浸潤(三)
翌日、早朝から近藤と久保が小川のアパートを訪ねた。
そこに少年がいたので、怪訝そうに近藤が訊いた。
「そこの少年は?」
「ああ、トナリに住んでるコ、ボクは読み書きがニガテだから、きてもらった。契約書にサインするのに、内容を理解しないとコマルでしょ」
服装はよれよれなのに、昨日とは態度が何となく異なり、近藤は一抹の不安を感じた。
「嫌ですよお。わたくしたちは、お客様を一番に考えておりますよ。大丈夫、心配はありません。ここにサインをしてくだされば、このお金はお渡しします」
近藤が久保に目配せをすると、久保は鞄から封筒とA4判用紙一枚を取り出し、ボールペンを添えて近藤に渡した。
「さ、ここです。ここにサインをしてくだされば、このお金はあなたの物です」
サイン蘭を指差して、お金の入っている封筒をプラプラさせた。
「待って! 僕が今契約書を読んであげる」
少年が手を差し出して用紙を受け取ろうとするが、近藤はその手をどけ、
「うるせえなあ、邪魔なんだよ」と取られまいとした。
「ああ、面倒だ。もう、ここは引き上げるから、サインなんかいらねえよ。久保、強引にいくぞ」
そう言うや否や、小川に飛び掛かった。
「あ! 何するんだ!」
あまりに急なことだったので、小川は近藤に組み敷かれて、身動きが取れなくなった。
「はなせ! このやろう!」
重い体重が細い体に圧し掛かり、ジタバタもがくが、びくともしない。
「ほら! 久保! 早く奪え!」
下卑た笑いを浮かべて、近藤が命令する。
言われて久保が動き出すよりも、少年が久保に近づき、久保の顔に手を触れるほうが早かった。
いきなり顔を撫でられて久保は驚いたものの、少年を睨みつけてから近藤のもとに近寄った。
「久保さん、その行為はあなたの本意ですか?」
「え!」
背中にかけられた少年の言葉に、久保が振り返る。
「おい! 何してるんだ! 早くしろ!」
もたもたしている久保に発破を掛けると、一瞬躊躇した久保だったが、押さえつけられている小川の隣に腰を下ろした。
「すまないね」
そう言って、小川の目を両手で覆った。
「よし! よくやった。帰るぞ!」
事が済んで機嫌を良くした近藤は、小川を解放した。
立ち上がりざま、封筒を小川の体の上に投げた。
「可哀想だから、この金はやるよ。少ないがな」
わはははと嫌らしく笑った。
「……おい! 久保! 何ぼんやりしてるんだ。もうここに用はない。帰るぞ」
久保はまだ腰を下ろしたままで、自分の両手をまじまじと眺めている。
そして近藤が思いもしないことを言った。
「失敗したかもしれない……」
「はああ! 何だって!」
「だから、力を抜き取れなかったかも」
久保は立ち上がろうとしたが、眩暈がしてドスンと尻もちを着いた。
「な、何をいってるんだよ。今までそんなことは一度もなかったじゃないか」
これは非常にまずいことになった。
とにかくここから早く立ち去らねばと慌てだす。
「おい! 逃げるぞ」
近藤は玄関に急いで行き、靴を抱えてドアノブを回そうとしたが、まさにその時、溺れだした。
「あう、あう」ごぼごぼと言葉にならない悲鳴が、金魚が酸素不足でパクパクするような口から出た。
苦しさで喉をかきむしるが、口と鼻は水で覆われて、いくら手でどけようとしても水をすり抜けるだけで、近藤の目は恐怖でかっと見開いている。
「先生、手加減して、死んじゃうよ」
冷ややかな目で少年が言うのを、近藤は絶望の中で聞いていた。
「ああ、ちょっと頭にきていたもんでね。仕方ない、許してやるか」
顔から水が離れると、そのまま頭上に移動して、頭の上からビシャッと降りかかった。
水を垂らしながら、近藤はゲホゲホとせき込み、呼吸がしづらいらしく、ヒューヒューと苦しそうにしている。
「ああ、忌々しい。オマエのせいで、大雅君の前で情けない姿を見せてしまった」
小川ことエドガーが、悔しそうに近藤を睨め付ける。
「いいえ、先生のおかげで、捕まえられました。僕では無理でしたよ」
「オマエ、そこで大人しくしていろ。いいな、動くなよ」
エドガーが苦しくて涙目の近藤に言うと、分かったというように頭を動かして、巨体を縮めてうずくまった。
「さて、久保はどうしようか」
まだ具合が悪そうな久保は、半分意識が飛んでいる。
「大雅君、久保の能力を抜いたの?」
「はい、そうです」
「ちょっと触れただけでしょ。凄いね」
感心したようにエドガーが言うと、桜井は照れくさそうに笑った。
「その代わり、だいぶ体に負担がかかっているみたいですね」
久保をじっと見つめると、桜井は両手を久保に向けた。
心地よい香りがしてくると、久保の青白い顔に赤みがさしてきて、虚ろな瞳に輝きが生まれた。
その瞳から涙が溢れ、久保の頬を濡らす。
「あなたが皇なんですね……。僕は……」
久保は嗚咽して言葉にならなかった。
ひとしきり泣き、落ち着きを取り戻した久保は、話しだした。
「うわさで『悪魔の力』を持つ僕らにも、精気を与えてくれる皇が誕生したと聞きました。信じられなかったけれど、真実だった……。でも、僕には皇の恩恵を授かる資格はない。もう、放っておいてください」
暗く沈んだ目で桜井を見つめる。
「資格とか関係ないです。皇を必要としている人に、僕は力を使う。ただそれだけ。それが僕に与えられた使命だから」
久保は両手で顔を覆い、苦しそうに涙を流した。
「あなたに力を返します」
桜井が両手を開くと淡い光が生まれ、それを久保に押し当てようとしたが、手で塞いで嫌がった。
「止めて、そんな力は要らない。他人を不幸にするだけだ」
「……でも、遠い昔から脈々と受け継いできた力です。きっと意味があるのだと思います。どう使うか、使わないか、決めるのは久保さん、あなたです」
久保は真っ直ぐに桜井を見つめて、『僕が決める……』と呟く。
「そうです。使わない選択もあります」
そう言って、そっと久保の顔に光を当てると、光は吸い込まれていった。




