穢れ
海。
波がうねっている。
空は雲で覆われ、周囲は薄暗かった。
高さのある岬から、その広い海を、波のうねりを見ている。
水平線の方では、雲と海が一体となっている。
何かが近づいてくる。
ただそれはまだ、水平線の方で、見えない。
近づいてくると思うのは、漠然とした気持ちだった。
近づいてくる。
逃げないと…… 順子は考えた。
いや、逃げたら助からない。
『誰が?』
誰が助からないのか、はっきり意識できない。
繰り返しうねる波をじっと見ていると、進んでいるのか、後退しているのか分からなくなる。
『!』
気づくと、見下ろす海の真ん中に、陽の光が差し込んで、照らした。
明暗の差が激しくて、丸く照らされたそこだけ、波が見えない。
『助けてくれ……』
聞こえるわけがない。
岬の下に見える海。
見える風景の真ん中までは相当な距離がある。
聞こえるわけがない。
『助けてくれ……』
丸く照らされたところに、人の姿が浮かび上がる。
『さとし!?』
夢だ。
順子はすぐにそう思った。
早く手を伸ばして、引き上げないと助からない。
智は見えない何かを叩くように、拳を握って動かし続ける。
『助けてくれ! 助けてくれ! 開けてくれ!」
「開けてくれ」
「!」
順子は『ビクン』と体を反らせた。
ベッドの上で目が覚める。
部屋の明かりが、煌々と点いていた。
「開けてくれ!」
声は『さとし』だが、イントネーションが違う。
部屋がバレた。順子は部屋の扉を見つめて考える。
なぜこの部屋が分かったのか。
個人情報をバラさないのは、旅行業の規則ではないのか。
頭の中で『さとし』とホテルのフロントが繰り広げる様々な対話を思い浮かべてみる。
「そうか!」
順子は見落としていたことがあった。
自分の体を乗っ取ったように『さとし』は別の霊を呼び出して他人も乗っ取ることができるのだ。
自分自身がそうされた事を忘れていた。
フロントのスタッフを乗っ取り、宿帳を見せてしまう。
頭の中で想像した『さとし』は、すぐに順子の部屋番号を知ってしまった。
コンコンと扉を叩く音がする。
「開けて」
こんな短い語句でも他人とわかる。
順子は息をひそめ、扉を見つめた。
すると、扉のつまみがゆっくりと回る。
全身に寒気がした。
扉が開いていくと、ドアチェーンが張って扉が止まる。
「クソガッ!」
言ったと思うと、扉を押したり、引いたりを繰り返し始めた。
ガチャガチャガチャと、大きな音が部屋に響く。
扉のわずかな隙間から、中を覗き込む目が見える。
それは『さとし』の目だが、大好きな彼の目ではない。
何かに乗っ取られた狂気しか感じられない。
このまま扉が破られたら……
順子はスマフォを手にして、警察の電話番号を入力する。
「……おかけになった電話番号は現在使われて」
おかしい、スマフォの画面を見ると、押したはずのない番号が含まれている。
画面をクリアしてかけ直そうとすると、触ってもないのに番号が入力されていく。
「!」
扉の外にいる『霊』か何かが、スマフォでかけるのを邪魔している。順子はそう決断した。
そしてすぐさま部屋にある電話機を取って、フロントに電話をする。
窓の方を見ながらフロントの従業員が電話を取るのを待つ。
その時、カーテンの隙間、窓のガラスに映った、部屋の扉を見た。
「……」
それは部屋の外に立っている『さとし』の姿ではない。
目がこぼれ落ち、腐った肉や肌が剥がれかかっている、悍ましい『亡者』だった。
「フロントです」
「助けてください。誰かが部屋の外から、扉を開けようとしているんです!」
何かPCを操作するような音が聞こえる。
監視カメラの映像を確認しているのだろう。
「……確認しました。通報しますので、待っていてください」
順子は冷静に考える。
そこにいる霊は、スマフォの電話を邪魔してきた。
だが、同じ部屋からフロントにかけた電話は邪魔できなかった。
つまり静電タッチ式のスマフォの操作は邪魔できても、物理キーがある電話機の操作は邪魔できなかった。
……ということは、おそらくフロントから通報する電話も邪魔できないだろう。
「お願いします!」
大丈夫、入って来れない、と思いつつも、順子は窓に映る亡者の姿に怯えてしまう。
智の肉体をはみ出して、霊だけが一瞬、部屋に入ってくる。
『こいつは穢れてる。だから絶対に返さない』
「!」
音声ではない言葉が、順子の頭に入ってきた。
智が『穢れて』いるというのは、どういう意味なのだろう。
そういえばさっき『さとし』の部屋でもそう言っていた。




