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天鵞絨の吐息  作者: 空木白檀
第一章
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僕はひとりだ

「えー、鞄三個だぞ。それにビニール袋もあるし……」


 坂本は小さくなっていく五十嵐につぶやき、大きなため息をついた。


 保健室に戻ると、中庭を背にして長身のエドガーが窓際に立ち、街灯に照らされて長い影を怪しげに床に落としていた。


 花音は消毒薬や絆創膏が置いてある机の前に座って外を眺めている。


 逆光になっていてエドガーがどんな表情をしているのか、伺うことができない。


「桜井を追いかけなくていいの?」


 坂本が入り口近くにある照明スィッチを押して室内を明るくすると、エドガーの綺麗な白い顔が現れた。


 外は夕闇が迫っていた。


「ああ、健人君に任せるよ。あの様子では、ボクの話を聞いてくれそうにないからね。これから毎日学校で会えるのだから、焦る必要はないし……。それよりも」


 何やら思案をめぐらしながら長椅子に移動して腰かけ、坂本にも椅子に腰かけるように手招きする。


「駿君、きみは風変わりな子だと言われないかい?」


「え、別に。どうしてですか?」


「きみからは神来人の気配がしないし、だから一般人だと思うけれど、ボクたちのことを全然怖がらないね」


「あー、先生が水を操るとか、普通の人間ではないことをですか? うーん、実際さっきはビックリしたけれど、素敵な能力だと思いますよ。もっと見せてくれますか?」


 坂本がキラキラした瞳で興味深そうに頼むと、エドガーが面白そうに「いいよ」と答え、コップに水を入れてもってきた。


 そしてコップを持った右手を頭上高く上げ、コップを傾けて水をチョロチョロこぼすと、その水は曲線を描いて左手に巻き付きだした。


 コップの水を全部左手に巻き付け、クルクルと手を回しだす。


 すると、ひも状になった水は大きな輪になって手から離れ、空中にフワフワと浮かんだ。


 それはまるで煙草の煙で作った巨大な輪っかのようだ。


「凄い! 凄い!」


 興奮した坂本がそれを掴もうとするのを、エドガーが「濡れるからダメだよ」と制止する。


「これは青木先生に消してもらおうか。花音、お願い」


 エドガーが花音に席を譲ろうとするが、花音はさっきから強張った表情をしている。


「……やたら能力を見せるのは禁止されているでしょう。仕方のない人」


 不機嫌なまま、それでも浮遊している水の輪を、フィンガースナップでパチンとすると、一瞬のうちに水蒸気となって消し去った。


「わお! 青木先生も凄い!」


 坂本が感心して手を叩く。


「相変わらず熱いね、キミは」


 花音の機嫌の悪さなど意に介せず、エドガーは「彼女も凄いだろう」と微笑みかける。


 坂本は怖がるどころか「いいな、いいな」と羨ましがる。


 そんな坂本にエドガーは満足そうに話しかける。


「ねえ、駿君、きみにお願いがあるのだけど、悪い話じゃないよ。代わりに、きみは英語の宿題を度々忘れるみたいだけれど、ボクが上手く先生に取入ってあげるよ……」


 それを聞いて怒ったように間髪を容れず「断る!」と答えた。


「え! 内容も聞かないうちにどうして?」


 意外そうな顔をするが、楽しそうに切れ長の目が輝く。


「交換条件なんて、俺はそういうのは好かない。もう帰ります。青木先生、タオルありがとうございました」


「あ、待って待って、ますます気に入った。改めて頼むよ。駿君、ボクたちを助けてくれないか? 協力お願いします。大雅君の様子をボクらに教えて欲しいんだ」


 両手を顔の前で合わせ、ニコッと微笑む。


『ああ、この表情! これは女子なら胸キュンなのだろうな』


 坂本は目の前の魅力的な顔を見つめた。




 桜井を引き連れて、五十嵐が坂本の家に顔を出したときには、すでに満天の星が輝く時刻になっていた。


「おう、やっと来たな。随分と遅かったじゃないか」


 桜井は、五十嵐の後ろに隠れるように佇んでいる。


 目が腫れぼったくなっていた。


「うん、悪かったな。荷物大変だったろう」


「いいって……。ああ、それじゃあ、また英語のノート頼むわ」


 はははと笑い、鞄と服を入れた袋を持ってきた。


「飯はまだだろ? 食べていくか?」


「いや、もう遅いから帰るよ」


 坂本から鞄を受け取って桜井に渡し、自分のを持ち上げた。


「そっか、気を付けて帰れよ。また明日な」


「ああ、また明日。ありがとう」


 今はそっとしておいた方がいいと感じて、坂本は何も訊かずに、ゼスチャーで電話すると伝えると、五十嵐もそれに気づいて目で合図した。


 鞄を受け取って帰路についたが、五十嵐は酷く疲れていた。


 しかし興奮しているため眠気は襲ってこないが、桜井は泣き疲れたらしく、隣でウトウトしている。


 電車で揺られながら、今日の放課後からの出来事を思い返すと、霞がかかって現実味がわかない。


 これから彼をどうしようと悩んだ。




 あの時、桜井が保健室を飛び出してからすぐに追いかけたけれど、意外に足が速いのに五十嵐は驚いていた。


 彼は駅とは反対の、学校の裏手の高台に向かって走っていく。


 かつてその高台には、野鳩がたくさん集まっていて、その頃から『鳩の丘』と呼ばれている。今では、カラスに追い立てられてほとんど鳩を見ることは無くなった。


 五十嵐は頂上付近でやっと追い付いて、桜井の手を掴むことができた。


「待てよ。桜井君は足が速いなあ。ああ、疲れた」


 ハアハア言いながら、


「きみは陸上部? 違うの? へえ、じゃあ陸上やったらいいのに」


 頂上の見晴らし台まで引っ張っていき、ベンチに座らせる。


 桜井は五十嵐をぼんやりと見つめているが、彼を見ているわけではない。


「エドガー先生にはビックリだな。僕は地の民らしいよ」


 隣に腰かけ、桜井に笑いかける。


「…………」


 覗き込むが、無言のままである。


「……皇ってわかる?」


「やめて! 言わないで!」


 悲鳴に近い声で叫ぶと、潤んだ瞳から今にも涙がこぼれ落ちそうになっている。


「あの、さ……。きみのこと教えてよ。兄弟いるの?」


「……いない。僕ひとり」


「そう、僕も一人っ子なんだ。坂本は姉さんがいるよ。鬼婆みたいで、すげえ怖いと口癖のように言っている。ふふ」


 桜井の緊張を解そうと、たわいないことを喋る。


「お父さんは、何をしている人?」


「父は僕が十歳のときに死んだ」


「ああ、ごめん……」


「いいよ。別に、気にしない」


 どの様に話を進めたらよいか迷っていると、それまで生気もなくぼんやりしていた桜井が、五十嵐の目を見つめ返してきた。


「僕のことが知りたいの? きみは、ずっと僕を気にしていたものね。いいよ、教えてあげる」


 冷ややかな眼差しで、自嘲気味にニヤリとする桜井を不気味に感じた。


「神来人か……、ある人に聞いて知っていたよ。それに父の日記が死後見つかって、それに色々書かれていたからね」


 ふうっと、山陰に沈む前の夕陽に顔を照らしながら目を瞑ると、雫が一筋、すうっと頬を流れた。


「僕の父は幼いころから魔力を持ちすぎていたんだ。それが悲劇の始まりさ。この世に存在してはいけない子供として、神来人は父に畏怖の念を抱いた。その時の皇が呪いの封印で父の魔力を閉じ込め、家族から引き離し、遠く離れた地の民に預けることにした。そこで父は、随分つらい幼少期を過ごしたらしい。孤独な父は早く大人になって、呪われた血から逃げだそうとした。自由を切望した。だから一族から遠く離れた大学をわざわざ選び、高校卒業以後、帰郷することはなかった。大学内で母と知り合い、卒業後家庭をもち、僕が生まれた。ごく平凡な家族だったと思う。でも、幸せはそう長くは続かなかった……」


 夕日はすっかり山の影に隠れ、眼下の街並みは沢山の明かりが灯っている。


 ベンチの近くの街灯が、桜井の濡れた頬を照らしている。


 彼はさめざめと泣いていた。


「ぼくが十歳のときに、父は交通事故で死んだ。母は迷信深い神来人に殺されたと思っている。いまだにひき逃げ犯は、逮捕されていない」


「それは、本当?」


 物騒な言葉を聞いて驚く五十嵐に、頭を振る。


「……真実はわからない。でも母はそう思い込み、神来人ひいては皇を恨んで、段々と精神が蝕まれていった。今ではもう過去に生きている」


「過去に生きてるって……きみは普通の生活を送れているの?」


 桜井の昼食が、いつもおにぎりの理由がわかった。


「母は一年のほとんどを精神科に入院している。以前は退院できた時期もあったけどさ……。でも、ある意味、誰かを恨むことなく、過去に、幸せな父との過去の生活の中にいられて、今は幸せなのだと思う。……でも、僕は寂しい」


 桜井は、声を押し殺して泣いた。


 五十嵐は、小刻みに震えている小さな肩を抱きしめる。


「じゃあ、きみは今は誰と住んでいるの?」


「誰とも、ひとりだよ」


「…………」


 五十嵐は抱きしめている腕に、さらに力を込めた。




 桜井の住んでいる甚三紅駅(じんざもみえき)に着くと彼を起こし、一緒に下りた。


「あの、どうして?」戸惑う桜井に、


「送っていくよ」と答える。


「いつも夕飯はどうしてるの?」


 商店街を通り抜けながら訊くと、


「うん、ここで調達する。贅沢言わなければ問題ないよ」


「そっか、じゃあ買って帰ろう。今日は何にする? ぼくも買うよ。一緒に食べよう」


 桜井は、最初は驚いたようだが、次第に嬉しそうな顔になり、普段よりも多く買い物をした。


 商店街を抜けて大通りを渡ると、急に賑わいがなくなり、樹木も増えて辺りは寂しくなる。木々が連なるようになると、名前に『森林』がつく大きな公園が現れて、そこだけぽっかりと、ブラックホールのように暗く沈んでいる。


 昼間は散歩コースにうってつけなのだろうが、遅い時刻はちょっと男でも怖い感じがする。この青苔森林公園の北側に桜井の家は建っていた。


 瀟洒な洋館で、母子二人で暮らすには大きすぎる。


 まして今はたった一人で、この屋敷に暮らしているという。


 五十嵐は大きな不安に襲われ、心がざわついた。


「この公園はずいぶん暗いね。夜ここを通るのは怖くない?」


 普段どうしているのだろうと訊いてみる。


「僕は帰宅部で遅くなることはないから平気だよ。それに……人の気配を感じ取るのは得意なんだ。今ここには、誰もいない。僕らだけだよ」


 暗がりの中で返事をする。


「大きな家だね。ずっとここに住んでいるの?」


「いや、父がいなくなって、母が入院するようになってからだよ」


 鍵を開けながら言い、電気をつけると広くて殺風景な玄関が現れた。


『二人きりになってから、わざわざこんなに広い家に引っ越したのか?』


 五十嵐は違和感を覚えた。


 後でいろいろと確かめる必要があるなと思いながら、靴を脱いで家に上がった。




 翌日、桜井は学校を休んだ。


 三時限目が始まる前に、五十嵐と坂本は学校を抜け出して『鳩の丘』に赴く。


「エドガー先生、見逃してくれるかな?」


 今日会って話そうと昨晩電話で連絡したときに、坂本が明日のエドガー先生の授業をさぼろうと提案したので来てしまったけれど、五十嵐は少し後悔していた。


「大丈夫だよ。昨日はあれから保健室で何が起こったのか、エドガーに会う前に五十嵐に教えたかったし、俺も桜井がどうなったのか知りたいからさ」


 小犬の散歩に来ていた近所の婦人が、学生服の二人をチラッと遠巻きに見てから通り過ぎて行った。


「桜井君、やっぱり今日休んだね。……昨日もここに来たけど、昼間見る景色は昨日とは全然違うな」


 眼下に広がる街並みは規則正しく建物が立ち並び、車がアリのように忙しく動き回っている。それは変わることなく、いつもの日常が流れている証拠だ。


「それそれ、あれからここで桜井と何を話したのさ」


 坂本は、うーーん、と伸びをしてからベンチに座り、五十嵐も座るよう促す。


 隣に座ると桜井から聞いた両親のこと、さらに広すぎる家にひとりで暮らしていることを話し、坂本はエドガーの水を操る力と、青木の火を操る力の凄さを興奮気味に話した。


「こう、手をクルクルと回すと水がプカプカと浮くんだよ。で、青木先生が指でパチッとやると瞬時に水が蒸発したんだ。ああ! 五十嵐にも見せたかったな」


「水と火を操るのか。そして僕は地の民って……何? 訳わかんないよ」


 両膝に両肘をついて額に手をやり、地面を見つめる。


 その先には、アリが一生懸命に昆虫の羽を巣へと運んでいた。


「昨日ここで『皇』という言葉をだすと、桜井君は興奮した。僕には言えない何かがあるのだと思う」


 体を起こして空を仰ぎ見て、


「気持ちいい。ああ、こんなにいい天気なのに……」と目を瞑る。


「彼に昨日は聞けなかったけれど……」


 太陽の光を瞼の裏で感じてから、薄目を開けて坂本を見つめる。


「今までひとりで、どうやって生活してきたのかな?」


「後ろ盾になる大人がいるよ、絶対に。だって病院に入院するにも、保証人が必要だろ?」


 坂本は、桜井の複雑な生い立ちに同情しながら、学校での様子を思い出していた。


 彼はいつも教室の隅で、ひっそりと座っているような生徒だ。


 バカ騒ぎなどせず、目立つことはしない。


 仲の良い友達はいないようだが、しかし知っているのは高校生になってからのことで、中学時代のことは坂本も五十嵐も知らない。


「どこの中学を出たんだろう?」


「知らない……。今日、放課後になったら桜井の家に行ってみるよ」


 五十嵐が物憂げに言うと、坂本が、


「ああ、俺も付き合うよ」と返事をした。



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