浸潤(四)
市街地の一角にある雑居ビルの一室で、伊青は連絡もなく帰ってこない近藤にイラついている。
「まったく、あいつらは何をやっているんだ。いつまで俺を待たせるんだ」
机をドンと叩くと、事務所にいる男が飛び上がってびくついた。
男の名は平野と言い、まだ二十歳そこそこの、ニキビ顔を気にしているような若者である。
「おい! 平野! 松尾はどうした?」
「松尾さんは、体調がすぐれないと連絡をもらいました。今日は自宅にいます」
怒られないように、ビクビクしながら答えた。
「まったく、どいつもこいつも使えねえ奴ばかりだ。松尾も久保も、もう今回で終わりだな。代わりの奴を早く見つけ出さないと、商売あがったりだ。」
見ていた競馬新聞を机に叩きつけると、窓際に行きベネシャンブラインドの隙間に指を入れて外を窺った。
「どうかしましたか?」
伊青は普段と異なり、落ち着きがない。
そんな伊青を見ていると、平野も不安に駆られる。
「何でもない。摘出者と挿入者の候補を挙げとくように、竹内に連絡しとけ」
再び席に戻り、椅子に腰かけると腕を組んで険しい顔をした。
「何かがおかしい……。おまえ感じないか」
「はい? 何がですか?」
「いや、いい。おまえは鈍感そうだ」
伊青はニキビをつぶしている平野を見て、ため息をついた。
『順調に事は進んでいる。しかし、この胸騒ぎは何だろう。胸がざわつく。ここへきて八重樫の支配する市場は、弱くなってきているはずだ。何も心配することはない。そう、すべて順調だ。これからは闇ブローカーと取引して、のし上がってやる』
伊青は自分に言い聞かせる。
「平野、竹内に連絡がついたら今日はもう帰っていいぞ。俺はちょっと出かける」
「はい。行ってらっしゃいませ」
平野は、慇懃にお辞儀をして見送った。
伊青は雑居ビルを出て歩きだすと、時々後ろを振り返る。
どうにも見られている感じが拭えない。
しかしそれらしき人物を、見つけることは出来なかった。
単なる思い過ごしなのか?
ちっと舌打ちして、大通りに出るとタクシーを呼び止めて乗り込んだ。
行き先を告げてから深くシートに腰かけ、携帯を取り出して電話を鳴らす。
呼び出し音が数回鳴った後、相手の声が聞こえた。
「もしもし、鬼島か? 伊青だ。ああ、これからそっちに行く。ああ、早めに取引を始めたい。……そうだ。悪くない話だろ。あとそうだな、十五分ほどで着くから。……ああ、じゃその時に」
電話を切ると、『これでいい。すべてうまくいっている』独り言を言って、茶髪の縮毛に手を入れて髪をかきあげ、目を瞑った。
桜井はエドガーに近藤を任せ、久保の案内で挿入者である松尾に会いに出かけた。
彼の体調は、かなり悪いという。
「どんな具合ですか?」
道すがら訊ねるが、久保は歯切れが悪く口ごもる。
「久保さん?」
何か隠し事を感じて追及すると、久保は桜井の視線を避けて言い難そうに、これまでの経緯をぼそぼそと話しだした。
「竹内と言う男の紹介で、伊青に会ったのが最初です。伊青から元気が出る薬があるからと、錠剤を勧められました。それを飲むと、確かに元気が出て幸福感に包まれます。でも、翌日には抑うつ気分になり、前よりも気分が落ち込んで何もしたくない状態になります。だから、また錠剤に手が伸びて……。その繰り返し……」
地面を見つめて無表情に話す。
「麻薬ですか?」
「ええ、エクスタシーという合成麻薬でした。その事実を知った時には、もう薬が手放せない状態になっていました。そうなると伊青から離れられず、今日まで随分と利用されました。伊青の罠にまんまとはまってしまったのです」
「松尾さんも同じですか?」
「ええ、それが伊青の手口なのでしょう。もう、僕も松尾も使い物にならないほど体がボロボロで、だから奴は、新しい奴隷を物色中だと思いますよ」
ははっと自嘲気味に笑う久保が、哀れに見えた。
「どうやって能力者を捜すのか分かりますか?」
「ああ、八重樫のところに入り込ませた竹内が、社員の中で気弱そうな能力者に目をつけて引き抜くんです。奴は伊青のスパイですから」
「え!」
ここでとんでもない情報を耳にして、桜井は興奮した。
「八重樫さんが捜している裏切者は、竹内なんですね。これはこれは、教えてあげたら喜びます」
「やはり八重樫は気が付いていましたか……。逃げられる前に、早く教えたほうがいいですよ。伊青はこの地域から手を引く算段を、数日前からしていましたから」
「はい。松尾さんに会ってから、その足で八重樫さんの会社に行きます。ありがとうございます」
皇にお礼を言われて、久保は目をパチクリして戸惑った。
「お礼なんて言わないでください。僕は罵倒されるべき人間です。許されないことをしました」
「大丈夫……。久保さんがまずすることは、入院して体から薬を抜き、今後一切、薬に手を出さないことです。そして、伊青のような悪事に手を染める者を止めることです。伊青とのことが落ち着いたら、皇として二人に会いに行きますね。大丈夫。元気になりますよ」
桜井が大人びた瞳で久保を見ると、久保は深々とお辞儀をして、気弱そうに微笑んだ。




