悪手
『ギギ』
金属が軋むような音が鳴り響く。
『ダメだ、今の状態で彼に悪霊が憑いたら、次のチャンスはないんだ』
『ギギ』
『ダメか……』
モニターの前で絶望した時、エレベータの扉が開く音に混じって、バイブレーションの音がした。
「!」
順子の手が止まった。
映像を見ていた除霊師の最山が言う。
『藤村さん?』
「私、なんで?」
『藤村さん、正気に戻った? カメラに丸を作って見せて』
順子は手を上げて丸を作って見せる。
「けど、何故体を取り戻せたか、不思議で」
『見ていたけど、こっちからじゃよく分からない。とにかくエレベータは開けじゃダメだ。開けたら彼は悪霊に乗っ取られる。さあ、早く除霊の続きを』
順子は四隅に塩を盛った場所に戻り、最山に指示された通りに作業をこなす。
最山は祓詞を繰り返す。
リモート除霊だが『祓詞』の力は十分に伝わっていた。
しかし祓詞が続くとすることがない順子は、眠くなってくる。
床にお尻をつけて座り込んでしまった。
映像を見ながら、最山は言う。
『藤村さん、座っちゃダメだ。座ったら寝ちゃう。寝ちゃうとまたさっきみたいに、乗っ取られる』
「は、はい。気をつけます」
『もう少しだから。なんか刺激系のミントかガムも買ってきとけばよかったね』
順子は、バッグから小さいプラスチックケースを取り出して振り出した。
「そういえば、もってました」
『よかった。もう少し祓詞が続くから歩き回ってて』
順子はそのまま、廃ホテルの廊下を行ったり来たりしていた。
『どうしてだろう。除霊が進行しているはずなのに……』
何かが足りない。
もう除霊できるだけの清めは終わっているのだ。
だが、まだ財布の周囲に悪霊が渦巻いている。
『もう一度、お酒を吹いて』
変わらない。
そして最山の祓詞は続く。
順子も、時折、呼ばれると口に酒を含んで吹いていた。
そんなことが、幾度か繰り返された。
すると、ようやく、誰も触れていない智の財布が微かに動いた。
「!」
『うん。効いている証拠だ。あともう少しだよ。頑張って』
順子は暗いロビーの床に置かれている財布が、ぼんやり明るく見えることに気づいた。
何かが溢れ出しているように思えた。
完全に発散してしまえば、除霊は終了なのだろうか。
ようやく終わる。
順子は思った。私にとっては三日間のことだが、智はずっと前から苦しんでいたのだ。
失敗は出来ない。
真剣な眼差しで財布を見つめていた。
「誰だ!」
声と同時に、強力なフラッシュライトが順子の横顔を照らす。
光のせいで、姿が確認出来ない。
「だ、れ、だ……」
最初の誰何する声とは違い、途切れ途切れで、か細い声だ。同じ人間が言っている言葉とは思えない。
「……」
フラッシュライトの光が、床を転がった。
順子はその人物の姿がようやく見えてきた。
制服を着た、若い男の警備員だった。
フラッシュライトを落とした警備員は、そのまま順子の方に歩いてくる。
『警備員…… くるタイミングが悪すぎる……』
ぼやくように西田が言った。
さらに警備員が近づいてくる。
『逃げて!』
「!」
その最山の指示は遅かった。
監視カメラの映像と現地の動きにズレがあるのかもしれない。
順子の方も、警備員がどういう状態かを判断するのが遅れた。
「とりあえず、お前がしにゃえんじゃ」
地方のイントネーション。しかも若い人のものではない。
この警備員は『乗っ取られて』いるのだ。
警備員と言っても『穢れ』はあったということになる。
順子が『逃げよう』と思った時には、既に腕を掴まれていた。
「離して!」
スピーカーからは、最山の祓詞が発せされている。
順子は『この状況は自らでなんとかするしかないのだ』と悟った。
「死にさらせ」
首を絞めてこようとする警備員に向かって、順子は酒を吹いた。
「!」
「目覚めなさい!」
目を閉じて怯んだ警備員の頬を、順子は平手打ちした。
気持ちいいくらいの音が、廃ホテルの中に響き渡る。
『もう一度! もう一度お酒吹いて!』
と言った最山の声も力強い。
平手打ちの音で、場の空気が変わった。
そうとしか思えない。
順子が酒を吹くと、智の財布はガタガタ震えながら宙に浮いた。
高い金属音が響く。
同時に持ち上がっていた財布が床に落ちた。
警備員がゆっくり、床に仰向けになって倒れた。
スピーカーからは『恨みの言葉のような』ノイズが流れる。
順子は、監視カメラの赤いLEDを見つめていた。
「終わったの?」
『終わった。ありがとう』
順子はエレベータに向かう。
「智を出して!」
『今やるから、落ち着いて』
エレベータに電源が入る。
エレベータの起動が終わるとフロアに到着した音が廃ホテルの廊下に響いた。
扉が開き、中の光が廊下に伸びた。
光と同時に一人の影が床に映る。
「智」
「……」
呆然と立っている山川智の手を取り、暗い廊下に引っ張りだす。
順子は感情を爆発させるように、智に抱きついた。
智はその気持ちを受け止めず、ただ立ち尽くしている。
「さとし?」
智は瞼を閉じていた。
そして、涙が、一筋溢れてきた。
「すまない……」




