織部綾乃の憂鬱
桜井が現れて、坂本の手を取りラベンダー色の光に包まれようとしたとき、織部はそれから逃れた。
あのまま、一緒に桜井の世界に行くべきでないと判断したからだ。
桜井の創造する世界は、たぶん時間という観念がないに違いない。
だとすれば、自分は容易に移動できなくなる。
桜井は何かをしようとしている。
それを突き止めないと。
織部はどうしたものかと考えこむ。
桜井の父はいったい息子に何を言ったのだろう?
やはり母親のことだろうか。
さて、これからどうしよう……。
織部は、ほう、と深いため息をつく。
今まで皇の継承は、順調に推移してきた。
時の番人の仕事は、時空の歪みの修復である。
だから、神来人同士の争いは、これまで口出しをしたことは無く静観してきた。
しかし、今回ばかりはそうも言っていられない。
皇が好き勝手に時間軸を無視した世界を、あちこちに創造したら大変なことになる。
過去も現在もなくなり、下手をすれば未来も消滅してしまうかもしれない。
今、知りえる大きな歪みは二か所にある。
一か所は敦子の気配がすることから、五十嵐や坂本もそこにいると思われる。
だとすれば、もう一か所が桜井のしたいことなのだろう。
ああ、厄介だな、と愚痴を言って重い腰をあげ、両手を空にかざし、生じた裂け目をこじ開けて、漆黒の闇の中へと入って行った。
天鵞絨色の世界を抜けて、織部は歪みの根源に到達したけれど、中には入れないでいる。
桜井が許してくれない。
それでも、何が起きているのか分かれば良いだろう。
織部は触れることは出来ないが、辺りを歩き出す。
草原の中、豊富な水量の小川が流れ、遠くに林が見える。
風があるらしく、木々が激しく揺れている。
微かに叫び声が聞こえる方角に足を向けた。
何人もの悲痛な叫び声が、次第に大きくなる。
でっぷりとした初老の男性と女性が、泣きながら逃げ惑っている。
彼らの前で一人の男性が仁王立ちになっていて、そのすぐ後ろにもう一人男性が、隠れるように中腰でいる。
佐野と北村である。
彼らを火と水が交互に襲っているのが見えた。
佐野がかろうじて風で防いでいるが、肩で息をしていて、疲労困憊であるのが見て取れる。
襲ってくる火柱を風で追いやると、そこには水の壁があって、火があたると、もうもうと水蒸気となって視界がかすんでくる。
すると火の攻撃は、暫くは止むようだ。
そしてまた攻撃が始まる。
ほんのひと時の休憩しか与えられない。
それが永遠に続く。
応戦できるのは佐野ただ一人だけだ。
これでは、いつまでもつことやら。
彼らは、桜井を相当怒らせたようだ。
エドガーの水を操る力と、花音の火を操る力を完全にコピーして使っている。
今度の皇の力は、やはり凄いな、と織部は感心した。
しかし、懲らしめるのも大概にしないといけない。
織部は暫く北村を睨んでいたが、ふいと踵を返した。




