引きこもり
『早く再就職しなさいよ』
順子の声がそう言っている。
俺は耳に手を当てて、その声が聞こえないようにした。
だが聞こえてくる。
『早く再就職しなさいよ』
俺は一人で部屋にいた。
仕事はしていない。
いや、就職していたのだ。ストレートで大学を出て、会社に入り、ずっと働いていた。
ただ就職した先が、ブラック企業だったのだ。働き詰めで、稼いだ金を使えずにただ職場と部屋を往復する毎日だった。
一年前、体調を崩して通院するようになると、会社から様々な理由をつけられ解雇されてしまった。
どこにも出ない引きこもり生活。
最初の数ヶ月は心配してくれた。
次の数ヶ月は励ましてくれた。
だが、仕事を辞めて一年になろうとすると『再就職』を口にするようになった。
互いに年齢が進んで、心配事が増えてくる。
俺が働かないのなら『別れる』つもりだとも言った。
「……」
俺は思い出しながら、暗い気分になった。
金はまだあったが、一生暮らせるほどではない。
何か、一歩、踏み出さなければならない。それはわかっていた。
俺はとにかく、日の光を浴びることが大切だと思った。
外に出て、なんとなく歩いていると、駅に出ていた。
通勤時間帯と違う時間の、近所の駅は、人がまばらだった。
駅の記憶は、薄暗い印象しかなかった。
帰りは暗かったし、出勤時も季節によって暗かった。
遊びにいく場所が、思いつかない。
俺はしばらく、駅を歩いていた。
その時、強い風が吹いた。
何かが飛んできて、俺は目を閉じた。
顔に当たったそれは、チラシだった。
丸めて捨てるところもなく、そのチラシを持ったまま俺はまた歩き始めた。
コーヒーショップで一息入れることにした俺は、手にしたチラシを広げた。
格安国内旅行のことが書いてあった。
そういや『ここ』行ったことないな。
単純なことだった。
子供頃は、親が旅行好きで、いろんなところへ連れて行ってくれた。
子供ながらに、外食や非日常感で気持ちが明るくなった記憶があった。
ここに行こう。
コーヒーを飲みおえる頃には、一週間の旅行の計画を立てていた。