一 世界爆発と探偵事務所
「先日の爆発者は七千八百五十九人、帰還者は一組のみとなっております。爆発者は一昨日と比べて三百人増、依然として増加の傾向を見せています」
ようやく涼しくなってきた朝、事務所に入った俺はいつものようにテレビの電源を付ける。死んだ顔をしているアナウンサーが、与えられた台本を何の感情も込めずに丸読みしていた。
「役所の人も大変ね、一日でこれだけの爆発者を相手にしなきゃならないなんて」
ふと横から声をかけられて、俺は彼女の方へ視線を移した。コスプレのような探偵服を着ている彼女は、パイプとコーヒーが似合うようなアンティークな椅子に座っていた。
「早めに爆発してきてよかったかもな」微塵も思ってないことを口にする。
「確かにそうかも」適当な相槌を打っているあたり、彼女は話を聞いてないらしい。一カ月も経つと段々分かってくる。返事続きに彼女は、まるでその仕草を俺に見せつけてくるかのように椅子をゆっくりと回して、さぞ満足気に「さぁ、今日も依頼が来ているよワトソン君。これはまさしく、事件のにおいがするとは思わないかね?」などと言い始めた。
シャーロックホームズを見たこともないのによくそんなこと言えたな、と俺は薄い溜息をつきながら彼女が見ている資料を横から覗く。雑に流し読みすると冷蔵庫から市販のカフェラテを二つ取り出し、重厚な机に一つ置いた。
「あぁ、ありがとう」お礼を言われると、今度は二人で仲良く資料を眺める。ストローから舌に伝わる甘ったるい液体が、俺の疲弊した身体を癒す。もちろん、コーヒーは飲まない。俺たちは猫も驚きの馬鹿舌なのだ。苦いものより、甘いものの方が好きなのだ。そういった理由で、俺たちはもはや砂糖と表した方が早いようなカフェラテを愛飲している。
「うん、やっぱりこのカフェラテに限るね。ちょうどいい苦さがこれまた絶品だよ」
「ミルクが八割入っている飲み物でよくも苦いと言えたな」
「人間にはこれくらいの苦さがちょうどいいの。苦すぎると飲んでも嬉しいとは思わないでしょう? 世の中何事もほどほどが一番なのよ」
「じゃあブラックコーヒーを飲んでいる奴はどうなんだよ。機械でできた宇宙人か?」
「それは結構なマゾね。苦いという人間の本能的危険あえて感じにいってるのだから。恒星が誕生した瞬間に超新星爆発を起こすように、全く想像もつかない別世界ね」
続けざま、彼女は自分の言葉を上書きするように「そんなことよりも仕事をしなさい仕事を。まだまだうちの事務所は新興なのよ」と言った。「はいはい。分かりました探偵さん」残り少なくなったカフェラテを啜りながら、俺はイラストだらけのすかすかな資料に目を落とした。
こうして、何もかもが変わって何も変わらない日々が続いていく。
俺が探偵をするきっかけになったのはちょうど一カ月前のこと、
俺を含む世界中の非リアが爆発したことだ。
一 世界爆発と探偵事務所
何の前触れもなく、世界は二つに分裂した。
非リア充しか存在しない世界と、リア充しか存在しない世界。まるで世界ごと分煙室を設定されたかのように、俺たちは元々住んでいた快適な世界から追い出された。人間が爆発したかのような閃光に包まれて、目を開けると、そこは別世界だったのだ。言語も建物も、大きく外観を変化させたものはない。ただ、俺の視界には知らない街が広がっていた。俺以外にも大勢の人間が同じ目――これをこの世界では自虐的に『爆発した』と表現する――に遭っているようで、一瞬にして世界は大混乱に見舞われた。
どうやら、困り果てたこの現象は直近一か月で急発生したものらしい。数日前に発足したというこの世界での暫定政府はこれについて調査した結果、一枚の報告書を提出した。
それが、この世界には非リア充しか存在していないということだ。
もっと普遍的な言い回しをすると、この世界には誰とも付き合ったことがないような小心者で負け組の孤独人間しかいないということだ。リアル、現実が充実していない、つまり彼氏や彼女を熱望している癖に伴侶がいない恥ずべき人間――非リア充だけが街中で突然爆発して新しい世界に連れ去られたのだ。だから、これからこの世界で出会う人間は全て孤独を抱えていることになる。どれだけモテそうな見た目でも、どれだけ楽しそうに笑っている人間でも、心の底では誰にも打ち明けることのできない鬱屈とした闇を抱えて生きているのだ。
そしてもう一つ、分かったことがあるらしい。
この世界で誰かと両想いになり、告白を成功させると――元の居場所、元の世界に戻ることができるのだそうだ。『初めて恋を成就させると、元の世界へ戻ることができる』もはや全てが馬鹿げている。無人島のデスゲームでももう少しましなルールを作るだろう。
理不尽に溢れた世界のルールを、役所の人間はこう表現した。「大人になるまでに正常な恋愛をしなかった人間だけが集まる、とても大きな刑務所のようですね」そんな富裕層が考えた道楽のようなもののために、俺はこの世界に連れ去られたのか?
ふざけるのも大抵にしてほしい。なぜ「リア充は爆発しろ」と常日頃叫ばれていたリア充ではなくて、その対極にいる俺を爆発させるのか?
つまりは、こういうことなのだろう。
もしこの世に神様がいたとしたら、それはきっと天邪鬼なのだ。右を向きたいと願ったら真下を向かせてやる畜生な神様のありがたいご厚意により、俺は晴れて今までの日常を失ったわけだ。賽銭箱をひっくり返して糞をしたい気分だね。
あらゆるところに貼られた地図を駆使して向かった市役所からこの世界のルールについて聞かされている間、俺は宙を見上げて自分の過去を振り返っていた。
昔から、『恋をする』ということが理解できなかった。
好きな人を耳打ちで伝えあう小学校も、狂ったように恋愛話をする中学時代も、どこまでいったとかどうだとかを気にする高校時代も、俺はその手の話になると全く話についていけなかった。「お前って、好きな人とかいるのかよ?」修学旅行で相部屋になった友人にそう尋ねられた時、俺は言葉に詰まって何も言い出せなかった。
「お前って、いっつも好きな人を隠すよな」
俺の反応を見た人は、いつも必ずそう言った。「普通、好きな人とかいるもんだろ」
はは、と乾いた笑いを口にする。俺に反論する権利は、存在していなかった。
身体の重みでマットレスがへこんでいる。その感触は、ひんやりとして硬い。
「お前も正直になれよ」友人はそう励ました、つもりだった。「普段は冗長なくらいに喋り散らかす癖に、女の話となったらすぐ黙る」
俺だって、恋愛をしたいという欲がないわけではない。学校のマドンナはしっかり可愛いと思えたし、そんな彼女と話せた日には顔面に金属バットをフルスイングされても笑顔で許してやれそうなほどに上機嫌になれた。加えてそいつが顔も知らない男と下校を共にしているとなると、逆にこちらがバッドをぶん投げてやりたいと思うこともあった。
そして同時に、自分の空っぽな右手に悲しみを覚えることもあった。
誰かの隣にいたい、誰かの手を握っていたい、そんな生理的で甘美的な願望が、俺にも当然のごとく存在していたわけだ。
しかし問題は、そんな俺が人に恋をすることができなかったということだ。どんな美女に話しかけられようとも学年のマドンナの透き通った眼を見ようとも、俺は彼女たちに恋をすることができなかった。このままではまずい、それに気づいた時にはもう遅く、俺は恋のやり方が分からなくなってしまった。
変わらなければならない。そんなことはとっくのとうに分かっていた。だが、どうしても変わることができない。怖かった。今まで生きてきて得られた経験の蓄積を、そう易々とは捨てられない。二十歳を超えてもなお、俺は子供のような理想を諦めることが出来なかった。大学生のくせして俺は未だに恋人が出来たこともなかった。恋をしたい、幸せになりたい。だけど恋をするにも自信が無く、その方法も感情も分からない。でも、どうしても幸せになりたい。女の子と手すら繋いだことがない俺の願望は年々悪化していき、最終的には『星空の下で永遠の愛を誓う』といった小学生が考えそうな至極恥ずかしいものへと拗れてしまった。
俺は、壊れてしまった。
こうなるつもりでは、なかった。
俺の心には、とても固い丈夫な一本の芯がぐにゃぐにゃと曲がって突き刺さっている。
もう、元の形に戻せない鉄の芯だ。
現実を直視できない、周回遅れのロマンチスト。この肩書が、今の俺にお似合いだ。
いつしか俺は他人の幸せを妬むようになっていった。俺が出来なかったあれこれをいとも簡単にやってのける彼らを見ると、無性に虫唾が走って仕方なかった。イルミネーションを見るだけで頭に血が上って、家に戻って壁を殴ったこともあった。どうしてあいつらが、どうして俺だけが、俺は生きてきて積み重ねてきた怒りや嘆きをそう簡単に抑えきれるほど器用ではなかった。隣の部屋からの壁を強く叩かれる度に、何度目か分からない希死念慮を抱いた。
つまり、俺は生まれた時から落ちぶれていたのだ。
負け犬だらけのこの世界は、コンプレックスで満ち溢れた俺に相応しい。
*
瞼を日光で突かれて、目を擦りながら身体を起こす。寝ぼけた頭でレースのカーテンを開けると、まるで高校生が描いたような青空が広がっていた。
こういった良くないことが起きた時に限って、どうして太陽は暖かな日差しを送ってくるのだろうか。神様が天邪鬼だというのなら、太陽も似たり寄ったりの天邪鬼なのだ。きっと寝起きの気分で今日の天気を決めているに違いない。地球人のことも考えて欲しいものだ。
俺は改めて部屋を見渡す。六畳の小さな部屋には窮屈そうに家具が並べられている。それは地方に住む大学生用ワンルームのような、そんな感じだった。
どうして俺がここで寝ているかというと、役所からこの世界について説法を頂戴した後、新規爆発した俺には住居がないということで、役所が鍵と共に俺に住まいを提供してくれたのだ。五階建ての五〇八号室。一番奥の角部屋だった。シリンダーに鍵を投げやりに差し込んで開け、目一杯力の限りに扉を閉めた。窓枠が衝撃に大きく揺れて、俺は静かな夜を過ごした。
そして今、不気味なほどに眩しい朝日を睨みつけている。
普段ならば今頃、一日何をしようかと予定を立てているのだが、ここは俺が知らない世界である。無計画に出発した旅の三日目のように、俺はなにもすることがない現状に頭を抱えた。
欠伸をしていると、俺は役所から炊き出しの案内の紙を貰っていたことを思い出した。世界爆発――つまるところ世界中の孤独な人間が爆発したこと――が起きてから、路頭に迷った爆発者たちを支援する目的で開催しているらしい。
とりあえず、炊き出しのご飯をかきこんだ後、憂鬱だが就職先を探せばいいか。
そんなことを考えながら顔を洗おうとタオルを手にした時――それは起こった。
突然、部屋中にインターフォンの音が鳴り響いた。
一瞬思考が停止して、扉の方へと身体を向ける。光が届かず薄暗いドアの向こうで、その来訪者は扉を三回ノックした。誰が来たのかと考えたが、当然この世界で来客の予定などない。本能的な恐怖を覚えつつ、暗がりの中を進みドアのつまみに触れる。冷たい金属を捻り、鍵が開いた音がした。開いた手でドアノブを回し、俺は扉を開いた。
眩しい朝日が差し込んで、目の前には栗色の髪をしたスレンダーな女性が立っていた。
彼女は、俺の瞳をまっすぐ見て、こう言った。
「君、私の下で働いてみない?」
今思えば、これが全ての始まりだったのだろう。
「……はい?」
この時状況を吞み込めなかった俺は、寝癖を頭で直しながら聞き直した。
「……だから、もし君がよかったら、私と一緒に働いてほしいの」
その語気とは裏腹に、彼女は細い指先でクリーム色のブラウスをしきりに触っていた。彼女は視線を逸らしてやや下を見ているようで、決して目線を上げることはなかった。
「……宗教の勧誘ですか?」
「なに馬鹿なことを言ってるの。大真面目に就職の提案よ」
若干肌寒い気もする朝の空気に、小鳥の威勢のいいさえずりが聞こえる。
「君、新しく爆発してきたんでしょう?」その言葉に、俺は渋々頷いた。
「それは災難だったわね。まあ、私も爆発してきたんだけど」
どう答えればいいか分からず、会話に沈黙が流れた。
「……だから、仕事を探した方が良いでしょ、と思って。ここでは私が先輩なんだから。炊き出しに行かなくても済むように、私が何とかするからさ」
見たところ同い年に見える彼女は頼もしい言葉を口にするのだが、なぜか恐怖かなにかに怯えているように視線を合わせない。
彼女の提案に、俺はじっと悩んでいた。目の前に立つ彼女は面識も何もない。断るのが一般的だが――わざわざ炊き出しに行かなくてもいい、その文言が強く俺を刺激した。ようやく汗をかかなくて済むこの季節だが、朝から並ばなくてもいいというメリットは底知れない。だが、確かに目の前に立つ彼女は赤の他人であり、そんな人の提案に乗ってはいけないと俺は小学生の頃から教え込まれている。
どうしようもない二律背反に頭を抱えていると、か細い彼女の声が聞こえた。
「……だめかしら? だめなら、大丈夫だよ」
虚ろな目をそのままに、彼女は自虐のような引きつった笑いを浮かべ、俺の胸を締め付けた。彼女の諦めきった表情からは今までに染み込んだ長年の苦労と孤独が負の感情とともに滲み出ていて、まるでそれは他人事のようには思えなかった。
それは俺もするような、孤独に慣れながらも慣れ切ってはいない人間がする表情だった。
その表情が、俺の心を強く揺さぶった。
「……いいですよ、あなたの下で働きます」
少しくらいならいいだろう。こんな世界、きっとすぐに抜けるのだから。
俺はそう結論付けて、彼女の言葉に了承した。
その時の彼女の表情は――あぁ、やっぱり忘れることができないだろう。
「本当? ありがとう!」
今までの不安を吹き飛ばすような抜群の笑顔が、彼女の顔いっぱいに広がっていた。
しかしその期待は一瞬のうちに霧散することになる。
「ここ、ついたわよ」
そう彼女が立ち止まったビルを見て、俺は無責任な発言をした自分を恨んだ。スーパーのアルバイトや個人経営の居酒屋の手伝いでもするのかと考えていた俺だが、彼女の視線の先には無個性なビルが一つ建っているのみだった。三階建てで色はすっかりくすみ、表札もまともに立っていない廃墟のお手本のような建物だ。
「ここですか、結構いい場所じゃないですか」
「あたりまえよ、私が選んだビルなんだから」
どうやら、建前が分からないお方らしい。
俺の褒め言葉に首を大きく縦に振りながら、彼女は無個性なビルにニヤリとした。
「さ、早く行きましょう。善は急げよ」
先程までの緊張はどこへ過ぎ去ってしまったのだろうか。俺が頭を抱えている間に、彼女はオアシスを我が物顔で闊歩する雄ライオンのようにオフィスビルの階段を上っている。よく考えたら一階が空いているのにどうして二階三階の部屋を選んだんだ。
無言の圧力に引っ張られて彼女の背中について行くと、二階のテナントの中に入った。家具もシャンデリアも何もない、引っ越し直後のような段ボールが積み上げられていた。ここで何か仕事が行われるとは到底思えないほどには、物らしき物が存在していない。
部屋を間違えたのではないか、俺は彼女を疑った。空っぽの空間に、俺の不安が満たされる。
しかし彼女は力強く腕組みをしたまま、一音一音を強調して発言する。
「確かに良い場所ね。ここから始まるのね」
話が飲み込めず、彼女の様子を窺うように質問をした。
「これから、何が始まるんです?」
俺の言葉を待っていたのか、彼女は首を上げてほくそ笑んだ。
「いいわ。一回しか言わないからよく聞きなさい」
彼女は天に指を突き刺して、肩で息を吸って、宣言する。
それは、この場の誰もが想像できないことだった。
「これから私たちは、探偵事務所を開きます」
俺と周りの空気が、凍り付いた瞬間だった。
「探偵?」俺は甲高い声を上げた。自分でもこんな高い声が出るのかとびっくりするほどに。
それもそうで、働くと言っても俺は駅前のチラシ配りのような入学したばかりの大学生が何となくで応募するアルバイトを想定していたわけである。決してこの世界で就職をしたいわけではなかった。俺は一応確認のために、彼女にもう一つ質問をした。
「もしかして、あなたは元の世界でも探偵だったのですか?」
「いいや、全然違うよ」即答だった。
どうやら俺の耳は正常らしく、正常でないのは彼女の頭の方だった。なにやら白昼夢のようなものを語っている彼女の声が、まるで三つ向こうのやまびこのように遠く感じた。
あぁ、これは恐らくドッキリなのか。役所から始まって今に至るまで、全てがドッキリでどこか遠くの笑い者になっているのだ。ほら、あそこの掃除用具入れとかに誰かが潜んでいるだろう。変な効果音を口で鳴らしながら、あの間抜けな赤看板を掲げる姿が想像できる。
「なに変な独り言を呟いているの、今はそんな場合じゃないわ」
俺の思考は口に漏れていたらしく、彼女が目を細めて指摘する。悪かったね。
「とにかく、今日ここにテーブルとか椅子とかその他諸々が届くから。業者さんが作ってくれるのもあるけど、大体自分で作るものだから。お願いね」
「あなたももちろん、手伝ってくれますよね」
「建築には現場監督がいるものでしょ。私は監督として違う仕事があるから。それじゃあ」
一方的に労働を押し付けると、彼女は空を飛ぶように事務所の外へ足を滑らせた。その姿はまるで会社が傾きつつあるのに女遊びに興じる二代目社長のようで、俺はそれを引き留めるために後を追った。しかし、彼女が玄関から出ると同時に、引っ越し業者が俺の姿を見て帽子を取った。
その後のことは言うまでもないだろう。
全ての作業が終了した頃には、窓から鋭い夕焼けが差し込んでいた。その疲労は過酷なもので、一歩間違えれば手の神経が断線してしまうところだった。ふらふらと手首を動かしていると、これまたジュース缶を片手に機嫌よく事務所に入るのは自称探偵の彼女だった。
「やあ、お疲れお疲れ。三倍の速度で公転した地球のような疲れっぷりだね」
補足説明が必要な比喩を持ち出した彼女は、座っている俺へ不器用に缶を投げる。それを両手で受け取ると、痛みが缶の冷たさと混じって和らぐ。手袋をしているような感覚だった。
「一体どこを歩き回っていたんですか」
「お隣さんのとこ回ってた。これからうちの事務所が入るから、色々よろしくねって」
大変だったんだよ、と言いながら彼女は挨拶した時のエピソードを話していた。仕事に追われて常に忙しそうな敏腕サラリーマンや執拗に連絡先を聞いてくる中年など、彼女は嬉々(きき)としてお隣さんの個人情報を暴露していた。探偵志望がそれをするのはどうなのだろうか。
「それは凄いですね。でも、できることならこっちの方も手伝って欲しかった」
「野球監督はプレーをしないでしょ」
現場監督じゃなかったのか。そんな言葉を炭酸飲料とともに喉の奥に押し込む。疲労しきった筋肉組織に炭酸の泡が染み込んだ。
「まあ、とにかくお疲れ様。君のおかげで何とか事務所が完成した」
彼女の視線の動きに合わせて、俺も事務所内を見渡す。
窓から差し込む夕日に照らされて、茶色を帯びた椅子や机が赤く焼けるような色をしている。応接用のソファーに腰を下ろすと、彼女は俺が座っている方向へ椅子を回した。
「それで、ここで働く気になった?」
全てを包み込む肌触りの良い絹のような声で、彼女は質問した。
ここまで手伝ったのなら、もう仕方ないことだ。中途半端に足を突っ込んだ分、ここで引き返すと今まで働いてきた時間が無駄になる。
「まあ、はい。少しは」俺はそう答えた。
「やったあ」と彼女の腑抜けた声が聞こえる。彼女は背もたれに身体を預け、天井に両手を突き出しながら椅子をくるくると回転させていた。
「これで仕事を押し付けることができるよ」
嘘であって欲しい言葉を口にした後、彼女は椅子から立ち上がり俺の目を見る。なんとなくお前も立ち上れと言われた気がして、俺も彼女の真似をした。
「同じ事務所で働く仲間として、自己紹介をしないとね」
軽く咳払いをした彼女は、それが終わると両手を体の前で組んだ。それが改まったサインだというのは俺にも分かったので、一度視線を逸らしてからもう一度彼女の方を見た。身長が同じくらいなのか、特段見下ろしているわけでも見上げているわけでもなかった。俺たちの視線は平行線を保ったまま、彼女の声が響く。
「私は栗栖千花って言います。栗栖って呼んでね。君の名前は?」
「成瀬恭介って言います。別に呼び名は何でもいいですけど」
「分かったよ。あぁ、あと敬語は使わなくてもいいよ。堅苦しいでしょ?」
俺はどう答えていいか分からず、適当な愛想笑いで誤魔化した。
その後の雑談によると、俺の予想通り栗栖は俺と同い年だった。どうやら俺の隣に住んでいるらしく、つまり彼女は五〇七号室に住むということになる。同い年のお隣さんということもあり、俺は一切の心配を抱くこともなく、このアルバイトをすることができるらしい。
ありふれた談笑の中、俺は前々から思っていた疑問を彼女にぶつけた。
「そういえば、栗栖はなんで探偵をやろうと思ったんだ?」
彼女は居酒屋で秘密を打ち明けるように、缶を勢いよく机に置き大きな声で言い切った。
「だって、かっこいいからに決まってるじゃない」
彼女の晴れやかで自信に満ちた顔を見れば見るほど、俺は今朝の俺をタコ殴りにしたくなるほどの不安に襲われていた。
そんなことがあって、俺は探偵の助手をすることになった。電波な探偵志望少女、栗栖千花は奇怪な事件を望んで待ち遠しいといった様子であり、俺も探偵業に関わるならばそういった事件は致し方ないかと諦めをつけていたのだが、世界は栗栖が望むようにはならなかった。
なぜなら、この世界は孤独な人間が集まってできた世界なのだから。
どんな笑顔を振りまく人でも必ず心の闇を抱えるこの世界で、俺たちは奇妙な難事件ではなく、ほろ苦い恋愛事情に足を踏み入れる。
それは、正常な恋愛をしたことがない俺たちにとって、難解なことこの上なかった。
*
部屋が隣同士にも関わらず、顔を合わせるのは離れた事務所だというのが妙に滑稽だった。なんだか遠回りをして損した気分になるから、いっそのこと家を事務所にすればいいのにと思う。まあ、自宅となると朝早くからインターフォンで叩き起こされるハメになるだろうから、結局は今のままが良いのだが。
慣れないベッドは山中の岩石のように固く、立ち上がって身体を反らすと背骨が一斉に悲鳴を上げた。洗面台で寝癖を直して、とめどなく流れる欠伸を抑えながら俺は事務所までの道のりを辿っていた。
建設途中で放置されたようなビルに辿り着くと、そこから階段を上り新しい職場の扉を開く。からから、と乾いた音が鳴って、俺は職場へと足を踏み入れた。
「おはよう、昨日はよく眠れたかしら?」
乾いたベルの音が流れて、椅子に座っていた探偵・栗栖千花は俺の方を振り返った。
「まあ、一応は」握りこぶしで背骨を触りながら答えた。
「それでなんなんだ、その本は」
俺は好奇心から栗栖が両手に持っている雑誌を指差した。
「ん、君これに興味あるの?」
彼女は待ってましたと言わんばかりに嬉しそうに表紙を見せた。端正な顔立ちをした五人組の女性が旅行の記念写真のような笑顔を見せている。
「これ、女性雑誌だよ。服とかメイクの勉強になるんだ」
よっぽど興味を持ってもらえたことが意外だったのか、彼女の口は止まるところを知らなかった。説明によると、有名人のインタビューだとか、そんなものが載っているらしい。
「普通に面白いしタメになるんだ。君も見たら?」
彼女がそう語る横で、ふと疑問が生じた。服やメイクなど自分磨きも欠かさず、また少々電波的だが外向的な性格をしている栗栖がどうしてこの世界にいるのだろう?
さらに付け加えると、彼女の容姿は周囲の目を惹くようなものだった。ピンと張った背筋はまるで人形のように細くしなやかで細長い指からは知性を感じさせる。身長も女性の平均に比べると高く、顔のバランスに合った程よく大きな目と、まるで設計図を基にして作られたような外見をしていた。これでは引く手あまただろう。俺は彼女が体育館裏で告白されている様子を想像したが、違和感もなくやけにすんなり想像できた。しかし、彼女もまたこの世界にいるということは、俺と同じ意味での負け犬であり、それで何らかの心の闇を持っているということでもある。彼女ほどの人がどんな闇を抱えているのだろう。全く想像がつかなかった。
「というかおい、よくよく考えると仕事しろよ。なに勝手に雑誌見て休憩してんだよ」
まあ、どうでもいいか。俺の指摘に栗栖は不服そうに頬を膨らませた。反抗期の七歳児か。
「だって仕方ないじゃない、開いたはいいけど客が来ないんだもの」
「じゃあ宣伝活動でもすればいいじゃないか」
途端に栗栖の顔が曇った。あぁ、凄く嫌なんだろうな。思い出の写真を全てネットに移された老人のように眉間にしわを寄せている。
「面倒くさい。いちいち駅まで出てビラ配りでもすればいいの?」
「そうするしかないだろう」
「あー、面倒なことったらあらしない。どこかしらに事件が起きていないかしら?」
栗栖は勢いよく背中を椅子に預けると、女性雑誌を仰向けに広げる。腕が伸び切って、陶器のように白く細かい肌があらわになる。
「私は事件を解決したいのよ。雪山の別荘殺人事件だったりいわくつきの館で密室殺人だったり、そういったミステリーチックな事件をやりたいの」
「事件を祈ってどうするんだよ、消防が火事を祈っていたら不愉快だろうが」
身体が天に向いたまま、足をじたばたさせる栗栖を俺は諫めた。しかしその甲斐は虚しく、無言の時間が流れば流れるほど彼女は激しく足を動かしていた。
「うう、決めた。さっさとして、さっさと終わらせるわ」
ようやく踏ん切りがついたのか、栗栖は椅子を蹴り飛ばすように立ち上がる。足音をどかどかと鳴らしながらコピー機へ向かった彼女は、そのまま置いてある紙束を手に取った。
「ほら、早く立ち上がって。私は雑誌の続きが見たくて仕方ないの」
仁王立ちした彼女は、俺に向けてその紙束を見せつける。その紙にはこの探偵事務所の宣伝や設立にあたっての意気込みが大辞典のようにびっしりと書かれていた。
「準備しているのなら早くに言って欲しかった」
「別に君に話したところで何かが変わるわけではないでしょ」
それは正論だけれども。鉛のように重たい腰を上げた俺が事務所から出ると、彼女は勢いよく事務所の扉に鍵をかけ、『Closed』の看板をぶら下げた。
駅前に辿り着いた時にはもう昼を迎えようとしていた。掴み切れないほどのチラシを片手に、映画監督のメガホンのように紙束を丸めて遊んでいる彼女は高らかに宣言する。
「私が持っているこの紙束がなくなるまでビラ配りするよ」
果たしてこんなことで効果が表れるとは思えないが、俺はそんな忠告を胸の内に潜めて、街行く人へと声をかけた。間に休憩を挟みながらなんとか配り終えることができたのは、それから数時間後の夕暮れのことだった。話しかけた回数は軽く三桁を超える。そんな気苦労を背負いながら数時間の大激闘の末、事務所に戻ると、栗栖は言葉を漏らした。
「チラシ配り終えるのって中々に大変なのね。三十分で終わるものだと思ってた」
呆れて言葉も出なかった。能天気に話す彼女の戯言が右から左に抜けていく。俺は疲弊した足をさすって翌日の筋肉痛を回避しようとした。
「なにこれくらいでへばってるのよ。普段から運動してないの?」
栗栖は反対に飄々とした顔で俺をからかった。憎々しい。
「普通の人間は何時間も立っていたら足がむくんでくるんだよ」
「さあ、ビラは配り終わったし後は客を待つだけよ。何人来るかしらね。今日だけでも十人も来るんじゃないかしら?」
俺に話を振っておいて、彼女は俺の話を一切聞いていなかった。電波少女と言われているが、これではまだ電波の方が融通利くんじゃないか。
すっかり気分を良くした彼女は雑誌を読むことすら忘れ、段々日が暮れていく窓枠を眺めてはいつか来るであろう客に期待を寄せていた。
「宣伝文には『奇怪な事件は私たち、栗栖探偵事務所にお任せください』と書いておいたし、その内きっと難事件が舞い込むわ」
そんなことを呟いては、頻繁に手を組み替えていた。
俺も雑誌を読みながら、ここまでしたのだから客が入るものだと考えていた。
しかし、現実はそう簡単に上手くいくことはなかった。
時計の針が午後十時を指すまでに、ドアノブを捻る音は聞こえなかった。ラックには大きく懐中時計が描かれた雑誌や女性雑誌などがあったが、ページをめくる手は緩慢になっていった。次第に時計の針に目が行くようになると、栗栖は溜息をついてゆっくり立ち上がった。
「今日はお客さんは来なかったね。まあ、最初だからこんなものか」
自分に言い聞かせるようにして栗栖は呟き、脱臼したかのように肩を落としながら「じゃあ、私はそろそろ帰るから。戸締りとかよろしく」と俺に言ってカバンを取った。
数分して、乾いたベルの音が聞こえる。あれほど待ち望んでいたベルの音を、俺は今更耳にした。あまり気持ちが良いものとは言えなかった。
そもそも、探偵業を経験してない俺たちにとって、客を呼び込むということは至難の業だ。俺たちが今やっているのは野球をやったこともない人間がいきなり強豪校のスタメンを勝ち取ろうとするのと同じことで、つまりそれは不可能というわけだ。だから、仕方ない。
しかし同時に、このことで悔しさを覚えているのも事実だった。俺も栗栖と同じように客が来ることを期待していたのだ。自分がこれほどまでに苦労したのだから、きっと結果は訪れるだろう、俺もそう考えてしまっていたのだ。
だが、全てが自分の思うように運ぶとは限らない。
今更になって俺は初めて、現実の厳しさを知ったのだ。普通の人間なら中学高校の部活や恋愛などで経験するであろう現実の壁が、二十歳を超えた俺の前に立ち塞がる。恋愛も部活も人生も、なにもかもから逃げ続けた俺には、この壁が到底飛び越えられないものに思えた。
遅すぎた、経験だった。
俺は事実から目を背ける。ずっと見ていたら悲しくなるから、いつものように目を逸らす。
それが、今の俺を形作っていると知りながら。
しかし結果として、俺たちの悪あがきは無事に実を結ぶことになる。その時ばかりは『天が俺に味方してくれた』という言葉を思い出さずにはいられなかった。
次の日、寝起きで重たい瞼を擦りながら事務所に向かうと、そこには見知らぬ服装をした人が立っていた。その細身なスタイルからは女性らしさを連想され、茶色でチェック柄のハンチング帽に中世魔法学校の制服のような薄茶色のワンピース、その上に背中までしか丈がない濃い茶色のマントコートを着ていた。つまるところ、誰しもが想像するような本物の探偵の格好をした女がそこに立っていたのだ。
そんな仰々しい探偵さんができたばかりの弱小事務所に何の御用だと思っていると、俺の足音を聞いたのか彼女は後ろを振り返った。
「あら、もう来てたのね」
振り返ったその姿を見て、俺は呆気にとられた。
「お前、栗栖じゃないか」
探偵服を着た栗栖は俺を見て首を傾げた。首を傾げるのは俺の方だろう。
「当たり前でしょ、こんな時間からここに来るのは従業員しかいないでしょ」
「そういう問題ではなくて、なんで栗栖が探偵みたいな服を着ているんだよ」
「悪いの?」彼女は何も疑問を抱かない純粋な瞳を見せた。「私は探偵でしょ?」
「探偵になったのなら探偵服を着るのは当然のことよね。私、この服装に憧れてたんだ」
彼女はその探偵もどきの服をひらひらとさせながら嬉しそうに話していた。
「私、探偵業をしている時はずっとこの服装でいくわ」
クラスTシャツを手に入れた高校生みたいなこと言わなくても、と俺は肩を落とした。
そんなことがありながら、俺たちは本日の探偵業を始める。昨日に比べて少しは進展があるのかと期待していたが、やはり事務所には見えない閑古鳥が鳴き続けているらしい。窓を覗くと、階段の前に置かれた栗栖お手製の立て看板を避けるようにして行き交う人々が見えた。
「なかなかお客さん、こないものだね。まるで惑星に小天体が寄り付かないみたいだよ」
訳の分からん例えを添えて、栗栖が雑誌を見ながら呟く。俺も身体を伸ばし、来ない客に思いを馳せながら一日の暇つぶしを考えていると――その時が来た。
「……ここ、探偵事務所であってますか?」
からころ、と軽いベルの音と共に、一人の女性が訪問する。その小さな背中の後ろには、目を細めたくなる救いの日差しが後光のように差し込んでいた。
「はい、こちら栗栖探偵事務所です。本日はどうかされましたか?」
雑誌を机の引き出しに隠し、彼女は威勢よく飛びあがった。
「昨日駅前で配られたチラシを見て、相談したいことが合って来たんです。周りに相談できる人もいなくて……でもこの悩みを打ち明けたくて……。大丈夫ですか?」
なんと、俺は腰を抜かすほど驚いた。あのチラシで客が本当に来たのである。
「はい、全然大丈夫ですよ。ささ、こちらのソファーにおかけになってお待ちください」
栗栖は客の前に移動すると、老人のような腰の低さでソファーへと案内する。社会人とは何たるかを彼女から学んでいる最中、振り返りざまに目が合うと鬼のような剣幕が走った。
「助手さん、お茶を取ってきてくださらないかしら」
柔らかい言葉の裏に秘める虎も驚きの意思を前にして、俺は鼠のごとく慌てるとその場から逃げ去った。裏につくと、こういうのは暖かい飲み物を出すのがマナーだよな、なんて思いながら冷蔵庫でキンキンに冷やしたお茶を取り出して来客の前で注いだ。足取りはいつもより軽々しい。ある意味俺も、彼女のように興奮しているのかもしれない。初めての来客に。
お茶を注いでいる最中、俺は依頼客に視線を動かす。彼女は太ももを覆い隠すようにリュックサックを置き、凝視していた。見ているだけでも不安になりそうな彼女は、てんやわんやしている俺たちとは反対に背中を丸めて動かない。その背中は、リスのように小さかった。
「今日はどうされましたか?」
いつの間にかお客と対面に座っていた栗栖が口を開く。俺も続いて彼女の隣に座った。さて、初めての依頼は一体どんなものになるのだろうと考えていると、座ったまま五分ほどが過ぎた。
「……えぇ、その、えっと」
彼女は顔を上げたと思えば、すぐに下を向く。肩は不自然なほどに上がっていて、両手に力が入っているのか関節の場所を忘れてしまったか、腕が真っ直ぐに伸びていた。そんなところを観察していると、たった今目が合った。一瞬見えたその両目には警戒の色が宿っていて、再び俯いた彼女は切り揃えられた長い前髪で両目を覆い隠していた。
「話すことが難しいのでしたら、紙などでも用意しましょうか?」
一方の栗栖は温和な言葉をかけながら、目を輝かせてソファーに座っていた。「奇怪な事件が私を待ち望んでいる、きっとそうに違いない」彼女はネタを得たマスコミのように今にも依頼者に迫ろうと前傾姿勢を取っていた。依頼者が威圧されなければいいのだが。
流石に依頼者は栗栖の提案を断ると、そのまま沈黙が五分ほど続いた。俺は固唾を飲んで待ち、栗栖は瞳孔を大きく開かせながら今か今かとうずうずしていた。
「あの。……秘密にしてくれますか?」
決心がついた彼女の声は、今にも枯れて落ちようとしている木の葉のように小さかった。
「はい、もちろんです。お客様の個人情報は秘守します」
栗栖の言葉に迷いを見せている彼女は、眼球を右往左往させて荒い呼吸を押さえつけるように心臓に手を当てていた。自分一人で抱え込んでいた心の闇を、他人に言うべきか否か、人生初めての決断を彼女はしている。一時間とも感じられる一瞬が、沈黙のまま流れていた。
自分の秘密を他人に語ることの難しさは、俺も実体験的に重々承知していた。
だから、彼女が語り始めた時、俺は真剣に耳を傾けた。
彼女の語りの冒頭句とは、以下のようなものであった。
「私の彼氏に、怪しいところがないか調査して欲しいんです」
「調査とは――浮気調査とかそういった類のものでしょうか」
栗栖の言葉に依頼主はおずおずと頷き、単語同士を繋げるようにして始める。
「私、この世界で初めての彼氏ができたんです。その人は格好良くて話も合って、一緒にいてて安心できる、このままあわよくば結婚までできたらいいな、って人だったんです」
肩をわななかせながら深呼吸を取って、彼女は話を続ける。
「でも最近、彼が連絡を取ってくれないんです。連絡が付いたと思っても『金を借りたい』の一辺倒で、デートの誘いも『予定がある』と断られてしまうんです」
彼女は不安と愛情を唇で噛み殺しながら、溢れ出そうになるあれこれを必死の形相で堪えていた。その様子はとても居た堪れないもので、俺は彼女を直視することができなかった。栗栖の反応が気になって、ちらりと隣を盗み見た。すると、栗栖も顔を引きつらせて苦しそうな表情をしていた。どうやら栗栖も人に同情することはできるらしい。
そんなことを考えている間に、依頼者は両手で顔を覆って話し始める。
「私、あんまり人と会話することが得意じゃなくて、だから告白しても断られることが多くって、それで周りの皆は彼氏と付き合っているのに私だけ一度も男の人と付き合ったり遊んだりしたことが無くて、それが、凄く恥ずかしいことに思えて嫌だったんです。そんな中、彼だけが私に振り向いてくれた、微笑みかけてくれた。……そんなこと、今まで生きてきて一度もなかったのに。ご飯も何回か行って、綺麗な夜景を見て、遊園地に行って、みんなが当たり前に見ている景色を私にも見せてくれて、私は、彼のそんなところが大好きだったんです」
彼女は語り終えると、消え入りそうな声で呟いた。
「だから、お願いします。私が心の底から安心できるように」
一通り話し終えたことを確認し、栗栖は依頼主の顔色を窺い探るように話を切り出した。
「事情は分かりました。全力を尽くして調査を行いますのでご安心ください」
彼女からの言葉は無かった。彼女の長い前髪が、返事の代わりに縦に揺れた。
それにしても、わざわざ金を貸すことなんてないだろうに。冷静に考えて金銭を貸してほしい、そう言われたこと自体が嫌いであることの証左に決まっている。大人しく関係を切ってしまえばいい。なんで、どうしてこう関係を続けてしまうんだろう。
「やっぱり、やめられないんです」いつの間にか、彼女は顔を上げていた。
俺の小言が聞こえていたのか、彼女は作り笑いを浮かべて、言った。
「もしかしたら、まだ私のことを好きなのかもしれないし……」
わずかに上がる頬の筋肉を見ていると、胸がずきりと痛んで仕方ない。