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第80話 クロイス公の末路

「こんな時でもお腹は空くもの。むしろこんな時だからこそ、しっかり食べないと元気が出ませんわ」


 エスリー夫人はそう言いながら、腕に引っ掛けたバスケットから茶色い塊を取り出しては、真珠の間の貴族たちに渡していった。

 その様子を見て、クラーラは辟易する。


 大地のケーキ。

 卑しい平民どもが春先に食べるとかいう、貧乏くさい菓子だ。


「ありがとうエスリー夫人」


 女帝が旧友に礼を言った。

 この皇妃の村里に出入りしていた、旧皇妃はの連中は、真珠の間グループよりも古い女帝の取り巻きたちだ。

 女帝が政務や儀式のため本殿にいることが多くなったことから、最近では疎遠気味になっていた。だが、ここぞとばかりに、クラーラたちに女帝との友情を見せつけにやってきたのだ。

 少なくとも、クラーラにはそうとしか見えなかった。

 

「さあ、どうぞ召し上がって」

「あ、ありがとございます……」

 

 真珠の間グループは、クラーラが選りすぐった若い貴族たちで構成されている。女帝に決してストレスを与えることのない、朗らかな人柄や機転のきく頭。それらは当然のこととして、育ちの良さも重要な選別の要素だった。

 女帝にはべるのは、エスリー夫人のごとき田舎貴族の野暮ったい趣味などとは最も遠い、世界一洗練されたヴィスタネージュの若者たちでなくてはならない。だから、あんな鳥の餌を丸めたような駄菓子、口に合うはずがない。


 それでも何人かは恐る恐るその塊に口をつけていた。

 エスリーの言う通り体力をつけねばと思ったのか、女帝の旧友である彼女の顔を潰すわけにはいかないと思ったのか。あるいはその両方か。

 いずれにしても、ボリボリと品のない音を立てて咀嚼する彼らの顔を見て、クラーラは自分の領域が侵されるのを感じた。


「さ、グリージュス公も……」


 エスリーは、クラーラにも大地のケーキを渡そうとする。


「結構です」


 大地のケーキは、クラーラがこの世で最も嫌う食物だ。

 思えば、自分の人生の転落はこのケーキから始まったのだ。このケーキのせいで、夫を失い、クロイス派は失墜し、夫の仇であるあの小娘にに頭を下げることとなった。

 娘のことを思えばこそ、どんな屈辱にも耐えてきたが、それでもこの下品な菓子だけは受け付けない。

 

「でも……何かお口に入れておかないと」

「あいにく、食欲がありませんので……ちょっと外の様子を見て参りますわ」


 そう言ってクラーラは退室した。


 外の様子が気になると言うのは嘘ではない。そろそろこの村里にあの男……ダ・フォーリスが訪れると考えたからだ。

 今は、征竜騎士団の一員として城外のどこかで任務にあたっているはずだが、あの男は必ず来る。不安に満たされた女帝の心を籠絡するために。


 旧主ルコットのとりなしで、ウィダス元大臣がグリージュスの屋敷を訪れたのは今年の春先だった。

 話を聞いてみれば、名前と身分を変えて宮廷でやり直したいとのことだった。女帝や顧問にかしずく日々にストレスを覚えていたクラーラは、意趣返しのために彼に協力してやることにした。


 しかし、程なく彼の真意が明らかになる。


 ウィダスの目的は簒奪であった。あの男はどういう理由からか、自分こそが"百合の帝国"皇帝の正統な後継者であると信じており、現体制を潰すつもりでいた。

 その計画を知った時にはすでにクラーラは身も心も絡め取られており、この男の秘密の情婦となっていた。


 そして彼の言うままに、女帝に紹介し、真珠の間のメンバーにも加えたのだ。


『マリアン=ルーヌを正妃に、そして君を寵姫に、と考えていたがその逆でもいい』


 不意に、あの男の言葉を思い出す。

 閨での戯言だということはわかっている。自分としては、顧問を排除し、女帝との関係を修復できればそれで良い。それで娘は……リリナは明るい未来を手にすることができる。


 でも……もしあの言葉の通り、自分がマリアン=ルーヌより上の立場になれるとしたら……。


 そんな夢想をしながら、庭先に出た時だった。

 人造池の向こうの茂みで何かが光るのが見えた。

 そしてパンパンとけたたましい音が連続して巻き起こり……。


 クラーラは、自分の脇腹で何かひどく熱いものが破裂するのを感じた。


 * * *


 午後0:27 クロイス公が、長い隠し通路を抜け、東苑のルコット邸にたどり着いたとき、彼はどこかで銃声が鳴るのを聞いた。


「何だ今のは……?」


 それほど遠くではない。おそらく同じ東苑の敷地内だ。


「何かやったのか?」


 クロイス公は私兵隊長に尋ねる。


「今のは……」

「私からご説明しますわ、お父様」


 隊長の言葉を遮る声。屋敷の玄関ホールに、ルコットが立っていた。


「ルコット! 無事であったか!」

「ええ。お父様もご無事で何よりです」


 娘はにこやかに答える。このような事態に全く動じず、いつもと変わらぬ様子だった。その未来の国母に相応しい佇まいに、クロイスは頼もしさを覚える。


「今の銃声は、この屋敷を守っていた兵士たちのものです」

「この屋敷の? では、何者かの襲撃を受けたのか」

「いいえ、逆です。私が命じて襲ったのです。皇妃の村落を」

「なんだと!?」


 思いがけぬ言葉だった。


「一体、何ために……」


 いや、尋ねるまでもなかった。当然、女帝の命を奪うつもりなのだろう。

 ならば、今朝謁見の間に女帝はいなかったということか? 別におかしくはない。これだけの変事起こしたのだ。顧問は、女帝の身柄を安全なところに移すのが自然だ。

 そして、本来なら選ばれた者しか入れぬ東苑はうってつけの場所と言える。


「何のために? 愚問ですわ、お父様」

「愚かなのはお前だルコット! なぜ女帝を直接狙った!?」


 クロイス公とて、マリアン=ルーヌという存在を認めてはいない。これから挙兵し、"百合の帝国"の帝政をあるべき姿に戻すつもりだ。

 しかし、打倒すべき敵はあくまで顧問を名乗り国政を欲しいままにするグレアン侯爵だ。血の正統性がないとはいえ、マリアン=ルーヌはこの国の至高の存在。それを討とうとすれば他の貴族たちはついてこない。


「儂はこれからグレアンの小娘を討つ。女帝はその後で穏便な形で退位を迫れば良いのだ!」

「……そうですね。お父様ならそう言いますわね。けどご安心ください。女帝が死ぬことはありませんので」

「なに?」

「彼女が教えてくれたのです。我がクロイス家が生き残る道をね」


 すると横の扉が開き、思ってもいない人物が現れた。


「貴様っグレ……」


 その名を呼ぶ前に、ルコットが右手の人差し指を突き立てた。何かの合図? クロイスが娘の仕草に違和感を持った瞬間、背中が灼熱し、何か鋭利なものが身体を貫くのを感じた。


「がっ……ぶふっ……!?」

「閣下、お許しを」


 私兵隊長だった。ここまでクロイスを連れてきた男が、剣を抜き放ち、主人の背中に突き立てたのだ。

 急速に全身の力が抜け、肥満気味の身体がどすりと崩れ落ちた。


「ルコ……」


 娘の呼ぼうとしたが、その隣にいる女の顔を見て絶句する。

 グレアン……。なぜこの女がルコットの隣にいる? ルコットとてこの女を蛇蝎の如く嫌っていたではないか。


「お父様が宮廷で人を斬った時点で、我がクロイス家は終わりました。」


 娘の声が、初めて聞くもののように感じられた。


「少なくともあなたの孫アルディスが、帝位を継ぐ可能性は消えたのです」

「そ、それは……ちがうぞ、ルコ……」

「ええ、お父様はこれから兵を挙げ、勝利すれば全てを覆せると思っているでしょう。ですが、私には博打にしか思えません」


 ルコットの隣でグレアンの小娘が頷く。

 

 いや……。


 長年、帝国を牛耳ってきた策謀家の頭脳は、今際の際でも回転し続けている。


 この女、本当にグレアンか?


 なぜそう思うかまではわからないが、政敵として彼女を警戒し続けていた彼の直感が、目の前にいる女とアンナ・ディ・グレアンという名前を結びつけることを拒否している。


「私たちの筋書きはこうです」


 ルコットは続ける。


「宰相職を奪われた逆上したお父様は秘密の通路を通って、この屋敷にたどり着きます。そして、ここの衛兵たちを皇妃の村里にさし向けるのです」

「な……に?」

「私たちは必死でお父様を止めました。しかし怒り心頭のお父様は聞く耳も持たない。そこでやむを得ず、私たちはお父様を成敗します」


 実の娘が、十数年手塩にかけて育て、宮廷に送り出した我が娘が、信じがたいことを話している。何なのだこれは……?


「これならば、我がクロイス家が逆賊として歴史に汚名を残すことは無くなります。逆賊はお父様、あなたお一人。その後も綱渡りの駆け引きは続くでしょうが、少なくとも我が息子アルディスの名誉は守られるでしょう」

「な、ルコ……」


 ルコットが再び指を立てる。今度は人差し指と中指の2本だった。

 倒れたクロイスの身体の上で、カチン……と金属的な音が鳴る。短銃の撃鉄を起こす音。

 クロイスはまだ残っている全ての力を振り絞り、身体が仰向けになるよう動かした。すると、真っ黒な銃口が目に飛び込んできた。


「やめろ……あ……あ……」


 私兵隊長の名を呼ぼうとするが、出てこない。彼を隊長として招き入れた後、早々に忘れてしまった。そのような瑣末なこと、いちいち覚えていられない。


 次の瞬間、玄関ホールに銃声が響いた。稀代の専横者の人生はこうして幕を閉じた。


 一時は帝国の全てを手にしたその栄華と比べると、あまりにも惨めな末路であった。


「……ポルトレイエ夫人」


 ルコットは隣に立つ貴婦人の名を呼ぶ。


「はい」

「あなたの言う通りにしたわ。これで良かったのよね?」

「ええ。あとは我が兄、ウィダスが良いように取り計います」


 貴婦人は答える。ルコットには彼女の顔が、真珠の間で女帝の寵愛を得ている人物として映っている。

 それが、父が今際のに見た顔と、全くの別物であることなど知る由もない。

 

「勘違いしないで欲しいのだけど……私は真珠の間の連中に尻尾を振ったわけではないわよ」

「もちろん存じております」

「私の望みはアルディスが帝位につくこと。その邪魔者を排除するために。あなた達に協力しているだけ」

「はい。ドリーヴ大公殿下の御ため、実の父すらも討つというあなた様のお覚悟に、私も感銘を受けました」


 ポルトレイエ夫人を名乗る女の言葉に、ルコットは血まみれになった実父の姿を見た。

  

「……お父様が悪いのですよ」


 父の骸を見下ろしながら、ルコットは言う。


「あんな小娘に先手を取られ続けていたから、此度のような騒動が起きたのです。帝国貴族の盟主にあるまじき不手際。自業自得ですわ」


 骸の虚な眼は天井を見つめ、当然ながら何も答えない。

 ルコットはぷいと顔をそらし、それから永遠に父の顔を見ることはなかった。


「ところでポルトレイエ夫人、あなた文才はあるかしら?」

「ええ。人並みか、それ以上には持っていると自負していますが」

「よろしい。ならばこの骸に添える嘆願書を書いてちょうだい。クロイス家とアルディスの将来を、女帝陛下に安堵してもらうための、ね」

「かしこまりました」

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