の服装の話か?」
「そんなわけないでしょ。ビジネスマンがスーツを着るのと同じことよ」
「お前の頭の話か?」
「そんなわけないでしょ。私は至って常識人よ」
「到底常識人だとは思えないけどな」
「うるさいわね、黙ってらっしゃい」
突然出題されたクイズに四苦八苦していると、栗栖がため息をついて答えを述べた。
「この町で秋まつりなんてものはないの。こんなものも分からなかったの?」
「分かる訳ないだろう」やっぱりおかしいのはお前の頭じゃねえか。
「調査前にその土地について調べるのは必須でしょ?」
よかったな、お前は地元で調べなくてもよくて。
「でも、だからこそ怪しいのよ。開催場所の公園は石垣がある城の跡地よ? そんなに大きい公園を貸し切ってまでわざわざ新しく町内会の道楽をする意味もないわ。どうせこの世界で祭りに来る人間なんていないし、大人しくヨーヨー遊びでもしとけばいいのよ」
泣くぞ、町内会の人が聞いてたら。
「でも、その話を聞いている限りは怪しくもなんともないぞ。町を活性化させるために新しく祭りを作ったってことだろう? なにもおかしくはない」
俺がいくら栗栖に説明しても彼女は納得が行ってないらしく、彼女は九回裏のスリーアウトになってもなお打席に立ち続ける八番打者のように未だ逆転の機会を窺っているらしかった。
「納得できないわ」「なにに」
「行ってみましょう」
彼女の鼓膜はとうに破れてしまったのか、俺の言葉なんて目もくれず祭り会場へと突っ走って行った。俺はその後ろ姿を慌てて追いかける。せめて早歩きにしてくれよ、なんて小言を考えながらも、栗栖は、やはりどこか晴れ晴れとした顔で前を向いていた。
栗栖のヨーヨー発言に反して、意外にも祭りは盛況を見せていた。屋台も石垣に至るまでずらりと並ばれており、賑やかな声をあちらこちらで耳にした。
「ほら、やっぱり普通の祭りじゃないか」隣を歩く彼女は頬を膨らませて反発するような仕草を取った。「残念だったわ」栗栖は本当に悔しがっていた。
結局、祭りの雰囲気にあてられて俺たちは本丸へと続く祭りの道を進んで行った。道を挟むようにして立つ屋台に目を奪われながら、俺たちは案外普通に祭りを楽しんでいた。
「城攻めをする武士もこんな気持ちだったのかしら」
「さすがにお祭り気分じゃないと思うぞ」
「探偵服じゃなくて鎧兜で来ればよかったかしら」
「更に人の目を引くだけだぞ」
鎧兜を着た探偵だなんていくらネタが切れた漫画家でもそんなもの描かないぞ。
「あ、私これがやりたい」
栗栖が指した先には長蛇の列が並んでいて、屋台の看板には【射的】と書かれてあった。そのすぐ横には輪投げもあり、そこもオープン直後のラーメン店のように行列ができていた。
「祭りに来たからには、これをやらないとね」
俺も意気揚々と列に並び、はっとした。栗栖のことを元気すぎる、電波的と馬鹿にして一歩引いた目線で物事を俯瞰しているつもりだったが、どうやら自分も彼女と同類だったらしい。
「どうしたの? ほら、さっさと行くよ?」
立ち止まって栗栖を見続ける俺に、彼女は首を傾げて催促していた。――ふと、余計な思考が脳裏を掠める――これは、見ようによっては普通のデートではないか?
俺はその考えを即座に否定した。俺は栗栖のことを好きなわけがない、こんな元気すぎて電波的すぎる彼女のどこに、一体心惹かれる箇所があったのだろうか。マシンガンを前にした犬が身震いするように、俺も首を激しく振った。そんなものは一時の気の迷いであって、真夏に水も飲まず十時間ぶっ通しで練習し続けた野球部でもそんなことを考えたりはしないのだ。
ただ、彼女に好意がないとはいえ――一度デートだとみなしてしまうとどうしてもこの景色を見る目が変わってしまう。例えば彼女の背景にある屋台を見ていたはずなのに、いつの間にか彼女の右手を追ってしまうなど、例を挙げるときりがなかった。
「ほら、なにぼうっとしてるの。時間と人は待ってはくれないわよ? 怠け者のベガとアルタイルが一年に一回しか会えないというように、時間というのは大切なものなの」
そんな七夕の起源を例に用いて怒らなくても。栗栖は右手をぶらりと垂れ下げ、俺に詰めよるようにして立っていた。俺は、光を浴びて艶やかに輝いている彼女の右手を握りたくて、ポケットからそっと右手を出して、でもやっぱり躊躇して引っ込めた。
昨日の指を絡めた感覚が、それを埋めるようにして蘇っていた。
「射的は一回二百円ね、三発打てるよ」
順番が回り、太陽のように輝く金色の髪をした刈り上げの男が話す。俺と栗栖は顔を見合わせて、お互いにあらかじめ決めておいた六百円を出す。合計九発。三段構成となっているステージの上段に高級景品、中段に雑貨、下段にグミやガムなど駄菓子が並べられていた。
「さあ栗栖。どれを狙う?」
銃を突き出し構えながら、俺は隣の彼女に聞いた。
「もちろん決まってるわ、一番上よ」
その回答と共に、彼女の銃身が視界の端に映る。その黒く光る銃口は真っ直ぐに、一番高価なネックレスを狙い澄ましていた。
「いいねぇ、いいねぇ。そういう威勢が良いの、俺は好きだよ」
金髪の男が短い髪をかき上げながら話す。いいやそんなことはどうでもいい、俺は冷たい引き金に手をかけて、獲物の高級腕時計に焦点を定めた。
「せーので撃つわ」栗栖は言った。
「あぁ、分かったぞ」呼吸を整えた。
掛け声が聞こえて、豆鉄砲が放たれた。
「あぁ残念、倒れなかったな。お二人さんとも良い狙いだったぞ?」
計画通り、と言わんばかりのしたり顔を男は浮かべた。全ての償いを許してきた神父でさえも笑顔でぶん殴りそうなほど腹立つ顔をしていた。
「もしかしたら、次倒れるかもしれねぇな?」
その後も俺たちは銃を構えては、矢継ぎ早に打ち続けていた。俺たちの後ろに並ぶ列、その全てから浴びる負の視線に煽られて、俺たちはまるで有り金を全て叩いた負け続けのギャンブラーのように、半ば泣きそうな目で引き金を引き続けたのだ。
「残念、倒れなかったな。じゃあまた次の機会に」
ぽつん、と軽すぎる音がして俺たちは放心気味に銃を置く。まあそうだよなあ、普通取れるわけねぇよなぁ。金髪の男が手を振るのをよそに俺たちは輪投げの列の最後尾に回った。俺は現実を見せられてやっぱりかと諦めているが、もう一人の方はそうでもないらしかった。
「詐欺よ、絶対に詐欺。絶対に取れないように細工とかしてるんだわ」
輪投げに並んでいる間、栗栖千花は憤慨していた。彼女は思いのたけを込めて地団駄を魂の限り連打している。お前、子供でももう少し大人な振る舞いをするぞ?
「もっとお金があったら絶対訴えてたわ。警察の調査力を舐めるんじゃないわよ」
そういう時こそお前みたいな探偵の出番ではないのか?
「でも正直よ、絶対あんなの裏があるわよね? 屋台の人も胡散臭そうだったし」
それに関しては否定できないのが悔しい。
「それよりも栗栖。高級品が難しいのは当たり前じゃないか。高級品が何回も当たったら商売ができないだろう? 俺たちは誘惑に負けた野ネズミのように、罠にかかってしまったんだよ」
「なんなの、それ。私が感情に任せて動く無神経女だと言いたいの?」
全く持ってその通りじゃないか。誰が言いだしてこんなとこに並んでるんだよ。
俺が栗栖の言葉に呆れて何も言い返すことができないうちに、列は流れて輪投げを迎えた。住宅街にピンポンダッシュしたら一人は出てきそうな四十代くらいの女性から説明を受けて、俺と栗栖はそれぞれ輪っかを受け取った。
「どれを狙うんだ?」
「もちろん大物」
相変わらず学習能力のない栗栖である。猿の方がまだ賢いんじゃないか? 横眼で彼女を見ると、まだ経済を知らない女子生徒のような純粋な目でねらいを見ていた。
結果がどうなったか、それは言うまでもないだろう。
「どいつもこいつもイカサマよ。全然景品が当たらないじゃない」
数十分前と同じ光景が、俺の前で繰り広げられていた。そろそろ自慢のブーツがすり減るぞ、そんな心配をしながら、俺は栗栖が高速地面連打をしているところを見ていた。
「なあ栗栖、それは俺たちが一番難しいものを狙っているからだろう?」
俺がいくら優しく説こうとも、既に鼓膜が破れてしまっている栗栖は聞く耳を持てない。
「陰謀よ、陰謀。誰かからの陰謀で私たちだけ屋台で当たらないように仕組まれているんだわ」
「言いがかりにもほどがある。ネットの都市伝説の方がもっとましなこじつけするぞ?」
「こんなものだったら私が屋台を作った方が繁盛するわ。設定金額はもちろん三百円」
「頭がおかしいんじゃないか、そんなことを考えてるから事務所が年中暇なんだ」
「うるさいな、給料十割削減するわよ」
その後栗栖から延々と屋台の経営戦略について聞かされながら、俺たちは祭りを後にした。悲しいことに会場を出ていくら周りが静かになろうとも、そんなこと関係ない栗栖は変わらず同じ声の大きさで俺の右耳に語り続けた。俺まで鼓膜が破れそうだからやめてほしかった。
そうやって歩き続けていると、この町で見たこともないような大きな建物が目に入った。建物同様に広すぎる駐車場に全然車が入っていないそれは、看板から市役所だと分かった。
「懐かしいわ。全然変わってなくてびっくりするよ」
普通市役所が懐かしいと思うか?
「そうだ、探し人をしてるんなら市役所に聞けばいいんじゃないか?」
俺がふと思いつき、それを提案すると彼女は顔をしかめて唸り声を上げた。
「うーん、それは難しいんじゃないかしら。プライバシーの観点からできないはずよ」
良い提案だと思うけどね、と栗栖は残念そうに笑みを浮かべた。
「じゃあ俺たちは、地道に聞き込みをしなきゃいけないってことになるのか?」
「そういうことになるわね」彼女は言った。
「それは面倒なことになったな」俺は両手を頭の後ろで組んで落胆の息を吐いた。
「まあ、一緒に頑張りましょう。一つずつ手がかりを捕まえていけば、きっと光明が差すはず」
そんな会話をしながら市役所を通り過ぎようとすると、ふと入り口の前に建てられた掲示板が目に入った。
「どうしたの? 市役所になにかあるの?」
「いいや、懐かしいものを見つけてしまってな」
俺はピンクやハートが散らばっている、きっと忘れることのない張り紙を指差した。
「あら、恋活パーティーとは久しぶりに聞いた名前ね」栗栖は口に手を当てて驚いた。
「事務所に来てすぐ参加しろと言われた俺の身にもなって欲しいね」
「じゃんけんで負けた君が悪いもの。自己責任よ」
恋活と聞くと、どうしても一人の女性を思い出す。青い毛先を風になびかせて、愛想よく笑ってくれた上目遣いの女の子。彼女は、今頃なにをしているのだろうか。
「なにしんみりとした気分でいるのよ、気持ち悪い」
栗栖は目を細めて俺を睨みつけた。
「いいじゃないか、人の勝手だろ」
「それにしても、この町でも同じようなパーティーをしてるのね。懲りないのかしら」
「この世界では慈善活動なんだから、別にいいだろ」
「また君を行かせようかしら」
「やめてくれ、あれ疲れるんだから」
小鳥のさえずりのようにささやかな笑い声が、二人を包んだ。
「でも、この掲示板に貼られているチラシ全部恋愛系だから、なんだか恋煩いしてるみたい」
「確かにな。まあ、好きな人と付き合えたらこの世界から抜け出せるんだから仕方ない」
この看板にはその他も様々なパーティーが開催されていて、そのパーティーごとに参加要件が微妙に異なっていた。年収が一定のラインより上の人限定や医者だけや教師のみなどの職業限定パーティー、そして好きな趣味について語り合う場など、インターネットで見た時とは絶妙に異なるものが並べられていた。
「……栗栖?」彼女の返答がなく、俺は不思議に思った。
「あぁ、ぼうっとしてたわ」
また俺をからかっているのか、彼女は頭を抱えて放心しているようだった。
俺は深く気にすることはなく、彼女が貧血持ちだったのだろうと結論付けた。こいつは普段からカッカと怒ってるし、いかにも足りなさそうじゃないか。カルシウムとか。
俺は、この時に気付くべきだったのだ。
俺が気にも留めず忘れていた、この世界の構造的な欠陥を。
それから俺たちは、一か月ほど調査を続けた。栗栖の放心癖はあれから見られることはなく、寝て起きたら彼女はピンピンするどころか目を瞑りたくなるほどの活力を周囲にまき散らしていた。俺たちは実際に出向いて張り込み調査をしたり、周辺への徹底的な聞き込み、そして出没予想を立てるなど、ありとあらゆる手を尽くした。
しかし、結果は実ることがなかった。
一か月後、栗栖は捜索の打ち切りを宣言した。
依頼者には頭を擦りつけるほどの謝罪をした。事務所の経営的にもう限界なこと、聞き込み調査も有益な情報をもたらさなかったこと、住所が依然として不明なままであること……できる限りの説明をした。もちろん依頼者の顔は晴れることはなく、むしろ曇りを強めて涙を零しているようにも見えた。だが、俺にはどうすることもできなかった。依頼失敗のため一部返金し、彼に深々と頭を下げる。自責の念に駆られていると、男は言った。
「……いいんです。気にすることは、ないんです。ただ……ただ、彼女のことが好きだと気付くのが、少しばかり遅すぎただけなんです」
彼が残すこの言葉が、妙に痛かった。
扉が閉まるその音を、俺たちは黙して聞いていた。
「終わったわね」栗栖は言った。
「あぁ、終わったな」
手持ち無沙汰にテレビをつける。昼の情報番組が流れており、役に立つのか立たないのか分からないようなライフハックを延々と放送していた。五分もしたら二人ともテレビを見ずにうなだれていた。どうやら、初の失敗に心を打たれているらしかった。足元が縛られているかのように重苦しく、なにをしようにも一体なにをすればいいのかも分からなかった。
そんな時間が粛々と流れた。テレビが別コーナーへと切り替わった時、栗栖はふとなにかを思い出したように言った。思い出してもないくせに。
「そうだ。もうそろそろ、お昼の時間ね。気分転換に、どこかへ食べに行かない?」
俺が顔を上げると、すでに栗栖は事務所の鍵を手にしていた。
昼ご飯は近場のラーメン店で済ませた。お勘定を済ませ、さてこれから仕事に戻ろうとした俺を、栗栖は身を挺すようにして防ぐ。
「私の行くところについてきて。探偵命令よ」
どこへ行くのか謎なまま、俺はルンルンで歩く栗栖の後ろをついていた。駅のバスターミナルに着くと、彼女はそこに停まっていたバスに乗り込む。首を傾げたまま俺も乗り込んだ。到着した場所を見て、俺は疑問の声を上げた。
「おい、ここ滅茶苦茶大きいボウリング場じゃないか」
「そうよ、たまにはいいでしょう?」
俺の質問に振り返った栗栖は、こともなくそう答えて自動ドアを開けた。
最初は困惑したものの、なんだかんだ良い気分転換になった。人生初めてのダーツをやったり、公園の遊具をグレードアップしたような乗馬の機械に乗ったり、俺は奇想天外なアトラクションに身体と心を動かしていた。仕事を失敗した後にこんなことしていいのかと思う気持ちもあったが、無心でトランポリンに跳ねていたると、それが心底どうでもいいように感じた。
「なんかさっきに比べて、顔色良くなったね。三十五億年前の金星みたいな顔してる」
疲れ果てて休憩していると、彼女は隣でふふっと笑った。
「次はボウリングをしようよ、ねぇほら早く」
栗栖の身体のどこにそんな体力があるんだ、あいつの背中には透明な酸素ボンベでもくっついているのか、そんなことを考えながら、俺たちはまた別のアトラクションに向かう。
それは、俺が長らく夢見ていた普通の暮らしだった。
「ほら、あと一回ストライクを出せばターキー達成だよ?」
十六ポンドのボールを片手に、彼女は端正なフォームで構えに入る。こいつの筋肉細胞は自分がボディービルダーと勘違いしているのか。一体どんな筋肉量をしているんだ。俺が柄にもなく野次を飛ばすと、栗栖は構えを解いて振り返り、飛び跳ねながらそれに応えた。「そういうのいらないから早く投げろよ」俺の怒号に近い罵倒で栗栖は笑いながら、教科書に載っているような美しいフォームでボールを離す。ピンク色の大きすぎる球体はその重さのまま勢いよく転がって行き、ピンが道を開けるように次々と倒れた。
「やったぁ、ストライクよ」
栗栖は全て倒れたレーンを見て、一目散に振り返ると天に見せつけるようなガッツポーズをした。「ターキーよターキー。ご馳走かなんかでも渡してくれるのかしら?」栗栖はスキップしだすのではないかと思うほどに軽妙な足取りで椅子に座り、興奮冷めやらぬ様子で隣の俺にまくしたてる。俺は、彼女の才能と筋力に若干引きながら、スクリーンに映し出されるストライクの演出を見ていた。
事務所に戻ると、ミルク八割のカフェラテを飲みながら、事務所のパソコンを開いた。気分転換した俺は、まあ別に今しなくてもいいことをのんびりとやっていた。たまに栗栖と雑談を交わしながら、液体を舌で転がしてする作業は仕事とは別の意味があるように思えた。
キーボードを叩きながら、内心でこんな日々がずっと続くことを祈った。そうだ、こんな日々で良いのだ。暇なときに金銭が許す限りひたすらに遊んで、無くなったらお喋りでもしながら緩やかに仕事に取り組む。誰かを尾行したり、駅前で無駄だと知りつつもビラを配ったり、いるかも分からない人を探す日々なんてこりごりで、俺はこうやってカフェラテを口にしながら一日を過ごしていたいんだ。仕事に飽きた栗栖は机の引き出しからこっそりゲーム機を取り出した。「仕事中にゲームするなよ」バレてないつもりなんだろうけど、引き出しを開ける音がもろ聞こえだ。「ばれちゃった、ごめんごめん」栗栖はそう言って、一秒後にはゲームの音が聞こえている。
三分後には俺も栗栖の近くでゲームを見ている。「そんなことするから分からないんだろ」
「うるさいな、仕事をしろ、助手」
結局大して仕事は進まずに、時間になってパソコンを閉じる。でも、充実感はある。
明日も明後日も、こんな日々が続く。
この日々を、俺は決して悪いものだとは思うわけがない。釣り竿一本で生計を立てる老人のように悠々と時間を過ごすのも、それはそれでいい気がした。今まであまり恵まれなかった人生を歩んできたんだから、もう少しだけこの日々を満喫してもいいだろう。
俺は、そんなことを考えていた。
だが、栗栖はそうでもなかったらしい。
次の日、事務所に栗栖はいなかった。
その代わり、机の上に一通の封筒が置かれていた。