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天鵞絨の吐息  作者: 空木白檀
第一章
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母を人質に

 一学期終了日は忙しいらしく、エドガーの帰宅は深夜に及んだ。


 明日は母の面会に行くことを伝えようとした桜井だったが、早朝に起こすのははばかれて、メモを残して声をかけることなく家を後にした。


 バスに揺られながら、昨日の奇妙な感覚を思い起こす。


 犬を連れた中年の女性が現れてから、桜井は呼吸が荒くなるのを感じ、体の奥深いところでウズウズするような、何かが発生しているような気味の悪さを覚えた。


『でも、感じの良いおばさんだったから、僕の思い過ごしだな』と、車窓からの黄色い景色をぼんやりと眺めた。


数十万本ものヒマワリが、こちらを向いて咲き誇っている。

見渡す限り黄色いカーペットは続き、桜井の鬱々とした気持ちが和らいでくる。


 これからのことを考えると、『今日の母さんの機嫌は良いかな? 看護師長がいなければいいな。それに院長とも会いませんように』とため息がでた。


 病院に着いて、五階のナースステーションに看護師長は見受けられなかったので、桜井はほっとして面会を申し出ると、思わぬ言葉が返ってきた。


「桜井さんは先日退院しましたよ」

 新人のナースが手を止めて、あきれ顔で答えた。


「え! いつですか?」

「四日前の月曜日ですね」


「どこに……いや、北村院長はいますか?」

『母さんを人質に取ると言うことは、こういうことなんだ! ああ、母さん、無事でいて』

 あまりのことで桜井の心臓はバクバクし、面談に来なかったことを悔やんだ。


「桜井さんの息子さんですね。来たら院長室に行くように言付かっています。場所はわかりますか? そう、では院長に連絡を入れますね」

 新人ナースは事務的に言って、院内電話を手にし、桜井は自分が院長の手中に落ちたことを悟った。



 目の前の院長は機嫌が良い。

にこやかに桜井を迎え、ソファーに座らせた。


「黙ったままでどうしたの? わたしに言うことがあるだろう?」

 マホガニーの机に頬杖をついて、医学雑誌をぺらぺらとめくっている。


「母は、今どこに?」

「…………」

「あの……、面談に来なくてすみませんでした。母は元気ですか?」


「わたしはね、きみが何の連絡もなく病院に来ないから、心配で実家に行ったんだよ。そうしたらきみはいないし、待てど暮らせど帰ってこない。きみこそ、今どこにいるのか聞きたいね」

 雑誌から桜井に視線を移すと、目を細めて凝視する。


「今は……、学校の先生の家にいます。ひとりで住むのは好ましくないと言われて……、院長! 母はどこ?」 


「お母さんは、わたしの家にいるよ。退院できるほど元気になったけれど、ひとりで実家に置くわけにいかないだろう。きみは行方をくらますしさ。わたしの家だったら、家政婦がお母さんの身の回りの世話をしてくれるからね」

 椅子の背に寄りかかり、腕を組んで答える。


 桜井は、院長が妙に機嫌が良いのが気にかかる。

『院長の家に行くのはまずいかもしれない。どうしよう』どうにかして院長宅に行かずに、母とここを出る方法を考える。


「院長、大変お世話になりました。タクシーを呼んでもらって、母と家に帰ります。秘書の方にタクシーを頼んでもらっていいですか?」

「そう、わかった。頼んでくるから、ちょっと待ってて。あと紅茶とケーキもね」


 院長が部屋からいなくなると、桜井はほっと安心して体から力が抜けた。

暫くしてから、院長自らケーキと紅茶の乗ったお盆を持って、部屋に入ってきた。


「ここのケーキ店は、ナースの間で人気なんだよ。暑いからドリンクは、アイスティーにしたけど」

 ニコニコしながら、桜井の前にケーキとドリンクを置く。


「ありがとうございます。美味しそう」

「さあ、タクシーが来る前に食べて」


 緊張も解けて、喉が渇いていた桜井は、アイスティーをいっきに飲み、ケーキを口にした。

冷たいドリンクも、甘いケーキも美味しかった。


「そろそろタクシーも到着するころだから、お母さんのところに行こうか」


 院長が地下道の扉を開けると、桜井は一瞬ひるんだが、院長の後に続いて地下道に入って行った。

地下道を歩いていると急に道がグネグネと曲がりだし、足腰から力が抜けうずくまった。


 そこで桜井の記憶は途切れた。

 地下道で意識のなくなった桜井を、院長は満足そうに見下ろしていた。


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