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第16話 盲目の皇妃 マリアン=ルーヌ

「すー……、はぁー……」


 珍しくアンナは緊張していた。ヴィスタネージュ宮殿の一角。迷路温室と呼ばれる施設だ。

 大宮殿にいくつかある温室のひとつで、生け垣で作られた迷路庭園の中央部に位置する。

 曲がりくねった通路といくつかの分岐を越えた先に、珍しい植物を育てる温室が現れる。そんなちょっとした宝探しの気分が味わえる趣向の場所で、この大陸では珍しい南方の花々を楽しむことができるのだ。

 寵姫時代からのエリーナのお気に入りの場所だが、迷路という性格のためか訪れる者が少ない。その人物と会うには格好の場所だった。

 とはいえ、約束しているわけではない。マルムゼが異能を使って連れてくることになっている。


「こちらです、陛下」

「ありがとう。あら温室……ですか、ここは?」


 生垣の向こうからマルムゼと、もう一人女性の声が聞こえてきた。アンナは一旦、反対口から温室を出て気配を隠す。


「ええ。皇妃陛下、ここでお待ち下さい」


 マルムゼは女性を、温室の中央に据えられた椅子に座らせる。この女性こそが、皇妃マリアン=ルーヌだ。


「すぐに供の者を呼んでまいります」

「ええと……マルムゼ、とおっしゃいましたね?」

「はい。何か?」

「あなたは、我が夫とどのようなご関係で?」

「いえ、私はかつて近衛隊にいましたが、皇帝陛下とは特別なご関係などは……」

「そうなのですか? いえ、どことなく同じ気配を感じましたので……失礼しました」


 どういうことだろう。聞き耳を立てていたエリーナは首をひねる。皇帝に似た気配をマルムゼに感じた?

 いや、あり得る話だ。先日、マルムゼの正体が皇族の関係者でないかという疑問が生じた。もしそれが事実だったとしたら、皇妃がそれを察知してもおかしくはない。

 何しろ彼女は、普通と違う感覚をお持ちなのだ。


 マルムゼがアンナのいる方へと歩いてきた、目配せをしながら彼と入れ替わり、皇妃の方へと歩んでいく。


「どなたですか?」


 その気配に気づいた皇妃が顔を上げる。

 ああ、相変わらず美しい人だな。アンナは思った。

 皇妃マリアン=ルーヌの天使のような美貌は、"鷲の帝国"の皇女だった時代から評判だった。皇妃となってそろそろ8年が経つはずだが、少しも衰えがない。


「侍女、ではありませんね。初めてお会いする方。どなたでしょう?」


 そう問いかける皇妃の両目は閉じられている。そうなのだ、この人は視力を失っている。

 皇妃となって間も無く、盲目となってしまったのだ。異国へ嫁いだ心労による眼病とも、"鷲の国"との友好を望まぬ一部貴族による毒殺未遂とも言われている。

 いずれにせよ、外交問題になりかねない問題のため、このことは宮廷でも公然の秘密だ。公式の場に皇妃が姿を現すことも極力避けられていた。


「失礼いたしました。グレアン伯アンナと申します」


 アンナは丁重に、盲目の皇妃に挨拶する。


「グレアン伯? あなたが!?」


 名前は知っているようだった。まぁ、半年で名門を乗っ取った女当主の名前など、良い形で伝わってはいないだろうが。


「失礼、私はマリアン=ルーヌ。この国の皇妃です」

「存じております。本来ならば謁見の間でご挨拶してからでなければ、お話などできぬ身。何卒、ご無礼をお許しください」

「ふふっ、構いませんよ。実は私も困っていた所なのです」

「ただいま我が臣下であるマルムゼより伺いました。お供の方々とはぐれてしまったと」

「ええ。私が小鳥のさえずりに耳を傾けることに夢中になってしまって……気づいたときには一人に……」


 本来あり得ない話だ。目の見えぬ皇妃を放ってどこかへ行ってしまう侍女など、減俸や解雇で済まされる話ではない。

 もちろんマルムゼの力だった。マルムゼが侍女たちと皇妃の認識を巧みにずらして、離れ離れにさせてしまったのだ。今頃侍女たちは顔を真っ青にして主人の姿を探しているだろう。

 つくづく恐ろしい力だな、と側近の異能に戦慄する。スパイどころか要人誘拐すら、あの青年は簡単にやってのけるのだ。


「マルムゼがお付きの方々を連れて戻ってくるでしょうから、ここでお待ちください」

「ええ、ありがとう。ところで……」


 皇妃がアンナの顔を見る。いや、視力が失われているのだから実際に見られているわけではない。だが彼女は、彼女なりの感覚でアンナを「見て」いるようだった。まるでアンナという存在を把握しようとするかのように。


「失礼ですが、どこかで会ったことがありますでしょうか?」

「いえ。陛下とは今日が初対面にございます」

「そうですよね、ごめんなさい。先ほどのマルムゼ殿といい、なにか他の方にはない不思議なものを感じてしまいまして……」


 盲目の者は、目が見えない分、他の感覚……例えば耳や鼻、肌から受ける刺激に敏感になる。

 そんな話を聞いたことがある。確か錬金工房でもその分野の研究をしていた人もいたはずだ。

 マリアン=ルーヌ皇妃も視力以外の感覚で、私やマルムゼに違和感を覚えているのだろう。アンナの姿が見えない。

 それゆえにアンナの内側に潜む、フィルヴィーユ伯爵夫人の……かつての恋敵の存在を感じとっているのかもしれない。


「ごめんなさい。私ったら初対面の方に本当に変なことを……」

「失礼ですが……陛下は目を患っておられるので?」


 初めて知った、という体でアンナは尋ねた。公然の秘密とはいえ、宮廷に参内して間もないアンナがこの事を知っているのは不自然だろう。


「はい。子供の頃は見えていたのですが、こちらに嫁いで来た頃に」

「そうでしたか……!」

「この時間の散歩も実は治療のひとつなんです。医師からは、外界の刺激に触れるのが一番効果があると」


 とはいえ、それから8年になるのだ。おそらくその治療法には限界があり、散歩だけで皇妃の視力が戻ることはないだろう。


「鳥のさえずりや風のざわめきを聞いたり、花の香りを嗅いだりしていると気が落ち着きます。けど、どうしても子供の頃駆け回っていた故郷の庭園を思い出してしまい……あの鮮やかな花々が懐かしくなってしまいますね」


 そう言って皇妃は苦笑した。


「それにしても、こんな温室があるなんて知りませんでした。珍しい香りがするけど、どんなお花が育てられているのでしょう?」

「ご覧になりますか?」

「え……?」


 戸惑いに、皇妃の眉知りが下がった。

 

「それは……見られるのなら是非とも見てみたいですが……」

「私にはきっとそれができると思います」

「視力を戻す方法を知っているのですか!?」

「いえ、医学的に治すことは出来ません。けど、ひとときだけ光を取り戻すお手伝いでしたら」

「どういうこと?」

「実際にやってみせた方が早いかもしれません。手をお出しください?」

「手?」


 マリアン=ルーヌ皇妃は恐る恐る、右手を差し出す。

 はるか東方の世界より伝えられた白磁の壺のように、透き通った白くきめ細やかな素肌だった。


「ご無礼仕ります」


 アンナはその手に触れる。すると、この手が陶器人形などではく温かい血の通った人間の手であることがわかる。


「心を落ち着けて……」


 そう伝えてから、アンナはホムンクルスの肉体にながれる魔力の血に意識を集中させた。

 "感覚共有"の異能。養父を破滅させたあの力を、アンナは解放する。


「え、嘘……?」


 マリアン=ルーヌは息を飲み込んだ。アンナは今、己の眼で見ている世界を、盲目の皇妃に分け与えていた。

 彼女の脳裏には、生垣に囲まれた静かな空間に咲き乱れる花々の姿がはっきりと映し出されているだろう。


「これって……」

「今、陛下の前に広がる景色そのものです」

「そんな、どうやって? もしかしてこれって魔法……?」


 "鷲の帝国"の皇族出身であるマリアン=ルーヌにも、魔法時代の英雄の血が流れている。

 だが、"百合の帝国"の王侯貴族たちがそうであるように、その力は途絶えて久しい。


「私にもその正体はわかりません。ただ、私には昔からこういう力があるのです」

「……思い出しました、貴重な花を集めた庭園は”鷲の帝国"の宮殿にもございました! あの赤い花、覚えてます! ……こんな、こんな夢みたいです……!」


 皇妃の閉じられた両目から涙が溢れ出していた。しきりに首をまわし、自分の周りに広がる鮮やかな世界を確認しようとする。

 アンナはその動きに合わせ視線を動かし、皇妃が望む景色を彼女の心へと投影していった。


「――いか、陛下!!」


 至福の時間を終わらせたのは生垣の出口から現れた女性の集団だった。皇妃つきの侍女たちが血相を変えて、主人の元へ戻ってきたのだ。


「探しました皇妃陛下! はぐれてしまったこと大変申し訳ありません」


 一同は温室に侵入すると一斉にひざまづいた。その後ろには、彼女たちを連れてきたマルムゼが立っている。


「本来なら死に値する罪なれど、私以外の侍女たちには何卒寛大なご処置を」


 そう懇願するのは、一堂の中で最も年長と思われる女性だった。宮廷女官長ペティア伯爵夫人。

 エリーナ時代にアンナもよく顔を合わせた、ヴィスタネージュ大宮殿で働くすべての女性たちの長だ。実質的に皇妃の侍従長も彼女が務めている。


「かまいませんよペティア夫人。おかげでとても素敵なお友達と出会えました」

「お友達、とは?」


 ペティア夫人は顔をあげる。そして、驚愕に目を丸くした。


「あなたは、グレアン伯爵夫人!」

「夫人、ではありません。私自身が伯爵です、女官長殿」


 アンナは淡々とした声音で訂正した。


「それと陛下。お友達などと、恐れ大きこと。私は陛下の一臣下にすぎません」

「いいえ。私はあなたともっとお話がしたいです。それと、先ほどのお力も……。ぜひまたお散歩にご一緒させていただけませんか?」

「それは……陛下がお望みであれば」

「ありがとう!」


 皇妃は喜びの声をあげる。少女のような、明るく軽やかな声だった。


 その後、侍女たちに手を取られ、皇妃は生垣の迷路の外へと出ていった。そんな中、宮廷女官長のみが残り、険しい目でアンナを見据える。


「随分と陛下に気に入られたようですね」

「恐縮です」

「まさか、あなたがこんな所まで陛下を連れ込んだのですか?」

「滅相もない。私がここでここで休まれていた時に、たまたま皇妃陛下が訪れたのです」

「こんな迷路の奥に、あの方が一人で来たと言うのですか? そんな馬鹿な!」


 ペティア夫人は激昂する。


「このような手で皇妃様に取り入るとは、なんと恥知らずな……」

「陛下が私を気に入っていただけたのは光栄の極みですが、そのような物言いは不愉快ですね」

「なんですって?」

「そもそも、陛下をお一人にしてしまったのはどなたです? 私は陛下が心細くならないようお側にいて差し上げたのみ。自らの過失を棚にあげて私をそのように糾弾するなど、非常に心外です」

「くっ……」

 

 女官長は、苦々しげにアンナを睨みつける。この瞬間、ペティア夫人はアンナを敵と認識したようだ。

 まぁ別に構いはしない。遅かれ早かれ対立するのはわかっていた相手だ。

 彼女が最も重視するのは宮廷内の秩序であり、従ってクロイス派にも他の貴族の派閥にも属してない。

 言わば完全中立の存在だ。だからアンナの復讐のリストにも載っていない。しかし中立だからこそ、彼女はいずれ必ずアンナに立ちはだかる。味方にはできない。

 復讐の過程で、アンナは必ず宮廷の秩序を破壊することになるのだから。


「まぁ、いいでしょう。ですが、今後はお慎みください」

「それは皇妃陛下の御心次第ですね」


 そう言い残し、アンナは迷路庭園を後にした。

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