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二 いびつな恋愛連鎖


   二  いびつな恋愛連鎖


「やっと栗栖探偵事務所初めての仕事ね」

 少女が事務所から立ち去った後、栗栖は俺を見て笑っていた。

「ここからよ、ここから全てが始まるの」

 彼女は一部前払いで手に入れた札束を扇状にひらひらさせながら、椅子に座って足を組む。稀代の悪代官でも罪悪感を抱くほどのニンマリ顔を浮かべて高笑いをしていた。

「その態度じゃどっちが悪者か分からないな」

「なによそれ、別にいいでしょ。私はお仕事をしたんだから」

「なんだか札束を灯り代わりにしてそうだ」

「誰が成金よ、『どうだ明るくなったろう』じゃないわ」

 不満そうな顔を浮かべて、彼女はその扇をこなれた様子で閉じた。

「次に成金って言ったら給料九割減だからね、そのまま野垂れ死になさい」

 もしそうなったら裁判行って慰謝料を貰うから安心してくれ。

「どうせ下らないことを考えてるんでしょ。さっさと事件のことについて話し合いましょう」

 図星だ。「なんでそんなに人の考えていることが分かるんだよ」

「まずは尾行対象の確認ね、依頼者が提供してくれた写真を見ましょう」

 なんで俺の話を無視するんだ。人の考えていることが分かるのなら、ならせめて人の話くらいは聞いてくれないかな。そんなことを考えながら、机の上に置かれた一枚の写真を覗き見る。

「えっと、メモ用紙によるとこの男は身長が百八十センチくらいらしい」

「俺たちよりほんの少し高いくらいかな」

「少しじゃないでしょ嘘つかないで」

 栗栖の指摘が弓矢のように素早く飛んだ。悪かったね。

「でも俺とほぼ変わらないくらいの体格をしているな。筋骨隆々というよりも、黒縁メガネをかけてるし本をこよなく愛する感じが伝わってくるな」

「それにしては耳に何個もピアスを開けててちょっと怪しいポイントはあるけどね。でも、この写真を見る限り服装や髪型、肌の手入れにも気を遣っているのが窺えるわ。うん、なんか理由はよく分からないんだけど、なんだかあの子が好きになりそうな男って感じかな」

「俺はあんまり友達にはなりたくないな」

「最近の流行じゃない? 私はこういう男の人、地雷って感じがして苦手だね」

「まあ毒を持つ花だって綺麗で近づきたくなることだしな、理解はできる」

「そして二人の馴れ初めは恋活パーティーだから、そういう場にいるって可能性もある」

 栗栖がメモを読み上げている中、俺はあるワードが頭に引っかかった。

「ええっと、どんなパーティーって?」

 彼女は顔を上げると聞く者全ての生気を搾り取るような大きな溜息をつき、「恋活パーティー」と投げやりに答えた。「栗栖、それって婚活と何が違うんだ?」瞬時に口から零れた俺の疑問に、彼女は心の底から面倒くさそうにして説明する。「必要な知識だと思うから、せっかくだから教えてあげる」

「婚活が結婚を主軸としたものならば、恋活はその逆。恋愛を基本としたもので、主に若い男女に人気なパーティーよ。従来の婚活パーティーのように男女自由に会食したり回転寿司のように男女でお見合い形式で会話をしたりするものもあれば、最近では漫画やアニメのような共通の趣味を持つものだけで行われるものもあるわ。平たく言えば合コンね」

 俺は栗栖の長々とした説明を感心しながら聞き流し、素直に謝意を述べた。

「よくそんなこと知ってるんだな」

「知っていて悪かったわね」機嫌が悪そうに、彼女はそっぽを向いた。

 別に悪いことではないんだけどな。

「でも、この世界では誰かと両想いになったら爆発世界から抜け出せるというルールも相まって、凄くパーティーが開かれているらしいの。探せば毎日どこかしらでやっているという噂よ。そのくせして全然人減らないけど」

 文句や不満があるような言い草だが、この世界にいる俺たちが言っていいものなのか?

 栗栖は途端にパソコンの前に移動すると、なにやらキーボードを叩き始めた。平均的な大学生のタイピングスピードとずば抜けたエンターキーのうるささが事務所内に響く。ひとしきり操作を終えた後、俺を見ながら画面を指差した。

「これよ、多分これ。これが依頼主が参加した恋活パーティーよ」

 そこにはアルバイトの求人ページのように様々な恋活パーティーが掲載されていた。イメージ画像があって、隣に日時、会場、予算などの詳細が細かく書かれている。栗栖が示したのは至って王道チックなものだ。その上下にあるような謎解きパーティーだとか水族館パーティーだとか、そんな奇をてらったものではない。

「なんか他に比べるとまともなパーティーだな」

 小学生でも発言するのをためらうレベルの粗雑な感想を口にすると、栗栖はそのタブをクリックした。画面は切り替わり、年齢制限や企画説明など、更に細かい詳細が現れる。

「でもまあ、最初は色物よりも王道の方が良いと思わない? 私はそう思うわ。誰だって最初の好きな芸人は一発屋じゃなくてベテランでしょ。一発屋には荷が重いわ」

 謝れよ。一発屋に。いきなり探偵服を着て変に気取っているお前よりかは笑えるぞ。

「なによ、この服はウケを狙って着ているわけじゃないの」

 俺の視線を感じ取ったのか、一発屋もどきは怒りながら話を逸らした。

「でもほら、このパーティーには『一人でも安心』『人見知りでも大丈夫』『高マッチング率を実現』って書いてあるでしょ? だから依頼主はこのパーティーを選んだのでしょうね」

「まあアルバイトでいうところの『初心者歓迎』『高時給』ってところか。そりゃそうか」

 正直言って、俺も心が惹かれないこともない。

「まあどちらにせよ、これは重要参考資料ってことね」

 栗栖はそのサイトにブックマークを付けて、ノートパソコンを閉じた。

「全く、一体どれから手を付ければいいか分からないな。依頼主様もあの様子だとまだ男のことが好きなようだし、果たして上手くいくものなのか」

「さあ」栗栖は肩を竦める。「『もしかしたら』って言ってたもんね。上手くいけばいいけど」

 そう呟いた栗栖は、なぜか柄にもなく神妙な面持ちで窓を見ていた。指先を唇に当て、湿った吐息を艶やかな爪に漏らす。過去を憂うような、溢れそうな目つきで、独り言を残した。

「まあ、『もしかしたら』って思う時点で終わった恋なんだろうけど」


 次の日、俺は眠気覚ましのカフェラテを口にして事務所へと向かった。

「じゃんけんをしましょう」扉を開けるなりそこに仁王立ちしていた栗栖が言った。

「訳が分からない」しかし俺がいくら反論しようとも、栗栖は聞く耳を持っていなかった。

「これ以上理不尽なことに耐える練習よ」

 自覚があるならするなよと思いつつ、右手を突き出す。

「じゃあ、いくよ。じゃんけんぽん」

 俺の負けだった。栗栖は勝負に勝って気持ちが良いのか、一人でコサックダンスを踊って楽しんでいた。なにがしたいんだ、こいつは。俺はただちに恨み節を吐く。すると栗栖は交互に足を突き出しながら「だって三回連続でパーを出すのが悪いじゃん。そうでしょ?」と言った。なんともぶん殴りたくなる顔をしていた。

「でも、じゃんけんに負けるのがそんなに悪いことではないよ」

「どういうことだ?」

 俺が聞き返すと、栗栖はおもむろに姿勢を正す。そしてそのまま、初めて取った百点のテストを披露する子どものように、いかにも自慢げに言い放った。

「このじゃんけんで負けた方が、恋活パーティーに参加してもらうからです」

 話の流れが急すぎる。俺は両手を後ろ耳にあててもう一度訊ねた。

「だから。このじゃんけんで負けた方が、今日駅近で行われる恋活パーティーに参加するの」

 それはまさか、俺の将来を案じて企画してくれたことなのか?

「ちなみに君が想像するような理由じゃないけどね。もちろん、浮気調査の一環。潜入調査ってやつ。男が同じ手口で恋人を探しているというのなら、きっとこの場に現れるわ。そこに君が現れて、ちゃっちゃと証拠を見つけてゲームセット」

 栗栖はそう話しながら、また何か余計なことを思いついた顔をする。その目線は言うまでもなく、怯えて縮こまっている俺に向けられていた。

「そうだ、この際だからついでに尾行も兼ねてきてよ。君、多分私よりは体力があるでしょ。うん。君を尾行係に任命するわ」

「嫌だ」拒否権行使もあえなく、三十分後には晴れて俺は栗栖探偵事務所の正式な足担当となっていた。その後すっかり気分を良くした初心者探偵は、同じく初心者である俺にありがたく尾行のいろはについて講釈を垂れていた。

 もうそろそろ話が終わるだろう、そう思ってから六時間が経った。三十秒おきに一目見ていた窓の明かりはようやくと言ってもいいほどのろくさく落ちはじめ、それに反比例して栗栖のエンジンが全開となりつつある夕暮れのことだった。

「あぁ、もうそろそろ時間ね。駅前の居酒屋に集合らしいから、そこのとこよろしくね」

 突如充電が切れたゲーム機のように、彼女はそこで講義をやめた。今までの威勢のよさはどこ吹く風と、彼女は無言で冷蔵庫へと向かった。中から両手で赤子を抱くようにカフェラテを手に取ると、その容器に頬ずりしながら自分の椅子に腰かけた。その一連の動作を見守りながら、俺は夜の街へと繰り出していった。

 元の世界では半ば無法地帯と化していた駅前の噴水広場も、この世界では本来の静けさを取り戻していた。金髪の女の前で噴水に飛び込む泥酔した男も、胃袋を抑えて口を大きく開けて衛生上よからぬことをしようとしている男も、この世界にはいない。それは俺にとって嬉しいことこの上なかったが、どこか物足りない気持ちがするのは気のせいだろうか。電車の音と革靴の音、カラオケ音源のように感じるリズムを耳にしながら、駅前広場を闊歩していた。

 ふと、自分の足取りが軽々しくなっていることに気付く。胸に一筋の光明が差し込むような、駅前に輝く時期尚早のクリスマスツリーを待ち遠しくするような、そんな気分に襲われる。

 どうやら、俺はこの恋活パーティーなる物に期待しているらしかった。どうせ作れるわけないと言い訳しながらも、心の奥底では理想的な展開に期待してしまっていた。皆が羨むような女の人と知り合って、ゆくゆくは彼女と付き合うことになる……俺が何度も妬んでいた向こう側の人間に、俺もなれるかもしれないと考えている。そんな浮足立った自分を冷めた目つきで眺める自分を感じながらも、気が付くと会場の前までたどり着いていた。

 さて、もう一度話を振り返っておこう。俺が追っているのは黒縁メガネをかけたマッシュ風味の男であり、彼は彼女に金銭をせびり、依頼者からは浮気を疑われている。俺はそんな男を追っているわけであり、例えるなら気づかれないよう調査するスパイ的活動なるものだった。

 なぜこんなことを確かめるかと聞かれても、まあそれは自明なことになる。


 受付に会場の前で手渡された一枚の紙に、自分の名前や職業、趣味、好きな音楽や付き合ったら行きたい理想の場所などややデティールに凝った項目を書きこんだ。職業は何を書くべきか迷ったが、結局そこだけ走り書きで『大学生』とだけ書いた。

 所詮お遊びなんだから、『探偵』だなんて恥ずかしくて書けないからな。どうせここに自信満々に『探偵』と書きこむことができるのは、あの馬鹿探偵だけなのだ。

 職業以外は平均的無個性な自己紹介シートができあがったところで、俺は中に誘導された。

店に入るとこれまた普遍的な居酒屋が顔を覗かせる。

 俺が受付終了時刻ギリギリに来たこともあるせいか、数多くの人が入り口辺りでごった返していた。そのほとんどが俺と同じように一人で来ている者らしく、所在なさげに首をあちらこちらに動かしていた。誰かと待ち合わせて来たような人は入り口から進んだ先でその友人たちと談笑しているようで、なおかつそんな人はごく稀だった。

「みなさん、聞こえますか。お手持ちの自己紹介シートに席番号が振られていますのでそちらの方にお着きください。四人一組で扱わさせていただきます」

 気が付くとさっきの受付を担当した女性が、今度はマイクを持って場を取り仕切っている。この小さな居酒屋に彼女の声が大きく響くと、入口の混雑が嘘のように引いていった。自分の席番号を確認し、空いた道を通って席に着く。空席のテーブルに一人で座り、盛り上がっている隣のテーブルに引け目を感じつつ頻繁に足を組み替えていると、男の声がした。

「あぁ、今日はよろしくお願いしますね」

 そう挨拶して隣に座る男を見て、俺は開いた口が塞がらなかった。俺の様子が変だったのか、その男は訝しむような顔をして視線を合わせる。

「もしかして、僕の顔に何かついてますか?」

「いいや、何もついていませんよ」

 しわれた声で否定しながら、俺は姿勢を変えて無理矢理彼から視線を逸らした。

 テーブルに肘をつき、横の男をチラ見する。昨日に栗栖と話し合っていたことを思い出す。

眉毛が隠れた、切り揃えられた前髪と明確な意図を持って刈り上げられた後ろ髪、カラスのように黒い衣服で身を包み、虫メガネのように大きい丸眼鏡。耳たぶからぶら下げられた鈍く光る鉄色のピアス、そしてほのかに香るミントの匂い。

 彼の顔には、見覚えがあった。

 彼は、調査対象の男だった。

「まあ、お互い頑張りましょう。それで、さっさとこの世界から抜け出しましょうか」

 彼はアルプスに響く草笛のように清らかな声で話す。俺は乾いた愛想笑いを浮かべてその場をごまかした。どう見ても間違いない。本人だ。どうして同じグループに配属されたんだ。俺と彼は初対面のはずなのに、喧嘩した旧友とばったり遭遇した時のようにどこか心苦しい。

 確かにあの時栗栖は言った。「調査対象がこのパーティーに参加しているかもしれない」だが、だからと言って席が隣になるなんてことはあるのだろうか? 栗栖とのじゃんけんに負けて、さらに男と席が被る確率はいかほどのものなのか?

 いくら俺が探偵であることを伏せていると言え、この場に堂々と座れるほど俺は強心臓を持っていない。

 長い沈黙が流れた。話題もなく、よってなにも話さず、手持ち無沙汰に携帯をいじる。もう一分早く行っていれば、違う自己紹介カードを受け取って席が離れていたはずなのに。

「このパーティーに参加されてから長いんですか?」

 彼が退屈しのぎに話しかける。俺は地雷を避けるよう細心の注意を払って答えた。

「いえ、これが初参加でして」

「そうですか」

 溜息三回分の時間が流れた。

「あなたは長いんですか?」俺は訊ねた。

「いいえ、私もこれが初めてです。緊張しています」嘘つけ。彼は肩を竦めて自虐的に笑う。

再び会話が止まった。俺は視線を逸らして無駄に咳き込んだ。呼吸をすることすらも気を遣ってしまう。早く外の空気を吸いたかった。

 早く事務所に帰りたい。そんなことを考えていると突然、二人の女性が俺の前に現れた。

「あ、私たち席ここなんです。よろしくお願いします」

そう言って彼女たちは対面の席に座る。ほぼ同時に、受付にいた女性が会の開始を宣言した。

 それは、俺を忌まわしい渦から救い出す鐘の音だった。

 まばらな拍手が鳴って、トークタイムへと移る。その瞬間、俺たちはまるでクラウチングスタートでセール品を狙う主婦のように一斉に動き出した。その熾烈(しれつ)さは戦場のようだった。

「こんにちは」まずは隣にいる男が、耳障りの良い声で口火を切った。

「お仕事は何をされているんですか?」彼は靡くそよ風のように緩やかな調子で聞いた。

 俺の正面に座る、茶髪の五歳ほど年上に見える社会人が口を開く。「介護職だよ」

「世界爆発が起こる前は忙しかったのに、今ではからっきしだね。良いことなんだろうけど」

「私は大学生やってたんですけど、この世界に来てからはもっぱら飲食のアルバイトをしていますね。大学も教授がいなくなっちゃいましたし」

 もう一人の女性がそう言うと、社会人の女性が周囲を見渡して目を大きく見開いた。

「大学生なんだ。え、じゃあもしかして君たち二人も大学生?」

 俺は一瞬だけ隣を伺いながら、合わせるようにしておずおずと頷いた。

「ええ、社会人やってるの私だけ? なんかおばさんが来ちゃってすまないね」

「全然いいですよ」男は爽やかな笑顔を浮かべる。「むしろありがたいくらいです」

 そのまま会話が盛り上がっていると、安いベルの音が店を響き、司会がマイクを持った。

「それでは女性方は席を一つ移動してください。移動が完了したところからご自由にトークタイムへとお移りください」

 アナウンスを聞いた女性二人は立ち上がり、「じゃあまた。凄く楽しかったです」と言い残して隣の席へと去っていった。それと入れ替わるようにして、また別の女性二人組が現れる。

半ば儀式的な挨拶を交わし、仕事の話や、話したそばから忘れるような話題を消費した。しかし、手ごたえは全くなかった。微妙によそよそしく、見えない壁を作られているようだった。俺は人と話しているはずなのに妙な孤独感を味わった。会話も終わって席移動が始まった時、俺だけが連絡先を聞こうとしても逃げられる。「あぁ、また別の時間で交換しましょう」彼女たちは引きつった顔でよそよそと隣の席へと逃げ出した。

そんな欲望と打算が渦巻く恋活会場にて、彼女たちは男には屈託のない笑みを浮かべる癖に、俺に対しては作った笑顔で相対する。口を開こうにもその場にひしめく圧倒的な絶望感に押し込まれ、水滴を垂らしてコップに残っている烏龍茶ばかりを見つめている。それを全て飲み干す気にもなれなくて、諦観しきった笑いを一人ごちにあげてから今からでも荷物をまとめて帰ろうかと考えていた時、


 彼女が現れる。


橋田(はしだ)佳織(かおり)って言います。よろしくお願いします」

 彼女は、柔らかな笑顔で俺に挨拶をした。その顔は……まあある意味では忘れられないのかもしれない。俺よりも頭一個半くらい小さいその女の子は、両手で椅子を引き、撫でるように腰を下ろした。黒色の髪がふわりと揺れて、垂れ下がった三日月のピアスがキラリと光っている。その柔らかな所作からは意外にも、彼女は毛先を濃い青色に染めていた。

「どうですか? パーティーの進捗は」

 橋田(はしだ)は椅子に座るなり、屈託のない笑顔でそう訊ねた。場合によっては嫌味に聞こえるその言葉も、彼女の前では何も思わない。良い意味で遠慮のない人だった。

「恥ずかしいことに、全く」前に男がそうしたように、俺は肩を竦めて自虐的に笑った。

「そうなんですか」肌触りのよさそうな笑みで彼女は同意した。「私もです」

 意外なことに、今までの女子は俺の方を見向きもせずに、ずっと隣のいけ好かない男ばかりに目が行っていたというのにも関わらず、彼女は俺とばかり話し続けてくれていた。俺の言葉を聞いて、笑って、深く頷いてくれていた。それは世界がひっくり返りそうなほどにありがたかった。だが、もしかすると彼女に気を遣わせているのかもしれない。俺はそう思うと何度か隣の男を横目に見た。その度に、彼女は俺だけに聞こえるように呟いた。

「いいんです。あなたと駄弁りたいんですから」

 正直に言って、俺はこの言葉に動揺した。三回ほど脳みそで反芻して、その言葉の意味が自分の考えている意味であればいいと思った。忘れようとしても忘れられなかった。それは極めて身勝手な解釈フィルターを通り抜け、甘い意味となり深く脳の記憶細胞に絡み合って離さない。このパーティーに参加する意義が、一瞬にして理解したような気がした。

「そういえば橋田さんって、高校時代何かしてましたか?」

「部活とか凄く本気でやってましたね。成瀬さんは?」

「部活とか凄い、俺はずっと自堕落にゲームですよ」

橋田は楽しそうに体を揺らしながら甘いカクテルを口にした。「それも楽しそう」そんな風に話す彼女の姿は、初めて見た時よりも数段と魅力的に思えた。火照り始めた身体を押さえつけるように、手に持っていた烏龍茶に口をつける。彼女はそんな俺の様子を見ながら、まるで自宅にいるような崩した格好で微笑を保ち続けていた。彼女にも、この不整脈のように早まる脈拍と血流が走っているのかもしれない、そんなことを考えた。

 興奮は時間を忘れさせるようで、気が付いた頃には店に司会の声が響き渡っていた。成果を上げられなかった今までよりも、その声は無機質で重く感じられた。

「また話しましょう。もしよければ、自由時間に」

 橋田は名残惜しそうに立ち上がると、俺たちの席に手を振って離れていった。そのボブカットから覗く瞳は、隣の男ではなくこちらを見つめていた。勝ち誇った気分になり、俺は男を横目に見る。しかし彼は眉一つ動かすこともなく、ただ作り物めいた爽やかな笑顔を浮かべて別の女性に手を振るだけだった。

「いいじゃないですか。お似合いでしたよ」

 彼女たちがようやく前を向いた時、独り言を漏らすように男は呟いた。

「そうですか、それはどうも」

「僕もあんな関係を築ける人を探したいものです」

 またしても男は自虐的に笑う。そこに嫌味や卑屈さを感じさせないのは橋田と同じだったが、彼の場合はどこか胡散臭さがついてくる。

「でも色んな人と連絡先を交換していたじゃないですか」

 調査の件もあり、俺は思い切って彼に尋ねる。同時に、勘繰られた際の不安が脳裏をよぎる。

「まあ、数は多い方が良いですから」

 男はそれが当たり前であるかのようにそう言った。

 プログラムの最後は自由時間となっており、今まで席を移動しながら話してきた異性と今度は自由に話すことができるという時間だった。体育や修学旅行のグループ決めのような、孤独への気まずさと同じようなものを感じたが、だが、俺の横には橋田がいてくれた。

「成瀬さん。こんなの聞くのは駄目かもだけど、成瀬さんはいつこの街に来たんですか?」

「本当に最近のことですね。一週間前とか?」

 橋田は声を出して驚いた。「本当につい最近じゃないですか」

「私なんて結構前からですよ。二か月前くらい?」

「なんだかんだあなたも最近じゃないですか、一週間も二か月も変わらないですよ」

「そんなものですかね」橋田は恥じらうような笑いを見せた。

「でも成瀬さんが一週間前に来たというのなら、この街の観光名所とか知らないですよね。この街、ネットで調べたら一発で出てくるような結構有名なところがいっぱいあるんですよ」

 そんなものなのか、と相槌を打った俺に、橋田は強く頷いた。

「そんなものですよ。せっかくですし、いつか実際に行ってみるのはどうですか? 一回場所を知っちゃえば私以外の女の子とデートで使い回すこともできますし」

 彼女はポケットからメモ帳とペンを引き出し、一枚破って何かを書くとその紙を俺の胸に押し付けた。「電話番号です。また都合がついた時に教えてください」

 夢のようなことだ、俺は押さえつけても伸びてくる鼻の下を隠しながら受け取った。まさか俺がこんなことをされる立場にあるとは、数か月前の俺では思いもしなかった。

 この調子では、本当にすぐに元の世界に戻れるかもしれない。

「そうだ、せっかくだから」橋田はメモ帳をもう一枚破き、今度はペンと紙を突き出した。

「成瀬さんの電話番号、教えてくださいよ」

 本当か。俺はそう思った。唯々諾々とそれに書きこんで、彼女は飛び跳ねるように喜んだ。無邪気に喜ぶ彼女の姿は、打算が入り混じりながらも照り輝くような学生時代を連想される。彼女もきっと、清廉潔白な生活を送っていたのだろう。そんなことを考えた。

 果たしてそうか、もう一人の俺が後ろから囁くように、その思考回路は現れる。この一連の流れ、俺にしてはできすぎじゃないか。ついこないだまで俺は、卑屈で面倒くさい人間だったんだ。それが一夜にして女性から連絡先を貰うほどに成長しているわけがない。想像しろ、お前は『彼氏ができない』とひたすら笑えない自虐を飛ばす女性に花束を向ける気になるか? ならないだろう。それと同じで、何かが変なんだ。第六感、危機感のようなものが俺に向けて警告を発していた。

 だが、俺はその忠告を頭を振って消し飛ばす。事実として、俺は橋田から連絡先を貰っている。これは覆すことのできない事実であって、何を思ってかは別として、とにかく彼女は俺と仲良くなりたいと意思表示をしたのだ。たったそれだけのことに延々と言い訳や屁理屈をこねてなんになる。もしかすると、趣味が同じ者同士で友人として仲良くなりたいだけなのかもしれないじゃないか。考えすぎなんだ。昔、俺の友人もそう言っていたではないか。「考えすぎなんだよ、もっと気楽に行けよ、気楽に」と。今の俺に足りないのは豪快さであり、だからこんな世界にいるのだ。一時の迷いで一歩を踏み出せば、もしかしたらお互い好きになるかもしれない。楽天的になることで、それで芽生える恋だってあるだろう。

 もしかすれば、彼女に頷くだけでこの世界を抜け出すことができるかもしれないのだ。

 その論理は、俺の脳内を麻薬的に支配する。心が打ち震え、強く早く鳴り続く鼓動の音が太鼓のように激しく響き、空っぽだった人生の器を満たしていくような感覚だ。自分が舞台の暗幕にいるように、照明が暗幕の隙間から微かに漏れ出るあの瞬間のように、俺は今、なにかが始まるという感覚を押さえつけることができなかった。今、俺の人生は始まったのだ。

「じゃあ、楽しみにしてますね」その彼女の言葉に、俺は肯定した。

 その後司会から一度席に戻るよう伝えられ、全員が着席したことを確認すると彼女は会の終了を告げた。数か所から拍手が飛んでくる。期待するような結果を残せなかった人は顔を俯けては何もせず、想像以上の成果を上げた人はスタッフ、店員、客の全ての関係者に称賛の手拍子を送っていた。俺は多分、開始の時よりも大きな拍手を送っていたのだろう。

 こうして俺の初恋活パーティーは終わりを迎えた。結果はきっと初めてにしては上出来の部類だろうと内省する。この世界を抜け出すためにはここからが大変なんだろうが、そんなことは今の俺の知ったことではない。初めの一歩が踏み出せた、それだけで充分なのだ。スケートボードだって最初の一蹴りが肝心なように、恋愛も最初の踏ん切りが大事なのだ。

 店を出ると、既に仲良くなった男女二人組などが別の店を探して街に繰り出さんとしていた。残念ながら今回は縁が無かった人間は、大人しく携帯をいじりながら駅へと直行していた。その光景を見てハッとした。俺の恋愛のために来たのではなく、あくまでも探偵として潜入調査をしていたのだ。せっかくの雰囲気を手放すことを惜しみながら、俺は橋田に断りを入れる。残念そうにしながら手を振った彼女を見送った後、鳴りを潜めて男の出方を窺った。

 行きに栗栖から貰った小型カメラを構え、店の入り口から少し離れたあたりの茂みに隠れる。

 間もなくして、男は現れた。

 その隣には、俺が二回目のトークタイムで一緒になった社会人の女性が歩いていた。年は二十前半で、職種は携帯ショップの店員だったか。黒い長髪が特徴の女性だ。俺に一向に興味を持たず、男の方ばかりを見つめていたのが印象的だった。

 男は変わらず不敵なスマイルを残しながら、慣れた口ぶりで彼女を篭絡しているようだった。

男はこの世界の中では一際目立つ存在であり、当たり外れで男を分類するならば彼は当たりの部類だった。そんな大魚を見過ごすはずもなく、口説かれている彼女はまんざらでもない様子で男の瞳を見つめている。依頼してきたあの少女も同じような瞳をしていたと思うと、それだけで無常を嘆くような気持ちになった。

 二人の艶美な笑い声が俺の耳に微かに届き、時にその感情を言葉で伝えきれない口惜しさを顔に出したような表情をし、そして男が柔らかく彼女の手を掴んだ。

 その時、俺は息を潜めて、シャッターを切った。

 シャッターを切らなかった方が幸せなのではないか、そんなことが脳裏を(かす)めた。

 小型カメラを下ろすと、二人が手を繋いだまま街の暗闇に消え去ろうとしていた。俺は慌てて茂みから立ち上がると、彼らの十数メートル後ろをつけていった。こんな時間帯に一体どこへ行くというのだろう。二件目の居酒屋だろうか? しかし、今日のパーティーで隣の彼女は生ビールを頼んでいたのに対し、男はオレンジジュースを飲んでいた。未成年という可能性も捨てきれない。俺は疑問を抱きながら、電柱の後ろに隠れた。

 夜の尾行というものは、想像以上にやりにくい代物だった。

机上論では夜の方が暗く、いざとなったら黒に紛れることができるから簡単だという結論に至るかもしれないが、現実はそうでもないらしい。夜の尾行はお互いの神経を尖らせる。一人しかいないはずの空間に自分の靴音を立ててみれば、いくら対象が呑気な性格だとしても警戒せざるを得ない。本来いないはずの方向から足音が聞こえているのだから。挙句の果てに警戒心が強いターゲットだと、何も音を立ててないのに頻繁に振り返っては速足で歩くときた。いちいち対象の気を逆撫でしないよう気を遣うくらいなら、昼間にカフェラテでも飲みながら優雅に後ろをつけたいものだ。

 だが、それでも成功してしまうあたり、人間は尾行しやすい生き物なのだろう。

 彼ら二人が向かった先は、なんと男の自宅だった。

「もう夜も遅いことでしょう。この孤独な人間しか存在しない社会で、夜中女性が一人で歩くことは自殺行為に過ぎません。ここからですと僕の家が近いですし、一晩泊まりませんか?」

 大胆にそんな口上を述べながら、男が連れ込んだのだった。それに対して女性の反応は……やはり変わることがなく、潤んだ声で年下の男の言いなりになるばかりだった。

 俺は依頼主の顔を思い浮かべながら、カメラを構える。

 なんでこう、上手くいかないのかな。

 二人が六階建てのアパートに入る瞬間をシャッターに収めた後、ほどなくして三階の一室の明かりがついたことを確認して、俺は来た道を返した。

 荷物を取りに事務所についた頃には、会場での興奮はすっかり冷めて数学の入試問題を三年連続で解いた時のような疲労感だけが残っていた。考えることを放棄して、あらゆる物事全てを脊椎で判断しているような感覚だった。

「あら、帰ってきたのね。もう帰ってこないかと思ってた」

 力を振り絞って扉を開くと、シャンデリアの下でココアを飲んでいる栗栖と目が合った。

「どうしてお前、まだここにいるんだよ」

 部屋につけられた時計の針を見る。短針は十二時をゆうに回っており、たとえ仕事が残っていたとしても寝なければならない時間帯だった。

 そんな栗栖は残ることがさぞ当然かのように、ココアを一飲みして言った。

「どうしてって、君が帰るのを待ってたんだよ。社員の面倒を見るのが社長の仕事でしょ?」

 色々ツッコミたいところはあるが、今の俺にそれをする気力は残されていなかった。中途半端に口を開いて絶句している俺を見て、栗栖はもう一つのマグカップを手に取った。

「そういうわけで、今日はお疲れ様。これ、飲む?」

 俺はそれをありがたく受け取って、喉仏に薄茶色の液体を流し込む。

「おい、これ冷めてるじゃないか」

「うるさいわね、常温くらいがちょうどいいでしょ」

「ならなんでココアを選んだんだ、水でいいだろ水で」

「仕方ないでしょ、カフェラテだと目が醒めちゃうのよ」

「ならカフェインレスコーヒーでも飲めばいい。ココアにだってカフェインはあるぞ」

「あれは微量よ、お茶以下のカフェイン量はもはや入っているとは言わないわ」

 そんな下らない言い合いをしていると、栗栖が話を切り出した。

「そういえば、今日の成果は?」

 彼女の分かり切っていた質問に、俺は誇らしげな表情をした。

「尾行対象をパーティー会場内で確認しました」

「やったじゃない」栗栖は手を叩いて喜んだ。

「さらに、あの男の家も尾行により突き止めました」

「やったじゃないの」彼女はもっと手を叩いて喜んだ。「地球一周したくなるほど嬉しいわ」

「それで、どうだったの」栗栖は目を輝かせて催促する。「アウトなの、セーフなの」

彼女の期待に俺は気分が重たくなりながらも、務めて明るく告げた。

「黒だった。この写真がその証拠だよ」

 俺は彼女と目を合わさないように、小型のカメラを手渡した。その中に入っている二枚の写真を目にして、栗栖千花は呟いた。「まあ、そうよね」

「次の問題は依頼主様にどうやって説明するかってところね」

「まあ、そうだな」俺は彼女に肯定した。「フォローが必要になるな」

 あの酷く落ち込んでいた依頼主は、この結果を見てどう思うだろう。

「まあ、それはその時に決めよう。さっきも言ったように、今はとにかくお疲れ様」

 空気が淀んできたところで、栗栖は強引に話を打ち切った。

「そうだ、そういえば」続けて彼女はわざとらしく口角を上げた。

「今日はどうだったの?」その瞳は、猿が主人に悪さをするように光っていた。

「どうって、何が?」「とぼけないでよ、恋活の結果よ結果」手首を動かして、言わなくても分かるでしょ、とボディーランゲージをされた。俺は今日起きたことをありのまま言うべきか逡巡した後、再び戦果を報告する斥候兵のように拳を上げて宣言した。

「とある女性と連絡先を交換しました。これからデートの誘いを取り付ける予定です」

 栗栖はものすごく驚いたような表情をしてから、今まで以上に喜んだ。「素晴らしいわ。まさか本当に結果を残すなんて。君は事務所の誇りよ」

 俺は彼女の拍手を浴びながら、自分のしたことを振り返った。全く、やれやれと自分の頭を抱えそうになった。果たして爆発前の俺がこんなにも誇らしく自慢するのだろうか? 完全に熱に浮かされているとしか思えない。

「全力で応援するわ。何かあったら相談するといいよ。場合によってはお金を頂くけど」

 栗栖の純然な祝福が、冷え切った身体を温めた。



 それから数日ほどが経って――その間に少し面倒くさい案件に巻き込まれてしまったのだが、まあそれはひとまず置いておくとして――俺たちはこの事件の大詰めにかかろうとしていた。

異性とのデート姿など、浮気の証拠写真を多数抑えた俺たちは初仕事のフィナーレとして尾行により男の私生活を調査しようとしていた。依頼主が渡してしまった金銭が、一体どこに消えてしまっているのかという意味も兼ねてある。

 その日は突然訪れた。

 朝の日差しを睨みつけ、寝起きの瞼を擦っていると突如としてインターフォンが鳴り響く。早朝から俺を呼んでいる人間は、借金取りでもためらうほどの連射速度でインターフォンを連打する。そのおかげで家中が騒音で溢れかえり、俺は否が応でも目を覚まさなければならなかった。うるせえな。

「君、今すぐ準備して。今から仕事をするわ」もちろん正体は栗栖だった。

「まだ朝の七時だぞ、こんな朝っぱらから一体何をしようと言うんだ」

 舌打ちを抑えながら俺は彼女に質問した。

「尾行の次は張り込みよ。刑事探偵の鉄板じゃない」

 そんなわけで、俺は慌てて仕事の支度をさせられたのだった。



      *


 栗栖に半ば強制連行される形でふかふかの毛布から引きずり出されると、俺は彼女に付き従うように、アパートの階段を一段ずつ丁寧に降りていた。

「これが私の車だから、荷物を後部座席にのっけて」

 栗栖が自信満々に指を差したのは、いかにも二十代なり立ての女子が乗るようなピンクの軽自動車だった。無論、同年代の女性の車には初めて乗るから、俺は少し緊張した。

「なに硬くなってるのよ、もう助手の仕事には慣れたでしょ?」

 栗栖は後部座席を開けると、俺に荷物を投げるように指示する。

「今思ったけど、これトランクに詰め込むんじゃだめなのか」

「トランクは取り出すのが面倒くさいでしょ」

 そんな理由から、あえなく俺の提案は却下された。俺の荷物を入れ終わると、栗栖はやけにたいそうな荷物を座席一杯に置いた。そして彼女は運転席に座り、エンジンをかける。百均に売られてそうな安っぽいエンジン音が空を響かせる中、彼女は助手席を小突いた。

「じゃあ、行くわ。早く乗って」

 彼女の言葉に頷きつつ、これなら別に昼からでもできるのではないか、朝早くに叩き起こす必要もなかったのではないか、そう不満を抱きながら俺は助手席の扉を開けた。

 ――この先、俺に何が起こるかも知らずに。

 キャッチ―な音楽を垂れ流す栗栖の運転は意外にも大人しかった。常に法定速度や速度制限を遵守して、横断歩道を渡ろうとしている人がいると必ず減速し、歩行者に道を譲っていた。

「栗栖、意外に運転できるんだな」

「当たり前よ。探偵たるもの、これくらいできないと末代までの恥だわ」

 こいつは探偵を武士か何かと勘違いしているのか?

「逆に聞くけど、君は車を運転できないの?」

「まあ運転はできるんだけど、やりたくはないな。栗栖の意外にまともな運転を見た後だと」

「なんなの『まとも』だったり『意外と運転できる』だったり、私を何と思ってるわけ?」

「煽り耐性皆無の血の気が濃いヤンキードライバーかと」

「法定速度ギリギリまで上げてから助手席から放り投げるわ」

 そうやって時間を潰していると、車は住宅街へと侵入する。囲碁のマス目のような道をくねくねと曲がっていって、その先で見つけた有料駐車場で車を休ませた。正面にはマンションやアパートが建っていて、それは俺が数日前に目撃した景観だった。

「浮気男の家か」俺は答えた。「ご名答」栗栖は拍手をした。

「さあ、最終幕ね。男の私生活を洗いざらいするための張り込みをこれから始めるわ」

 ハンドルから手を離した彼女は、運転の疲れを放り投げるようにして背もたれに体重をかけた。そして、右手で椅子の側面に手を入れると座席を倒し始めた。

「じゃあここでのんびり待ちましょうか」

「おいおい」俺は彼女の眠たげな顔を覗き込む。「なにもしないのかよ。もしあいつが動かなかったら俺たちは丸三日でもここに居続けるのか?」

「そういうことになるわね」栗栖は呑気に欠伸をしていた。

 もしその場合、ちゃんと給料は出るんだろうな。ええっと、確か契約の時に「みなし残業制」とか言ってたような?

「まあ安心してよ。今日行くまでに地図を見て銭湯やシャワー付きのネットカフェの場所を見つけているからさ。疲れた時は息リフレッシュよ」

 こいつは用意周到なのか、行き当たりばったりなのか、どっちかに振り切ってくれないかな。中途半端が一番困るんだから。意気消沈しながら窓枠の向こうを眺めると、日がようやく頂上付近に辿り着いているようだった。後は下るだけ、そう考えていると朝に何も食べていないのを思い出す。やけに胃の部分が存在を主張し始めた。

「栗栖」「どうしたの?」座席に寝そべった彼女は、首だけ持ち上げて億劫そうに答えた。

「腹が減ったからご飯を買いに行ってもいいか」俺の真剣な表情を見て、栗栖は呆れて答える。

「いいわ、好きに行ってきなさい」

 そこから俺はスーパーで昼食を買い、それを片手に再び栗栖と監視を続けた。しかし三階の明かりは変化することがなく、気が付けば夜になっていた。

 それからもう一度離席して、俺は近くの銭湯でシャワーを浴びることにした。三十分後、すっかり身体を温めてきた俺は、栗栖が乗っている軽自動車の扉を叩く。その音に反応して栗栖の手が運転席のボタンへと伸びて、ロックを解除した音が聞こえた。

「ありがとう」俺は彼女に礼を言いながら助手席に座り込んだ。フィルター特有のにおいが鼻につんざき、眉を顰める。「長かったじゃない」栗栖は言った。

「長丁場になりそうだから、ここはゆっくりと気分転換を」

「君はね……」倒れたシートに寝転がる俺を、栗栖は物言いたげな顔で見て、やめた。

「まあいいわ。助手のケアを怠らないのも探偵の仕事だし。じゃあ私がシャワーを浴びてくるから、監視をよろしくね」そう告げると荷物を手に取って、栗栖は運転席の扉を開けた。栗栖が開けた扉から冷たい風が押し込むように吹き込んで、俺は身を縮こまらせながら布団を持ってくればよかったと後悔した。

 栗栖が出て行ってから数十分後、普段家でそうしているように俺は寝そべって頬杖をつく。そして、今日見る予定だったテレビ番組を呑気に見ていた。

しばらくして番組に飽きてきた頃、突然運転席側の窓から拳で車体を殴る音が耳に入った。

「こら助手、開けなさい」

 シャワーを終えるのが早いのか、テレビ番組が今日に限って特別編なのか、俺が見たい番組の途中で栗栖は戻ってきた。せっかく良いところなのに、どうして一度それから目を離さないといけないのか。テレビを見ていたら母親に風呂に入るよう催促されていた学生時代を思い出しながら、俺は亀のようにのんびりと扉のロックボタンに手をかける。

 俺としては最大限に手を伸ばしているつもりだが、どうしても手が届かない。その様子を見兼ねてか、栗栖はさらに力を入れて車体を殴り始めた。

「こら助手、開けなさい」張り込みしてるのに大声出してどうすんだよ。

なんとか中指が届いて運転席のドアロックを外すと、栗栖は勢いよく運転席に飛び乗る。車体が吹き飛びそうなほどに揺れてそのまま扉を力一杯に閉めると、「こら、もっと早く開けなさいよ」と囁くような声で俺に注意した。普通逆だろ。

「次からは私が来そうになったらロックをあらかじめ外しておくこと。いいわね」

 すっかり機嫌を損ねた栗栖に、俺は平謝りを繰り返した。次にこんなことをしたら今度は外で寝るハメになりそうだからな。「暖を取りたい? 車の通気口があるじゃない」とか、そんなこと平気で言いだしそうだった。

 俺は反省しながら、男の家をちらりと見る。今の騒ぎで彼が勘付いていないか心配した。

 しかし杞憂なことに、男の部屋は白色電球が燦々と光り輝いて変わらなかった。もし男が俺たちの存在に気付いて、逆に警察を呼んだら一体俺たちはどうなるのだろうか。意外に俺たちは今危ないことをしているのではないかという不安がぽつりと生まれた。

 そんな中、俺が見ていたテレビ番組はようやく終了時間を迎えたようで、動体視力テストかと間違えるほどのスピードでエンドロールを流し始めた。もはや製作者の名前を読ませる気すらないのではないかと考えながら、俺は漠然とそれを見ていた。

「今日の日課はこれで終わりかしら?」と栗栖が横から聞いてきたので、俺は頷いて答えた。

「あぁ終わりだ。今日はもう何もすることがない」

「それじゃあ今日の所はもう遅いから寝て。君が寝てる間は私が見ておくから、出来る限り体力を回復しておくことね」

 今までの表情とは一転して、彼女の声は至って真剣そのものだった。俺はその声色に驚くあまり、身体が勝手に彼女の方を振り向いた。彼女はその大きな目で、眼前に光る部屋の明かりを凝視していた。足や腕を組みながらじっと前を見据えるその横顔を、前側座席の豆電球は照らす。座っているだけでもオーラを放つ彼女は、やはり美人そのものだった。

 そうなるとやはり、度々思わずにはいられない疑問が浮かぶ。

 なぜ、彼女がこんな世界にいるのだろう。

 だが、そんなこと考えても答えが出ないのは知っていた。俺が考えるべきなのは、どうやったら自分がこの世界を抜け出すことができるか一点に尽きるのだ。人様の心配ができるほど、俺は余裕を持った立場じゃないからな。

「本当にお前は良いのか、俺が先に寝て。俺は夜型だから深夜は結構いけるのだが」

「夜型朝方なんてものは通販会社の眉唾物よ。嘘に決まってるから、さっさと寝なさい。私は別に寝なくても大丈夫だけど、睡眠不足で君が寝ぼけてたら困るからね」

 それは車を運転する栗栖が危惧するべきことなのだが……と思いながら俺は頷くことにした。貰えるものは貰っておけ、それが俺のポリシーだ。

「そこまで言うなら、ありがたく眠らせてもらうよ」

「えぇそうして。何か動きがあったら伝えるわ」

 栗栖は外の空気を吸いたくなったのか、車から出ると伸びをしていた。俺はその姿を見て若干の申し訳なさを感じつつ、全身の力を抜きながら仰向けに身体を倒す。座席は硬く、シートの反発も得られない。路上で寝る感覚を味わいながら、俺は瞼を閉じた。


 栗栖の声がして、目を覚ましたときにはすでに朝を迎えていた。

「時間よ、起きて。交代しましょう」

 腰や背中辺りに岩が刺さったような違和感を覚えながら、俺は身体を反らせて起き上がる。全身が乾いた悲鳴を上げていて、心地良い音はと言えば外から微かに聞こえるスズメの鳴き声くらいだった。頭を押さえながら俺は今日初めて口を開く。

「おはよう、頭が痛いな」

「あらそう、私はもう限界だから寝させていただくわ。もし何かあったら電話して」

「分かった、俺はとにかく眠たいよ」

 改めて考えて、会話になっているのかも怪しい会話を済ませると栗栖は外へ出て、欠伸をしながら千鳥足で遠くへと向かって行った。俺も欠伸をしながら、きっと栗栖はネットカフェに行っているんだろうなと昨日の会話を思い返した。

 それからは一切何もなく、平凡退屈な朝の風景がフロントガラスに上映されていた。なんの面白みもないその光景を横目で見ながら、これまたなんの面白みもない朝の情報番組を流し見していると日差しが強くなり、外の気温も徐々にではあるが上がり始めていた。

 朝が昼となり、スズメもいよいよ静かになる頃だった。完全に眠りから覚めた栗栖千花がフロントガラスに現れる。「私は別に寝なくても大丈夫」そう言い残した彼女はどうやら、きっかり八時間の熟眠をして俺のもとに出てきているらしい。

 ドアを開けると、彼女が運転席に座り込む。彼女が近くに来た途端、外の空気と共にナデシコのような甘い香りが運ばれてくる。どうやらシャワーも浴びてきている。

「おはよう、それで成果は?」

 すっかり英気を養った栗栖は声が上ずっていた。俺は無言で首を振った。

「じゃあこれから起こるのね」一日寝ただけで素晴らしいポジティブ思考だ。

 一度車を出て、身体を伸ばして自己流の空想ラジオ体操をする。屈伸と前屈が奇妙に入り混じった運動をしていると、膝や腰辺りのような関節が非常にけたたましい音をかき鳴らす。脳内体操第三まで終えると、俺はようやく車内に乗り込んだ。運動をしたからか、ただちに俺の胃袋が鳴って隣の探偵は笑いだす。

「まさか君、お腹が減ったのかしら」

 憎たらしい顔をしていた。もはや探偵というより知能犯だ。

「そうらしい」

「今のうちにご飯を食べなさいよ」

「外に出た時ご飯を準備してなくてな」もし明日があるなら、次こそ忘れないでおこう。

「ならご飯を買いに行きなさい、特別に許可を出してあげるわ」

「ご飯を食べに行くのはありなのか?」俺は何気なく尋ねた。スーパーはもう飽きたんだ。

「ダメに決まってるでしょ、旅行じゃないのよ」

 そんなものは分かった上で言ってるんだよ。

「ランチタイムって言葉知ってるか? 一流企業だって豪華な外食をしてるだろうよ」

「従業員一人の零細事務所に何を期待してるのよ」

「くそ、この依頼が終わったら労基にでも訴えてやる」

「証拠不十分で指導になるだけよ、無駄ね」

 憎い。この上品な栗色の髪は、俺の血と涙で出来ているのだ。そう考えると実に憎い。まさかこいつは事務所が大きくなればなるほど髪のつやが良くなるんじゃないだろうな。そんなことを考えていると本当になりそうな気がしてならない。「そういえば最近、脱毛始めたのよ」とか平気で言ってそうだもんな。

「そこまで来たら本物のブラック企業じゃないか。労基のリピーターになんてなりたくないぞ」

「大丈夫よ、法律は遵守で行くわ」

隣の男を休みなしで二日間働かせている人間のセリフとは思えないが、俺は「それで頼むぞ、役所の人に『あぁ、また来たんですね』なんて言われたくないからな」と答えた。



 正直に言うと、俺は栗栖のことを若干だが不満に思っていた。事務所を設立する時の家具の組み立てから尾行に至るまで、ありとあらゆる面倒くさい任務を俺に押し付けて、当の自分は事務作業や挨拶回りなど簡単な仕事に従事している栗栖の自己中心的わがままに、俺は遠からず鬱陶(うっとう)しく感じているようだった。しかも俺が少しサボれば目くじらを立てる癖に、自分は雑誌を読んでサボっているときた。その分の仕事は当然俺持ちなのである。

 人に命令する前に、もう少し自分がちゃんとやれよ。そう思っていたのかもしれない。

 そんな奴と、車の助手席と運転席程度の距離感で過ごすことは俺の精神に莫大な負荷をかけていた。黙っていて欲しいときにひたすら喋り倒すわがまま女を見ていると、笑顔で話していながらもどこかで腹を立てる感情がふつふつと込み上がってくるのだ。


 監視対象に何も動きがみられないまま三時間が過ぎ、灰色の雲が空全体を覆い被した。いつもより空間全体が窮屈に感じる昼下がりのことだった。俺は中途半端に倒したシートにもたれかかりテレビのニュースを聞きながら、漫然とマンションの窓を見ていた。

「そういえば」栗栖が気軽に口を開き、俺に質問をする。それは全く、悪意のない顔だった。

「君って、彼女とかいたの?」

 一瞬、身体の全細胞が停止したかに思われた。目の前を飛ぶ蝶が、羽ばたきもせずにじっと動くのをやめていた。わずかに溜まった唾を飲み込むと、油の切れた喉仏が音を立てながら擦れて落ちる。何の前触れもなく、俺は自己否定のスイッチを押されたのだった。

 俺は、今まで彼女が一人もいなかった。そんな自分が、嫌いだった。

「さぁ、どうだったかな」

 人は痛いところを突かれると、身動きが取れなくなるらしい。さっさと白状したいという心と自身の無能を露呈する恐怖の板挟みに合って、人間としての尊厳を絶たれた。弁明も言い訳も浮かぶことはできず、頭蓋骨には虚しく鼓動の音だけが響く。

「恋人がいたかくらい、自分でもわかるでしょう。それで、どうなの?」

 俺の切羽詰まった心情とは反対に、彼女は自慢の好奇心を尖らせて瞳孔を最大限に広げている。真夏の日光を全てかき集めたのような目の輝きは、俺に無条件の圧力を与えた。『君って、彼女とかいたの?』くそ、想像できるケースの中で一番言われたくないことだ。球技の苦手な人が小学校体育のエピソードを掘り返されたくないように、俺はこの手の質問に答えたくはなかった。確かに俺は、なんども同じ質問を向けられた。しかし、馬鹿正直に答えるたびに毎回微妙な反応をされるのだ。「あぁ、そうか」そして流れる不穏な空気が、俺はとてつもなく嫌いだった。罪悪感を覚えるから。

 だから、俺は逃げ出したかった。今までずっと馬鹿にされてきた過去の数々が、走馬灯のように現れては消えていく。恥ずかしかった、馬鹿にされたくなかった。大人になってまで自分が恋愛経験ないことを、俺はもう他人に打ち明けたくはなかったのだ。

 もう時間がない、俺は答えることにした。馬鹿にされないための、決定的な嘘を。

「俺か、俺は一人だけ彼女がいたんだ」

 嘘をつく時の緊張は、場を白けさせた時の罪悪感にも似ていた。そんな俺をよそに、何も知らない栗栖は目を丸くして俺の方を見る。そんなに驚くのも無理はない、嘘なんだから。

「へぇ、どんな子?」

 餌を垂らされた金魚のように、彼女は意気揚々としながら遠慮することもなく、あらゆる情報について根掘り葉掘り質問する。「性格は?」「身長は?」「惚気話は?」「馴れ初めは?」

 俺は理想の彼女像を作り上げ、それに準じて自然なように答える。「優しかった」「俺より頭一個分低いくらいかな。一般女性の平均身長くらい」「クリスマスに肩を並べて綺麗な夜景を見ていたこと」「クラスメイトなんだから、馴れ初めも何も存在しなかった」中身などない、全てが嘘の出来事だった。俺の言葉を一通り聞いて、彼女は感想を述べた。

「なんか、嘘みたいにいい話だね」

 あぁ嘘だ。お前に馬鹿にされないようについた嘘だ。少しは褒めてくれてもいいのだが、栗栖は「なんか人の恋愛話というのも、案外退屈なものだね」と湯冷めしたような様子で呟いた。

 脳に血が上り、身体の温度が上昇していくのを感じる。日が経つにつれて寒さを増していく秋の日中も、今は夏の雨上がりのように蒸し暑く感じる。

 俺がそんな風に感情を動かしていたこともつゆ知らず、彼女は物足りないのか飽きたはずの恋愛話をもう一度展開する。「いつ付き合ったの?」「いつから彼女できてないの?」「高校二年生頃だったかな」「そこから逆算しろ、分かるだろ」声に力が入り、喉が渇いてホルダーのお茶を一飲みした。常温になったお茶は、なんとも言えない味がした。

「どんなふうに呼ばれたの?」「制服デートはした?」「文化祭は一緒に回った?」どれだけ俺が答えても、次から次へと質問は溢れ出る。彼女が前のめりになっているその姿を見て、


 俺の精神的負荷はピークを迎えつつあった。


 改めて栗栖の顔をまじまじと見る。小学校に通う悪ガキ大将のように微笑み、自分が楽しみたいと言わんばかりの瞳を見せつけている。そして、深夜のコンビニで騒ぎ立てる不良高校生のように大声を出し騒ぎ立てる彼女の姿は、昔のクラスメイトにそっくりだった。

 俺が苦手だった、「成瀬くんって、そういうの一切ないんだ」と馬鹿にするような目で罵るクラスの女子に、そっくりだった。

 ふと、視界に映る全てのものが鬱陶しく感じた。

 そんな俺にとどめを刺したのは、やはり彼女の一言だった。

「なんか意外だね。君はモテなさそうなイメージだったから」

 この瞬間、俺の彼女に対する信頼はあっけなく崩壊した。三時間かけて組み立てたジェンガが一瞬にして崩れるように、引っ張られた血管が突然ぷつりと切れるように、俺は栗栖にいらついていたのだ。

「そうかい」自分でも驚くほどの冷淡な声が、空洞の車内に響く。直後、彼女の驚くような視線が俺に向けられていたが、取り立てて反応する気にもならなかった。

「少し、外に出たい気分だ」俺は助手席の扉を開けると、彼女への不満を押し付けるように目一杯ドアを閉めた。壊れたのではないかと思えるような音が背後から聞こえた。

 その間、栗栖は何も言わなかった。

 冷水を頭からかけられたかのような寒さが身を包み、俺は大きく深呼吸して、むせた。吸い込んだ外気の冷たさは、肺胞を針で突き刺すように刺激した。交代で見張りをしていた時間からはとうに過ぎていて、太陽は就寝の準備を始めているようだった。熟したミカンのような空が広がって、足元のカラスが鳴く準備を整えていた。

 監視対象と栗栖に背を向けて、俺は何をするわけもなくぼうっと空を眺めて時間が過ぎるのを待っていた。無駄な時間を過ごしているということは重々承知していた。だが、他にどうすることもできなかった。やったことは後には消せない、という言葉の意味を今ようやくにして知ることができた。これは確かに、後悔するものだ。

 しかしそんな情緒的な思考に浸っていても、ふとした時に後ろの女を思い出す。はらわたが煮えくり返る。『なんか意外だね。君はモテなさそうなイメージだったから』なぜこうも彼女は端的に人を馬鹿にする言葉を思いつくのか。こう考え始めると、『嘘みたいに良い話』という言葉も、本当は彼女がすべて理解したうえであえてからかっているのかもしれないように感じる。結局、彼女も数年前のクラスメイトと同じ、『馬鹿にできる側』だったのだ。きっと美人でよく告白されるような人間には分からないだろう、俺の悩みが。だから俺の気分なんて知ることもなく、のうのうと人の地雷原を突っ走ることができるのだ。他人のことを一切考えることができないのだ。考えれば考えるほど頭に血が上ってくる。こいつの軽自動車にへこみを入れてやろうか、そんな思考すらも頭をよぎった。

小石を拾い上げ、その鬱憤を壁に向かって投げつけた。何かが起こるというわけもなく、小石はただバウンドして地面を転がる。溜息をついて空を見上げる。助手席を出た時の、彼女の驚いた顔が再生される。その顔を思い出して、再び沸々とくる。彼女がいくら馬鹿にしようとも、俺にだってプライドはある。俺だって、他人にはよく見られたい。モテたいんだ。格好いいと思われたいのだ。他人に不格好な一面を、俺は絶対に見せたくないんだ。モテない男として見られるよりも、モテる男として見られたいのだ。

 だから俺は、栗栖を許すことができなかった。

 そういうところが、俺はこんな偏屈な人間に育て上げてしまったのかもしれない。

 酔いはすっかり醒めてしまっていた。激しい興奮の後、一筋の光も届かない深淵に包まれる。

 だが、だから何だ。俺はささやかな自己嫌悪を迎え撃つ。自分がこうなってしまったのは他人のせいだ。そんな自分で何が悪い。少しくらい偏屈だからと言って、一体何になるのだ。誰からも愛されていないなら、せめて俺くらいはこの性格を愛してやってもいいだろう。

 酸っぱい葡萄、自己正当化、防衛反応、そんな単語が俺の頭に浮かぶ。どれにせよ、良い意味ではなかった。

 かなりの時間が経った。それは数十分なのかもしれないし、あるいは数時間なのかもしれない。時計を見ようにも持ち物は全て車の中にある。俺は一切の情報を手に入れることができなかった。夕暮れだった空の色が徐々に青みを帯びて、それがいずれ黒になろうとしていた。それを合図に光った街灯の周りには、取るに足らない虫が集まっていた。そんな光景を片手に見ながら、俺は背にしている軽自動車に頭を巡らす。

 車のドアは、依然として強固に外界と車内を仕切っている。鍵をかけた音はしなかったから、開けようと思えば扉を開けることができるのだが、それをしたところで次に何をすればいいかは分からなかった。

 栗栖も俺も、お互いに話しかけにくいまま時間だけが流れていった。勢いだけで飛び出すといささか何もすることがなく、心にたまった沈殿物を気にするばかりの時間が増えた。

 だが、それでも完全に自分が悪いと認めることができるか――そう問われると俺はお茶を濁さずにはいられなかった。そもそも事の発端は俺ではなく栗栖であって、俺がいくら心が落ち着こうともそのスタンスは変わらない。コンプレックスを適度に刺激された俺の精神は、自虐的な妄想を止めることができなかった。どうせ俺なんて、その言葉が頭を駆け巡る。

 それにしても、どうして栗栖は考えることができなかったのだろうか。

 この世界が、そういった人間の集まりだということを。

 そして例外なく、俺もその一部だということを。

 やることもなく、仕方なしに首を動かしてアパートの方向を見た。外が暗みを帯び始め、レースのカーテンから明かりが零れ出る。彼の動きもなにかがありそうなわけでもなく、今なら多少の横柄も許されると舌打ちしようとした時、背中の車から大きな音がした。

 それはドアが開いた音だった。今車から出ることができる奴なんて、一人しかいない。

「なによ、私も外の空気が吸いたかっただけ」

 栗栖は俺の顔を見るなりそっぽを向いてこう言った。彼女は背を向けたままドアを後ろ手で閉めて、もたれかかると溜息をついていた。俺も同じように、栗栖に背を向けて溜息をつく。道を通る車の音が鮮明に聞こえるほど、静かな空間だった。耳を澄ませば彼女の呼吸が聞こえてきそうなほどの静けさで、妙に緊張した。圧迫された雰囲気に背中を押されて、俺が口を開こうとした時、彼女の声がした。

「ねぇ、怒ってる?」

 今さっきまで話そうとしていたくせに、俺はこの時何も答えなかった。

「もし君が怒っているというのなら、ごめん。気付かないうちに君を怒らせているのなら、ごめん。私は本当に謝罪する。ごめんなさい」

 俺は口を噤んで聞いている。灰色の雲の下を、慌てて一羽のカラスが飛んでいった。

「君が怒って扉を閉めた時、私考えたんだ。正直な話、最初の方こそは勝手に怒った君が悪いって思ってた。でも、すぐに違うことが分かった。誰にだって、触れられたくないことがある。……私だってそう。私にも、人に見せたくない部分がある。その話題に触れられるって想像しただけで私は惨めな感情に殺されてしまう。それと等しく同じことを、私はしてしまったんだと思うと……本当にごめん。こんな言葉しか言えない、自分がちょっと醜いよ」

 天界に伝わるハープのように、清らかな声が空気をすり抜けて耳に届く。彼女はそこで、一度言葉を区切った。沈黙が三分流れて、彼女は再び呟いた。

「聞いてる? もし聞いているのなら、私は凄く嬉しい」

 俺は、どうすればいいのか分からなかった。俺は一体、どうすればいいんだ? 栗栖の謝罪に付け込んで「あぁ、そこまで言うなら仕方ない。許してあげましょう」とでも言えばいいのか? 自分の愚かさを棚に上げて彼女の愚行を晒し上げようとするのだろうか? 彼女の言葉に甘えようとしている自分に嫌気が差した。彼女は謝ったのだ。「ごめんなさい」と。小学校でも教えられたことだろう。『悪いことをしたら謝りなさい』と。

 どうして小学校でできたことが、今更になってできないんだ?

「見て、アパートの部屋」

 突然、栗栖が大声を上げた。振り向くと彼女は男の部屋を指差したまま、目線を奪われていた。男の部屋へと視線を移すと、眩しかった明かりが沈黙を貫いていた。

「部屋の明かりが消えてる。もしかしたら出口に現れるかもしれない」

 彼女がそう言って間もなく、アパートから高価な黒シャツを着た男が現れる。見ているだけで甘い香りが漂うその風貌は、間違いなく俺が出会った男そのものだった。台形を逆さにしたような黒縁メガネをかけて、男は颯爽と車の方へと歩んでいた。

「まずいわ、あの男、車を使う気よ」

 栗栖は車のエンジンがかかっていることを確認すると、ふと思い出したように俺の顔を見た。

 目線が合って、俺と栗栖は伏し目がちに目を逸らす。何も言えない雰囲気が流れる。

「乗って。男を追うわ」

必要最低限の会話に、俺は頷いて助手席の扉を開けた。



 尾行という行為は相手にばれたら一巻の終わりであり、常に緊張感が張り詰める行為である。

 そんな中俺は今、二重の意味で緊張を感じている。男が車に乗った後、自分たちの軽自動車に乗り込んで彼の数メートル後ろを走り続けている。夕暮れ時だった空も暮れている頃だった。比較的大きな道路でも数台の車の音しか聞こえないような静けさが流れていた。

 そしてそれは、俺たちの車内も同じだった。

 ラジオも曲もテレビも流れていないカーナビは壊れたように音を出さず、右左折を示すウィンカーの音がかちかちと鳴るだけだった。一定のリズムで聞こえる機械音に、俺はたちまち逃げ出したさを覚えた。

 だが、いくら法定速度内とはいえ時速五十キロから飛び降りるのは身体が拒絶していた。骨を何本か折る勇気なんてものは俺に持ち合わせていない。圧迫感を感じつつ、あの場で謝らなかった自分を問い詰める。衣服が擦れる微小な音が耳に入るたび、俺は心臓がかゆくなるような居心地の悪さを感じるのだった。

 車を二十分ほど走らせて、大通りの路肩に男は車を停める。その足で目前にある一軒の店へと男は入って行った。全面ガラス張りのその店は、ファッションに疎い俺でも聞いたことがあるほどの有名ブランド店だった。そこで男は三十分ほど、主にカバン辺りを品定めしていた。

品物が決まったのか、それを手に取ってレジの方へと向かう。見るからに高そうな革のバッグで、俺が普段使いしているカバンが使い古されたままごとのように見えた。

 価格はきっと破格なものに間違いないだろう。男は財布から支払うのでなく、一つの茶封筒を取り出した。数秒後、男がラッピングされたバッグと共に店を後にする。栗栖はその光景を、主には男が茶封筒を取り出した瞬間を、シャッターで納めていた。

 次に男が向かった先は、家から三駅ほど向こうの街だった。適当な駐車場に車を停めると、そこから男は駅に向かって歩み始めた。栗栖は別の駐車場を探しながら、ないと悟ったのか仕方なさそうに男と同じ駐車場に停めた。

 駅にて、男は誰かを待っているらしかった。それが誰なのかは皆目見当つかないが、ラッピングされたバッグを背中に隠しているあたり男にとって大事な人らしい、ということはなんとなく分かった。男がどんな会話をするのか、俺は好奇心に動かされて彼の声が聞こえる位置に回りその時間を待った。三十分ほど経つと、金髪の派手なメイクをした年増な女性が男に向けて手を振っていた。「待たせたわね」年相応の声の低さで、彼女は言った。

 すると男は、なぜか挙動不審に頷いた。

「あ……いいや、全然待ってないです」

 妙だな、俺は陰ながら男の様子に不信感を抱く。手元が落ち着かないその男は軽快な言葉選びも不器用に、すっかり黙り込んでいた。依然見かけた煌びやかな彼の面影は、もうどこにもなかった。まるで別人のようなその男は、盲目的な目線を彼女に送っていた。

「そう、でも急に予定が入っちゃったの。ごめんだけど、今日は食事だけでいいかしら」

 男は不満そうな顔をしながらも、取り繕って笑っていた。

「大丈夫です。小百合さんとご飯を食べられるだけでも、僥倖です」

 小百合、そう呼ばれた女性はまんざらでもない様子で、二人は歩き始めた。

 高級レストランらしき店に着くと、女性は口元を隠しながら「ここかしら。すごく高そうで今の私に払えるかしら」と言っていた。「……僕が払うから安心してください」男は言った。

 食事を終えて店から出ると、女は次の予定に思いを馳せながら駅前へと進み、男は一歩遅れてその後ろをついている。ある程度に歩くと、半歩後ろにいた男が決意したように声を出す。

「もし良かったら、その予定が入っている所まで僕が送っていきますよ」

「いいわ、迷惑をかけることになっちゃうもの」穏便に、すぐさま彼女は断っていた。

 駅に着くと、男は後がないのか彼女を呼び止めた。

「どうしたの? 予定があるんだけど」腕時計をしきりに確認しながら、彼女は苛立った様子で愚痴を吐く。男は慌てて気を紛らわせるように、「これ、小百合さんに渡したいと思って」と普通のトートバッグから、先程買ったラッピングされた箱を取り出した。

「中身、小百合さんが欲しいって言ってたものです」

 受け取った彼女は無言でラッピングを剥がすと、余裕のある笑顔を浮かべた。

「あら、これ私が欲しかったバッグじゃない。ありがと」

 男はその言葉に、幼児がするようなとろける笑顔を示した。それは使徒パウロがキリストを前にした時のような、邪念のない信仰心と似ていたのかもしれない。

「それで、約束の……」男は恐る恐る、神に伺うように聞いた。

「あら、私そんなこと言ったかしら?」女性は笑った。「そんな約束をした覚えはないわ」

 男はこの世の絶望をかき集めたかのような絶句を見せて、何とか縋るように女の腕を取った。

「それは……話が違うじゃないですか。このバッグを買ってくれたら付き合うって言ったじゃないですか。もうこれで……四回目ですよ。僕は、凄く本気にしたというのに」

 男はもはや自分が誰なのかも忘れていそうなほど白熱した様子で彼女に迫っていた。つい数日前までは腹の読めない男だった彼が、命乞いを願う敗残兵のような醜態を晒していた。

 俺は、はっきりとした失望を覚えた。

「あぁ、そのことかしら。冗談に決まっているじゃない。本気にしちゃったのならごめんね」

 柔らかく男の手を振りほどいた彼女は、これまたパーティー会場で俺が幾度となく見たことがあるような余裕のある笑みを残しながら、改札口を抜けていった。

 男は、恋した女に振られていた。

 男は、無惨にも地面に座り込んで絶望していた。「わからない」と独り言を残して。

 このことを依頼主が見たら、彼女はどう思うだろうか。私と同じだと喜ぶのだろうか。私のことを愛してくれなかったと嘆くのだろうか。きっと、後者なのだろう。私を愛してくれたなら、こんなことにはならなかったと。

 なぜこうも、現実はうまくいかないのだろうか。依頼主を弄び、金をむしり取った男は同じように一人の女に弄ばれ、金を奪われる。食物連鎖に似た無情な恋の一方通行を、男の嘆きという形で黙って眺めるしかなかった。



 尾行は完全に成功したと言ってもいい。男の発言から察するに、依頼主が渡した金銭はブランド品のカバンに流れ、プレゼントとして一人の女に注ぎ込まれたと考えてもいい。

 しかし、これで俺の緊張が解けたわけではなかった。

「おめでとう」「頑張ったね」そんなねぎらいの言葉をかけることもなく、栗栖はアクセルを踏み、ハンドルを切る。俺も口を真一文字に結んだまま、後ろや対向車線を見張っている。

 どれだけ良い結果を残そうとも、二人の現実は変わらないのだ。

 俺はじっと考える。いよいよこの問題に、目を向けなければいけないらしい。

 だが、どうしても言葉が出なかった。それらしい謝罪の言葉が頭をぐるぐると回るだけで口に出ない。俺はどうやら、彼女に怯えているらしい。謝った先にある、彼女の失望した表情を目にしたくなかった。彼女を怒らせたくなかった。彼女に見限られたくなかった。栗栖に嫌われたくない、その一心で俺は足踏みしてしまっている。このまま何もしないことが一番良くない選択だということは分かっているはずなのに、それ以外の選択肢を取ることが出来ない。自分の手で何かを変えることが、断崖絶壁のような恐怖に見える。

 駄目だった。俺は口を開くことが出来ないまま、流れゆく景色に身を任せてしまっていた。俺には、人と仲良くするための素質がない。人間として失格、真っ当に生きることができない証明をされた気分だった。いっそのこと、もうこのまま諦めてしまおうかと考えていた頃、隣から声がした。

「ねぇ。私の言葉、聞いてたかしら?」

彼女は、全ての意味において俺と異なっていた。

「……何が?」乾いた喉から絞り出すように、俺は言った。

「……分かってるでしょう」彼女は言った。

「怒ってる?」

とても小さい声が夜中の車内に流れて、彼女はハンドルを切った。前席の豆電球に照らされる彼女の横顔は、どんな夜風よりも涼しくて、思い詰めていた。

「私、本当に申し訳ない気持ちで一杯なの。今更言うのは言い訳になっちゃうけど、私は君を傷つけるつもりなんて無かった。楽しい会話が出来るかなって思っただけだったの。でもあの時、私が楽しいだけで、君が一切楽しくないことになんで気付かなかったんだろう。今はどれだけ言葉を重ねても、それが全て嘘臭く聞こえてしまうことは分かる。でも、これだけは知って欲しいの。――私は、あなたと仲良くなりたかっただけ」

暗い助手席の窓からは、反射した栗栖の顔が見える。一面の雲が地球を覆いかぶさっているのか、月すらも見ることが出来なかった。彼女の息を吸う声が、数十センチ隣から聞こえる。

「許してくれる?」

俺が最初に言わなければいけないその言葉を、彼女はいとも簡単に言ってのけた。俺は栗栖のように、自分の気持ちに正直になれない。行動に移せない。

「あぁ、俺の方こそ、こんなことをしてすまなかった」

 そんな俺は、やはり負け犬に相応しい。

「そう、ありがとう」

 今日、負け組の俺たちに一つの不文律が出来上がった。それはこの腐った世界で生き抜くための、一つの決まり事。お互いの出自や過去に触れてはならない。恋愛でトラウマを抱える、この世界に住む様々な者にとっての、唯一の共通事項、屈折して克服できない忌々しい過去に苛まれながらも右往左往し続ける人間による最後の抵抗。

 辛い過去に蓋をして、なにも無かったこととして接する。

それが傷だらけの人間にできた、いびつな同盟関係だった。

「ねぇ、ちょっと立ち寄ってもいいかな?」

栗栖はわざとらしく、明るい声で俺に聞いた。

「あぁ、どこに立ち寄るんだ?」

「まだ内緒」

青信号が灯って、彼女はそう言葉を残した。

 三十分ほど車を走らせていた。「まぁ立ち寄ると言っても、今は大した場所じゃないんだけどね」そんな枕詞を添えて、彼女は人気のない道に車を停める。

「あれを見て」

 そこにあるのは、天文台と書かれた看板が立つ建物だった。

「天文台か」俺は言った。「今日は月すら見えない曇りだけどな」

「確かにね。この町、星が綺麗なんだ。いつか誰かと行ってみたいってずっと思ってる」

そう語る彼女は、今までの不和を吹き飛ばすほどの安らぎを見せていた。

「あぁ、行ってみたいな」俺は答えた。


 しかし、人が死の間際に必ず後悔するのと同じように、話はそう暖かくは終わらない。

 翌日の朝、電話越しに調査の終了を依頼者に告げた。報告の日時はいつがいいと質問すると、彼女は受話器に耳を当ててかろうじて聞き取れるほどの声量で「今日が良いです」と回答した。まるで機械と話しているような、そんな生気のなさだった。

 一時間も立たずして、彼女は栗栖探偵事務所を訪れた。それは予定していた時間よりも十数分ほど早い来訪でもあった。彼女は以前目にしたボブヘアーを伸ばし、枝毛を数倍増やしていた。気のせいか、髪の水分が失われているようでもあった。森林に潜む幽霊のように前髪で目を覆い隠しながら、彼女はソファーへと腰を下ろした。

 栗栖はその反対側に座り、準備しておいた資料を彼女の間に広げている。俺はその間に注いだ緑茶を二つ、お盆からしなやかな動作を意識して彼女たちの前に置いた。俺が栗栖の隣に座るのを待ってから、探偵は話を切り出した。

「正直に言いますと」

 僅かながらに光った彼女の瞳を、俺は一体どうすればよかったのだろう。二厘ほどこめられたその期待の色を、栗栖は苦虫を潰したような顔で迎える。

「あの男は、浮気をしておりました。パーティーで不特定多数の女性と交流を深めては金品をせしめ、そしてその金でとある女性に高級ブランド品をプレゼントしておりました。それがこの調査報告書、ひいては写真の数々となります」

 彼女の顔色が、一変した。

極力意識の外に置いてきた最大限に可能性のある現実が、彼女を一層絶望の淵に引きずり込む。ガラスが割れるのが一瞬なように、一秒足らずで彼女は壊れてしまったのだ。

 解決することが、幸せになるとは言い切れない。

 そのことは、十二分に分かっていた。だが、どうすることもできなかった。

「心中、お察しします」

 そう答えるのが、精一杯だった。

 だから彼女が涙を流し始めても、俺たちは黙って見ていることしかできなかった。二滴、三滴、茶色の机に染みができると、それはとめどなく流れ始めた。

 初めて聞くような涙だった。誰も寄せ付けない、圧倒的な負の覇気が、少女の悲鳴と共に事務所内に広がっていた。彼女の鼻水をすすり上げながら身体の全てを放出するような声は骨の髄に響いて、ぐらぐらと揺らしてくる。

「昔から勇気を出して好きだった人に告白しても、毎回振られるばっかりで見向きもされなかった。たとえどれだけ仲が良かったとしても、最後には結局『そういうのではない』という理由で振られるものだった。深夜にふと好きな人のことを考えては、もう楽しかった頃には戻れないという無力感が嫌だった。自分はどうしようもない、満足することなく生きてそのまま死んでいくのだと思うと、胸が千切れてしまうような後悔と絶望に襲われた。『私はたった一度きりの人生を、失敗した』私は、誰からも振り向かれなかった。でも、でも。でも、あの人だけは違った。私のことを見てくれた。嬉しかった。見向きもされない私を救う、たった一人の王子様のように見えた。私を振った憎い人たちとは違って、あの人だけは私を受け入れてくれたのに。なのに、その人まで私を裏切っているというんですか」

少女は顔を上げると栗栖の方を強く睨み、再び俯いて泣き始めた。

そして、消え入るような声で呟いた。


「せっかく私が好きになっても、その恋が必ず報われないのなら」

 ――私はなんで人を好きになってるの。


今の俺達には、重い質問だった。

「答えてよ探偵さん」彼女と目が合った。

「誰からも愛されず、一方的な愛情しか知らない私に。どうやったら、私は愛されるの」

俺は、どうすることもできなかった。それが分かったら、俺たちはこんな世界にいない。

栗栖の顔を見ると、彼女も口を(つぐ)み考え込んでいるようだった。

 俺たちは、まだ分からないんだ。人と愛し合うということが。俺たちは普通の恋愛を知らないまま、それを誰からも聞くことが出来ないまま、一から探し当てなければならない。そのやり方もなにもかもが分からないまま、自分なりにもがくしかないのだ。俺たちは自分だけの屈折した何かを持っていて、夏場の虫刺されのように存在を主張し続けるそれに苛まれながら、一度も経験したことのない成功を探そうとしているのだ。

 それは元の世界にいた時よりも、難しい。俺たちは、今までツケにしすぎた分を今になって払わされているのかもしれない。今まで目を逸らしてばかりいた悲惨な現実に、向き合わなければならない。

 彼女は我を忘れたように泣いている。あの男も、同じことを思っていたのだろうか。

 少女の号哭に、俺は駅前の男を照らし合わせていた。


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