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五 私の秘密


  五 私の秘密


 君に「ごめんなさい」を突き付けられてもまだ、私にはその実感が浮かばない。高校二年生の夏、それは生温い空気を吸うだけで不快になる雨と湿度が印象的な日のこと。それまで順風満帆だった私の人生は、たった三十バイトにも満たない六文字によって急転直下する。

 私は高校一年生の頃、とある男子に片想いをしていた。きっかけは単純なもので、体育祭の準備期間、私と彼の係が同じだったのだ。さらに加えて、その係の一年生は私と彼だけだったから、より濃密な時間を二人で過ごした。彼は一見すると真面目に見えるけど、でも不意にどきっとするようなことを言う。そんな姿がいじらしくて可愛らしい。気が付いた時にはもう遅く、私は彼の全てに魅了されていた。

 だから告白を受け入れてくれた時は、世界がひっくり返りそうなほどに嬉しかった。

「栗栖さんにそんなこと言われるなんて、なんか驚いたよ。僕でよかったら、是非」

 放課後の教室、初めての告白を受けて彼は恥ずかしそうに後ろ頭を掻いていた。それが言葉で表現できないほどに可愛くて、私は思わず笑みが零れた。

 この時ばかりは、全世界の中で私が一番幸福だと思った。

 これが恋か、その時の私はそう考えた。今まで誰に対しても恋愛感情を抱かなかった私が、初めて人を好きになったのだ。幼稚園児が脇をくすぐられてたまらないように、私は常にこそばゆくて落ち着かない胸を、そっと触れた。

 私は元来活発な性格だったこともあって、中学生の頃に何人かに言い寄られることもあった。

「好きです。付き合ってください」この言葉が嬉しかったのは事実だった。こんな私を真剣に考えてくれる人がいて、こんなにも良い評価を貰っている。そう思うだけで、彼らへの感謝の気持ちは一杯になった。だが、それと同時に申し訳なさも実感していた。「ありがとう」その言葉を口にするよりも先に、飛び出すのはいつも「ごめんなさい」の六文字だった。そのことに悩んでいると、小柄で目が大きく、小さい口元をした友達はいつも言った。

「千花はモテるんだし、試しに誰かと付き合っちゃえばいいじゃん」

 私には、どうしても『モテるから試しに付き合う』という論理がよく理解できなかった。

モテると付き合うは別のことであって、モテるからといって初めての彼氏を杜撰に選ぶこともないだろう。初めての彼氏は、初めての長電話、初めての遊園地、初めての制服デートを共に過ごす相手だということである。最初の相手くらい、私は好きな人と過ごしたい。

「お堅いね」

 隣にいた別の友人はそう評価した。確かにそうだ。私は、不器用なのかもしれない。

 そんな中、高校に入学して彼と出会った。仲良くなってしまった。

 付き合いたい、生理的欲求が私の心を支配する。彼の隣にいたい、彼と手を繋ぎたい。そんな恥ずかしい妄想は思い隠すほど強く、実現されないほど深く反映される。係がある当日、小テスト返却、そして帰りのホームルーム前の自由な時間。事あるごとに私は彼と話し、心はバルーンのように膨らんだ。そして、彼の前でその喜びを破裂させるように顔を綻ばせた。

 そんな中、彼と付き合ってしまった。

 私は、幸福の絶頂にいた。

「なんかちょっと恥ずかしいな。僕はこういうこと、初めてだから」

 彼が頬を朱に染めて視線を逸らしているだけで、私は君のことを好きだと感じてしまう。その甘く滑らかな声を聞くだけで、ここに生まれてきて良かったと安心してしまう。何から何まで彼の全てが愛らしい。この教室から彼と一緒の高校生活が幕を開けるのだ、それだけでモノクロの世界がパッと色付いたような、そんな華やかさと幸福を享受する。

「じゃあ、部活もないし一緒に帰る?」

 日本語の癖に、君は凄くたどたどしく喋る。私はそれが可笑しくなって、つい笑いが溢れ出る。君はそれに反応して、私も君に反応して、自然と距離が近くなる。ともすれば触れ合えそうな距離で君を見る。やっぱり君は格好良かった。誰もいないこの空間で、密かに幸せを分かち合う。それは最も原始的で、本能的な幸福だった。夕陽に染まる教室で、私たちは手を繋ぐ。夕焼けの教室は、私たちを大人にさせるのだ。

 私が想像していた以上に、交際は幸せに満ち溢れていた。一人で帰っていた夜道も、隣に人がいるだけで随分と違って見えた。暗がりにぽつりと光る街灯の下、そこで見る彼の笑顔は、青春を切り抜いたような瑞々しさに溢れていた。そんな風に彼と付き合っていることを私は、クラスメイトはおろか親友にさえも伝えていなかった。別に話すことで不利益があるわけでもない。だが、黙っていた方が心地良いと感じていた。

 私は憧れていたのかもしれない。秘密の恋というものに。あるいは、幼少期から植え付けられていた『好きだとばれることは恥ずかしい』という謎の先入観が邪魔をするのかもしれない。それは一切分からない。だが、私は秘密の恋に一喜一憂し、皆が知らない間に彼の隣を占有していることに至福を覚えた。そのことだけは事実だった。

 月に一回、私たちは部活をサボタージュして秘密の逢瀬を開始する。部活帰りとも、放課後とも取れない昼下がり。吹奏楽部の楽器の音と野球部の金属バットの音が響く中、私たちは誰にも見られず校門を抜ける。もちろん、部活帰りでもどこかで落ち合って毎日二人で帰るのだが、部活帰りと昼間では彼と会える時間が断然に違った。

 君に気付かれず、君の横顔を盗み見たいと考えながらコンビニに立ち寄った時のこと。部活を休んだ午後四時に、砂糖まみれのカフェラテを飲みながら、彼は私に質問をした。

「千花はコーヒーとかカフェラテとか、そういった系統のもの飲まないよな」

えぇ、確かにそうだね。私は首を縦に振った。

「苦いものは私の好みじゃないの」私の言葉に、彼は笑った。

「飲んでみたら分かるよ、これはちょうどいい苦さなんだ」

彼はストローが刺さったままの容器を私の前でふらふらと揺らす。唇に濡れたストローの先が光に反射して、うっすらと輝いていた。

「ミルク八割の飲み物が?」

「ミルク八割の飲み物が、だよ。人間には、このカフェラテくらいの苦さがちょうどいいんだ。苦すぎると飲んでも嬉しいとは思わないだろう? またいつか、暇なときに飲んでみると良い」

「そんなものなのね」

「そんなものだよ」

彼はそう言って一人で微笑んだ。少し間があって、「あ、そうそう」と彼は思い出したように人差し指を顔につけ、言葉を重ねた。

「ブラックコーヒーは飲まない方が良いよ。あれは別世界の、苦いという人間の本能的危険をあえて感じにいってるマゾが飲む飲み物だから」

私は、彼の冗談にくすくすと笑った。確かにそうだ。マゾヒスティックだ。


 彼のカフェラテ談義に耳を傾けた後、私たちはショッピングセンターに併設されているゲームセンターで時間を過ごすことにした。最近流行りの曲が天井から流れていて、あちらこちらでメダルやクレーンゲームが動く音が聞こえてくる。親子や大学生らしきカップルが、仲睦まじそうに筐体のショーケースを見つめていた。

「思ってたより人がいるな」

 そんなことを言って、彼は人混みの中で私の手を握りしめた。突然のことに鼓動が収まらないでいると、彼は「迷ったらいけないから」とぶっきらぼうに言った。君は私から顔を背ける癖に、私を見失わないように左手をぎゅっと握りしめる。痛くないよう力加減されている彼の右手は、私が知っているどんな温もりよりも暖かくて愛おしい。

 手を繋いで色々な景品を物色していると、視界に一匹のクマが映り込んだ。茶色で目がくりっとした、ふさふさの可愛らしいぬいぐるみ。一見どこにでもありそうなフォルムと衣装をしたそのクマは、段ボールに捨てられた猫のように私の視線を奪って離さない。

「千花はこれが欲しいの?」

 何も考えず、正直に私は頷く。すると彼は、突然こんなことを言い出した。

「オーケー、ちょっと待ってて」

 いたずらな笑みを見せた彼は、そのまま機械に百円玉を投入するとゲームに挑戦し始めた。私は慌てて彼の肩を叩く。「いいよ、そんなことしなくて」その気持ちは痛いほどにありがたいが、でも、彼に負担をかけてしまうことだけは嫌だ。それこそ『気持ちだけ受け取っておきます』とするべきなのだ。好きな人にそんな迷惑はかけたくない。私は彼にそう諭すが、彼はそんなことは関係ないらしい。

「気にしないで、これは僕がしたいことなんだから」私の言葉を無視して、彼はガラスの奥のクマに集中している。彼はに強情なところがある。でも、そんなところが愛おしい。彼に遠慮するべきだと分かっているのに、私は口元を緩ませながらこっそり呟いた。「意地悪」

 機械に視線を移すと、クレーンが下がって行って、アームが景品を掴んだ。行った、そう思ったのは一瞬で、景品は滑るようにして落ちていく。アームは虚空で空気を離し、彼はその挙動に煽られるようにしてすぐさま百円玉を投げ込んだ。景品を見る彼の目つきは真剣そのものだった。だけど、彼が本気になっているというのに、あのクマのぬいぐるみが欲しいというのに、肝心の私はいつまでも君のことばかりを見ている。君の横顔をじっと見ている。君のまじめな瞳を見ていると、ちょっとばかりの悪戯心が沸き上がった。付き合ってる人はみんなそうしてるんだし、私もこれくらい良いだろう。私はそっと君の肩にもたれかかった。

「……眠いの?」君の声が、私の骨を伝って届く。

「いいや、違うよ。こうしてみたかっただけ」

ブレザーの学生服からは、ほのかに柔軟剤の透き通るような匂いがした。私の好きな、彼の匂いだった。人が多いし、離れ離れになったらいけないでしょ。そんな言い訳を免罪符に、私は手を繋ぎながら彼の匂いを嗅ぎ続ける。彼と触れている部分が熱を帯びて、布団にいるかのような暖かさを感じる。あともう少しだけ、あともう少しだけ。そう考えるほどに、そこから離れることが出来なかった。私は、やっぱり彼のことが好きなのだ。

 結局五千円を叩いて私たちはぬいぐるみを手に入れた。「クレーンゲーム、意外と難しいな」自分の満足いく結果ではなかったのか、彼は後ろ頭を掻いていた。いいや、大丈夫。私は凄く嬉しかったから。口には言えない感謝をしながら、私は彼の潤むような丸い眼を見ていた。

「千花、欲しかったでしょ? あげるよ」

 彼は受取口から景品を手に取ると、それを私に両手で差し出した.その瞬間、私は涙が溢れそうになった。「ありがとう」目頭が熱くなるのを抑えて、なんとか口から振り絞る。彼から大きなぬいぐるみを受け取ると、柔らかい毛が私の皮膚を撫でた。その丸くてくりくりとした瞳が、私のことを無感情に眺めている。私は、何があっても一生このぬいぐるみを忘れないだろうと思った。

 袋にも入れず、それを他人に見せびらかすように両手で抱えて外へ出る。店内の喧騒が聞こえなくなるほどまで歩くと、彼の心地よい低音が耳に響いた。「これからどうする?」彼の問いに、私は「どうしよっか」と答えになってない文で答える。「だからどうするんだ?」「だからどうしよっか」不毛と分かっていながらも、そんなやり取りが温かい。激しく胸打つ夕暮れで、私は顔をぬいぐるみに覆った。

 五回ほどそんな押し問答をした後、彼がふと口にした「それを持ってたら動きにくいだろ」の一言で私たちは公園へ向かうことになった。ぬいぐるみをそのまま手に持つ私へ向けた小学生の怪訝な視線が、今日はとても愉快なもので仕方なかった。

 運よく、公園に人の気配はなかった。道草を食っている学校帰りの人が何人かいるものだと計算していたから、私は神様に感謝した。私たちを二人にしてくれてありがとう、と。公園の真ん中に建つ、屋根付きのベンチに向かうと私たちはそこで休息をとることにした。

 土を払って、両手でスカートを正してから腰を下ろす。もちろん、彼とは至近距離で近づいていた。平日で部活を休んだ罪悪感と彼の隣に座っているという緊張と興奮が私の心をかき混ぜる。何度も目にしたことがある景色が、今日ばかりは違って見えた。「なんだか落ち着くね」彼は微笑んだ。だが、私は静かにそれを否定した。だって、君が隣にいるから。

 そして夢の続きのような時を、私と彼は過ごすのだ。

 この時の私は、人生の絶頂期を迎えていた。

 卒業するまで、また卒業した後もこんな日々が続くものだと思っていた。

 だから、「ごめんなさい」と言われた時は何もすることが出来なかった。



 予兆はあった。

 最近、彼からの連絡が遅い。付き合った当初に比べて上の空のような反応が増え、まるで他人事のように空返事をすることが多くなった。メッセージのやり取りは減って、酷いときには一か月も返信が来ないこともあった。仮に彼からメッセージが来たとして、それは四文字以内に収まるものであった。『特にない』それを見る度に、遥か向こうから楼閣(ろうかく)が崩壊する音が聞こえた気がした。私は、そんな幻聴から必死の思いで耳を塞ぐことしかできなかった。

 月が上がる晩、私は携帯を開き、過去に願った。何度も見たような写真をもう一度見て、楽しかった日々を思い出し、もう一度彼の身体にもたれたいと本気で祈った。

 もっと私は、君と色んな思い出を作りたいから。

 しかし、一度ヒビが入った堤防は必ず崩れ去るように、私たちの関係も音を立てて崩壊する。

 それは、寿命を悟った蝉の声で目を覚ます、不快な夏の日のことだった。

 学年は一つ上がり、彼と付き合い始めた一年生から二年生へとなっていた。あと数回、カレンダーを破れば待望のあの日がやってくる。自室のカレンダー、赤ペンでぐるぐる巻きにされたその日にはこう書いてある。『一年記念日』

 私は数か月前からその日を待ち遠しく思いながら、部活のために学校へ行く支度をする。

 窓を開けると、雨が降っていた。重苦しい空気が肌を伝い、私は思わず頬を掻く。夏の暑さに汗をかいても、湿度が高く汗の逃げ場がない。まるで光のない檻の中にいる気分だった。

玄関を出ると傘を取り、歩みを進める。今日は私も彼も午後から練習があって、帰りの時刻は私が少し早いくらいだった。一か月前、彼から乱雑に送られた予定表でそれを知った。今は少し距離があるかもしれないけど、きっと大丈夫。ここを耐えたら、後は幸せが待ってるから。私は彼の愛おしい顔を思い出しながら、いつもより遠く感じる学校へ向かっていた。

 バスケの練習中も、私は彼のことを考え続けていた。連携の練習中、彼の横顔がよぎるたび、何度もズレを起こしてしまい、皆に謝罪する。最近、練習にうまく集中できない。

 部活が終わっても、漫然とした気分は解消されなかった。

 着替えている最中、練習終わりに友人から「千花、今日一緒に帰ろうよ」と誘われた。だが、私には予定がある。「ごめん、今日は難しい」と断った。

「千花、最近大丈夫?」断られた彼女は心配した。「どうして」私は笑って尋ねた。

「ここ一か月くらい、千花が不安そうな顔して練習してるもん」

「多分気のせいだよ」私の作り笑いを、彼女たちは疑うような目で見ていた。

地面を叩く雨音は、テレビの砂嵐と似ていた。私が重苦しい音を立てながら体育館の鉄扉を開けると、粘着質な空気が素肌にまとわりついた。外に出ると雨音はよりいっそう激しく強くなる。ふっと出した溜め息も、雨に混じって消えていた。私は何本か置きっぱなしの傘立てから自分の傘を抜き取って校門へと向かった。そこに彼が待っているのだから。

 私は、祈るようにして彼が来るのを待っていた。

 しかし、いくら待てども彼は姿を現さなかった。

彼が部活を終えた時間になっても、携帯も校門も何らかの動きを見せることはなかった。地面との衝撃で跳ねた雨が、私のすねにぴしりとぶつかる。傘は上からの降水を防げても、横からの雨は防げない。今日はその欠点をしみじみと実感する一日だった。

 それにしても、遅い。私以外に誰もいない校門は、とても静かだった。

 濡れた地面に、ただ立ち続けていた。

 何もすることなく、彼を待ち続けていた。

 ふと遠くから自転車の音がして、私は条件反射的にそっちの方へと振り向いた。

 私を通り過ぎていった一台の自転車は、彼ではないサッカー部員のものだった。

 彼が来るまで、私はさらに待ち続けた。

 結局、彼は現れなかった。

 雨に紛れて、一粒の涙が地面に零れた。

 それは一度流れると、とめどなく流れ続ける梅雨のようだった。

 私の醜くすすり泣く声が、通学路全体に響いていた。


 食事は喉を通らなかった。夕食後、熱いシャワーを浴びた。洗面台の前に立ち、ドライヤーの電源をつける。肩甲骨まで伸びた髪が、熱風に煽られて薄紙のようにひらひらと舞っていた。

 鏡に映る私を見て、思わず引き笑いを浮かべる。これはもはや、私ではなかった。

鏡の私は、夜逃げされた女のような姿をしていた。しっかり手入れしたはずなのに、徹夜した後のように枝毛が飛び出てまとまりがない。目は真っ赤に腫れ上がり、その焦点は微妙に定まらない。洗面所に漂う甘い香りが、今日ばかりは憎かった。

 ベッドに入り、彼からの連絡を期待して携帯の電源を付けた。何か謝罪の言葉でも一つや二つでも送っているのだろうと考えたが、メッセージは送られてこない。私は大きく肩を落とした。恋する人間は、お風呂上がりの携帯で一喜一憂する。携帯を確認できない空白の時間、そこに私は願いを込めて、電源を付ける。そして通知表示されない画面を見ると、もう一度電源ボタンをそっと押すのだ。

 ベッドに入ると、私は枕に顔を埋める。感情も現実も何もかも置き去って、視覚のない暗闇の世界に閉じこもる。居た堪れなくなって、足を上下に動かした。マットレスにぶつかる音や布団と足が擦れる音が聞こえた。逆効果だった。気持ちがさらに昂りそうになって、私は顔を強く枕に押し付ける。やれやれ、最近、こんなことばっかりしてないか?

 もう疲れてしまった。これではまるで、片思いしていた時と変わらない。

 片思いしていた時と、変わらない。

 自分からメッセージを送ってその返信がいつ来るかとやきもちして、彼と話すことが目標になって目が合うだけでも消極的な無限の可能性を考えて、授業中部活中休憩中に自分の欲求を晴らすためだけに彼のことを想像して胸を痛めて、私は、すっかり戻ってしまったというのか。進展したはずの関係が、心境が、私は振り出しに戻ってしまった。

 締め切ったカーテンから漏れ出る雨の音を聞きながら、私は過ぎてしまった時間に思いを馳せていた。もし神様がいるのなら、私を過去に連れてって。そう祈りながら。

 だが、神様は天邪鬼だった。私を過去に戻せない代わりに今一番欲しいものを渡してくれた。

しかし、最悪の形で。

『ごめん、話があるんだ』

 私が携帯を放り投げようと手に取った瞬間、着信を知らせるバイブが激しく鳴った。すぐに身体を起こし、携帯の電源を付けた。送信者の名前を見て、胸が飛び上がりそうになる。彼だ。

そして同時に、神の天邪鬼を知ることになる。

『どういうこと?』私は二分ほど開けて返した。メッセージを送る指先は、酷く震えていた。

 返信が帰ってこない間、気もそぞろに激しい緊張が私を襲った。それは告白した時の緊張と酷似しているようで、正反対の痛みだ。どうして、最近彼と話すだけで胸が痛むのだろう。

 数分もしないうちに、彼から返信が送られる。『今日はごめん』そして、

『ごめんなさい』と。

 良くも悪くも、彼の言葉は私を強く掻き立てる。

『用事があったんでしょ? 気にすることはないよ』

そうであって欲しかった。私は願望を書き連ねて、送信ボタンを押した。

 間髪入れずに、彼からメッセージが送られた。そして、世界が暗転した。

『ごめんなさい、用事なんてなかったんだ』無機質なゴシック体が、画面に映っていた。

 指でなぞりつつある最低の結末を、私は必死で否定する。嫌だ、私はそんなものを認めない。首を横に強く振って、乞い願うように液晶を凝視する。

『それもあって、今日は話がしたいんだ。時間はあるかな』

いつも優しかったはずなのに、今日はどうしても君が怖い。分からない。

私の肩に触れていた君は、一体どこへ行ってしまったのだろう。

『どうしたの?時間ならあるよ』私はメッセージを送る。続けざまに『もし話があるのなら、電話しない?そっちの方が伝わりやすいし』と送る。しかし、彼からの返答は『いや、メッセージのままでいいよ』の一言だった。

『でも、本当にごめん。これだけは先に言っておきたいんだ』

この言葉から、彼の話は始まった。

『まず、最初なんだけど、千花に告白された時はとっても嬉しかった』

なんでそんな話をするの。今それは関係ないのに。私は心の中でそう叫びながら、迫りくるカウントダウンから必死の思いで目を背けた。

『ほら、あの可愛い千花に僕なんかが告白されるなんて、夢にも思ってなかったから』

呼吸が荒くなる。部屋に置かれた針時計が、音を立てて刻一刻と秒針を刻んでいた。

『だから告白された時は嬉しかったんだけど、でも同時にちょっと悩んでた』

なんでそんなモノローグを続けるの。良いよ、そんなことしなくて。私に足りない部分があったら、私がなんとか努力するから。

『正直に言うと、千花のこと、そんなに好きじゃなかったから』

 全身の血の気が引いていくような衝撃が、私を包んだ。

『うん』『そうなんだ』一見傷ついてないように見える癖に、本当は凄く傷ついている。

『でも、ここで断るのも可哀想だし、僕は考えた結果付き合うことにした。もしかしたら、付き合っている最中に君のことを好きになるかもしれないし』

 私の心臓が鼓動を早めている。全てを悟った蝉のように。

『でも、ごめん』

 もうやめて。

『やっぱり、無理だった』

そして、私たちの結末を迎える――


『もう別れたい』


この時から私は、あまり覚えていない。焦り、悲しみ、苦痛、今まで経験してきた負の感情が全て一緒になって混ざり合って、言葉に形容できない感情と共にメッセージを打っていた。

お願い、お願い。私の側にいて。君の好きな女の子に、私は生まれ変わるから――

 だが、結果は変わらなかった。

『ごめんなさい』

画面に浮かぶ最後の言葉は、夜を眠れなくなるほどに眩しく照らされていた。



 次の日、学校を休んだ。その次の日、学校に行った。

 教室に入る前、彼が楽しそうに他クラスの女子と喋っている様子が目に入った。

 私はトイレに駆け込んで、食べたもの全てを吐いた。

 始業の鐘が鳴る前に、私は学校を飛び出した。



 両親は共働きということもあり、家には誰もいなかった。合鍵を持って家へ上がりながら、電話機を取って学校に連絡を入れる。「すいません、栗栖です。体調がまだよくならなくて今日も休みます」担任は子猫の心配をするように話す。「そうか、大丈夫か? まだ長引きそうか?」私も、これ以上は休みたくない。また翌日も休むと、それこそ二度と学校に行けなくなる気がした。「明日には治ると思います」受話器越しの教師に、私はそう伝えた。

正直、私の心は明日そこらで立ち直ることができないと思うのだが、それでも日々は続くから仕方ない。どれだけ自分が辛くても、過去に留まりたいと思っても、嫌なことに明日は必ずやってくる。私はやつれた体に鞭打って、明日は彼がいない学校へ訪れるのだ。

 電話を切ると、この家は再び静けさを取り戻した。今、この家には私以外誰もいない。

普段は気にしないその事実が、今になって重くのしかかる。菓子類をリビングから抜き去ると、誰もいないのに私は自分の部屋に籠って鍵をかけた。静寂を上書きするように音楽をかけて、冷蔵庫のように冷え込む温度設定で冷房をつける。もうどうでもよくなって、彼に恋してからやめていたポテトチップスを開けると一気に胃袋に放り込んだ。中に入っていたものが少なくなると、またもう一つ違う袋を開ける。今の私を止める人はもう、誰もいないのだ。友人も親族も彼も、そして自分自身も。油で汚れた手をパジャマの袖で拭くと、私は一番好きな少女漫画を開いた。

 私の人に言えない趣味の一つが、この少女漫画だ。彼と付き合ってから見向きもしなくなった本棚には高尚な文学作品や知識の結集体である図鑑が入っているわけではない。その代わり、びっしりと少女漫画が入っているだけだ。

 恥ずかしいことに、私は未だに少女漫画を見ることが大好きだった。ファンタジーの格好良い男の子が、不幸に陥る主人公を助けてくれる。そこにあるのは純粋なたった一つの愛情で、ページをめくるたびに息を呑む。読んでいるとまるで、私がそこにいて彼に恋しているような錯覚に陥る。ヒロインの一言一言に心を揺さぶられて、私は、その物語の世界で生きているような錯覚に陥る。

 物心ついた時から今に至るまで、悲しいことがあった時には少女漫画を見ていた。そろそろ大人にならなくてはいけないことは知っていた。今のままでは拗らせてしまうことも知っていた。でも、ここが心地良くて離れられずにいた。私にとって恋愛の教科書とは、目の前に並んだこの本棚であって、これが私を形成する価値観の全てだ。本棚に自分の人生が現れる、そんな言葉を耳にしたことがある。もしそうならば私は、とっくの昔からなにも成長していない。

 今日も悲しいことがあった。童心に帰って、埃を被った少女漫画を一冊抜き取る。

 ひょんなことから不登校になった主人公を救う、キラキラとした目の、ちょっと気弱な男の子との物語。『私』はカーテンを閉め切った部屋で一人佇む。色々あって、学校には行けなくなってしまった。でも、人生で一度きりしかない青春に『私』は憧れてしまっている。そんな状況の『私』に、彼は手を差し伸べた。「こういうの、どうすればいいか分かんないけど……でも、とりあえず君がしたいことをしてみない?」扇風機に吹かれて、彼の前髪がふわりと揺れた――。そこから何とか学校に通い、地道に人間関係を回復させながら、密かにあこがれていた青春を彼と共に過ごす物語。私は自ら逃げるようにして、物語の世界に入り込む。生暖かい人間関係に身を委ね、一時の苦労を忘れ去る。そして、叶わなかった願いをそこに託すようにページをめくる。私が歩めなかったその道を、そこに想像するように。

 それが、今の私ができる最大限の慰めだった。脳は過去を懐かしみ、胸は危機を感じて暴れ出す。しかし、そんな自己憐憫が心地良い。私の好きな少女漫画は、失恋による深い傷口を触りながらその痛みごと愛するように慰める。失恋の愁嘆は、こう誤魔化すのが丁度いい。要らない知識と経験ばかりが身に付いた。

 そうしてページをめくっていると、冊子に一粒の水滴が落ちた。少しして、自分が泣いていることに気付いた。彼の横顔、彼の姿、彼の笑顔、どれも全てが愛らしく、思い出す度に息が苦しい。身体が勝手に、溢れ出る涙をすすり上げてしまう。嗚咽を漏らしてしまう。とめどなく流れ続けるその涙は、私の聖書を濡らし続ける。視界がぐしゃぐしゃになりながら、大切な私の本が濡れないように仰向けになる。私は絶対にこの自己憐憫をやめることはない。

そこにある救いが、今の私の全てなのだから。

 その後も時間が許す限り、私は少女漫画を読み続ける。そこに書いてある言葉に救われる。

 たまに、彼と付き合っていた時の名残で無意識のうちに携帯の電源を付けてアプリを開く時がある。彼との思い出の日々が表示されて、私は嫌でも彼の顔を思い出す。一昨日のこと、そして今日のこと。彼はもう、知らない女の子に夢中なんだろう。私にしか話したことないあれこれを、もうその子にも話しているのだろう。私はもう、彼の隣にはいられないのだろう。

 彼と過ごしてきた一年間が、走馬灯のようにフラッシュバックする。「千花に告白されて、とっても嬉しかった」その言葉は欺瞞(ぎまん)だったのか。あの言葉が、裁判の証言のように私の頭で駆け巡る。栄光の日々を追懐(ついかい)したくなる。私は部屋の中にある捨てられない思い出の品、愛情の証拠品を物色する。彼との予定をびっしり書きこんだ予定表、彼から貰った誕生日プレゼント、彼から貰ったぬいぐるみ。そこに彼の姿を託すように、彼との記憶を愛でるように、一つ一つの輪郭をなぞる。過去の記憶は、私を慰めるとともに私の心を蝕んでいく。快楽を与える代わりに自分を追い詰める者が違法薬物ならば、失恋も似たようなものだ。駄目だと分かっていても、傷つくと分かっていても、私は彼の写真を消すことができない。

一度過去に浸ればもう最後、その深すぎる沼からは二度と戻ってこれない。

 私がこうしている間にも、彼は知らない女の子と楽しい時間を過ごしているのだろう。

 私は手帳の八月のページを開けながら、自暴自棄に大きなため息をついた。

 夏休みの予定、随分空いちゃったな。



 正常な生活習慣を取り戻すのに、二週間ほどを要した。日が昇ってから睡眠をとり、人々が眠り静まる時間帯に動き始める日々を続けていたからだ。意を決して、朝から校門をくぐり教室の扉を開けた時、同じクラスの友人だけでなくバスケ部の友人までもが私を迎えてくれた。

「久しぶり。千花に会えて本当に嬉しい」

 目に涙を浮かべながら、彼女たちは大袈裟なまでに喜んだ。私は困惑して引き笑いを浮かべたが、それでもやっぱり嬉しかった。私の居場所が、ここにある気がした。

「心配したんだから、本当に嬉しい」

 声も潤んだ彼女たちは、そう言うなり私の身体に抱きついた。今にして思えば、私は他人から抱擁されることが初めてだった。こんなにも暖かい抱擁があったことを初めて知りながら、それでも私は微かな違和感に気付いていた。

 この抱擁を、物足りなく感じていること――まだ、彼のことを完全に忘れてはいないことを。

 それからは、一見すると平凡な日々が続いた。どこの高校でも皆が体験しているような、朝の眠気と戦いながら受ける数学の授業や友人と他愛もないことを話す昼食休憩、網目のボールを追いかける部活動、そんな学園的健康的な日々を私は送っていた。一人で時間を過ごしたくなくて、私は休日の予定も無理矢理入れた。常に動き続けた。失ったねじを取り戻すように、頭を無くした鶏が意味もなく動き続けるように。

 そんな私のことを、バスケ部の友人たちは深く掘り下げることはなかった。ただ私を見守って、私が必要とした時に手を差し伸べたり笑い合ったりするだけだった。

 動いて疲れて動いて眠る。そんな日々を二か月弱も送っていると、ついに夏は終わって外ではコオロギが鳴くようになっていた。もう、終わったのだ。あの憎たらしい夏も、体育祭も。

 明日は部活が終わったら友人と街に繰り出して食べ歩きをする。私は疲れを癒すため早めにベッドに潜った。すぐに意識が落ちることはなく、瞼の裏側を眺めながら体勢をくるくると動かす。そんなことをしていると、どうしても失恋を思い出す。

 私の今の日常は、昔に比べたら充実しているはずだった。だが、どうしても心の中に巣食う虚無感が、ふとした時に存在を主張する。生きる上で欠かせない何かが欠落したような、そんな喪失感に、私は常に苛まれ続けている。それは何か、答えは既に分かっていた。

 最近、本棚の漫画が急激に増えた。

 私は、このままでは満たされないことに気付いていた。

 翌日、朝日に目を擦りながら私は部活動をしていた。何事もなく終わると自転車置き場に向かい、帰る準備を整えた。二年生置き場に呆然と立つ、鍵のかかっていない黄色の自転車に跨って、私はペダルに足を掛けた。

 友人と自転車置き場から校門まで続く極端に長い坂を下りながら、歩いている人を自転車で抜き去っていると、突然視界に強烈な違和感を抱いた。既視感にも近いそれは、下り坂を進む私にブレーキハンドルを握らせる。遠巻きから見たその人は、忘れもしない後ろ姿をしていた。

 彼が、女の子と一緒に帰っていた。

 あの時廊下で喋っていた子だ、私は過去の記憶を一瞬で掘り返し、その正体に思い当たる。

私が教室に入る前、楽しそうに笑っていた彼女だった。彼女は私のことをちらりと見ると、再び戻って冗談めかしながら彼の背中を叩く。彼は隣を向いて優しく叩き返す。

 その横顔は、私が今まで見たことないものだった。

 私の傷は、一瞬で戻ってしまった。

「ごめん」私は、友人に断りを入れ、家へ逃げ出した。

 自転車を無我夢中でこぎ続ける最中、私は思う。せっかく立ち上がろうとしたのに、どうして。彼のその横顔が鮮明なデジタルカメラのように、私の頭から離れない。何度も盗み見していた横顔と、どうしても比較してしまう。二か月余りで取り戻そうとした私の日常は、簡単に私の手からすり抜けた。家に帰り、日が明ける。学校を週一回の頻度で休むようになり、次第にそれは悪化していった。その衝撃と絶望から、友人間での会話もままならなくなった。月日がどれだけ経とうとも、私の心は癒えることがなかった。私を私たらしめる根幹の柱はとっくの昔になくなって、すっかり寡黙な人間へと変貌した。笑いたいときに笑えない。笑わなければいけないときに笑えない。ふと浮かぶ表情全て、悲しそうにしているらしい。鏡の前に立つと、私でない何かがそこに現れる。自身の精神をガリガリと削りながら、笑顔の練習をする。皆が笑ったら、表情筋を引き剥がしてでも口角を上げる。だが、それでも友人たちは私の笑顔を看過しているらしい。彼女たちの何気ない一言が、私をさらに追い詰める。

「千花、最近変わったね」

 私は、彼に囚われていた。


 ある晩、私はベッドにあおむけになり、天井を見ながら考える。

 君は私じゃなくて他の女の子を選んだ。

 ほんのちょっとだけどろっとした嫉妬が、私を襲った。

 失恋の傷はすぐに癒えるとあるが、それは嘘だ。一見すると傷は治って君のことを忘れ、私は昔通り楽しい人生を送っているように見えるかもしれない。だが、嘘なのだ。

 楽しめないのだ。世間一般的に楽しいとされていることが、心の底から楽しいと思えない。

まるで全てが他人事のように感じられるような、本気になるためのスイッチが入らないような、そんな気分に襲われる。なぜだかは分からない。考えるに、幸福を感じられるセンサーのようなものがきっと、壊れてしまったのだろう。その場限りでは楽しいと思えても、いつかに感じたような『生きていることを実感できるような幸福』は一向に感じられない。生きているまま死んでいるような、そんな錯覚に陥る。

「今日優香ちゃんがね、こんな話をしてたんだけど――」

「……そう」

 友人がどれだけ楽しい話をしようとも、私は昔のように笑顔で答えることができない。どれだけ目の前の彼女が楽しそうにしていても、私はそれに心の底から応じることができない。そう簡単には戻らない、人が真っ当に生きる上で欠かせない何かが壊れたのだ。私は、誰からも見向きされないかかしのように立っている。心の底からなにかを感じることができず、それを表現することもできない。

 私は、絶望にまみれながら変わってしまった。こんなはずでは、なかった。

 だいたいそうだ。布団にうずくまりながら、私は開き直る。大体、心の底から愛した人のことをそう簡単に忘れられるわけがないのだ。もし簡単に忘れ去ることが出来るなら、それは過去の自分に対する冒涜なのではないだろうか。私はやっぱり、過去を大切にしたい。色々あった上で、それをなかったことにするのではなく、更に上回るような人生を過ごしていきたい。

 その理想が、私をこの卑屈な世界に追いやっているのかもしれない。

 理想を捨てるのは、難しい。もう一度君と手を繋ぎたい、君の手を取りたい、君の目を見ていたい。君が笑っている所を見れば、それは何事にも比べることができない、生きていると感じられるような幸福を感じられる。でも、難しい。君は既に知らない場所へと飛び去って、私の方を振り返ることはない。それが、とてつもなく辛い。

 私にとっての理想は、今でもこうして無類の愛を捧げ続けている彼なのだ。

 だが、そんな彼はもういない。

 時が流れ、地面の堆積物が紅葉から雪に変わり、そして桜に替わった。それなのに、私の心だけが高一の体育祭に取り残されていた。あなたのことを忘れられなかった。あなたはなんともないと思うけど、私はあなたの顔を見る度に心臓の辺りが痛くなる。掘り返される尊くて鮮明な記憶が、刃物のように私の心臓を傷つける。

 高校三年生の夏、私はそこに一縷の望みをかけるように、未知の存在であった大学生活を夢想していた。そこで夢の続きを見ることができるなら。私はそう考えて、人生の全てを賭けるように勉学に勤しんだ。大学に入学したら一発逆転してやろう。そう胸に誓いながら。

だが、結果は伴わなかった。

 私は、大学生活で変わることはできなかった。

 この三年間でどうやら私は、人間関係が壊れてしまうことが極端に怖くなったらしい。きっとあの時のように断られてしまう、その恐怖感が私を躊躇させ、足踏みしたまま悩ませる。「用事があるんだ」あのとき彼に断られた分だけ、私は人を誘えなくなる。思い出がフラッシュバックしてしまう。私はどれだけ環境が変わろうと、独りぼっちのままだった。


 そんな中、世界爆発が起こった。これは私にとって、またとない好機でもあった。今までの私を知る人間は、ほぼいない。役所の人間によると、爆発者しかいないこの世界は鬱屈で、どうしようもなくて、みんなが心の闇を抱えて生きていると聞いた。これはチャンスだ。私は、もう一度生まれ変わって、今までの人生を清算することができる。

 二度失敗した理想を、もう一度掴むときが来たのだ。

 私は居住してから、すぐに恋活パーティーやマッチングサイトに登録し、なんとか自分からアクションをしようともがき続けた。だが、結果は変わらなかった。男の人と出会った瞬間、足がすくんでしまう。考えることを放棄してしまう。絶好の機会をみすみす手放してしまった私は、頭を抱える。これでは大学の時と同じではないか。愛する人を見つけようと、あの彼を忘れようとして何度も違う人と出会っても、私はどうしても言葉を交わすことができない。怖い。彼に逃げたくなってしまう。何か言おうものならば、きっと私は嫌われるという胸騒ぎが止まらない。彼に嫌われたように私は、そんなに好かれる人間じゃあないから。自信をすっかりなくした私は、男の人の隣を歩いても顔を上げることなく地面を見続けている。そんな私を見兼ねてか、彼らは終わり際に必ず一言を残す。

「今日は、ごめんね」

 その言葉が更に私を苦しめる。まるで、遠回りな皮肉を感じるようで。

 十三回目のデートも、一回目のデートと変わらない結果を残しながら私は家へと帰る。慣れない新居にて、彼がよく飲んでいたミルク八割のカフェラテに口をつける。

 やっぱり、私には苦かった。

「嘘吐き」

 頬に冷たい水滴のようなものが走りながら、視界が水滴のように潤みながら、私は彼のことを想い起こして呟く。なにが「丁度いい苦さ」だ。苦すぎる。

 何度回顧したか分からないコンビニでの会話を再度思い出しながら、私は涙を拭いていた。


 しかし同時に、このままではいけないと思う気持ちもやはりあった。それも当然で、彼に別れを告げられてから私は日常と異常の間で板挟みにされているのである。失恋以降、私は狂ってしまったように暗くなった。あの時の輝きを、私は絶対に取り戻さなければいけないのだ。

 しかし、私は一体何をすればいい。酷く迷いながら、やはり私が救いを求めるのは少女漫画だった。私の一番好きな本を振り返り、それに無類の憧憬を抱いていたことを思い出す。幼い頃、ふと目にした一冊の本。人生で初めて読んだ漫画。そこに登場する女の子が実は探偵で、一切分からない事件に対してがむしゃらに取り組み、時にはその才覚を持ってパイプを吸いながら華麗に事件を解決する――そんな姿を見て以来、私は探偵という存在に憧れを抱いていた。恥ずかしい話かもしれない。もう夢を見る年齢ではないのかもしれない。だが、私は生きている間に一度くらい、探偵になってみたかった。

 手続きが諸々終了し、あとは家具が到着するのを待つのみとなった私は、その晩に独りでパーティーをすることにした。いつもより奮発して高いおかずを食べながら、テレビを見て笑っていると、階段から足音が聞こえた。その足音は、空白だった私の隣の部屋で止まった。そして、普通に締めたらあり得ない、強く響くような開閉音がこの部屋まで響いた。

 私は気分がよかったからか、褒められたことではないとはいえ、好奇心のあまりに壁に耳を当てて隣の様子を窺った。このマンションの壁は薄く、人の声が良く聞こえる。部屋のどこかから聞こえた一度きりの宴会の音が、それを教えてくれた。

 すると、男の子のなにかをぶつぶつと呟くような低い声が聞こえたのだ。

 その声を聞いて、私は思わず両手で顔を覆った。

 どうしようもないことに、私は男の子が隣の部屋に来ただけで興奮してしまっていた。

 その状態で、私はこう考える。

 今まで、異性をそのまま恋愛対象だと思うから失敗したのではないか?

 この人と付き合いたい、だから失敗したくない、そんな消極的な姿勢が足を引っ張って、私の恋路を邪魔したのではないか。異性を恋愛対象として見ずに、まずは友達の輪を広げることから始めればいいのではないか。臆病な私はさっさと隠して、明るく元気な昔の私になりきって。昔のように、楽しかった日々を懐かしむ。私の考えは、超高温の火球がビッグバンで宇宙を引き起こした時のように偉大で、革命的なものだった。

 きっとこの世界に来る男の子のことだから、多分私と同じような人間なのだろう。この世界に来るまでまともな恋愛もせず、曲がり切った精神をそのまま伸ばして生きてきた人間に違いない。そんな彼がこの世界に来て、人間失格の判子を押されて今頃ショックで肩を下ろしているのだろう。だから私が、悲しんでいる彼をリードしてあげよう。あくまでも友達として、友達として。

 恋愛対象として見てしまうと、きっと、私はダメになっちゃうから。

 多分、誰でも良かったのだろう。私だって、昔に戻ってみたいと思う気持ちはあるのだ。

 次の日、日光が私を包むように起こしてくれる最高の朝だ。私は扉の前に立ち咳払いをする。

大丈夫。今の私は、寡黙な私じゃない。インターフォンを押した。男の子が出てきた。

 恐らく私と同じくらいの年齢であろう君を見て、私は真っ直ぐこう言った。

「……君、私の下で働いてみない?」


 それからの日々は、想像を絶するほどに幸福に満ち溢れていた。

 事務所でじゃんけんをして盛り上がったり、謎解きゲームをして白熱したり、私の滅茶苦茶にも対応して笑ってくれたりと、眩しすぎる日々を送ることができた。


 これが私の全てだ。急転直下、失敗続きの人生でようやく手にした、探偵として、人間としての平凡な成功。それは大多数の人間が普通に手に入るものであって、私にはなかなか手に入らなかったものでもある。

 だからこそ、ここで失うわけにはいかない。私が不必要なことまで君に話したら、きっと君は私との関係を変化させるだろう。見知らぬ人にお願いされて、助手になるような人だから。

 私は、守らなければならない。生きているという充実感を常に得られる唯一の居場所を。

 だからこそ、私は君に知られたくない。私が今もトラウマに悩まされ続けてきて、克服ができていないことを。人を信じ、全てを打ち明けることに対して恐怖を抱いていることを。

 今の私は、昔では信じられないくらい楽しい日々を過ごしているのだ。これほどまでに明日が楽しみなことは、あの彼と別れてから今までずっとなかったことだった。ベッドに潜るたび、明日が待ちきれずに眠りが浅くなる、そんな幸福を私は、決して手放したくはない。

 私は、他人を信じられない。

 人に捨てられることを恐れている。一人では何もできない、本当の私を知られてしまうことを恐れている。君に促されて少し私の過去を話しているとはいえ、それでも全てを打ち明けることが怖いと感じてしまっている。

 だから私は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 大学時代、世界爆発が起きて以降の、私の恥ずべき一面は、君に教えることはない。

 ごめんね、私は君に思う。河川敷で必死に私の話を聞いてくれる君の横顔を見ながら。

私は私の助手である君さえも、完全に信じることができないみたい。

 今はまだ、『探偵・栗栖千花』でいたいから。


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