ひまわり畑と狼
五十嵐が自分の名を呼ぶ声に気づき、重い瞼を開けると小池の心配そうな顔がそこにあった。
頭を上げるとグラグラして気持ちが悪く、今にも吐きそうだが唾をゴクリと飲んで深く息を吐く。
「大丈夫? 目が回ってるでしょ? まだ横になってて、そのうち治まるから」
五十嵐の意識が戻ったのを確認して、少しほっとした様子の小池が両手を動かして何かしていたが、目を開けているのが辛くて五十嵐は目を閉じた。
「ふう、船酔いした気分だよ。小池さんは何ともないの? 何してるの?」
「わたしなら、時空を行き来するのに慣れているから平気。今、戻るための扉を開けようとしているのだけれど……、上手くいかない」
小池の手が左右に動くと、空気が震えて裂け目ができるのだが、バチバチと音を立てて元に戻ってしまう。
「ああ、やっぱり駄目だ。ここは過去の残像の世界ではないようね……。考えられるのは、桜井君の想像の世界、たぶん彼が作り上げた世界に連れ込まれたみたい」
小池が空を見つめて、ため息交じりに言う。
「坂本たちは?」
目を閉じたまま五十嵐が訊くと、
「逸れてしまったけれど、綾部様がついているから心配ない。それよりも桜井君を見つけないと。織部様もきっとそうする。彼がいないと元の世界に帰れないから」
小池は時空の扉を開けるのは諦め、五十嵐が動けるようになるのを待つことにした。
気持ち悪さが薄れ、大儀そうに起き上がった五十嵐が目にした光景は、見渡す限りヒマワリで埋め尽くされた世界だった。
空は赤みがかった薄紫色に染まっていて、レースのような繊細な白い雲が流れるような模様を作っている。
「うわ、何だこれ」
黄色一色の草原に呆気にとられながら、それでも五十嵐が注意深く周りを眺めると、永遠に伸びていそうな幅二メートルほどの歩道から少し右にそれて、小さな家らしきものを見つけることが出来た。
「あそこにあるのは家かな?」
「うん、動ける? とにかく、そこに行ってみようか」
小池が五十嵐の体調を気にしながら立ち上がると、
「これが桜井君の世界なのか?」
五十嵐は不思議そうに、なおもキョロキョロしてヒマワリを見つめた。
「何か、気味悪い。この花、僕らを見てないか?」
歩き始めた二人に、ヒマワリの花が後を追いかけるように向きを変える。
さわさわと静かな音が果てしなく長く続く。
何百という、すくっと立ちあがった茎から太陽のような見事な大輪の花が動くさまを見ていると、蛇に睨まれた蛙の様な心境になり足がすくむ。
「まるで磁石に引き寄せられる砂鉄のようだね。もしかしたら、侵入者を見張る役目をしているのかな?」
小池が思案にくれた表情で答える。
それでも、ヒマワリの花に見つめられながら遠慮がちに進んでいると、ガサガサと音を立てて、道を隔てた左側の茂みが大きく揺れ出した。
緊張した二人の前にそこから現れたのは、精悍な顔立ちをした狼だった。
銀色に近い灰色の美しい毛並みに、透き通った金色の瞳で、じっと不法侵入者を 睨め付ける。
不意に現れた獣に睨まれ、恐怖で身動きが出来なくなった二人だったが、ふんふんと鼻を鳴らして匂いを嗅ごうと狼の頭が動いたとたんに、二人の体がヒマワリ畑の中へと弾け飛んだ。
「ええ! 狼? あれ狼だよな。何でこんなところにいるんだよ!」
胸の内で叫びながら、五十嵐は無我夢中でヒマワリの茎と葉に体をあちこち打ち付けながら逃げ惑った。ヒマワリの大輪がその後をしつこく追う。
背後でがさがさとした音を耳にしたのと、五十嵐の体が地面に打ち付けられたのがほぼ同時だった。
「うわあ! 止めて! 助けて!」
うつ伏せのまま、手で頭を抱えて五十嵐が悲鳴に近い声で叫ぶ。
背中にずしりと重さを感じるが、それ以上のことは起こらない。
震えながら顔を上げると、目の前で狼が金色の瞳で五十嵐を見下ろしていた。
「おい、挨拶もなしでいきなり逃げるなんて、失礼な奴だな」
背中から太い足を退けながら、低いバリトンの声で狼が言った。
「…………」
驚きのあまり五十嵐が言葉を失っていると、さらに狼が続ける。
「きみを取って食おうなんて思っちゃいないよ。安心しな。きみの名は?」
「あ、あ、五十嵐健人と言います」
ドキドキしながら答えると、狼はニッコリした、ように見えた。
「そう、僕はダイチ。で、一緒にいた彼女の名は?」
「彼女は小池、小池敦子です」
五十嵐は目の前のダイチと名のる狼を、今だ信じられない思いで見つめる。
彼の体胴長は百八十センチ、体高は百センチ位ありそうで、かなり大型だ。
「さあ健人、敦子を捜すよ。立って」
五十嵐から離れると、ダイチはさっさと移動して歩道に出た。
小池はどうやら十メートル先に隠れているらしい。
ヒマワリの花がそれを教えてくれる。
ここではかくれんぼは成り立たない。
「敦子、そこにいるのは分かっているよ。出ておいで。何もしないから安心して」
小池が男性の声で名を呼ばれ、誰がいるのだろうと歩道に出てみれば、そこにいたのは大きな狼だったものだから、腰が抜けそうになった。
思わず逃げようとしたときに、狼の後ろに五十嵐がいて、手を振っているのに気が付いて目を丸くした。
「大丈夫だよ、小池さん。彼はダイチさん」
五十嵐は戸惑いながら、小池にダイチの紹介をした。




