第96話 異能の反転
「……それは、何なのですか?」
アンナはシュルイーズに尋ねる。異能の反転。シュルイーズの口ぶりからすると異能を応用した何かのようだが……。
「閣下、説明するよりも実際に体感するのが早いかと思います。ゼーゲン殿、そろそろ射程に入るのではないか?」
「確かにこんな所だろうな。姿は見えない方がいい、あそこに入ろう」
3人は左手にあった茂みへと移動する。数本の樹木の下に草や低木が生い茂り、身を隠すにはちょうど良い場所だった。
「さて、顧問殿。これからあなた様の心身に強い負担がかかることになります」
「へ?」
「恐らく立つ事もままならない状態になると思います。けど、それは一時的な事。すぐに元に戻りますゆえ、どうか何が起きようとお気をしっかりとお保ちください」
「そ、それはどういう……」
突然の、そして意味不明なゼーゲンの警告に、アンナは戸惑う。
「おやおや、私の事は気遣ってくれないのですか、ゼーゲン殿」
「発案者はあなただ博士。知ったことか」
ゼーゲンは抑揚のない声でそう言うと、シュルイーズに背中を向けた。そして2、3歩ほど動いて2人から距離を置くと、深呼吸を始める。
「では、いきます」
息を整え終わったゼーゲンは、落ち着いた声で言う。そして。
「ハッ!」
短く激しいかけ声。
その瞬間、アンナの全身の肌が粟立った。
「え……?」
ゼーゲンの予言通り足がガクガクと震え、力が抜ける。アンナは膝を折ってその場にへたり込んだ。
それとほぼ同時に、頭上でけたたましい音がした。木々に止まっていた鳥が一斉に飛び立ったのだ。
そして背後では馬のいななき。アンナたちが乗ってきた3頭が竿立ちになって暴れる。
「続けてあと3度ほどいきます!」
ゼーゲンが言う。
そして、得体の知れない感情の津波がアンナの心の中に巻き起こる。
馬たちの騒ぎも一層大きくなる。
「ぐ……かはっ……!?」
それはアンナが今まで味わったことのない感覚だった。背筋が凍りつき、全身をキリキリと締め付けられる。手足を動かすどころか、まばたきも、呼吸でさえも出来ない。
(な、何これ……?)
得体の知れない感覚だが、その奥に不可思議な確信があった。
(殺される……!)
一体誰に? ゼーゲンにだ。
そんな事はあり得ないと、頭ではわかっている。が、そんな理解を吹き飛ばしてしまうほどの強烈な殺意が、このホムンクルスの女性から放たれていた。
合計で4回の恐怖心の波。それが終わると、周囲を異様な静寂が包んでいた。
「失礼しました。もう大丈夫です」
ゼーゲンがうずくまるアンナに手を差し伸べてきた。
恐る恐る顔を上げる。ゼーゲンは驚くほど穏やかな表情をしており、笑みすらたたえていた。
「あ、ありがとう」
アンナはゼーゲンの手を掴んで、縮こまった全身を引き伸ばすようにして立ち上がった。
先ほどまで感じていた殺意や恐怖心は、綺麗に消え去っている。なんなのだ今のは?
「さて、博士……何だその体たらくは」
呆れたようなゼーゲンの声。見るとシュルイーズはぺたりと座り込み全身をわなわなと震わせていた。
「あなたには何が起きるかわかっていたはずだが?」
「は、はは……わかっていてなお、どうする事もできない事もあるのですよ」
「全くだらしのない。顧問殿はもう立ち上がってるぞ?」
「……それで、気球はどうなりました」
話をそらすようにシュルイーズは尋ねる。
「移動を始めた。それもかなりの速さだ」
ゼーゲンは答える。樹木の枝に阻まれて空は見えない。おそらく"領域明察"の異能を用いて気球の状態を察知したのだろう。
そう。それこそが彼女の異能のはずだ。先ほどのような得体の知れない殺意をぶつける力などではない。
「ゼーゲン殿の剥き出しの敵意をぶつけられ、警戒しているのでしょう。恐らくは基地へ戻るはず。これで敵は砲撃できません」
「では!?」
「はい。第6軍団は助かります」
「よかった……」
アンナは胸を撫で下ろす。友軍の死を前提とした策を選んだのはアンナ本人だ。けど、だからといって自分の選択に後ろめたさが無かったわけではない。
見殺しにする将兵の数がこれ以上増えないのであれば、ありがたい限りだ。
「あとは気球を追うだけだ。ぐずぐずしていては、また距離を離されてしまう。急ぎましょう!」
ゼーゲンは繋がれている馬の方へと向かった。先ほどまで恐怖心にかられ暴れていた3頭の馬は、何事もなかったかのように落ち着き払っている。
「ちょ、ちょっと待ってゼーゲン殿」
シュルイーズが懇願するようなか弱い声でゼーゲンを止める。
「なんだ、博士?」
「す、少しだけお時間を。こ、腰が抜けまして……」
「……置いていきましょう、顧問殿」
ゼーゲンはにべもなく言い放った。
* * *
気球の追跡行が再開された。
すでにかなりの距離を離されてしまったが、先ほどまでは白いかすかな円形しか見えなかった気球が、今ははっきりと視認できる。ホムンクルスの強化された視力でなくとも目視が可能だろう。恐らくは、先ほどまで錬金術を用いたカモフラージュが施されていたと思われる。
それが解かれているということは、高速移動時に身を隠すことができない仕組みなのか、それとも単純に敵が慌てている故だろうか。
いずれにしても追跡は容易に進んでいた。適度な距離を維持しているため、気球側がこちらに気づいた様子もない。
さらに伏兵が待ち受けているエリアを切り抜けたのか、敵軍に阻まれることもなく前進できている。
「それで、先ほどの力は一体なんだったのですか?」
現在の状況にいくらかの余裕を見出したアンナは、改めて尋ねる。
「異能の反転。簡単にいえば、ゼーゲン殿の異能の効果をマイナスに作用させたものです」
そう答えるシュルイーズは、ゼーゲンの背中に手を回してしがみついていた。ああは言ったものの、アンナ陣営の貴重な頭脳である彼を敵地のど真ん中に置いていくわけにはいかず、ゼーゲンが自分の馬に乗せたのだ。
「先帝陛下に成り代わっていたホムンクルスのことは当然覚えておいででしょう?」
「ええ。それが何か?」
もちろん覚えている。アルディスの名を騙り、クロイス派の専横を許していた偽物の皇帝。アンナ自身、あの下衆な男に襲われ、マルムゼに助けられたのだ。
「そのホムンクルスは"認識変換"なる異能を使っていたと聞きます。人の認識を書き換える恐るべき力です。この力、マルムゼ殿の異能に似ていると思いませんか?」
「え?」
マルムゼの異能"認識迷彩"は、なんらかの異変を対象者に察知させないと言うものだ。
その名が示す通り、確かに人の認識に作用すると言う点では、2人の異能は似ているかもしれない。
「マルムゼ殿の"認識迷彩"が異常を隠す力ならば、"認識変換"は言わば異常を押し付ける力。それは表裏一体の関係であり、作用の原理は同じではないか……? そうバルフナー博士は考えたのです」
「つまり、"認識迷彩"を使えるマルムゼなら、"認識変換"を使用することも可能である、と?」
「はい。異能はかつて存在した魔法を復活させたものとかんがえられます。伝承では炎と氷を自在に操る魔法使いがいたそうですが、温度を操ると言う意味ではこれも2種類の魔法を使うのではなく、1つの魔法の作用する方向性を変えたものなのかもしれません」
「ふうむ……」
シュルイーズの説明を頭の中で繰り返す。理屈としては確かにわかる。が、先ほどのゼーゲンの殺気が彼女の異能の裏返しというのは今ひとつ理解できない。
「バルフナー博士の仮説を立証するため、私が実験に協力しました」
ゼーゲンが言った。
「"領域明察"は人間の存在を知覚する異能です。その力を反転させて使用する。最初はなかなかイメージできませんでしたが、苦心の末ようやく体得することができました」
「それが、さっきの……?」
「ええ。領域内にいる全ての存在に、私を知覚させたのです。渾身の殺意とともに」
「あ、なるほど、そういう……」
この女性は歴戦の戦士だ。そして"鷲の帝国"皇帝の懐刀を務める凄腕の密偵でもある。錬金工房再建のためにこの国に長期赴任することになった時、皇帝に害をなす可能性がある不穏分子を一掃してきたという。
そんな彼女のとびきりの殺意。それを先ほど、アンナはぶつけられたわけだ。
「後ろ向きに歩く時、私たちは普通の歩く時と同じ筋肉を使います。ただ、動かす方向や順番が異なるだけ。しかもその動作ひとつひとつを意識して行うわけではありません。それと同じと気づいてからは、すぐにコツを掴むことができましたよ」
ゼーゲンはそう続ける。
(ならば私の"感覚共有"も反転した使い方が……?)
彼女の説明を聞きながら、アンナは自らの異能の事に思いを巡らせた。




