表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天鵞絨の吐息  作者: 空木白檀
第三章
64/93

浸潤(三)

翌日、早朝から近藤と久保が小川のアパートを訪ねた。

そこに少年がいたので、怪訝そうに近藤が訊いた。


「そこの少年は?」


「ああ、トナリに住んでるコ、ボクは読み書きがニガテだから、きてもらった。契約書にサインするのに、内容を理解しないとコマルでしょ」


 服装はよれよれなのに、昨日とは態度が何となく異なり、近藤は一抹の不安を感じた。


「嫌ですよお。わたくしたちは、お客様を一番に考えておりますよ。大丈夫、心配はありません。ここにサインをしてくだされば、このお金はお渡しします」


 近藤が久保に目配せをすると、久保は鞄から封筒とA4判用紙一枚を取り出し、ボールペンを添えて近藤に渡した。


「さ、ここです。ここにサインをしてくだされば、このお金はあなたの物です」


 サイン蘭を指差して、お金の入っている封筒をプラプラさせた。


「待って! 僕が今契約書を読んであげる」


 少年が手を差し出して用紙を受け取ろうとするが、近藤はその手をどけ、

「うるせえなあ、邪魔なんだよ」と取られまいとした。


「ああ、面倒だ。もう、ここは引き上げるから、サインなんかいらねえよ。久保、強引にいくぞ」

 そう言うや否や、小川に飛び掛かった。


「あ! 何するんだ!」

 あまりに急なことだったので、小川は近藤に組み敷かれて、身動きが取れなくなった。


「はなせ! このやろう!」

 重い体重が細い体に圧し掛かり、ジタバタもがくが、びくともしない。


「ほら! 久保! 早く奪え!」


 下卑た笑いを浮かべて、近藤が命令する。

言われて久保が動き出すよりも、少年が久保に近づき、久保の顔に手を触れるほうが早かった。


 いきなり顔を撫でられて久保は驚いたものの、少年を睨みつけてから近藤のもとに近寄った。


「久保さん、その行為はあなたの本意ですか?」

「え!」

 背中にかけられた少年の言葉に、久保が振り返る。


「おい! 何してるんだ! 早くしろ!」


 もたもたしている久保に発破を掛けると、一瞬躊躇した久保だったが、押さえつけられている小川の隣に腰を下ろした。


「すまないね」

 そう言って、小川の目を両手で覆った。


「よし! よくやった。帰るぞ!」


 事が済んで機嫌を良くした近藤は、小川を解放した。

立ち上がりざま、封筒を小川の体の上に投げた。


「可哀想だから、この金はやるよ。少ないがな」

 わはははと嫌らしく笑った。


「……おい! 久保! 何ぼんやりしてるんだ。もうここに用はない。帰るぞ」


 久保はまだ腰を下ろしたままで、自分の両手をまじまじと眺めている。

そして近藤が思いもしないことを言った。


「失敗したかもしれない……」

「はああ! 何だって!」

「だから、力を抜き取れなかったかも」


 久保は立ち上がろうとしたが、眩暈がしてドスンと尻もちを着いた。


「な、何をいってるんだよ。今までそんなことは一度もなかったじゃないか」


 これは非常にまずいことになった。

とにかくここから早く立ち去らねばと慌てだす。


「おい! 逃げるぞ」


 近藤は玄関に急いで行き、靴を抱えてドアノブを回そうとしたが、まさにその時、溺れだした。


「あう、あう」ごぼごぼと言葉にならない悲鳴が、金魚が酸素不足でパクパクするような口から出た。

苦しさで喉をかきむしるが、口と鼻は水で覆われて、いくら手でどけようとしても水をすり抜けるだけで、近藤の目は恐怖でかっと見開いている。


「先生、手加減して、死んじゃうよ」


 冷ややかな目で少年が言うのを、近藤は絶望の中で聞いていた。


「ああ、ちょっと頭にきていたもんでね。仕方ない、許してやるか」


 顔から水が離れると、そのまま頭上に移動して、頭の上からビシャッと降りかかった。

水を垂らしながら、近藤はゲホゲホとせき込み、呼吸がしづらいらしく、ヒューヒューと苦しそうにしている。


「ああ、忌々しい。オマエのせいで、大雅君の前で情けない姿を見せてしまった」

 小川ことエドガーが、悔しそうに近藤を睨め付ける。


「いいえ、先生のおかげで、捕まえられました。僕では無理でしたよ」


「オマエ、そこで大人しくしていろ。いいな、動くなよ」

 エドガーが苦しくて涙目の近藤に言うと、分かったというように頭を動かして、巨体を縮めてうずくまった。


「さて、久保はどうしようか」


 まだ具合が悪そうな久保は、半分意識が飛んでいる。


「大雅君、久保の能力を抜いたの?」

「はい、そうです」

「ちょっと触れただけでしょ。凄いね」


 感心したようにエドガーが言うと、桜井は照れくさそうに笑った。


「その代わり、だいぶ体に負担がかかっているみたいですね」


 久保をじっと見つめると、桜井は両手を久保に向けた。

心地よい香りがしてくると、久保の青白い顔に赤みがさしてきて、虚ろな瞳に輝きが生まれた。

その瞳から涙が溢れ、久保の頬を濡らす。


「あなたが皇なんですね……。僕は……」


 久保は嗚咽して言葉にならなかった。

ひとしきり泣き、落ち着きを取り戻した久保は、話しだした。


「うわさで『悪魔の力』を持つ僕らにも、精気を与えてくれる皇が誕生したと聞きました。信じられなかったけれど、真実だった……。でも、僕には皇の恩恵を授かる資格はない。もう、放っておいてください」


 暗く沈んだ目で桜井を見つめる。


「資格とか関係ないです。皇を必要としている人に、僕は力を使う。ただそれだけ。それが僕に与えられた使命だから」


 久保は両手で顔を覆い、苦しそうに涙を流した。


「あなたに力を返します」


 桜井が両手を開くと淡い光が生まれ、それを久保に押し当てようとしたが、手で塞いで嫌がった。


「止めて、そんな力は要らない。他人を不幸にするだけだ」


「……でも、遠い昔から脈々と受け継いできた力です。きっと意味があるのだと思います。どう使うか、使わないか、決めるのは久保さん、あなたです」


 久保は真っ直ぐに桜井を見つめて、『僕が決める……』と呟く。


「そうです。使わない選択もあります」

 そう言って、そっと久保の顔に光を当てると、光は吸い込まれていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ