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天鵞絨の吐息  作者: 空木白檀
第三章
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浸潤(四)

 市街地の一角にある雑居ビルの一室で、伊青は連絡もなく帰ってこない近藤にイラついている。


「まったく、あいつらは何をやっているんだ。いつまで俺を待たせるんだ」


 机をドンと叩くと、事務所にいる男が飛び上がってびくついた。

男の名は平野と言い、まだ二十歳そこそこの、ニキビ顔を気にしているような若者である。


「おい! 平野! 松尾はどうした?」

「松尾さんは、体調がすぐれないと連絡をもらいました。今日は自宅にいます」


 怒られないように、ビクビクしながら答えた。


「まったく、どいつもこいつも使えねえ奴ばかりだ。松尾も久保も、もう今回で終わりだな。代わりの奴を早く見つけ出さないと、商売あがったりだ。」


 見ていた競馬新聞を机に叩きつけると、窓際に行きベネシャンブラインドの隙間に指を入れて外を窺った。


「どうかしましたか?」

 伊青は普段と異なり、落ち着きがない。

そんな伊青を見ていると、平野も不安に駆られる。


「何でもない。摘出者と挿入者の候補を挙げとくように、竹内に連絡しとけ」

 再び席に戻り、椅子に腰かけると腕を組んで険しい顔をした。


「何かがおかしい……。おまえ感じないか」

「はい? 何がですか?」

「いや、いい。おまえは鈍感そうだ」


 伊青はニキビをつぶしている平野を見て、ため息をついた。


『順調に事は進んでいる。しかし、この胸騒ぎは何だろう。胸がざわつく。ここへきて八重樫の支配する市場は、弱くなってきているはずだ。何も心配することはない。そう、すべて順調だ。これからは闇ブローカーと取引して、のし上がってやる』


 伊青は自分に言い聞かせる。


「平野、竹内に連絡がついたら今日はもう帰っていいぞ。俺はちょっと出かける」

「はい。行ってらっしゃいませ」


 平野は、慇懃にお辞儀をして見送った。



 伊青は雑居ビルを出て歩きだすと、時々後ろを振り返る。

どうにも見られている感じが拭えない。


 しかしそれらしき人物を、見つけることは出来なかった。

単なる思い過ごしなのか?


 ちっと舌打ちして、大通りに出るとタクシーを呼び止めて乗り込んだ。

行き先を告げてから深くシートに腰かけ、携帯を取り出して電話を鳴らす。

呼び出し音が数回鳴った後、相手の声が聞こえた。


「もしもし、鬼島か? 伊青だ。ああ、これからそっちに行く。ああ、早めに取引を始めたい。……そうだ。悪くない話だろ。あとそうだな、十五分ほどで着くから。……ああ、じゃその時に」


 電話を切ると、『これでいい。すべてうまくいっている』独り言を言って、茶髪の縮毛に手を入れて髪をかきあげ、目を瞑った。



 桜井はエドガーに近藤を任せ、久保の案内で挿入者である松尾に会いに出かけた。

彼の体調は、かなり悪いという。


「どんな具合ですか?」

 道すがら訊ねるが、久保は歯切れが悪く口ごもる。


「久保さん?」


 何か隠し事を感じて追及すると、久保は桜井の視線を避けて言い難そうに、これまでの経緯をぼそぼそと話しだした。


「竹内と言う男の紹介で、伊青に会ったのが最初です。伊青から元気が出る薬があるからと、錠剤を勧められました。それを飲むと、確かに元気が出て幸福感に包まれます。でも、翌日には抑うつ気分になり、前よりも気分が落ち込んで何もしたくない状態になります。だから、また錠剤に手が伸びて……。その繰り返し……」


 地面を見つめて無表情に話す。


「麻薬ですか?」


「ええ、エクスタシーという合成麻薬でした。その事実を知った時には、もう薬が手放せない状態になっていました。そうなると伊青から離れられず、今日まで随分と利用されました。伊青の罠にまんまとはまってしまったのです」


「松尾さんも同じですか?」


「ええ、それが伊青の手口なのでしょう。もう、僕も松尾も使い物にならないほど体がボロボロで、だから奴は、新しい奴隷を物色中だと思いますよ」


 ははっと自嘲気味に笑う久保が、哀れに見えた。


「どうやって能力者を捜すのか分かりますか?」


「ああ、八重樫のところに入り込ませた竹内が、社員の中で気弱そうな能力者に目をつけて引き抜くんです。奴は伊青のスパイですから」


「え!」


 ここでとんでもない情報を耳にして、桜井は興奮した。


「八重樫さんが捜している裏切者は、竹内なんですね。これはこれは、教えてあげたら喜びます」


「やはり八重樫は気が付いていましたか……。逃げられる前に、早く教えたほうがいいですよ。伊青はこの地域から手を引く算段を、数日前からしていましたから」


「はい。松尾さんに会ってから、その足で八重樫さんの会社に行きます。ありがとうございます」


 皇にお礼を言われて、久保は目をパチクリして戸惑った。


「お礼なんて言わないでください。僕は罵倒されるべき人間です。許されないことをしました」


「大丈夫……。久保さんがまずすることは、入院して体から薬を抜き、今後一切、薬に手を出さないことです。そして、伊青のような悪事に手を染める者を止めることです。伊青とのことが落ち着いたら、皇として二人に会いに行きますね。大丈夫。元気になりますよ」


 桜井が大人びた瞳で久保を見ると、久保は深々とお辞儀をして、気弱そうに微笑んだ。

 


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