第95話 迷路平原
「シュルイーズ博士、アレは気球か?」
ゼーゲンが錬金術師に尋ねる。
気球自体はそれほど珍しいものではない。ちょうどアンナが、金属細工職人の娘として職人街で生まれた頃に発明された空飛ぶ装置だ。
巨大な麻袋に入れた空気を熱する事で浮力を得るという、ごく単純な仕組みで、一時は貴族の遊びとして流行したという。
「私は砲撃の間ずっとアレを見ていたが、間違いなく自力で移動していた。そんな事が可能なのか?」
空高くから地上を見渡せるという事で、確かに気球が戦争で使われることもある。
しかし風まかせでしか移動できないという欠点があり、とかく正確性を求められる戦場での運用は難しいとされてきた。
「従来の気球では無理です。上空の強い風に負けない推進装置も研究されていますが、いずれも重すぎて搭載できません」
「では一体どうやって?」
「恐らくこれも魔力でしょう。大気中の魔力を操作し、任意の方向に風を起こしているのだと思います」
魔力を自在に操る。これもまた、あの新型砲と同じくサン・ジェルマン伯にしかできない芸当だというわけだ。
「ともかく、砲撃が再開される前に気球に近づかなくてはいけません。アレさえ押さえれば、敵は弾着観測が出来ませんから」
「確かにな。あの気球は、いわば敵の目。いかな射撃の名手といえども、目隠しをさられば的に当てる事はできない。だが……」
ゼーゲンは崖上から東の方角を見る。
「ここから先は敵地だ。こちらのからは見えぬ起伏の裏側や点在する林や茂みには、多くの敵が潜んでいよう。それに住民たちも基本的には敵と思った方がいい。どこをどう通ってもいずれ敵に捕捉される……」
「普通の兵なら。ですが、あなたなら可能でしょう?」
事も無げにシュルイーズは言った。
「"領域明察"の異能を使い続けろと?」
「はい。それも効果範囲は最大で」
異能の使用はそれになりに力を消耗する。
敵の気球を目視で追い、馬を操りながら常時最大出力で異能を発動させる。それが相当の気力を要するであろう事は、アンナにも想像がついた。
「ゼフィリアス陛下の護衛任務では、夜通し異能を使う事もあったはずです」
「しかしあれは、陛下のお側から動かぬからできたのであった……いや、いい。これしか手はないだろうしな」
ゼーゲンは観念したように抗弁を打ち切る。
何を言ってもこの錬金術師は効かないだろう。そして、彼の頭脳にはしっかりと策もある様子だ。それをゼーゲンも理解している様子だった。
「ご心配なく。気球の補足を出来る視力の持ち主はもう一人いますので。ね、顧問閣下?」
ニヤリと笑いながら、シュルイーズはアンナの顔を見る。
「ははっ、使えるならばこの国の指導者をも遠慮なく使うというわけか。大した軍師様だな、博士は」
ゼーゲンは呆れたように言った。
「構いませんよ、ゼーゲン殿。あなたは異能の使用に専念してください。あの気球は私が追います」
「ありがとうございます、顧問殿。ならば上空は、あなた様にお任せします」
* * *
「参ったな、まるで迷宮だ」
ゼーゲンは手綱を引いて馬首を返した。後ろに続くアンナとシュルイーズもそれに続く。
崖の上から眺めていた緩やかな起伏は、実際にその場を進んでみると小さな丘が際限なく続く、ひどく複雑な地形のように思えた。
実際、ひとうひとつの丘は大した高さではない。けど、それでも伏兵を隠せるような地形は無数に存在し、反乱軍は巧妙な配置でアンナたちの進行を阻んでいた。
「地図を見るのと実際に進むのでは雲泥の差がある。それは行軍の常識だが……わかっているつもりの私ですら甘くみていたな」
「古来より暴れ川として知られていたルアベーズ川と、この平野独特の地質が、この地形を作り上げたのでしょう。こんな時でなければゆっくりと調査したいところです」
シュルイーズは残念そうに言う。
「顧問殿、敵の気球の方向は?」
「あっちです!」
アンナは指差す。丘に隠れて見えないが、指差す方向には確かにあの白く丸い物体が浮いている。
「ならば右手の丘を迂回したいところですが……その先に農作業のための小屋があります」
「中に誰かいるのですか?」
「はい。私の異能で見る限り、3人。いずれも反乱軍に協力してこの辺りの見張りをしている農夫だと思います」
反乱軍は兵の配置だけでなく、一般の農夫の使い方もすこぶる上手い。上空からの観測では見つけづらい少人数の偵察隊も、彼らによる監視ですぐに捕捉されるだろう。そのあとは新型砲による砲撃か、至る所に潜む伏兵によって殲滅してしまうと言う寸法だ。
「仕方ない。ブレアス殿、行ってくれるか?」
ゼーゲンは護衛としてここまでついてきてくれた兵士に声をかける。
「承知しました」
ブレアスという名の兵士は多くは語らず、馬腹を蹴る。彼の馬はいななきとともに飛び出し、小屋の方向へと向かった。
「彼が注意を惹きつけてるうちに、一気に突っ切りましょう」
「はい。ですが……これで、護衛の兵は全て別行動となってしまいましたね」
「……皆、私が選んだ優秀な兵士です。農民軍などに捕まらず、サン・オージュまで逃げ帰ってくれると信じております」
ゼーゲンが連れてきた護衛の兵士は5名。彼らは皆、陽動のためにアンナたちとは別行動をとる事となった。敵の伏兵や見張りの注意を惹きつけた後は各自の判断で、サン・オージュまで戻ることになっている。
シュルイーズが連れていた錬金術師の助手たちも、気球の追跡では足手纏いとなるため先に帰した。つまり、これでメンバーはアンナとゼーゲン、シュルイーズの3名のみということになる。
「ここを抜ければ、気球まで一気に近づけるはずです。さあ、行きましょう!」
そのとき、どこかで炸裂音が鳴った。3人はぴたりと動きを止め、耳に意識を集中させる。
この位置からだとかすかではあったが、しっかりと耳に入ってくる、間違いない、砲撃が再開されたのだ。
「第6軍団の2次攻撃が始まったのでしょう。今度は出血を覚悟した上で前進を続けるはず……」
小分けにした部隊を複数同時に動かせば、先ほどよりも深く敵陣に食い込むことができるかもしれない。しかしそこで待ち受けているのは、この迷路のような地形と、無数の伏兵たちだ。そして変わらず頭上は砲撃の危機にさらされる。
「急ぎましょう!」
アンナは2人に向かってそう言うと迂回路へと馬を進めた。自分たちが手をこまねいていれば、それだけ第6軍団の死傷者は増えていくのだ。
* * *
ブレアスがうまくやってくれたためか、敵が第6軍団の攻勢に気を取られているためか、そこから先は誰に捕捉されることなく進むことができた。
途中、遠くから聞こえる炸裂音が胸を締め付ける。
先ほど崖の上から見ていた時と、その音の聞こえ方がまるで違う。無数に連続する起伏で視界が限られているため、友軍たちが置かれている状況はまったくわからない。
いや、自分たちのことすら把握できない。もしかしたら次の瞬間にはアンナたちに目掛けて砲弾が飛んで来ることだってありうる。あの気球が自分達を捕捉していないなどという確証はないのだ。
(これが、戦場の兵士たちの感覚……)
アンナも前線に視察に出たことはあるが、戦場に立ったことはない。想像以上の不安と恐怖が、心臓を鷲掴みにする。そうか、兵士たちはこんな思いを描きながら戦っていたのか……。
「顧問殿、深呼吸してください」
ゼーゲンが手綱を操り、アンナの隣に来た。
「戦場の空気に飲まれると、それだけで思考と動きが鈍ります。そして、そうなった者から死んでいく。まずは呼吸を整えてください」
「ゼーゲン殿……ありがとう」
言われた通り胸を膨らませて、あらん限りの空気を体内に取り込んだ。不思議と、それだけで心の中に光が差し込むような心地がする。
「見てください、もうあれだけ近づいています」
ゼーゲンは気球を指差す。それはもはやホムンクルスの視力でなくても十分に確認できるほど近づいていた。
「さて、シュルイーズ博士。ここからどうする? 気球には近づけたかもしれないが、アレに乗り込んだり撃ち落としたりするのは無理だぞ」
「ええ。ですから、またあなたをこき使うことになります」
シュルイーズは応える。その言い方に、ゼーゲンは眉根を歪めた。
「……何をさせるつもりだ?」
「バルフナー博士と訓練していたでしょう? 異能の反転です」
「なるほど……アレか」
「異能の反転?」
アンナは聞きなれない言葉だった。




