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三 ぐにゃりと曲がった心の芯


    三  ぐにゃりと曲がった心の芯


 時は遡り、恋活パーティーを終えた翌日のこと。つまるところ、俺はまだ一個目の依頼の調査中でもあって、そんな間に始まったちょっとした出来事だ。

 がやがやとした雑踏、カッコウの声を出す信号機、それと同時に動き出す車のエンジン音、そんな音と呼ぶに惜しい雑音を聞きながら、俺は駅前の噴水に座って空を見上げていた。

絵の具をそのまま塗りたくったような青空に、浮き輪のような雲が悠々と浮かんでいる。正面を向いて腕時計を眺める。午前九時五十六分。三秒に一回は腕時計を見ている気がするが、そんなことはどうでもいいだろう。何もすることがないから、俺は着ている服をもう一度確認する。毛玉だったり髪の毛だったりが落ちてないか、他人の粗探しをするように事細かにチェックした。出会ったその瞬間が大切なのは俺でも分かる。どうすればいいのかは知らないが、とにもかくにも俺なりに全力を尽くさなければならない。

「成瀬さんですか? 待たせちゃってすいません」

 橋田佳織は、俺を見つけると近寄りながら手を振った。

「あぁ、大丈夫です。俺も今さっき来たところですから」

 集合時刻の二十分前から彼女を待っていたくせに。なんて言葉だ。

 恋活パーティーが終わり、自室に戻った時の話になる。パーティー会場で橋田と連絡先を交換した後、家に戻ると橋田から不在着信があった。『橋田佳織です。お仕事終わったらまた電話してください』俺は寝そべりながらそのメッセージを確認した。

そういうわけで、俺と橋田は深夜にやり取りしていたのだ。

「成瀬さん、パーティーの話を覚えてますか? この街の観光名所、一回行ってみましょうよ」

お互い翌日が空いているということで、駅前の噴水に朝十時集合で話がついたのだった。

「まさか本当に来てくれるとは思えませんでした。てっきり、今日は来ないものかと」

「どうして」俺は笑った。

「なんとなく、初対面の人と待ち合わせるって逃げられるイメージがありませんか?」

「全く持って分からないです」俺は笑顔で彼女の言葉を否定した。

「なんで、分かって欲しかったですよ」俺の返事を聞いて、橋田は身体を揺らして笑った。

「じゃあ、行きましょっか。成瀬さん」

 頷き立ち上がると、横に並んで駅を歩いた。異性の隣を歩くとよく『世界が変わったように見えた』という表現がなされることがあるが、それはこんな意味なのだと改めて体感した。彼女と呼吸のリズム、歩くスピード、歩幅全てがシンクロし、まるで自分が生まれ変わったかのような錯覚を得る。これがきっと俗に言う『恋が始まる瞬間』という高揚感なのだろう。

俺はこの歳になってまで、この感覚に心を奪われた。鳴りやまない鼓動の音は、身体全身に至福を行き渡らせている。『俺に彼女が出来る』という優越感が、俺の細胞全てを活性化させている。正確には俺は栗栖の横を何回も歩いたことがあるのだが――まあそれはノーカンでも許される。

 電車に乗り五駅ほど過ぎると街の風景はがらりと変わった。「どうです、凄いでしょう」橋田が言った通りに、街はモダンな現代建築から一世紀前の日本家屋へと姿を変貌させた。土産屋に、博物館に、休憩処。それらは今までの現実を忘れさせるほどに美しかった。

「凄く綺麗でしょう」彼女は誇らしいのか、愉快そうに同じ言葉を繰り返していた。

「ここのお茶、すごく美味しいんですよ。成瀬さんもお茶しましょうよ」

 入るのに躊躇していると、橋田がたちまち愛くるしい妹のように俺の腕を引っ張る。柔らかい腕が自分の腕に絡みつき、人の体温を感じられる温もりに俺の鼓動は興奮を示す。胸の高鳴りに応えるかのように、彼女はもっと濃密に腕を絡めて店に押し入れようとする。

 身体が、熱くなった。

 簡単な昼食をそこで済ませたが、俺はまともに味を覚えていられるような状況ではなかった。経験したことのない興奮が胸を突き、彼女が笑う度に自分の胸がぐらりと揺れている。

 その後、美術館を回った。パルテノン神殿のような厳格で洗練された建物に入る。教科書に載っているような名画が前にありながら、俺は、隣の彼女ばかりを見ていた。この緊張が彼女によるものなのか、それともこの厳かな雰囲気によるものなのか、俺には分からなかった。

 ただ、それは悪いものではなかった。

美術館を出ると、ポケットにしまっていた携帯が振動していることに気付いた。

「少し携帯が鳴ったみたいで、失礼します」

 俺は彼女に一礼を述べると背中を向けた。携帯を取り出して電源をつけると、俺は拒否反応を示しそうになった。栗栖の二文字が中央に大きく表れていた。不在着信の通知だった。

『栗栖千花:不在着信 二十件』

 普通一回かけて無理だったら諦めろよ。俺は数秒後にきた二十一件目の着信に応じた。

「遅い、早く電話に出なさいよ」

電話が繋がるとすぐ、栗栖の叫び声がこだました。

「仕方ない。今日は休日だぞ? 普通休日に仕事の電話をすぐ取れる奴なんているわけがない」

「うるさいわね、私たち栗栖探偵事務所には休みの文字はないのよ。私たちの一週間は月月火水木金金で出来ているのよ」

なんてまぁブラック企業に嬉しい暦が存在しているんだ。

「それで? 休みに電話までかけてきて、一体何の用事なんだ?」

「仕事よ、仕事が来たのよ」

電話の向こうで笑みを浮かべて小躍りする栗栖が想像できる。

「仕事か、とりあえず俺は休日だから切るぞ」

「休日じゃないわ。待期期間よ待期期間。意味を三十分かけてじっくり説明してやろうかしら」

やめてくれ、通話代はどうせ俺持ちなんだから。

「とりあえず今来てくれる? 仕事の打ち合わせをしたいの」

俺が遊びに行っている可能性くらい考えられないか。

「どうせ今は家にいて何もせずゴロゴロしてるだけでしょ、早く来なさい」

「俺のことを何だと思っているんだ。今俺は外出してるんだ、悪いな」

栗栖は少し黙った後、「嘘吐き」と俺を罵った。なにも嘘はついてねえよ。

「どうしても無理かしら? 明日には調査に移りたいの。今すぐ打ち合わせしたい」

当然それに対し俺も反論はしたが、平行線をたどる話し合いの末折れることを知らない栗栖に悪態をつきながら、今すぐ事務所に向かうことになった。

「じゃあ頼むわよ、五分で来なさい?」

録音しとけばよかった。労働基準法がウキウキでリングへ上がるに違いない。

俺は一方的に通話を切ると、橋田の方を向いて両手を合わせた。

「すいません、何十分も話し合いしてて、待ってもらって申し訳ないです」

「いえいえ、全然いいですよ」

「さらに申し訳ないことを今から口にするんですが、仕事で急用ができて帰らなければならないんです。それでも大丈夫ですか?」

彼女は数秒ほど悲しそうな目をした後に、それを悟られまいとするような笑顔を見せた。

「いえいえ、全然大丈夫です。今日は楽しかったですよ」

その声に、若干の失望が混じっていたのは言うまでもないだろう。

「補填日を作るから、またその時に遊んでもらえたら嬉しいです」

「そうですね、期待してます」

橋田の視線を感じながら、俺は足早に事務所の方へと向かった。



 肩で息をして事務所の扉を開けると、栗栖は優雅にカフェラテを決めながら雑誌を読んで過ごしていた。いつものコスプレもどきな探偵服を着た彼女は、疲労困憊の俺を目にしていかにも自分が名探偵だと言わんばかりに立ち上がり、澄ました顔でこう言った。

「助手。貴方が来るまでの時間、事件はもう進行しているのよ」

「少しくらいは黙っててくれないか」

 俺はカバンを応接用の机に投げると、ソファーに勢いよくもたれ掛かる。

「それで? 仕事の打ち合わせってなんだ? まさかビラ配りとか言わないだろうな」

「当然言わないわ。それは今後百年で太陽が超新星爆発を起こすくらいにはありえない」

 ならよかったが、お前は寝て起きたらこういう発言を平気で撤回しそうな人間だからな。

「今日君を呼びつけたのはほかでもないわ。事件の依頼が来たからなの」

 そんな言葉を口上に、彼女は簡単な事情の説明を述べた。

「今日の午後二時ごろにストーカーに悩んでる女性の依頼者様が来たわ。警察にも相談してみたらしいんだけど、まあ相手にされなかったそう。警察の言い分も分かるけどね。ストーカーしそうな奴ならまだしも、ストーカーされそうな奴なんてこの世界にいないから」

「でも、本当にいたって話か」一応、聞いているアピールの相槌を打つ。

「そうね。ストーカーの咳や声から、容疑者が男であるということは確定しているわ。ただ、暗がりの中だから名前や身長、体格などは分からないけど」

「そうかそうか」俺は何度も頷いた。そして、当然の疑問を口にする。

「で? それで俺がどう関係するんだ?」俺の質問に、栗栖は目を丸くして答えた。

「簡単よ、尾行してもらうの」

栗栖は息を吸うと、「まさかとは思うけど、気付いていなかったの?」と続けた。

一応確認なんだが、俺は助手で栗栖は探偵なんだよな? なんで探偵の仕事を俺がやって、助手がやる仕事を栗栖がやっているんだ? どっちかって言うと、多分役割は真逆だよな?

「なんでいつも俺ばかりが尾行係なんだよ。たまには栗栖もやってみたらどうだ」

 俺が檄を飛ばすと、彼女はお得意の憎たらしいにやけ顔をした。

「私はストーカー男でも浮気男でもない、また別の依頼があるから。だから、よろしくね」

 従業員が二人しかいないのにどうしてまた他の仕事を引き受けたんだ。もっと考えろよ。


 数時間後、俺は車を走らせて現地へと向かっていた。規模間だけはでっかい交差点で信号待ちをしている間、手元の紙を一枚取った。栗栖が尾行情報と称して彼女の個人情報に当たる職場や着ていく服、顔などをメモにまとめてくれていた。それによるとどうやら、今日この日を逃すと次の機会が訪れるのは四日後ということになるらしい。その時には最初の依頼であった浮気男への張り込みを仕掛ける予定であり、彼女は今日でないとだめだと言い張っていた。

「だから、お願い」可愛く頼まれたら仕方なく、俺はアクセルペダルを踏み込んだ。

 メモ用紙を見ながら、出発前の彼女の言葉を思い出す。

「一つ言い忘れておいたことがあるけど、今回の尾行には細心の注意を払ってね」

「どうして?」

「相手はストーカーよ、何をしてくるか分からない。彼らは当然、自分が今していることが悪いことだと分かっているの。でも、やめられないの。やめたくないの。底なし沼に入ったらダメだと分かっているけどもがくように、彼らも捕まると分かっていても自分の甘い理想や論理を信じることしかできないの」

 そんな面倒くさいならもう全部お前がやれよ、俺はそう諦めながら扉を開けた――。

 突然、真後ろからクラクションを連打された。我に返って前を見上げると信号は青色を灯している。うるせえな。心臓に悪い。俺は罪悪感と苛立ちを同時に抱いて車を発進させた。ほどなくして、彼女が勤めるドラッグストアに到着した。

 イラストばかりで文字がない小学生の新聞記事のようなメモ用紙を広げ、従業員用入り口を確認する。流石にそこに停めるわけにはいかないので、近くの一望できるコンビニの駐車場に車を停めた。駐車場代のかわりにフランクフルトを買って、マヨネーズもかけずに頬張る。閉店時刻までまだ時間もあるため、俺はテレビを見たり身体を動かしたりして時間を待った。

 ぼうっとしていると、カーナビの近くに置いていた携帯のバイブが鳴って落ちそうになった。慌てて手を伸ばしキャッチすると、橋田から連絡が来ているようだった。

『今日は楽しかったです』彼女らしく、笑顔の絵文字がセットで送られた。

『俺も今日は楽しかったです』これだけでは不十分だと思い、慌てて言葉を付け足した。

『あと今日は本当にすいません……もしそちらがよかったら別日にまた会いましょう』

 二分ほど間が空いてほんの少し焦れた時、橋田から返信が来た。

『いいんですか? ありがとうございます嬉しいです』

 安堵の息をつき、俺は携帯に浮かぶ通知の文字を撫でるように見る。最初の返信に比べて、絵文字が三個ほど増えていた。恋愛経験がない男にとって、女性からの絵文字というのはまるで神話に出てくるキューピッドのような存在である。俺はこの時初めて、女性から送られてきた絵文字は人を暖かくさせる効果があるのだと知った。

『いつなら空いてるんですか?』今度はすぐに返信が返ってきた。

『休もうと思えば簡単に休めるんで、成瀬さんが空いてる日に合わせようと思います』

 なんて柔軟で優しいことだろうか。強情なあの馬鹿探偵にも見習ってほしいものだ。

 駅の近くにある話題のスイーツについて話していると、携帯のアラームが忘れ物を思い出させるようにけたたましく鳴っていた。時計を見ると、店は閉店時刻を迎えようとしていた。

『また仕事に戻らないといけないかもしれないです。話に付き合ってくれてありがとう』

 終わりを迎えるには物凄く惜しすぎる感情を抱きながら、俺は話を終わらせた。

『全然いいですよ。こちらこそ楽しかったです』彼女の返信を確認して、携帯の電源を切った。

 再度時間を確認すると、身体を小刻みに震わせながら車から出る。店の方へ向かいながら、それを一望する。看板の照明はとっくに落ちていて、非常口を示す蛍光灯が爛々と光っていた。暗闇の中に光る緑色のライトは、廃病院の廊下を連想させて不気味だった。

 ほどなくして、依頼主の女性が現れる。彼女は白いパーカーに黒のズボンといった服装で、手入れが施されている黒のロングヘアーが特徴的だった。社会人を想定していたのだが、未成年と間違えてもおかしくないような若々しさだった。恐らく高校を卒業したばかりなのだろう。彼女は左右をくまなく確認すると、小さな歩幅で右足を踏み出した。

 店の方に近づくと、肝心のストーカーはあっけなく見つかった。建物の陰に隠れていたから後ろはがら空きだった。俺は音を立てないようにその男の死角に回った。まあ普通、誰かの後をつけている人間が誰かにつけられているとは普通は思わないのだ。まさか、鬼ごっこの最中に二重で鬼ごっこが始まっているなんて思う奴は存在しないように。

 男は平均よりも身長が低く、不摂生を連想させるような体形をしていた。年齢は四十代が妥当なところで、頭髪など随所に老けを感じられる。服も取り立てていいものを着ているとは思えない。見るからに加齢臭が漂ってきそうな男と若さに満ち溢れた依頼主の彼女、両者を天秤にかけても決して釣り合うことはないというのが率直な感想だった。

 そもそも、ストーカーとは一体何がしたいのか疑問だった。相手に対して何かアクションを起こすというわけでもなく、ただ後ろを歩いているだけのどこがいいのだか。しかも堂々とはせずに、ばれないようにあくまで隠密にしたときた。対象への嫌がらせにしても、ほら、そこの曲がり角でパン咥えて待ち構えるとか、もう少しやりようがあるだろう。

 そもそも、自分の気持ちなんてさっさと言ってしまえばいい。俺は告白なんてしたことないけど、そういうのは緊張もせずに簡単に言えるものだろう。したことないけど。

 そんなことを考えているうちに、何事もなく彼女の家に到着した。彼女がカギを差し込み、ドアを開けるまで男は彼女を見守った結果、踵を返して反対側へと歩んでいった。

 何がしたいのか理解に苦しみながら、引き続き男を追っていく。面白いことが起きるわけもなく、やっていることは深夜徘徊と何ら変わりない。星が綺麗だな、なんて昨日の星座占い並みにどうでもいいことを考えながら、男が家に着くのを待っていた。

今思えば、この時俺は油断しきっていたのかもしれない。

 男から電柱三本分の距離を保って歩いていると、突然後ろから車がやってくる音がした。

 ライトで視界を照らされて、車が前に進んで――そこで疑問に思った。

 ライトで照らされる?

 その疑問が鮮明に浮かび上がる前、俺は何気なく前を振り向いて――悟った。

 男が、俺の黒目をじっと見ていた。


 急にトンカチで側頭部を叩かれたように、俺はそこから動くことができなかった。車が徐行しながら通り過ぎて再び静寂と暗闇が戻った後も、俺と男は睨み合いを続けていた。

 もっと警戒するべきだった、俺は脳内で悪態をつく。車が通ることを想定していなかった。男が車をよけるために振り返ったあの時、俺はさっさと逆方向に歩み出せばよかったのだ。電柱に隠れればよかったのだ。ライトで照らされてしまったあの瞬間、俺は負けていたのだ。

「どうしたんだ、こんな夜中に一人で歩いて」

 先に動いたのは男の方だった。言葉で圧を掛けながらも、その仕草からは痴漢がばれたサラリーマンのように怯えているのが目に取れた。

「少し仕事で失敗してしまいまして」感じのいい新卒を演じればきっと大丈夫だろう。

「そうか」男は顎に手を置いて、俺の顔から足元を舐め回すように視線を動かす。きっと俺を信じるに値するか、見定めしているのだろう。逃げ出すこともできずに、足の筋肉が硬直した。冷や汗がシャツに染み込んで、夜の空気にまとわりつく。

 三回ほど目線が上下したところで、男は顔を上げた。どうやら、俺の処遇が決まったらしい。

「そうか、まあ、仕事を頑張れよ」

 男は便所の落書きを見るような態度で言った後、逃げ去るように速足で曲がり角を右折した。

 俺は壁にもたれて大きく胸を撫でおろし、これ以上は難しいと悟った。

 荒くなった呼吸を右手で抑えながら、落ち着くまで俺は足元を見つめていた。ようやく動く気になれたのはそれから二十分後、足を引きずるようにして事務所へと帰還した。

 それから男の家を突き止めたのは、一週間後のことになる。

 リベンジを果たした後は何事もなく、証拠集めも順調な道のりを辿っていた。最後に休日のストーカー被害をまとめるため、依頼者の予定に合わせてカフェで張り込みをすることとなった。作戦決行の前日、彼女は俺を見るなり「明日は休みだから電話をかけても多分出ないよ」と断りを入れた。休みは特別待期期間じゃなかったのか。

 予定通り、依頼主が正午に駅近くのカフェに現れる。俺は一度男に顔を見られているので、対策のため海辺のナンパ師のような不格好なサングラスをかけて席越しに見ていた。

 男は店外でたむろをしているようで、俺は何度かその証拠写真を抑えた。彼女がひとしきり話し終わったのか、今度は席を立って会計を始めた。それに合わせて、俺も伝票を取った。

 店を出ると正面に見える飲食店が立ち並んだ繁華街を抜けて、そこを右に曲がると大通りが見えてくる。車も人も往来が盛んで、世界中の活気をかき集めたような具合だ。激しく人が行き交う中、俺はなんとか男の後姿を追っていた。駅前に戻り、依頼者が信号に引っかかると、俺とストーカーは同時に足を止めた。これじゃあ俺までもがストーカーだった。

 足を止めたついでに周りを見渡す。まるで元いた世界と変わらないような賑わいが広がっていた。仕事の愚痴や休日を謳歌している声が耳に入る。サングラスをかけた外国人、ハイブランドの袋を引っ提げた二人組の女、青空に負けてうなだれている男、彼らがそれぞれ思い思いの休暇を楽しんでいる所を見て羨ましく思いながら、何気なく駅前の噴水を見た。

 俺は、そこに立つ人物を見て呼吸が止まるほどの衝撃を受けた。

 栗栖千花が、噴水の前で立っていたのだ。



 栗栖は、私服姿で何をするわけもなく一人で立っていた。浮き上がる噴水の水が反り返り、いささか強すぎる日差しと対比を織りなすように、彼女は閉口して地面を見つめていた。そういえば、と昨日の彼女を振り返る。明日は休むと宣言した彼女はその後、露骨に笑顔が少なくなり、表情も張り詰めて緊張の色を漂わせていた。その神妙な顔にはブラックコーヒーの甘味程度に憂鬱と興奮が入り混じっていたが、俺は、知らないところで彼女が新しい友達でも作ったのだろうかと解釈していた。

 その予想は半分的中しているのか、彼女は誰かと待ち合わせているのかしきりに時計を確認していた。彼女の服装から推察するに仕事関係ではなさそうだった。彼女は水色のワンピースを着て、両手で離さないよう強固にバッグを提げていた。

 強烈な興味が、俺の前頭葉を刺激した。

 青信号を示すカッコウはすでに鳴いていた。だが、先に進む気にはなれなかった。彼女が待ち合わせる人間は誰なのか、心の底から興味が湧いた。同じ探偵仲間なのかただのミステリーオタクなのか、彼女の人間関係を垣間見たくなった。

 そうして立ち続ける俺を他の歩行者は怪訝な目つきで睨みつける。木の棒か何かと勘違いしているのか、わざわざ肩をぶつけてくる者もいた。

 三分ほどが経った。信号は既に何回か切り替わり、なんか胡散臭い連中が演説の準備を始めても、俺は駅前に立つ上司のことが気になって仕方なかった。正直、このまま待ち続けてもいいから俺は彼女の待ち人を一目見たかった。だがこれ以上距離が離れると依頼者を見失う可能性も高い。悩ましすぎる二者択一に頭を抱えていると、まるで俺を呼びとめるかのように栗栖の表情が動いた。彼女が顔を上げて、挨拶をしていた。ようやく来たのかと思い、俺はその人を見て――声を漏らした。

 それは、名前も知らない男だった。

 俺にとってそれは、全く信じられないことだった――だってそうだろう、あの栗栖が男と出会っているという話をどうやって信じられる? いくら美人で言い寄られてそうとは言え、それゆえにそんな話は彼女に無縁のものだとばかり考えていた。男なんて虫けら以下で恋愛に至っては精神病患者のするものだと考えていてもおかしくはない人間だ。彼女は今探偵業に夢中になっていて、恋愛にかける時間などない、そう考えているものだと思っていた。

 地球が球体であると知ったマゼラン一行のような驚きを感じつつ、俺は決意をした。それが良くないことだと分かっていながらも、俺は栗栖の方へと一歩を踏み出した。

 どうせこの探偵ごっこも、結局は遊びなのだから。


 あくまで弁明しておくが、決して俺は栗栖のことを好いているわけではない。これはこんな悪趣味な世界を作り上げた恋愛中毒な神様に誓って言えることであり、彼女が他の男と共にいることを妬いているとか、そういったことではない。何事も誤解されたくはないからな。俺と栗栖は、あくまでも仕事上の関係、ビジネスライクってやつだ。

 そんな言葉を頭の中で並べながら、俺は例によって少し離れた場所から二人を監視していた。この時、俺は依頼者のことは頭からすっぽりと抜けてしまっていたわけではない。一応、罪悪感に圧されて『尾行を取りやめる、タクシーで帰る場合は依頼料からその料金を差し引く』と告げているからセーフだろう。問題はないと甘い言い訳を一人で呟く。

「待たせましたね」正確には聞き取れなかったが、男は笑顔で声をかけた。

 同年代であろう若い男は、ナチュラルマッシュが特徴的な清潔感溢れる美男だった。

 栗栖と釣り合う、そんな華々しい男に見えた。話しやすそうでもあり、栗栖の性格と気が合いそうでもあるな。俺はそう思って栗栖の方に視点を合わせる。

 しかし、そこに映る栗栖はまるで別人だった。

「あ……いいや、待って、ないです」

 ステンレスの棒のように肩肘を張って、緊張で耳を真っ赤に腫らしながら彼女はそう答えていた。それは俺が知っている軽快なトークを飛ばす彼女ではなく、まるで、近所に住む人見知りの幼稚園児のようであった。

 男は栗栖の態度を自分の魅力不足だと解釈したのか、両目には諦観した様子が浮かんでいた。

「じゃあ、行きましょうか。おすすめのカフェがあるんですよ」

 気を取り直して、彼は男の俺でも友達になりたいような爽やかな笑顔を浮かべた。しかし、

「……」栗栖は答えなかった。

 男の半歩後ろを遅れてついて行くように、二人は歩き始めた。それは友人やカップルというよりは、貴族と従者と見た方が自然だった。

 しかし、いくらそんな様とはいえ栗栖と彼は俺が考える限りではこの上なくお似合いだった。男の自然に決め込んだヘアスタイルは、まるで都会のファッション街を象徴するようだ。そんな男と栗栖は街を歩くとモデルの撮影だと言われても信じてしまいそうなほど画になっていて、なおかつ男の会話も栗栖と気が合いそうなものばかりだった。

 だからこそ、栗栖の様子が疑問だった。

 彼女は常に彼から目を逸らして俯いたまま、真一文字に口を結んでいた。バッグの紐が、彼女の持つ部分だけ強くへこんでいた。会話に困った男が栗栖に返事を求めると、彼女はようやく顔を上げる。そして、野良猫を見上げるモルモットのような目をする。

「それで、僕は天体観測が趣味なんですよ。土星のリングとかに魅入られちゃって」

「……そうなんですね」彼女は間を開けてから、消え入りそうな声で呟いた。

 やはりおかしい。違和感を抱く。

 今の栗栖は極度に緊張しているのか、顔を真っ赤に染め上げていた。そして信号待ちなどでふと覗く横顔は、どれも恐怖に包まれたような顔をしていた。それはたった今芽生えた感情ではなくて、長年に渡って染みついてきたような表情だった。

 道中でも男は、硬い顔をして歩く栗栖を見兼ねて何度も話しかけていた。自虐話、仕事や趣味、自分の十八番トークなど、あらゆる話題を駆使していた。だが、栗栖は頷いて微妙に口角を上げるだけだった。普段なら腹を抱えて笑う話も一切反応せず、泣きそうな目をしながら風の音を聞くばかりであった。デートの空気感は、最悪と言っても差し支えない。

 こんなもの、俺が知っている栗栖ではない。

 これはまさしく、初めて男性と会話する女性のようだ。

 問題は栗栖がどちらにも当てはまらないことだ。栗栖はどう考えても人見知りしない――むしろあれでしていたら気味が悪い方――だし初めて男性と会話をする、なんてことはない。

 だからこそ、奇妙だった。なぜ栗栖があんな態度をしているのか、あんなにも臆病なのか、俺には理由が検討すらもつかなかった。分からなかったのだ。

 解消されない疑問を抱えたまま、夕方には解散となった。男の表情には明らかに消化不良を感じさせるしわがついていた。一方の栗栖は、出会った時から変わらず俯いたまま、言葉一つも切り出せずにいた。男が手を振って、駅の方向へ歩きだす。栗栖は一瞬迷って、控え目に手を振り返した。その様子はどこかぎこちない。男が完全に見えなくなるまで手を振って、彼女は大きなため息を吐いた。疲れがどっと押し寄せた、というタイプのため息ではなさそうだった。どちらかというと自責の念によるものだ。そして、何かをぼそっと呟いた後、栗栖はあの表情のまま帰路に着くのであった。

 栗栖が帰り道をまっすぐなぞっている所を確認して、俺は壁にもたれかかった。とっくに夏は終わっているというのに、まだ西日は強かった。まるで熟したマンゴーのような空を見ていると、ビルの向こうからカラスの鳴く声が聞こえる。何かを考えているようで何も考えていないような物思いに耽った後、俺は栗栖に背中を向けて反対方向へ歩き出す。たまには普段使わないスーパーで買って帰ろうか、なんて考えながら、俺は交差点の信号を待っていた。

      *


 次の日、俺は五分遅刻で事務所の扉を叩く。するとそこには探偵・栗栖千花がキセルを持って仁王立ちしていた。彼女は俺を確認するなり自慢の探偵服をひらつかせ、チョークを投げつける教師のごとくキセルを俺に向かって突き出した。

「遅い、五分遅刻」

 変な心配をした昨日の俺を鼻で笑いたくなるほど、栗栖の機嫌は正常だった。

「すまない、家を出る時間はいつもと変わらなかったんだけどな」

「それは言い訳に過ぎないわ。あなたが犯したのは純然たる遅刻であり、時間に忠実なこの現代社会においてそれは未来永劫断罪されなければならない行為であり、死罪に値するわ」

 何が言いたいんだ。政治家の演説に影響されたのか? 頭の悪い英語翻訳みたいなことを語る栗栖はキセルで何度も俺を指した。そもそも、こいつはキセルが何か分かっているのか?

「お前、キセル吸えないだろ。なんで持ってんだよ」

 すると栗栖は、やはり毅然とした態度でこう放つのであった。

「そんなもの決まってるでしょ。かっこいいからよ」

 大馬鹿栗栖は椅子に戻ると、パイプの曲線美を愛でるように頬にさすりつけて撫で始めた。俺は机の方から聞こえてくる「このしなやかさが良いのよね」の独り言を完全に聞き流し、従業員用のソファーに座ってパソコンを開いた。

 彼女の振る舞いは、まるで昨日のことが嘘だったかのようなものだった。そもそもそんなことは存在しなかったと言わんばかりに、彼女の表情筋からは動揺や失望の色が見られなかった。俺はそれに対して、どうやら安心しているようだった。まあ確かに、彼女が仕事中に不機嫌だったらそれはそれで不気味だし見ていて心地が良いものとは思えない。通帳の数字で翌日のパフォーマンスに悪影響が出る変身ヒーローなんて見たくもないように、探偵服を着ている栗栖千花が落ち込むことは、実のところあまり望んでいないのかもしれない。

 俺が内心ほっとしていると、どこかからピコピコとした陽気な機械音が流れてきた。

 最初はどこかで陽気なダンサーが趣味でもしながら土木工事をしているのかと思っていた。

しかし、その正体に気付いた時、俺は流石に動揺を隠せなかった。

「おい、栗栖まさか今ゲームをしてるんじゃないだろうな」

「ええ。してるわ。それで?」それが真っ当なことであるかのように、栗栖は言った。

 開いた口が塞がらなかった俺に、続けて彼女はステレオタイプを軽蔑する視線を送る。

「いいじゃない。お客さんも来ないんだし、仕事もないんだし」

 だからって仕事中にゲームをすることはないだろ。

栗栖の前に立ち、彼女のふてぶてしい顔を見た。

「大丈夫、見えない位置でゲームしてるから。いざという時は電源を切って隠せばいいのよ」

 俺の視線に対し、彼女は首すらも持ち上げることもなく言った。間断なく、ぴこん、かちかちと項目を選択しているような効果音がゲーム機から流れている。ここまで来ると馬鹿も一種の病かと考えてしまう。まさか、昨日依頼者が藁にも縋る気持ちで来た時もこうして遊んでいたんじゃないだろうな。一体どんなゲームをしているのか、俺は興味本位で覗いてみる。

「脱出ゲームか、探偵と言えば探偵らしい」

「でしょ? 探偵と言ったらこれは欠かせないよね」

 微妙に分からないことを述べる栗栖だが、そのゲーム機には重々しい扉やアイテムらしき工具セットが表示されていた。窓や明かりなど外を想像させるものは一切存在しなかった。

「それで、ここからどうするんだ」

「この暗号を解くのよ」栗栖が画面をタッチすると、一枚の紙が表示された。五十年くらい野晒しにされたような古びた紙の真ん中に、赤褐色の血でアルファベットが羅列されている。

「なんだこれは」「暗号よ」栗栖は言い切った。確かにそれには子音が何個も連なっており、まともに発音できるためしがない。一字下げたり一個飛ばしで読んでみるも、到底意味があるものとは思えなかった。

「栗栖、これ分かるのか?」俺は顎をさすりながら尋ねる。すっかりはまってしまっていた。

「簡単よ」ちょっと夢中になったのを良いことに、栗栖は調子付いた顔で答えた。

「そこの雑誌を取ってくれない? そこのラックに置いてある雑誌よ」

「これのことか」

「違う、なんで脱出ゲームで恋愛雑誌を使わなきゃいけないの。その懐中時計の本」

 いつしか目にしたことがあるようなないような、なんか表紙からしてその界隈では大手であろう雑誌を手に取る。雑誌にしては案外分厚いその本を栗栖に渡すと、彼女は慣れた手つきでページをめくった。

「あった、これよこれ。ここら辺の暗号を使うの」

 彼女は所定のページを開くと、指を差して俺に見せてきた。イラストこそあれど、小さい文字が飛蚊症を疑うほどにびっしりと詰まっていた。ただでさえ活字嫌いなのに、こいつは俺を間接的に殺そうとしているのか?

「ええ、で、なんだって?」

「この二つの暗号よ。ルート暗号、ってやつとレールフェンス暗号ってやつ」

 彼女の指先には、太字のゴシック体で書かれた二つの単語が並んでいた。特にその二つは重要なのか、単語を覆いつくすように蛍光ペンで引かれていた。

「あぁ、この二つか。それで、どうやって解読するんだ?」

「読みなさいよ。君も人間でしょ? そんなに情報の摂取を嫌っていたら退化するわよ」

「すまないな、活字は嫌いなんだ」俺の言葉に、彼女は嘆かわしい溜息をついた。息子の万引きが発覚した警視総監みたいな落胆ぶりを見せ、彼女は面倒くさそうに説明をした。

「ルート暗号は文字を縦に並べて四角形を作る暗号よ。ある地点からぐるっと一回転するように読んで完成させるの。この場合だと今持っているメモから『右下時計回り八×八』という意味が取れるから、この暗号は四角形を右下から時計回りに読んだ暗号、ってことが分かるの」

「つまるところ、ルービックキューブみたいなもんだな」

「それはよく分からないけど」彼女は否定した。「でもそんな感じでいいんじゃない」

「それでね、次はレールフェンス暗号なんだけど、この暗号は暗号に使うレールを何本にするか決めて、それに沿って英文をジグザグに書き、完成した物を横に読んで作られる暗号よ。"I can play tennis" でレールを三本にすると"I"、"c"、"a"と下って行き、"n"、"p"と上がり、最後にそれを上のレールから横に読んで"Ipticnlyensaan"となる」

「分からない、中学生の時に三次方程式を教えられた気分だ」

「小学生で微積分を理解している子供もいるんだから、それくらいなんとかなるわ」

 一万人に一人の逸材と三人に二人くらいの人間を一緒にしないでくれ。

「栗栖、お前暗号とか得意なんだな」

「まあ、私探偵だしね。暗号の一つや二つを知らないで探偵を名乗るのは無理があるわ」

 お前は十九世紀の探偵に憧れてるのか?

「君だって探偵を名乗る人間なんだからこの雑誌を読むくらいのことはしなさい」

 栗栖が俺に向かって雑誌を突き出す。あとで焼却炉の位置を調べておくのもいいな。

「あーあ、無理、分からない。こんなくそげーやってられないよ」

 結局自分の勘が外れたのか、彼女は大きな声を出して椅子に身体を投げつける。手にしていたゲーム機の電源を落とすと、その棚の中に乱雑にしまった。多分だけど、日常でも同じことをやっているんだろうな。そんな気がする。

 俺は受け取った雑誌の表紙をもう一度見て、やっぱりいいやと本をラックに戻した。活字には睡眠作用が含まれているから、俺はそれが嫌で見たくないんだ。すまないな。

「それで、昨日はたくさん証拠が撮れたのかしら」

 俺が棚に置いたその瞬間をまじまじと見ながら、栗栖は聞いた。できればなにも言わずスルーしてくれと、そう願いながら俺は彼女に昨日撮った写真を提出した。

「これだけ? もっとあると思ってたんだけど」

 栗栖を尾行していたからあんまり写真がないんだ、と直接本人の前で言うわけにもいかず、俺は後ろ髪を掻きながら「すまない、これくらいで大丈夫だと思ったんだ」と苦笑いを浮かべた。渋々納得をしたのか彼女は一人で頷いて「まあ、これでも警察は動くかもね」と言った。

「じゃあ、資料を警察に提出してこの依頼を終わりましょうか」

「今回は案外楽に終わったな。依頼者への報告もそんなに手間がかかりそうでもない」

「ほんとね、なんだか警察の下請けをやってる気分だわ」

 欠伸をしながら、栗栖はワークチェアの背もたれを思いっきりに倒した。

「そういえば栗栖がやっているというもう一つの事件、あれどうなったんだ?」

 栗栖は頭の隅から記憶を引っ張り出すように目を細めて、「あぁ」と弛んだ声を出す。

「あれならまだだけど、それでもあと少しで終わるよ」

「そんなものなのか」俺は答えた。「そんなものなの。だから心配しなくても大丈夫」

 彼女は自信満々に親指で自分の胸を小突いていた。俺の助けなど最初から必要ないのだろう。

 仕事から帰ると、俺は靴を脱いで靴下を雑に洗濯機に放り投げた。平日休日見境なく家に引き籠っていた俺にとって朝九時から夜十九時の労働は文化部のシャトルランなみにきついわけであって、俺は終わりの見えない長距離走に蓋をするように扉の鍵を閉めた。

 ズボンを脱ごうと腰に手を当てた時、右ポケットが存在を主張するようにぶるりと震えた。どうか自分を入れたまま洗濯機に投げ込まないでくれという携帯の嘆きで、俺は下げかけたズボンを戻しては携帯を取った。橋田からメッセージが来ており、それは単刀直入なものだった。

『あの、突然なんですが明後日って空いてますか? 話したいことがあって……』

 彼女の名前を見るだけで高揚が起きて、そのメールを見てさらに緊張を高めた。女子からの出会いの誘いに、俺は小さく握りこぶしを作って喜びをかみしめる。『話したいこと』が何のことかは分からなかったが、深いことは気にせずオーケーサインを送った。

 この現実が、打開されようとしている。

 俺は何かが始まるという興奮を抑えきれないまま、シャワーを浴びてベッドへと潜った。瞼を閉じても冴え切った頭と目は動き続けているようで、俺は手持ち無沙汰に寝がえりを繰り返しながら、睡魔に落ちるまで瞼の裏側を見続けていた。

 当日、一時間早めに設定したアラームが鳴り響いて俺は眠っていたことを知った。いつもより薄暗い朝の風景を目にすると体内時計がわずかに狂いそうだった。余った時間を有効活用するように、俺は髪のセットや服選びを丹念に行った。鏡の前に立ち、口角を上げて笑顔の練習をする。表情筋をほぐすと、乾いた口を潤すためにコップに水を張りうがいをした。

 五回ほど全身を見回した後、意を決して扉を開ける。呼吸するだけで頭が澄みそうな冷たい空気を取り込んで、鋭角からの日差しに目を細める。待っていても待たなくても、デートの時間はやってくる。これから戦場に赴く兵士とは、このような気持ちだったのだろう。

 鍵をかけ、意気揚々と一歩を踏み出すと、後ろから声がかけられた。

「あら、君が外に出るなんて珍しいわね」

 頭を強く殴られるような衝撃を感じた。俺は栗栖の隣に住んでいたのだった。

探偵服を着ている彼女は、今から事務所に向かうのか朝のカフェラテを手に上品に家の鍵を閉めた。まさかこいつはこの服のまま事務所に向かっているのか。頭が眩みそうだった。

「今日は特別待期期間だから、少し気分転換しようと思って」

 俺の言葉に彼女は大いに頷いて、俺の全身を税関検査のように見回した。

「ふーん、それにしては服も髪もばっちりね」含みを持たせるようにほくそ笑んでいた。

「たまにはそんな日もあるだろう? 意味もないけどオシャレをしたくなるような」

「あることにはあるけど」俺の態度に納得いかなかったのか、疑うような目を向けられる。

「なんだか気に入らないわ」理不尽すぎる。

「意味が分からない、もう時間だから行くぞ」

 栗栖に背を向けて下り階段へと向かうと、後ろから聞き取れるか微妙な声で「まあ、頑張って楽しんできてね」と声がした。

 約束の十分前、俺は集合場所に着いた。すると、すでにそこには橋田がいた。前回と同じく噴水前にいる彼女は、黒のベレー帽に体のラインがくっきりと表れるようなタートルネック、そして赤黒のチェックスカートを着ていた。両手には駅地下で売られているような小ぶりの赤いカバンを手にしていた。

「あ、成瀬さん。おはようございます」

 風通りの良い涼しげな笑顔が目一杯に広がる。

「あぁ、おはようございます。もしかして待たせちゃいました?」

「いいえ全然、私も今来たところですから。じゃあ、行きましょっか」

 橋田は顔を俯けて、そして目を細めて笑った。俺は空いている彼女の隣に回って、二人で駅の方へと歩みを進めた。

 駅舎から電車に乗ると、一日中様々な場所を巡った。橋田曰く有名らしい神社に自分だけの香水が作れる工房、動物園に街一番の定食屋、この世界を一番楽しんでいるんじゃないかというほどに、俺は歩き尽くし、遊び尽くした。期待に胸を膨らませながら電車に乗った朝の日差しはとっくに傾いていて、夜暗くなったころ俺たちは行きと同じ電車に乗って帰っていた。

「楽しかったですね、とっても」橋田は言った。

「あぁ、楽しかったですね」俺も言った。

 電車の窓に目をやると、真っ黒なガラスに俺の顔と橋田の妙に楽しそうな顔が映っていた。彼女に目を合わせると、何もおかしくなくてもふっと笑い合った。この時、俺はこんな日々はずっと続くものだと感じた。これからも、そして、この世界を抜け出した後も。

 改札を出ると見慣れた広場に降り立つ。すぐ目の前にある噴水広場で俺たちは一息ついた。昼間は陽の光を煌めかせていた噴水も、夜になると紫のライトアップが施されていた。近くのオブジェクトも、桃色や緑色、青色に白色を使って華やかなイルミネーションで飾られている。

「綺麗ですね」俺は言った。

「そうですね」橋田も言った。

 一定で流れる噴水の音に、しばらく聞き入っていた。

「少し疲れました。ちょっとの間、一緒に座りませんか?」

 彼女の提案に頷いて、噴水の端に腰を下ろした。都会の喧騒が、まるで他人事のように遠く聞こえる。静かであるはずの二人の空気が、やけに鮮明に耳に入る。

「成瀬さん」と彼女は言った。「今日は楽しかったですか?」

 囁くような声が鼓膜を撫でる。それに呼応するように、俺も答えた。

「それはもちろん」

「なら良かったです」

 隣に座る彼女の呼吸が、きっかりと聞こえる夜だった。目を瞑ればコオロギのさえずりまで聞こえてきそうなほどに、この夜は澄んでいた。

「成瀬さん」再び彼女の声が聞こえた。「こんな日々が、ずっと続くことを望みますか?」

「それは当然ですね」迷うこともなく、即答した。「私もです」彼女も続いた。

桜の葉が擦れるようで、その声はどこか穏やかなものに聞こえた。

 成瀬さん、と再度名前を呼ばれた。振り向くと彼女は立っていた。夜風にさらわれて、青い毛先のボブカットがひらひらと揺れている。橋田は立ち上がり、俺にも立つよう要求した。

 今、俺と橋田は向かい合っている。

「今日はありがとうございます。本当に、私は楽しかったです」

「こちらこそ、感謝のしようがありません」

「私も、こちらこそです」彼女は鈴のように安らかな声で呟く。

「それで、『話したいこと』なんですが……」

 俺は忘れかけていたそれを思い出すと、息を呑んだ。「単刀直入に言いましょう」

成瀬さん。彼女は大きく息を吸って、そして俺に手を差し伸べた。

「私と、付き合ってください」

 彼女の瞳が、大きく広がり輝いていた。


 その時、俺がどんな表情をしていたかは分からない。

 ただ、一つだけ言えることがあった。彼女が告白した瞬間のこと。彼女の奥、建物の影、電気に照らされた茶色の服が、僅かに動いたのを見た。まるで俺を尾行しているかのようなその格好は、毎日見るあの茶色のコートをしていた。



 栗栖千花が、彼女の後ろに立っていた。



 確かにその瞬間、栗栖千花はこちらを見ていた。そして、俺としっかり目が合ったのだ。

 彼女がなぜここにいる? 深い混乱に見舞われた。俺がまずいことでもしたのだろうか――考えてみるも心当たりは微塵もない。俺は彼女に尾行される筋合いはないのだ。

 コートが揺らめく柱の陰から目を逸らし、俺はじっと彼女を待ってみた。飛び入りでなにかを言われるのではないかと考え、彼女が会話に割って入る機会を作った。

 しかし、栗栖は三分待っても現れる気配がなかった。

「成瀬さん」橋田の声が聞こえる。「……返事を、ください」か細い声が夜を漂った。

 どこかから聞こえる時計の針の音が、俺をゆっくり締め付ける。

 栗栖はどうだ、俺は建物の柱に目を凝らす。茶色い布の切れ端が微かに動いたまま、口を挟むつもりはないようだった。俺は、決断の時を迫られていた。

 あの態度から、栗栖が俺たちのことを尾行していたのは明らかだった。俺と視線が合った時、彼女が咄嗟に隠れたのが何よりの証拠だ。じゃあ、どうして、彼女は尾行しているのか。

 まず俺はいつしかの自分のように、誰かの尾行中に偶然俺を見つけ、興味本位から俺を尾行している線を考えた。しかし、間もなくそれは無理のある理論だということに気付いた。彼女は自分が探偵であることに重度のプライドを持っており、与えられた仕事を面倒くさがりながらもなんだかんだ遂行する人間だった。だから俺みたいに、仕事を放棄する理由がない。

 じゃあ一体何をしていたのか、俺には皆目見当がつかなかった。

 だが、確実に違和感はあった。探偵姿の彼女がいるということは、そこになにかがあるのだ。それが、事件をあれほどまでに熱望していた彼女なのだから。

 まだ、全てを判断することはできない。

「成瀬さん」橋田が思考から引き剥がす。「もし無理なら、断ってくれて構いませんからね」

 その潤んだ瞳は、暗闇の噴水を反射して煌めいていた。

「すいません、橋田さん」俺は断りを入れた。その瞬間、彼女の瞳に映る水飛沫が消えた。

「もう少し、考えさせてください。やるべきことを済ませてから、一緒に抜け出しましょう」

「やるべきことって、なんですか」足りない身長を補おうと、彼女は首を持ち上げた。

「仕事があるんです。それをすべて終えてから、また会いましょう」

 俺はその場から逃げるようにして、彼女に背を向けた。「待ってます」の力無い一声が、背中を突かれるような気がして、心が痛んだ。




 腕づくで事務所の扉を開けると、そこには栗栖千花が座っていた。仕事で目にする探偵服を着て、普段のように苦味が入ったカフェラテを飲んでいる。

「あら、おかえり。いきなりうちに来てどうしたの?」

 知らぬ存ぜぬを決め込んでいるのか、彼女は俺に目を合わせてくれなかった。

「どうしたもこうもない。あの時、どうして栗栖は俺のことを尾行していたんだ」

「さあ、なんの話かしら」椅子を回転させ、彼女は眩しい光を放つパソコンに身体を向ける。

「私はこれから仕事があるの」

「なあ、栗栖」俺は詰め寄って、彼女を睨む。まばゆい液晶画面は資料のようなものを映し出していた。「なによ」彼女は不遜な態度で俺を一瞥した。

 ここに来るまでに、幾分か冷静になれていた。そして、改めて気づいたことがある。

 彼女が今日朝早くから探偵服を着ていたこと、そして、彼女が受け持つもう一つの仕事だ。

俺が尾行を命じられた時、彼女はこう言った。『私はこれから別の仕事があるから』と。俺がストーカー男の事件に四苦八苦している中、彼女は一体どんな任務を受けていたのか。最後に、俺が橋田とのデートで朝早く出た今日、どうして栗栖は朝早くから外出をしていたのか。

 俺は誰かから恨みを買った覚えもない。尾行されるいわれもない。

 なら、これから導き出される仮説は一つだろう。

 栗栖が、依頼として橋田を尾行しているということだ。

「お前は今日、夜に駅前で張り込みをするまで何をしていた?」

 俺の質問に、彼女は目を合わせなかった。代わりに、彼女はこう答えた。

「守秘義務よ」

 それが、全ての答え合わせだった。

「橋田になにかあったのか、それとも彼女がどこかから顰蹙を買っていたのか」

「守秘義務よ」

「教えてくれ、俺が知らない橋田の一面を。彼女にはまだ隠されたものがあるのか」

「守秘義務よ」

「その依頼者にとって、俺と橋田はどんな存在なんだ」

 彼女は決して、情報を言おうとはしなかった。まるでそれが正義だと言わんばかりに、彼女は俺に対して聞く耳すら持たず、眼前のキーボードを無心で叩く。ワープロソフトに理路整然とした日本語が隙間なく並べられていった。

 彼女は、確かに俺の質問を断った。守秘義務という四字熟語の中に、君はこの依頼に関わらなくてもいい、そういったメッセージを感じる。壁を感じる。だが、俺も知らずの内に片足を突っ込んだ以上、もはや引き返すことなどできないのだ。

 俺は、この世界を橋田と一緒に抜け出したい。

 俺の人生史にとって初めて、彼女は俺という人間に初めて好意を差し伸べてくれたのだ。それを握り返さねば、俺はいつ誰かの手を取るというのか。俺は選ぶ側ではない、そんなこととっくの昔から分かり切っていた、見せつけられてきた。そんな男が選ばれたのだ。これは、千載一遇の好機ではないのか。そしてさらに、彼女が興味を示せば示すほど、俺の気持ちは彼女の方へと揺らいでいた。彼女と一緒に抜け出すことに、なん抵抗感も抱かなくなっている。だから、俺は解決しなければならない。何の心配もなく、この世界から抜け出すために。

彼女は守秘義務、と言った。絶壁を隔てるその言葉も、見方を変えれば彼女なりのヒントだ。守秘義務は依頼された時に発生するものだ。つまり、彼女は橋田について調査活動をしているということになる。

 すると、今俺がしなければならないことは一つだろう。

「栗栖、頼みがある」

「なによ、守秘義務に関わるようなことは駄目よ」

「そんなんじゃない」俺は否定した。

 俺は以前、彼女が口にした言葉を覚えている。そのことを、遂に実行する時が来た。

「栗栖、その依頼とは別件で、独自に橋田を調査してくれないか」

 あれほど振り向かなかった栗栖と、やっと目が合った。俺の解答が予想外のものだったのか、彼女はバグを起こした機械のようにじっと止まっていた。

「本当にいいの、それで」彼女は恐る恐る聞いていた。

「ああ、構わないさ」俺は頷き、即答した。

「これでどんな結末を迎えようとも?」

 引っかかる言い方だった。「どういうことだ」

 栗栖の語気がわずかに強くなった。「どうもこうもないわ。あなたが望むものを得られなかったとしても、それで後悔しないか、ということよ」

 逡巡、考える。そして頷いた。「するわけがない。俺は不安を取り除きたいんだ」

 彼女は顎に手を置いて、目線を床に落とした。

「正直、あまりおすすめしないわ。あなたが知ってもいいことなんてないと思うから。人間、知らなくてもいいことだってあるものよ。……特に、自分が幸せになればなるほど、それは増えていくものなの」

 彼女は言葉を選びながら呟く。だが、今の俺にはどんな言葉も通用することはなかった。

 無言の押し問答の末、音を上げたのは彼女だった。

「……依頼なら、代金は頂くから」

 俺は頷いて答える。「あぁ、そのためにここで稼いできたんだからな」

その言葉を聞いた栗栖は、なぜか悲しそうにしていた。



 夜通しの勢いで残業する栗栖を置いて、俺は先に事務所を後にした。俺も手伝おうかと名乗りを上げたのだが、さっさと帰れと拒絶されたのだった。

「一週間後には結果が出るわ」

 パソコンと向き合いながら、彼女はぶっきらぼうにそう告げた。することもなくなった俺は本日三杯目のカフェラテを飲む気にはなれず、自分のカバンを手に取った。事務所から自宅へと、ゴーストタウンのように気配がしない夜の街を歩く。意味もなくぼんやりと目を覚ましている街灯と、被写体のように佇んでいる公衆電話がこの街唯一の明かりとなっていた。目の前の信号機もそうだ。あれは不眠不休コンビニエンスストアのように営業している。

 車通りもない癖に、横断歩道の信号機は一丁前に赤を灯していた。少しは融通を利かせろよ。一週間風呂に入っていない修行僧でももうちょっと柔らかい頭してるぞ。一体誰を待っているのか分からないまま俺が信号が過ぎるのを待っていた、その時だった。

「栗栖探偵事務所の探偵さんはお前のことか?」

 背後から、男の声がした。

 暗殺されるのか、その刹那背筋が凍り付く。後ろを振り返るとその男がスタンガンを持っているような気がして、安易に振り向く勇気は持てなかった。条件反射で今広がっている視界全てで警察を探すも、そんなに都合よく彼らが現れることはなかった。

「こら、そんなに硬くなくてもいいじゃないか。お前を連れ去ったりはしないさ」

 悪意を放つような声が聞こえる。背後で薄ら笑いを浮かべているさまが容易に想像つく。しかし、今となってはそれが俺の想像上の話に過ぎないことが分かった。

「まあ、こっちについてきてくれよ。ここにいてもらちが明かないだろう」

 どこかで聞き覚えのある声に俺は首を傾げながらも、ここから打開する(すべ)はなかった。俺は男の要求通りに振り返り、自宅と反対の方向へと歩みを進めた。

 男は俺よりも身長は低く、それでいてよく酒を嗜みそうな体形をしていた。マシュマロを指でつぶしたようなスタイルを見て、俺はデジャブの正体を明らかにした。

 この男は、ストーカーをしていた人間だ。

 どうしてバレた、俺が真っ先に抱いた疑問はそれだった。確かに俺は一度彼に顔を見られた。だがしかし、それで探偵稼業に直結するとは言い難い。栗栖のように探偵服を着ているならま

だしも、俺は探偵をほのめかしたことなど一度もないのだ。

「そんな不思議そうな顔をしないでくれ」男はそう言った。

「俺がストーキングしたのはあの娘だけだと思っていたのか?」

 あぁ、俺は視覚外からの一撃に目が醒めてしまいそうだった。あの時だ。尾行中、俺がライトに照らされたあの時。男は角を曲がるとそこから俺の様子を窺って、逆に事務所までつきまわしたのだ。尾行をしている最中、俺は『まさか二重に鬼ごっこが始まっているだなんて思う奴は存在しない』と考えていたのだ。まさかそれが、自分に向けたメッセージであったことも知らずに。

「こっちだ、探偵さん」

 道路を横断したり、時に信号無視をして到着した先はこの地域のシンボルである橋だった。

三日月を横にしたような巨大なアーチが車道と歩道の間に跨っており、この橋を見ているだけで街が少し都会に見えてくるほどの美しさだ。

 足元では氷水のように冷たい川が落ちるように流れている。顔を上げて向こうを見ると、黒い空と川が遥か遠くまで、その境界線をあいまいにして続いている。男は橋の手すりに肘を置き、その水平線の向こうを眺めていた。

「いつ、俺は警察に捕まるんだ」あらゆるものが削ぎ落されたような横顔が覗いた。

「もうじきに。多分、一週間後くらいには」

「そうか」男は黙り込み、ぼうっと星空を見ていた。

「警察に証拠は提出しました」自衛のために、俺は嘘をついた。

「だから、もう脅迫しても無駄です」

「そんなもの、するつもりもない」男は油が切れた機械のように笑った。

 水気を含んだ夜風が、橋の上を勢いよく通り抜ける。数か月前はあれほど深緑色だった木の葉も、すっかり老い衰えたかのように黄色の染みを付けて落ちている。

「そんなこと、するつもりない。だから、」男は再度言い直し、息を吸った。

「許してくれないか」

 それが、男の願いだった。顔を歪ませる男から目を逸らし、隅にたまった落ち葉を見つめる。風が吹いて、積み重なったうちの一枚が柵から零れて消えていった。

「それは、無理なことです」こう答えるしか他に選択肢はなかった。

 男は何も答えなかった。

 時間が流れていく。何をするべきかもわからないまま、ただ茫然と時計の針が動いている。

「この世界の刑務所は、どんな感じなんだろうな。内装はどんな感じで、他にどんな囚人がいて、どんな罪を犯して、そして、いつ刑務所から、この世界から出られるんだろうな」

 俺は何も答えなかった。

「なんかこう、もう終わりだって思うとあらゆることを話したくなってくるな。これが、何かを残したいって本能なのだろうか」

 男は独り言を、俺に聞かせるように話す。

「分からなかったんだ。恋愛が。人を好きになる気持ち、これが自分にあったのは分かってた。だけど、どうやって相手を好きにさせるかが分からなかったんだ。意中の子にアプローチする方法、俺は書籍やネット、全てを駆使して調べ上げた。駆け引きのやり方も学んだ。でも、それをどう使えばいいかが分からなかった。テストのような絶対的な正解もなく、自分なりに考えたつもりだった。だが、俺にはダメだった。もし断られたら、そのことを考えると動悸が止まらなくなるほどに怖かった。そんなことをしているうちに時間だけが過ぎて、もう彼女と話せないのだと気付いた。時間遅れだと悟った。でも、諦めきれなかった」

男を一度息を吸って、再び独白を続けた。

「正解が分からなかっただけなんだ。自分が人を好きになるのは簡単なくせに、他人が俺を好きになるのは簡単じゃない。そんな簡単なロジックに、俺は永遠と悩まされていただけなんだ」

 この世界に足を踏み入れた時、俺が考えていたことが意識に上る。『この世界の住民は、必ずどこかに心の闇を抱えている』最初の依頼も、この男も、そして当然俺も、必ずどこかがぐにゃりと曲がって拗れてしまっている。

「あの頃フサフサだったこの髪も、今ではすっかり抜け落ちてしまった。毎日身体を洗っているはずなのに、どこか脂汗が出るようになってしまった。それなのに、恥ずかしいことに、まだ一回も女の子と付き合ったことがない。一度も女子の隣を歩いたことがない。このまま俺は死にたくない。死に続けたくない。少しくらい、甘酸っぱい恋愛をしてみたい。十代でするような恋を、俺だってしたいんだ。分かるか、その気持ちが。誰でも替えが効くような社会の歯車になって、趣味も何もない癖に独りぼっちで過ごす休日が。人に恋しても振り向かれず、理想を果たせないまま死んでいく感覚が。俺だって、一回くらいは女の子の手を繋いでみたいよ。他の女の子から愛してもらいたいよ。休日に映画館に行ったり、花火大会で花火を見たり、どこか旅行に行ったり、テーマパークに行って人目を気にせず遊んでみたい。女の子の隣を歩いて、初めて自分の名前で呼ばれたいんだ」

 長々と語った後、男は一呼吸を置いた。「少し、話し過ぎたかな」

 探偵さん。男は俺をそう呼んだ。振り向くと、男は一滴の涙を零しながら、ぽつりと呟いた。

「俺、どこで間違ったんだろうな」

 銀杏の葉が、枯れた向日葵のように薄暗かった。




 三日後、俺たちは警察に資料を提出した。朝十時くらいに警察署に行き、眠そうに目を擦る警察官へストーカー時の写真などを渡す。彼は嫌そうな表情を浮かべてそれを受け取り、「仕事の関係上、できる限り優先はしますがすぐに対処することは難しいかもしれません」と説明した。なんでも、世界爆発によりこちら側の世界に来た警察官はごく少数らしく、それもベテランではなく若手が中心となっているかららしい。「僕の同期も、今頃仲良くイルミネーションでも見に行ってるんですよ。向こうの世界で」と嫌味を吐いていた。

 依頼主は心底ほっとしたようで、栗栖の説明を聞くと安堵の息を下ろしていた。「よかったです。凄く怖かったんで、安心です」前回の依頼が頭にちらついていた俺たちは、そんな言葉をかけられるだけでやった意味があるように思えた。

 これで事件は円満に終わった。めでたしめでたし――とはいかないのも事実だった。

 もう一つ、俺には事件が残っている。

 橋田佳織への調査依頼が、つまびらかになろうとしていた。



 しばらく経ったある日、俺は特別待期期間のため柔らかい毛布に身を包んで時間を気にせず熟睡していた。しかしそれも束の間、俺は惰眠と安眠を一瞬で引き千切られることになる。

 電話の着信音が、部屋に鳴り響いていた。

 昨日通知音を最大にして眠ってしまった自分も悪いが、この着信音の作曲家にはなぜ鼓膜を突き刺すような耳障りな着信音を作ったんだと、早朝そいつの電話にクレームを入れてやりたい気分だった。それほどに最悪だった寝起きから、電話を取るとこれまたうるさい声がした。

「おはよう。そろそろラジオ体操第一が終わった頃かしら?」

 しねえよ。田舎の小学生か。

「それで、どういった要件なんだ。何も無かったら寝るし、依頼の打ち合わせだったら寝るぞ」

「じゃあもう寝る気じゃない、やめてよ」

 彼女の悲痛な叫び声が聞こえた。隣から音漏れしないところから察して、彼女は既に事務所にいるのだろう。今頃机に足を掛けながらゲームでもしてるんじゃないか。

「分かった、だから要件は?」

 突然叩き起こされて頭がぼんやりとしていたから、俺は早く二度寝するためにも彼女に返事の催促をした。すると、彼女は少し間があってから、声を潜めて話した。

「橋田の件で、なんとか報告書を作ったわ。いつでも結果を報告できるけど、いつがいい?」

 ずっと頭から離れなかった癖に、俺は「あぁ忘れていた」と間抜けなことをぬかす。

「その件は、まあ今日で良いよ。暇な時で構わない」

「分かったわ。じゃあ十六時になったら、事務所に来てくれるかしら」

 俺が了承し、電話を切ろうとした時だった。

「そうそう、来るときは私服で頼むわ。あなたはお客さんなんだから」

 自分の話を言うだけ言って、彼女は一方的に電話を切った。彼女に電話を切られると、なんか俺が負けた気がして悔しかった。

 いよいよ、橋田の件が明らかになる。俺は部屋に一人でいるのに緊張を隠し切れなかった。

目の上のたん瘤のように、それを気にしながらも放置しつつあった問題と今、向き合わなければいけない時が来た。早く結果を覗きたいし、まだ見たくもない気分もある。余命宣告を待つ末期患者のように、俺は手を組みながらその時を待っていた。

 空もほんのりとその明るみを落としている頃、俺はようやく重い腰を上げて家の扉を開けた。この時間帯に家を出ることは稀だから、それだけで妙な違和感があった。薄手のコートのポケットから鍵を取り出して扉を閉めると、靴を整える。隣の部屋を一目見るが、いつしかと違って鉄製の扉は動く気配がなかった。

 最大限な希望的観測と、最低限の絶望的予測が頭の中で入り混じる。もちろん、俺にとって素晴らしき最適なエンディングは橋田が何もなく、誰からも恨みを買われることのない、ただの杞憂だったというものだ。その結果が得られたら俺は、安心してこの世界を発つことができる。しかし、問題はその反対である。橋田が何か隠していて、それで誰かからヘイトを向けられているというケースだ。俺はその時、何を思うだろう? 橋田が誰かから恨みを買っていることは、別にこの際気にするまでもない。しかし橋田が俺に何かを隠しているのなら、俺はそれでも彼女のことを信じられるだろうか。まだ、一緒に世界を抜け出したいと思うのだろうか。

 不安に駆られた扁桃体を錯覚させようと、コンビニに立ち寄ってカフェラテを煽る。すまない、俺の扁桃体。少しの間だけ砂糖にまみれてくれないか。

 営業途中に訪れる事務所には、どこか入ってくるなという威圧感がにじみ出ていた。締め切った茶色の扉は、爆弾でもこじ開けることのできない強固な門のようにそびえ立っている。俺は恐る恐る、彼女の扉をノックした。

「どうぞ」

 そんな声が聞こえた気がしたから、俺は扉を開ける。正確には聞こえなかったかもしれない。

「今日はどうされましたか」

 探偵服を着た栗栖が、普段俺に見せないような余所行きの立ち姿をしていた。

「先ほどお電話を頂いて、依頼の報告ということで来たんですけども」

「あぁ、その件ですか。かしこまりました。そちらのソファーにおかけください」

 俺は客用のソファーに腰を下ろし、彼女が資料を手にするまで待っていた。

「まず、こちらが報告資料となります」

 カチコチに冷えたお茶を机に置いた彼女は、次にA4サイズの用紙を机に出した。数枚写真が印刷されており、その説明がすぐ下に細かく書かれている。俺が資料に目を落としている間、栗栖は俺と正対するように座り、そこから口を噤んだ。

 俺は活字を読むつもりはさらさらなく、大量に文字が書かれていることを確認するとすぐに顔を上げ、彼女の説明を待った。さぁ、どちらになるのか。病院の診察室が脳裏をよぎる。

 しかし栗栖は、なかなか話そうとはしなかった。まるでそうすることができないといったように、彼女は資料に目を落として考えを巡らせているようだった。

「どうして何も話さないんだ? 結果はどうなったんだ」

 俺は栗栖に声をかけ、探偵の職務を全うさせることにした。資料なんて作ったことがないから、俺は見方が分からなかった。だから早く、栗栖の説明を聞きたかった。安堵したかった。

 空を見ると、曇り空が浮かんでいた。

「……すごく、言いにくい」

 それが栗栖の第一声だった。

「落ち込まないでね。何があっても。そして、今から話すことは本当だけど、でも、話半分に聞いてほしいな」

 探偵姿のベレー帽が、下を向いていた。彼女はカルテに目を落とし、そして、宣告を下す。

「彼女には、一つ秘密にしていることがある。それは誕生日の日付とかそんな幸せなことじゃなくて、この世界での目標に関するような、もっと恐ろしいもの」

 喉仏を動かして、乾いた唾を飲み込んだ。栗栖は、


「彼女は、あなたを愛していない」


 と言った。それだけでも俺は心臓が止まりそうなのに、思考回路が断線しそうなのに、彼女はさらに追い打ちをかけた。

「橋田佳織は、中学、高校と演劇部に所属していた。元々性格が明朗快活であったからか彼女は主演を務めることが多く、彼女の代で演劇部は初の県大会優勝を成し遂げたという実績がある。そんな彼女だったが、高校二年生の時、クラスメイトの男子に恋をした。彼を一目見るだけで胸が高揚し、演劇どころの話ではなくなった。自分は活気に満ちているはずなのに、演技でどんな性格にもなれるはずなのに、彼女は彼を前にすると一人の少女にしかなれなかった。話しかけることはでき、友達程度の関係は築けたものの、それ以上が進展しない。彼女は最大限に努力をしたつもりだった。志望校も、彼の第一志望に合わせて勉強した。高校がダメなら大学で。仲が停滞すれば停滞するほど、彼女の彼に対する想いは深化していった。橋田佳織は、他人では推し量れないほどの愛情で彼を愛していた」

 意識した異性の恋愛話を聞くことが、これほど辛いものだとは思わなかった。アイドルの裏側を見ているように、俺は、そこに現実を知る他ならなかった。

「そして大学生になり、彼女は絶望する――大学内で、彼が他の女子と一緒に歩いていたから。私の努力は何だったんだ、彼女は激しく錯乱し、幸せな人間を強く憎んだ。同時に、どうしても彼を諦めきれない自分がいることに気付いた。彼の隣を歩きたい、その言葉は口にするとより実体を伴う。彼女は未だに彼に恋していた。そんな中、世界爆発が起こった――」

 栗栖はそこに自身の感情を混ぜないように、客観的事実のみを話すように意識していた。

「世界爆発が起きた時、彼女は直感する。私の恋する彼はきっと、向こう側の世界にいるのだと。そして決断する。誰かを裏切ってでも、私はこの世界を抜け出さなければいけないのだと」

 曇り空は徐々に色を濃くしつつあり、空全体を覆い被せていた。

「そんな中、パーティー会場で誰からも相手にされず沈黙していた男を見つけてしまった――」

 冷え切ったお茶が、コップの底に沈殿していた。

「最も、そのような手に遭われたのはあなただけではありません。他の男も同様の被害に遭っており、判明しているだけで彼女は六人ほどの男性と交際を親しくしています」

 栗栖はあくまでも報告的に、そう言葉を付け足した。

「そうか」そう言うしかなかった。

 やっぱりそうか、俺は諦めをつけた。それもそうだ。彼女のような人間が、普通俺に興味を示してくれるわけがないんだ。金と権力を持ってようやく、普通の人間と同じ土俵に立てる人間が、何もない状態でまともに勝負してもらえるわけがないんだ。橋田はそれに気付かせてくれた。むしろ感謝するべきではないのか。夢と現実を見させてくれてありがとう、と。

「……大丈夫?」

 栗栖が俺の様子を心配してくれるようだが、それは余計なお世話というものだ。俺はそんなにへこたれていないし、へこたれるつもりもない。長い夢を見ていた、そう思えば済む話だ。

「大丈夫だよ」俺は笑顔を作って、答えた。

「もとより、おかしいと思ってたんだ。こんな俺が一瞬でモテる世界線なんて、どこの宇宙、どこの銀河を探してもありえない。どうせ俺なんか、魅力的な人間じゃないからさ」

 栗栖を笑わせようと、俺は自虐を言ったつもりだった。

だが、彼女はじっと包むような目で俺を見つめていた。

「辛いなら、辛いって言っていいんだよ」

「意味が分からないな」俺は笑っていた。

 その時、俺のポケットからあのけたたましい着信音が響いた。うるさいな、作曲家の名前を公表してくれ、なんて冗談を思いながら電話を取ると、今一番聞きたくなかった声がした。

「こんにちは。成瀬さん」

 橋田佳織から、着信がかかっていた。

「どうしたんですか」俺は今まで通りの態度になるよう、全力で心掛けた。

 彼女は、呼吸三回分ほどの沈黙を決めて、あの声で囁いた。

「……告白の件で、話したいことがあるんですけど」

 顔を上げると、彼女は目を逸らしていた。

「いいですよ、何時ごろです?」

「夜八時、いつもの噴水前で。お願いします」

 俺は了承し、携帯をしまった。

「……行くの」彼女が様子を窺うように、俺に聞いた。

「行くしかないだろう」間断入れず、俺は答えた。

 この問題は、彼女のものではない。俺によるものだ。なら、俺が解決しなければいけないだろう。別に大丈夫だ。二人で会ってから、彼女の告白をサクッと断ればいいだけだ。それくらい、非リアだった俺にもできるさ。



 別に俺一人でもできるのに、たいそうなことに俺の後ろには栗栖千花が控えている。探偵服ということは、彼女はきっと仕事の一環としてここに来ているのだろう。ご苦労なことだ。

「先に帰っていてもいいんだぞ。俺が頼んだことでもないし」

「助手の身分の癖に口答えしないで。君、このまま放っておいたら消えそうだから」

 いつの間にか彼女は、俺のことを『助手』と呼んでいた。

 歩いて向かい、駅前の噴水が見えると、栗栖は「見てるから、頑張ってきてね」と言い残すと真っ直ぐ走り去り、建物の陰に隠れていた。どうやら口出しまではしないらしい。俺は胸がむずがゆくなりながら、噴水に立つ人影に話しかけた。

「あ、こんばんは。成瀬さん」

 彼女は、ゆっくりと振り返った。毛先だけ染め上げられた青色が、深夜の電球に照らされる。タイツとミニスカートの間から素足が覗くような、そんな恰好をしていた。

「先日はありがとうございました。凄く楽しかったですよ」

 彼女は屈託のない笑顔を浮かべた。演劇でも、そういう顔は見せるのだろうか。

「俺もすごく楽しかったです。今日は、待たせちゃいましたか?」

 すると彼女はニヤリと笑って、「えぇ、待ちましたよ」と言った。

「それは結構、三時間前から」

「そんなに待ったんですか。それは申し訳ないです。なんて謝ればいいのやら」

「冗談ですよ。嘘に決まってます」彼女は俺を肘で小突いた。

 そうか、確かによく考えれば冗談だ。何を早とちりしたのだろう。

 彼女の囁くような笑い声が聞こえる。告白の時と変わらない、夜の噴水を背景に。

「星、見えませんね」

 彼女が指さす空の向こうは、一面に曇り空が広がっていた。星を隠すそれは、まるで何も見えないプラネタリウムのようだった。息苦しく感じ、無性に出口が欲しくなった。

「残念です。今日くらいは晴れて欲しかったものだけど」

 彼女はまばらに降る一筋の雨のように呟く。低く、細い声だった。

 今日の彼女は、よく髪の毛を触る。

「あの、一つ質問いいですか」俺は右手に決意の力を込め、彼女に尋ねる。

「はい、なんでしょう?」彼女は安らかな微笑みを保ったまま、俺に首を傾げる。

 勇気を持て、自分を叱りつける。俺が今からすることは、ある意味で宣戦布告なのだ。

「橋田さん」「はい?」

「あなたは、本当に俺のことを好きなんですか」

 時計の針が、その瞬間じっと止まった。

「どういうことですか?」彼女の口角が引きずっているのが、薄暗い中でも目視できた。

 俺は一度文章を組み立ててから、栗栖の顔を思い浮かべる。

「俺は、探偵を使って調べ上げさせていただきました」

 彼女の引きつりが、顔全体に波及した。

「あなたが演劇部に所属していて、その腕前も折りつきだったこと。高校二年生の時、とあるクラスメイトに恋をしたこと。大学生になった今現在も、その男のことが好きなこと。そして、俺のことを手玉に取り、向こうの世界にいる彼に会おうとしてるんですね。違いますか?」

 彼女は俺の小演説をじっと耳にしていた。

そして、拍手を送った。

「……そこまで明らかにされては仕方ありませんね。そうです、正解です。私は成瀬さんのこと、大して好きじゃないんです。あなた越しに彼を見ていたとする方が正しいんでしょうね」

 彼女は諦めきった笑い声をあげる。俺はその時、あぁ、彼女も人間なのだと思った。

「でも、そうするほか仕方ないじゃないですか。両想いになったら抜け出すことができるこの世界で、私が好きな人は向こうの世界にいる。それは覆すことのできない事実であり、私は一体どうすればいいんだって話でしょう?」

 どうして、と言いかけて俺は引っ込んだ。彼女はその恋を、諦めきれないのだ。

「……成瀬さん。この世界、楽しいですか?」

 いきなり何を言い出すんだ、と思った。

「私は、楽しくないです」彼女は駅のホームを向いている。その横顔からは笑みが消えていた。

「私は、こんな世界なんて楽しくないんです。今まで仲が良かった友達なんていない、皆後ろ向きな人間しかいない、そしてなにより彼がいないこの世界が、私は心の底から嫌いなんです」

 顔を俯けて駅まで歩く、大人しそうな大学生が視界に映った。

「いつも楽しくさせてくれる周りの友達や頼れる人は既にいなくて、向こうの世界で私だけが欠けた何も変わらない日常を過ごしているんです。その中で私は、大して面白くもない冗談に笑ってありもしない好意を振りまいて、つまらないノリに毎日付き合わされているんです」

 彼女の後ろで、完全に酔い切ったサラリーマンの集団が千鳥足で歩いていた。

「それで、抜け出すことが『この世界で恋をすること』って。とっくの昔に恋している人がこの世界にいない私にとって、一体何をすれば神様は許してくれるんですか」

 最近、人の闇に触れることが多くなった。大抵に共通して学んだことと言えば、『この世界は面白くない』このことに尽きていた。

「成瀬さんも、そう思うでしょう?」橋田は肩を揺さぶる勢いで、俺に近づいた。

 そこに助けを求めるように。

 彼女はいつしかの告白のように、俺の胸に真っ直ぐ手を差し伸べる。

「成瀬さんも、成瀬さんもこの世界にうんざりしてるんでしょう? こんな陰険な世界から抜け出したいと思っているんでしょう? なら、私と一緒に行きませんか?」

 彼女の腕は白く、細い。しかし、簡単には動きそうにもなかった。

「本当の恋愛は後から探せばいいじゃないですか。たとえ好きでなくても良い――そうだ、私と貴方で、手を組みましょう。二人で付き合っていることにするのです。愛し合うことが主観による以上、それを正確に判断することは不可能です。嘘の恋愛感情だなんて、見抜くことは出来ません。……本当の恋愛感情が見抜けないのと同じように。お互いに利害が一致している者同士、手を組むのが合理的でしょう?」

 彼女の笑顔はどこまでも純粋で、俺に照準を合わせた瞳はずっと向こう側を見ている。

「もし私が気に入らないのでしたら、この世界を抜け出した直後に別れてもらっても構いません。こんな世界にいる私より、元の世界にいる人の方が魅力的ですもんね」

 だから……、彼女は言葉を続ける。


「成瀬さん、付き合ってください」


 俺はふっと深呼吸をした。

そして、差し伸べられた両手を、そっと断った。

「ごめんなさい」

 居心地の悪い沈黙が、場一帯に流れた。

「そうですか」橋田は腕を降ろし、顔を上げた。その表情は恐ろしく何も籠っていなかった。

「残念です。あなたなら、もっと物分かりが良い方だと思いましたが」

「ごめんなさい」俺は、そんな言葉しか思いつかなかった。

 彼女のことを直視できずに、駅のホームばかりを見ていた。階段を上る女子大生二人組らしき人物が紙袋を片手に肩を組んでいた。俺は、こうするのが正解だったのだろうか。

「さようなら」

 彼女はそう言い残し、駅のホームへと向かった。

 俺は、独りで取り残されていた。また、独りになった。しかも、自らの手で。

 静かになった夜の空気が、肌にひんやりと染み込んだ。空を見上げると、小雨が降っていた。次第にその雨は強くなり、俺の服を叩きつけるように濡らしていた。

 噴水を見上げると、未だに独りで水しぶきを上げ続けていた。雨で不要となっても、夜中で誰も見ていなくても、彼はその金属を鈍色に光り上げながら、止まることなく働き続ける。

 もう少し、噴水の近くに寄りたくなった。足早にホームへと駆け寄る人々、俺の周りに誰もいなくなった噴水広場、その二つは先ほどまで存在した彼女の幻影を映し出す。自分ではやいやいと言い訳を連ねながらも、彼女の笑顔や仕草を思い出す。

 そこで、俺は気付いた。

 俺は、立派に失恋したのだと。

 雨は強くなり、土砂降りへと姿を変えている。ホームに戻る気分には、まだなれなかった。

「大丈夫?」

 声がして、その方向を振り向いた。すると、栗栖が俺と同じように雨に打たれていた。

「雨に濡れるぞ」

「そっちの台詞でしょ、早く戻りなさい。探偵命令よ」

 彼女は両手に持ったものを俺の頭にのせる。

「これは」「タオルよ。さっきそこで買ってきたの」

「ありがとう」俺は両手で髪に着いた水分を拭きとった。パサパサとした髪になった。

 雨に打たれて、上司の女の子にタオルを持ってきてもらって。俺、一体何してるんだろうな。

 気にしてた女の子にも騙されたし。

 そう思うと、途端に目頭が熱くなった。この地面を叩く雨に紛れて、俺の嗚咽が広場に響く。

「俺、本気で気にしちゃってたみたいだ」

 心の底からの、後悔だった。

「大丈夫、大丈夫だよ。気にしなくてもいいから」

 栗栖は子供を撫でるように、肩をそっとさすった。

「とりあえず今は、事務所に帰ろう? それで暖かい部屋に籠って。私たちが大好きなカフェラテを飲みこむの。どれだけ辛いことが起きようとも、そんなもの砂糖と一緒に混ぜ込んでおけばいいの。辛い現実なんて見て悲しくなるよりは、少し目を背けて楽になろう」

 彼女の親切心を貰えば貰うほど、俺はみじめになって泣き続けていた。

「辛い、どうしようもなく辛い」雨に打たれて帰る中、俺は栗栖にそう打ち明けた。

 俺はまだ、この世界を抜け出せそうにない。

 彼女は肯定も否定もすることなく、ただ安らかに微笑んだ。

「分かるよ、その気持ち。痛いほど」

 雨に紛れて、大粒の涙に紛れて視界が濡れている中、俺は栗栖を見上げた。

「実は私も、昔にあったの。どうしても忘れられない失恋が。だから、分かる。その気持ちが」

 全てを許して抱擁するような安らかな笑顔を彼女は浮かべた。俺はその話の続きを期待したが、彼女はこれ以上を話そうとはしなかった。

 俺は、彼女に救われてばかりいた。

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