四 過去とは歪みの集合体
四 過去とは歪みの集合体
あの後、俺と栗栖は事務所に戻って冷たいカフェラテを一気飲みした。苦味が舌先を刺激して、砂糖が味覚に絡みつく。甘ったるい幸福を享受しながら、俺は立ち上がる気が起きるまで栗栖の明るい笑い話を聞いていた。高校生の時の笑える失敗談や中学校でのおかしな先生、小学校でのあるあるや最近街を歩いて見つけた雰囲気よさげなカフェの話と、それは多岐に渡った。決して、恋愛の話は一言もしなかった。
深夜三時ごろ、俺はようやく腰を上げた。「ちょっと笑顔が見えてきたね、嬉しい」そんな彼女の言葉を貰って、俺は何度も感謝する。「いいよ、気にしないで。部下の体調も管理するのが上司の仕事でしょ」肩が濡れた探偵服を着て、彼女は健気に笑っていた。
部屋に戻り、気が付くと日が明けていた。どうやら眠っていたらしい。時計を確認すると短針は十二時を指していた。朝を完全に寝過ごしたようで、テレビをつけると昼のニュース番組が放映されていた。
「先日の爆発者は九千八百七十二人、昨日と比べて約二千人増大しています。帰還者は一組もおらず、依然として厳しい状態が続いています」
手書きのフリップは日ごとの爆発者を示しているが、見る限りだと四桁を割ったことはない。人口は既に二十万を越したのに、その癖して、青文字で書かれた帰還者の人数はほぼ全ての日でゼロを記録している。例えば昨日、一組がこの世界から帰還しても帰還率は〇、〇〇一パーセントしかない。果たして本当に、俺は元の世界に戻ることができるのだろうか。
一抹の不安を抱えながら、窓から新入りであろう困惑している青年を見ていた。
服を着替えて部屋を出る。事務所に着くまでの一人の時間が妙に寂しくて、俺は気持ち速足で勤務地へと駆け付けた。罵倒されてもいいから、俺は誰かの近くで仕事をしたかった。
「あら、来たの? 別に来なくてもよかったんだけど」
栗栖は客用のソファーに寝そべりながら、ゲーム機をぴこぴこと鳴らしていた。潔い。
「なんかすることもなくて暇だったから来た。何かすることとかない?」
「あるわよ」彼女はゲーム機を叩いた。「このゲーム腹立つの。一向に謎が解けなくて」
「だいたい、なんで主人公はこうも簡単に連れ去られて監禁させられるのよ。もっと抗いなさいよね。警察の人にお世話になるとか、もっとやりようがあるでしょ」
そんな身も蓋もないこと言うなよ。
「君も手伝って、この密室からさっさと抜け出すわ」
彼女がソファーから起き上がると、俺に隣を座るよう指差した。俺はその通りに座って、彼女の推理を見守った。「そこ違うだろ」「うるさい、それ以上口開いたら殺す」
そんな時間は、探偵も、事件も、この世界も、どうでもよくなるほどに幸せだった。
こんな日々が、ずっと続いていた。
一週間後のことだった。すっかり快方へと導かれた俺は時計にガンを飛ばして憂鬱な出社時刻を迎えたわけだが、やはり事務所に依頼者は訪れなかった。
「そろそろ来るかしら」「何が」
「雪山の山荘殺人事件が」
「来るわけないだろ」馬鹿馬鹿しい。栗栖は最近ようやく脱出ゲームをクリアしたらしく、エンドロールを見て「これだけしかないの? もっとクラッカーが盛大になったりしないの」と愚痴をこぼしていた。勝手にやってろ。
「あぁ、早くお客さん来ないかな。太陽だってずっと水素爆発するわけじゃないんだよ?」
そんなことを栗栖が呟いたその時だった。軽快なベルの音が、からんころんと鳴り響いた。
「はい栗栖探偵事務所、本日のご用件はいかにして?」
ソファーで寝そべっていた彼女は猫が面食らった時のように飛び起きて、素早くゲーム機を下に隠すとゴマを擦るように客に近寄った。分かりやすい馬鹿野郎。俺はそう思いながら彼女のゲーム機を密かに引き出しに戻した。
今回の依頼者は女性ではなく男性だった。まるで力一杯に曲げた針金のように癖の強い前髪をした男は、客用のソファーに浅く腰を掛けると膝の上で手を組んで待っていた。
俺がキンキンに冷えたお茶を用意して、二人で彼に正対する。それを待っていたかのように彼は重々しく口を開いた。
「一人の女性を探してほしいんです」
男の依頼はこうであった。ある一人の幼馴染を、探してほしいと。
世界爆発が起きてから、親しかった人とも離れ離れになり孤独な生活を続けていた。無言で部屋の天井を見つめる日々の中、どうしても思い出すのは幼馴染のことだった。幼稚園児だったころ、転んで泣いている時に心配してくれた女の子。小学生の時、教科書を忘れても貸してくれた女の子。暇なとき突然遊びに行っても、嫌な顔一つせず付き合ってくれた女の子。今まではそんな彼女をただの友達と認識していたのだが、この世界に住んでからようやく分かったのだ、と男は言う。彼女はただの幼馴染ではなく、自分の好きな人だったと。しかし、それに気付くのが遅すぎた。気付いた時には手遅れで、彼女はどこかへ消え去った。
今の男には彼女と連絡する手段がなく、手掛かりになるのは三年前の顔写真と名前、そして地元の地名だけ。それでもなお、男は諦めることができなかった。
「お願いします」
世界が二つに引き裂かれても、どうしても諦めることのできない恋。ふと、橋田の顔が頭をよぎり胸が苦しくなる。彼女も、その中の一人なのだ。
「気分が悪くなったら、いつでも外に出ていいからね」
俺の顔色が悪くなったのを見兼ねてか、栗栖は座る間の距離を縮めて依頼者に聞こえないようにそっと耳元で囁いた。俺は小さく首を振って、前を向いた。
「難しい、ですか」
依頼者が藁にも縋るような目つきで、栗栖にそう訊ねる。彼女は腕組みをして考え込んだ。
俺たちはストーカーに浮気調査と、対象が実在している調査のみを行ってきた。そもそもこの世界にいるかすらも不明な人を調査することは、初めての経験だった。
「私たちはまだ新興――ストーカーでしたり詐欺事件でしたり、そういった問題は対応したことがあるのですが、いかんせん人探しは行ったことがありませんので……」
栗栖は慎重に断りを入れた。しかし、男は引き下がらなかった。
「お願いします。もう行く当てがないんです」
俺を心配してくれるような人間が、そんな人の依頼を断れるわけがなかった。
「分かりました。顔を上げてください。できる限り、探して見せますよ」
その言葉を聞いた瞬間、あれほど暗かった男の目が燦々と輝いていた。
「それで、お探しの方のお名前と地名、あと顔写真の方を控えさせてはよろしいでしょうか」
男は二つ返事でそれに応え、携帯画面を見せつける。顔写真のデータは仕事用のメールアドレスに送るように指示し、そして名前と地名を聞き出した。
その時、栗栖の顔が明らかに硬くなった。
その微細な変化を、俺が見逃すわけがなかった。しかし、俺は深くは気にしなかった。
男が帰る時、彼女は満点の営業スマイルで見送った。そして扉が閉まった時、一変して彼女は無感情、虚無に溢れた顔で窓を見た。
「引き受けたけど、これからどうやって調査するんだ」
俺の質問は聞こえなかったらしい。「なに?」憂鬱そうな声が部屋を滑る。
「どうやって調査する? この依頼」
「とりあえず現場に行ったら何か動きがあるでしょう」
あまり気乗りしないような雰囲気だった。彼女はどこか上の空で、椅子に座ってはずっと窓の向こうを眺めていた。動いたと思ったら髪の毛を耳にかけて溜息を漏らすのみで、常に何かを話している栗栖にしては珍しかった。まっすぐに落ちるマーロンカラーの髪を見ながら、俺は飲みかけの麦茶を口にした。
「そういえば栗栖、今はゲームをしないんだな」
俺は栗栖に話しかけた。元気づけようだとか、そういった理由は特にない。
「そうね、確かに。私は真面目だから。そんなことでさぼったりはしないわ」
「よく言えたな、そんな言葉。タバスコを口に咥えた火吹き職人でもそんなこと言わないぞ」
栗栖は鼻で笑って「全然意味分からない例えを出されても分からないわ」と苦言を呈した。
彼女の表情が緩んで、やっぱり俺は言いようのない達成感に満ちた。
ちなみにこの例え、数週間前に栗栖が言っていたものなんだけどな。
なんだかんだで会話は微妙な盛り上がりを作ることに成功し、栗栖はカバンを手に取った。
「じゃあ、明日は朝八時半、駅集合ね」
別れの手を振った栗栖は扉を開ける。今日は、少し高めのスイーツでも買おうかな。俺はそんなことを考えながら駆け足で事務所の鍵を手に取った。
次の日、俺は午前八時二十三分に駅前の噴水へ辿り着いた。雀が朝の涼しさにぴよぴよと羽を伸ばしている頃、栗栖千花は噴水付近で腕組みをして立っていた。
「遅い、遅刻よ」
こいつは時計が読めないのか?
「二十三分だろう。これの一体どこが遅刻だ」
「探偵が先に来ているのに助手がその後に来るなんて普通あり得ない話でしょう? 普通は上司よりも先に部下が集合場所についておくものよ。これくらい社会の鉄則じゃないの」
「じゃあ聞くけどな、栗栖は一体何時にここに着いたんだよ」
「朝の八時よ」
「はなから遅刻させる気満々じゃねぇか」
「君が七時に来ればいい話じゃない」
栗栖は自信に満ち溢れた顔をして言い放った。なんとも憎たらしい。というか、そうしたいのなら集合時刻を七時にしろよ。なんで八時より先に来ることを求めてんのに集合時刻が八時半なんだよ。無理がありすぎるだろ。
「多分今、君こう思ったでしょ。『なら集合時刻をもっと早めろ』と。甘いわ。例え七時に集合するとしても、私は六時半に駅前に着くのだから」
読心術者め、こいつはもう探偵じゃなくてそっちの道に進んだ方が早いんじゃないか?
一本取った気でいる彼女は、放っておいたらスキップをしだすんじゃないかと思うほどに軽妙な足取りで駅舎の方へと向かった。ちなみにこれは調査のため、もちろん栗栖は探偵服だった。即興的に開かれた参加者一人の駅中コスプレ大会で優勝した彼女は、ホームで列車を待つ人々全員の視線を集めて堂々と正面を向いていた。
「まだかしら、列車が来るのは」
俺が一番それを思ってるよ。恥ずかしさから体が熱くなり、暑くないのに汗が出そうだった。
栗栖の機嫌がよかったのは、ここまでだった。
この瞬間を最高潮に、彼女は再びブルー色のオーラを放つようになる。まずその前兆として、電車の中での彼女はとても静かだった。あれほど列車が来るのを待ちわびていた癖に、話しかけても安物のAIのように適当な相槌しか打たなかった。主語と述語があるまともな文章で帰ってくることはごく稀で、息を吸う時間よりも吐く時間の方が圧倒的に長かった。そんな彼女の眠たげな睫毛を見ていると、俺もどうしてか外の風景を眺めたくなっていた。
「終点に着いた、やっと降りられる」
時間にしておよそ二時間ほど、一路線の始点から終点まで電車に揺られると凝り固まった腰が悲鳴を上げていた。立ち上がり腰に手を置きながら、電車から駅舎に足を踏み入れる。青空が広がっているほか何もない、建物ごと夜逃げされた後のような風景が広がっていた。
改札をくぐり目の前にある出入り口を抜けると、反対側の駅前は流石に整備されているのか、思わず寝そべりたくなるような大きさの交差点が広がっていた。まあ、寝そべらないけども。建物が軒並み低いことには見て見ぬふりをする。
「さあ、栗栖。ここからどこへ行くんだ?」
金属イオンの沈殿反応のようにダウナーな気持ちを吹っ飛ばすべく、俺は腹から声を出して栗栖に話しかけた。彼女は、俺に目を合わせることもなく呟いた。
「そうね……探し人の生家がこの付近だから、まあ町を回りながら小学校にでも行こうかしら」
反応されないことに悲しみを覚えつつ、俺は栗栖が歩くところをついて行った。事前に調査しているのか、彼女の足取りは迷いがなかった。少し歩くだけでハリボテの裏側を見るように建物から田んぼの姿が現れる。収穫のシーズンで、穂も田も黄金色に輝いていた。
「この世界でも、一応田畑はあるんだな」
「まあね。臨時政府が管理してるし、職を無くした人が適当に田んぼ見つけて占領してるから」
そう呟く彼女はどこか感動している様子でもあったが、あまりの田舎に感銘を受けているのだろうか。幾年の時を重ね変色した薄灰色の信号機を見ながら、しばらくすると小学校らしき建物に辿り着いた。
校門には柵がかけられていて、明かりからは人の気配を感じられなかった。
「簡単に入ることは難しいようね」すると彼女は、柵を掴んで足をかけはじめる。
「おい栗栖、お前何やってんだよ」
「見たまんまよ。不法侵入」それが正義の味方のすることか。
「どうせこの世界に小学生なんていないから、無断で入っても誰にも怒られないわよ」
今日一日中俺の言葉を聞いていない気がしながら、俺は逡巡した後、周りを三回ほど見まわしてから黒い柵に手をかけた。
丁寧に下駄箱に靴をしまう栗栖を見ながら校舎の中に入ると、確かに彼女の発言通りライトを持った巡回員は見当たらなかった。廃ビルのように薄暗く静寂な学校は、俺の靴音を四つ向こうの教室まで響かせる。向こうの世界では、今頃給食を運ぶエプロン姿の児童が歩いているのだろうか。もしそうなら、この世界が無益なものに思えて嫌になる。
廊下の隅に溜まる埃や全力で蛇口にしがみつく紐に垂らされた石鹸を見ながら、栗栖は適当に開けた教室に入った。背丈の低い椅子と机が等間隔で並べられている。
「なあ、探し人は本当にこの世界にいるのか? 俺はいないような気がするが」
「さあね、依頼者によると彼女は誰とも恋愛関係になったことがないらしいけど」
その後も教室を見て回ったが、俺たちはあまり芳しい結果を得られなかった。小学校を諦めるとその足で昼食休憩を取った。近くにある大型ショッピングセンターに向かうと、彼女は何も見ずに階段を上る。どうやら二階建てらしいその建物の、比較的目立つところにあるフードコートで彼女は座った。
「なんでもいい」どうやら、俺をこき使うつもりである。
「でも君と違うものが良い」じゃあ何でもよくないじゃねえか。
仕方なく俺は財布から金を取り出し、わざわざ別の料理を頼み、トレーをテーブルに置く。
「ありがとう」彼女はそう言って、視線をラーメンに落とした。
昼食を食べ終わると一縷の望みをかけてショッピングセンターをくまなく回った。もちろん、そんな都合よく女が現れることもなかった。これまた大した収穫がないまま、俺は栗栖がゲームセンターに昔から置いてあるクマのぬいぐるみを子供のような目で眺めている所を見ていた。
「欲しいのか?」
「いいえ」彼女は目を逸らした。
今日俺は一体、何をしていたんだろう。散歩しかしていない一日に五百円玉をどぶに捨てた時のような物足りなさを感じつつ、店を出ると中学校も調査をしたがやはり無意味だった。この調子だと結果は見えているのに、どうやら栗栖は性懲りもなく学校巡りを続けるらしい。無言の彼女は荘厳な雰囲気を醸しつつ、山の上に建つ校舎に向かってまっすぐ進む。
あんまり成果が得られない日に限って良くないことが起こるのは、洗車をすれば雨が降るようなものなのだろうか。俺たちがその校舎に向かっている途中、正面から二人組の女が陽気に手を振って近づいてきた。驚いた俺は目を凝らして顔を確認するが、当然心当たりはなかった。
「あ、もしかして千花ちゃん? 私のこと分かる?」
毛根部分が黒く色落ちした髪が特徴的な女と小柄で目は大きいもののどこかネズミを彷彿と察せるような顔つきの女は、そう声をかけるなり栗栖の奇怪な服装に群がった。二人の表情からは休日を謳歌している様子が窺えて、俺はひとまず肩を下ろす。ストーカー予備軍とか、そういったものではなくて安心した。
「私たち会うの久しぶりじゃない? 最後に会ったのが高校の卒業式だから二、三年くらい?」
しかしなぜか栗栖は、逃げるようにして目線を逸らしていた。
「なんかすごい服装変わったね。前は大人しめな服着てたのに、なんか垢抜けた?」
少し前に見たような苦笑いが、彼女の顔に浮かんだ。
「でも、結構似合ってるよ。流石千花ちゃんって感じ」
栗栖はぼそりと「ありがとう」と呟いた。その言葉に嬉しくなったのか、二人は口角を上げて彼女の肩を叩く。彼女たちが出会ってようやく和やかな雰囲気が流れる。
しかし、俺がほっとしたのも束の間だった。
二人組のうち、金髪の女が話しかける。
「そういえば、あの男とはもうないの?」
ほろ苦そうに目を細めていた栗栖が、突如大きく刮目した。
彼女は、質問に答えず小さく肩をわななかせた。まるで答えたくないと言わんばかりに。
そして、栗栖は二人の手を跳ねのけて前へと走り去ってしまった。
突然の出来事に彼女たちは呆気に取られ、彼女の背中を見ることがやっとの状態だった。彼女たちはその罪悪感から逃れようとしたのか、お互いに目を合わせて不可解だと言わんばかりに肩を竦め、俺の横を通り過ぎた。
俺には、栗栖の心情が見て取れた。
走り去る直前の彼女は、壊れる寸前の水晶玉のように脆かった。
その表情をフラッシュアップすると、俺は全力で走って彼女の後を追いかけた。こんなに本気を出したのはいつぶりだろう、高校以来のことだろうか。どこかへ去ってしまうことを危惧していたが、どうやら彼女は校門にもたれかかって待っていた。しかし、今日の朝のように腕組みをしているのではなく、いつぞやの昼下がりのように両手でバッグを持ち、意気消沈した目で俺を待っていた。
膝に手をついて両肩で激しく呼吸をしながら、言葉を繋げるように俺は話す。息苦しい。これは雨の日のシャトルランを思い出す。
「待ってて、くれたんだな」
バツが悪そうに「まあ、それはね」と答えた。
「いきなり逃げちゃったんだから、待つことくらいはしないとね」
雨上がりの早朝、双葉にかかる露のように、すぐにでも消えてしまいそうな声だった。
「そうか、ありがとう」
こんな声をかけることしかできなかった。
それ以上言葉を交わすこともなく、学校の敷地に入った。校門に彫られた学校名を見る限り、ここはどうやら高校らしかった。開きっぱなしの昇降口を通ると、彼女に習って下駄箱に靴を入れた。俺が適当に目についたものに入れたのに対し、彼女は違う列の下から二段目廊下側というえらく限定的な場所に靴をしまっていた。廊下に置かれたスリッパを取り出して、教室棟の方へと向かう。歩く度に踵が浮いて、間抜けなパカパカ音が鳴っていた。
「私、この街に住んでいたことがあるの。具体的には、高校卒業まで」
生徒用ロッカーが立ち並んだ廊下を歩いていると、彼女はそう独白した。
「だから今日行った小学校に中学高校、そしてショッピングモールはよく覚えてる。学校までの道のりだったり、私が使った教室や席だったり、地図を見なくても簡単に分かった」
彼女は適当な教室に入ると、捜索人の足跡を見つけながらその席に座った。
「この席が私の席だったかな。高校一年生の時、私はここに座って授業を受けていた」
窓際の列、後ろから二番目。彼女はそこに座ると、頬杖をついてぼんやりと黒板の方を眺めた。その憂愁を帯びた視線は黒板に向けてではなく、どちらかというと黒板付近の席に向けているようだった。卒業したのに高校生のふりをするのが恥ずかしいのか、彼女は足首を頻繁に組み替えて落ち着きがなかった。
「高校生だったら席替えをするだろう。席替え後の席は考慮しないのか」
「別にいいでしょう。一年生の時と言えば、私はこの席をイメージしたってだけ」
他意はない、彼女は付け足した。しばらくして彼女は立ち上がると、その視線が向いていた先、つまり教卓のすぐ近く、真ん中の列一番前の席に近づいた。他のものと何も変わらない平凡な机だったが、彼女はその輪郭を特別なもののように撫でていた。彼女は指を動かしながら、なにやら思い詰めたように目を細めていた。
教室を出た後、中庭や音楽室、部室棟に校舎の外階段などを見て回った。もちろん、今日調査し回った時のように効果は薄く、狙ったものを手に入れることはできなかった。それでも得られたものを挙げるなら、教室巡りをする度に栗栖は過去を懐かしむ顔を見せて、すぐに自傷的な苦しみを浮かべていたことだった。彼女が旧友から逃げた時に見せたあのガラス細工のような目を、俺は伏し目がちに見ているのみだった。
学校を出る最中、栗栖は何度も名残惜しそうに後ろを振り返っていた。俺はそんな彼女に手を差し伸べようとして、でも勇気はなくて引っ込めた。邪険に思われたくなかったから。
校門を抜けると左右に広がる大きな坂を下りつつ、強く網膜を刺激する西日に目を細めた。向こうの世界では丁度、部活が終わって家に帰る時間なのだろうか。気配がない学校を後にした俺は、ふとそんなことを考えた。今俺が歩いているこの道も、向こうでは学生がひしめき合っているのだろう、と。
高校を卒業し、大学に入った。そしてあの世界に馴染めずに、この世界に追放された。
社会から、隔絶された気がした。
俺も数年前は向こう側だったのだ、自分をそう懐かしむ。部活仲間と肩を並べて帰って、明日の宿題を憂鬱に思いながら結局何もせずに当日を迎える。対した成果を上げずとも、将来に対してのぼんやりとした希望に満ち溢れているような日々が俺にもあった。
今では、こうなってしまった。
どこで間違ったのだろう。自然と、ストーカー男を回想した。探偵服を着た女と、どこにでもいるような服装の男は、明るかったはずの未来と過去に思いを馳せながら歩いている。目的地も不明なまま進み続けるこの道は、きっと彼女の通学路なのだろう。
河川敷の上を歩いていた。退勤したスーツ姿の男が自転車に乗ってすれ違う。もう三台ほど同じような自転車が通り、川辺でたそがれていたカラスが空を飛んだ。これからどうすればいいのか、そんな仔細な問題を風に飛ばして先送りにしながら。
「なんか、帰省ってあんまり楽しいものではないわね」
そよ風が吹く音に紛れて、彼女は小さな声で俺に伝えた。
「確かにな、でも、結構懐かしそうにしていたじゃないか」
「まあね。実際に懐かしかった。……でも、良くない意味で」
そう呟く彼女の声は、茜色の空に溶け込んで消えてしまいそうなほどに小さい。その囁きは暗に、俺に話を聞けと指示されているような気がして、俺はその指示通りに従った。
「高校時代に、何かあったのか?」
嫌われたらどうしようと、卑屈な考えが頭をよぎった。多分彼女はそんなことしないだろう。だが、そう勘繰った。俺はどれだけ綺麗な絵を見ても、染みを見つけるのが上手いのだ。
「えぇ、まあ、多少はね」
彼女は俯くと、足元の小石を蹴った。地面に転がって、道草の方へと消えていった。
「どんな思い出なんだ?」
「答えたくない」
彼女はそっぽを向いて答えた。
「そうか」
一羽のカラスが、山の向こうで鳴いていた。
振り向きざまに見えた彼女の顔は、何年も胸につっかえて取れない苦しみを吐き出すべきかどうなのか、その狭間で葛藤しているようだった。言おうとして、でも言えなくって、結局はそれで関係が変化することが怖くなって、そんなもどかしさが、彼女の表情、態度、声色全てに現れていた。その後ろ姿はまるで、鏡越しの自分を見ているようだった。
俺は以前、嘘をついた。一つ目の依頼、浮気調査の張り込みの時。彼女がいたのか、そう聞かれた俺はいるはずもない彼女をいたと答えた。その時のように、彼女も密かに抱え込んだコンプレックスが今、腫瘍のように膨らんで痛みを上げているのかもしれない。
この世界は、皆誰かしら心の闇を持っているのだ。
「答えたいけど、答えられない」
この世界は、この言葉で成り立っている。
そんな解決しないジレンマは自分の首を絞めつけるだけ、そのことについては重々分かってはいるつもりだった。だけど、俺はどうしてもできなかった。『人に馬鹿にされるかもしれない』『自分を見る目が変わるかもしれない』一度でも脳裏によぎったその瞬間、俺は恐怖に足がすくんで動けなくなる。そして決まって、そんな自分を醜い人間だと自己嫌悪する。
「栗栖」だから、俺は声をかけた。それがひいては、自分を救うことに繋がると思って。
「俺には、栗栖の苦しみが分からない。なぜならそれで、俺は悩んでいないから」
細く艶のある栗色の髪がふわりと揺れていた。
「でも、栗栖には分からない悩みが俺にもある。栗栖以上にくだらない悩みを持っている。だから、なにかに苦しんでいるのは栗栖だけじゃない。俺もいるんだ」
今彼女を振り向かせる言葉、そして俺を納得させることができる言葉、それは一体なんだと自分の頭で考える。様々な言葉を思い浮かべる。今まで生きてきて、俺は何度も恥ずかしい思いをした。その時、俺がかけられたかった言葉はなんだ。じっと考え、言葉を紡いだ。
「それはこの世界の人間に限った話じゃない。向こうの世界の人間だって、俺たちには到底理解できない悩みを持っている。自分は駄目だと思うほどには、他の人も劣っているんだ。いくら自分が恥ずかしいような話でも、聞いた一秒後には忘れているようなくだらない話なんだ。『へえ』この二文字で終わって、何も気にせず次に行くだけだ」
栗栖は驚いて俺の方を向き、俺の視線を直視する。
そして俺は、最後の一言を口にする。
「無理に気負わなくてもいいぞ。俺は何も思わないから」
彼女はしばらく口を閉じたまま、放心しているようだった。その視線の先には、雲が悠々自適に赤い空を泳いでいた。
俺が今まで本当にかけられたかった言葉。それは『何でも聞く』だとか『馬鹿にしない』だとか、『慰めるから』とかじゃない。ただ、ただ『何も思わないから』という言葉だった。慰められたいわけじゃない。余計自分がみじめになるから。馬鹿にされたいわけでもない。それが怖いのだから。ただ、吐き出させてほしい。今更ながら、そんなことに気付いた。
「そうね……」
彼女は絞り出すように呟いた。西日に照らされる彼女の横顔は、やはり儚くて美しかった。
あの時に交わしたいびつな同盟関係が、破られようとしている。
彼女が沈黙したまま、しばらくの時が経った。
栗栖千花はめらめらと燃える夕陽を背景に、俯いて、首を左、今にも崩れそうな表情で地面を見つめている。口が動いて、でもやっぱり閉じて、小さいこそせわしなく動くその唇は、まるで小学生が描くようにガタガタと揺れていた。誰にも明かせない秘密を抱えて、栗栖は苦しみに悶えていた。できる限りその表情を他人に見せないように、彼女は両手の指に力を入れてその悲しみを誤魔化していた。今まで背負ってきたトラウマのような過去に正面から向き合って戦っていた。身体は小刻みに震えていて、事務所で見る彼女とは違い、その姿はまるで小動物のように朧げだった。
どこかから走り去る車の音が何台か聞こえて、しばらくの時が経った。どれほどこうしているかは分からない。三分とも、三時間とも取れる長い時間が俺たちの間を流れた。
やがて決心したかのように、彼女は口を開いた。
「少し、河川敷で休憩しましょう」
彼女は芝生の生えた堤防の坂に座り、俺を横に招いた。
そして、ぽつぽつと語り始めた。