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『9』

『9』

 こんなところで会うとは思っていなかった。憎しみや怒りの感情が昇華し、会いたいと願っていた者。相対したその時は、その全てを一刀両断すると決めていた者。

 だが、今はそう思っていない。漏れ伝わる話が偽りであると確信している。

 きっと、亡き弟が引き合わせてくれたのだろう。そう、きっと運命に導かれ、会うべくして会ったのだ。

 ミーシャルールはそんなことを思いながら、少年らが眠る居室を訪れる前に、運命的な出会いを振り返った。

 あの時、荒れ狂う海原に小舟があり、人が乗っているようだと報告を受け、自身の目でもそれを確かめると、すぐに救出に向かうべく船員たちに指示を出した。小舟ごと収容するのは不可能で、誰かが向こうへ渡り、直接引き揚げなくてはならなかったが、その役目は当然、自身が担う考えだった。

 小舟に近付けるぎりぎりまで船を寄せ、限りなく不明な視界の中、長年の経験と勘を頼りに救出へと行動を起こした。先端に銛の付いた縄を小舟へと渡すことに成功すると、改めて小舟を凝視した。救うべき人間は二人おり、一度には無理だと判断を下すと、「二往復する」とだけ言い残し、ミーシャルールは小舟目掛けて飛んだ。

 実際には飛び移るわけではなく、特殊な手袋を嵌め、縄にぶら下がるようにして滑り下りたのだ。いかに縄の先端にある銛が小舟に突き刺さってるとはいえ、着地に用いれる場所は広くはない。滑り下りた勢いが止まらず、荒れ狂う海原に投げ出されれば、船旅の豊富な経験など、字義通り水泡に帰す可能性が高い。縄を握る力加減で滑り下りる速度を絶妙に調節しながら、ミーシャルールは小舟へと渡った。

 雨の幕で視界は悪いが、船上からより距離が近い分、姿形は捉えやすかった。やはり、漕ぎ手は二人。二人の姿形をさらに明らかにすべく、ミーシャルールは中腰の体勢で小舟の上を歩んだ。小舟でいうと後方の漕ぎ手、ミーシャルールから見て近い方の漕ぎ手の顔が判別できる距離まで近付いた。

 辛うじて意識を繋いでいる。そんな表情だったが、顔をより鮮明にすべく近付いた次の瞬間、ミーシャルールの身内に衝撃が走った。

 知っている顔だった。

 まだ十代後半の少年に見えるが、朦朧としている表情であっても際立つ美しさ。極めて稀有な美しさではあるが、身近にも感じられる美しさ。そして何よりも…。

 一瞬、動きの止まったミーシャルールだったが、「今は余計なことを考えるな」と自身に言い聞かせると少年へと寄り添い、それと同時に肩を抱えた。朦朧とし、不鮮明な意識の中にも、肩を抱えられた安堵感は生じたのだろう。少年は微かに笑ったように見えた。

 その後は、意識の消失と覚醒を交互にしながら、譫言のように同じ言葉を繰り返した。「ウルディングさんを助けてください」

 この少年の口からウルディングの名が出たことにも驚いたが、まだ若年の部類に入る者が自身の命も文字通り風前の灯という状況下で、他者を心配できる本能を備えていることに感嘆した。血の為せる業ーーなどと込み上げてくるものを鎮めながら、救出するための準備を進めた。

 しっかりと意識を保っていれば、少年は間違いなく後ろにいる男の救出を優先するよう主張しただろう。だが、ミーシャルールの判断は逆だった。この場で優先すべきは、この少年。

 一瞥して明らかな、年齢が若いからという理由だけではない。世界の未来において絶対的な存在になる可能性を秘めている。些か大袈裟な響きでも、ミーシャルールの中で、そんな予感が確実に芽生え、一方で憎しみや怒りの感情は悉く消失していた。


 目を覚ました少年はタランの姿を認め、その無事に安堵の微笑を浮かべたのも束の間、真顔に戻ると、「ウルディングさんは?」と、やや強い語気で発した。

 タランと顔を見合わせたミーシャルールは、その目が「あんたから説明してくれ」と要請していることを読み取り、無言で頷いた。

 「やあ、少年」そんな軽妙な語り口を端緒とし、ミーシャルールは説明を始めた。

 タランに話した内容と同じ内容を聞かせていくと、少年の表情には安堵が広がり、眼差しにも強さが宿っていった。

 「じゃあ、ウルディングさんは助かったんですね?」

 「ああ。今日は一晩ここに泊まってもらうが、明日にはウルディング爺さんのとこへ行けるよ。お前さん自身の目でも無事を確かめられる筈だ」

 「そう…ですか」

 「不服か?今すぐ会いに行きたいか?」

 「いえ。明日会えると分かっているならば、一日待つことくらい何でもありません」少年は穏やかに微笑を称えた。

 この歳で逸る自身を律することが出来ている。大したものだ、とミーシャルールは改めて感心した。

 「ところで…」少年の微笑が微苦笑に変わり、口籠った。

 ミーシャルールはすぐに合点がいった。

 「ああ、名前かい?俺はミーシャルール・ユウリ。お前さんの方は気にしないで大丈夫だ。記憶を無くしていることは、タランから聞いているよ。大変な思いをしてるなぁ。早く記憶が戻ると良いな」

 気休めではなく、本心でそう願った。記憶が戻ることで全てが始まっていく。芽生えた予感は、時と共に徐々に徐々に確信へと歩みを進めていた。

 「あなたが……あなたがミーシャルールさんでしたか」少年の表情に好奇の色が滲んでいる。

 「何だ、俺のことはウルディング爺さんから聞いていたか?」

 「はい」

 「爺さんめ、どんな悪口を吹き込んだ?」

 「悪口なんて、そんな。ランスオブ大聖堂を訪れた帰りに、唯一会えなかったあなたが、実は唯一会わせたかった人だと言っていました。僕の記憶が戻るきっかけになるかもしれないと」

 「ほう。ウルディング爺さんがそんなことを…」

 ウルディングが少年の正体に行きついているとは、ミーシャルールには思えなかった。恐らくランスオブ大聖堂の誰も、その正体に気付けなかっただろう。だが、十官の第一官まで務めた男だ。この少年が只者ではないと感づいていても何ら不思議はない。

 記憶を取り戻すきっかけを期待されているなら、その役目に注力してみようか。そんな思いでミーシャルールは少年との会話を続けた。

 「さて、お前さんは何者か。一体どこから来たのだろうな。ランスオブ大聖堂およびポリターノ諸島ではなさそうだとすると、バルマドリー皇国か、はたまた四つある王国のいずれか。この世界に皇国や王国があることは覚えているんだな?」

 「はい。世界には皇国のあるバルマドリー大陸をはじめ、五つの大陸があり、他の四つの大陸にはそれぞれ王国があります。王国は皇国の支配下にはありますが、相応の裁量権をもち、それぞれの特色を活かして繁栄しています」

 「その通りだな。ちなみに、ポリターノ諸島やランスオブ大聖堂のことは覚えていないのか?」

 「はい。今の僕の中には、その記憶はありません」

 「なるほどな。自身のこと以外でも覚えていないこともあるか。ただそれは、記憶を失っているのか、元々知識が無いのか、現時点では何とも言えんな」

 「そう…ですね」

 「皇国や王国を支配している者については、何か覚えているかい?」

 「皇国は神皇帝一族が、王国はそれぞれ王君一族が統治しているのではなかったかと」

 「ふむ」ミーシャルールは首肯した。

 そこまで覚えているのか。本当に自身のことだけが、すっぽりと抜け落ちてしまっているようだ。そんな考えを浮かべながら、ミーシャルールはさらに踏み込んだ。

 「皇国や王国が、現在どのような状況にあるかは分かるかい?」

 この質問には、これまで間を置かずに答えていた少年が初めて言い淀んだ。眉間にしわを寄せ、必死に記憶を探っているようだ。だが、その努力も報われなかった。

 「分かりません」少年は無念を表情に滲ませ、下唇を噛んで悔しさを表した。

 何故そこまで…と思いかけ、少年の正体を知っており、その為人を弟から聞かされていたミーシャルールは得心した。記憶は無くしていても、その性根は宿ったままなのだなーーそう思うと、長年探していたものを目の当たりにしたか如く、身内の底から歓喜が湧き上がってきた。

 この状態の少年にも話をしておくことが、後々において非常に大きな意味を持つと直感した。

 「少し語るが、皇国も王国も、まあここの大聖堂もそうだが、それぞれに決して少なくない問題、課題を抱えている。それはそのまま、神皇帝一族、王君一族が問題を抱えていることとも等しいと言えよう。そうなると、たまらんのは民だ。上が腐敗すると、その被害は下に及んでくる。下にいる者の善し悪しに関係なくな。下が上を支えられずに崩れれば、腐敗は瞬く間に拡大し、いずれ世界の全てを飲み込む。まさに世界の危機だ。そうなる前に、誰かが、誰かが皇国を、王国を、世界を、清浄へと導かねばならん。誰にでも出来ることではない。だが、誰もがそれを祈り願い、微力でも力を注ぐことが必要だ。そうしているうちに必ず先導者が現れる。その者の存在を信じて俺達は世界を周っているのだ」

 少年は聞き入っていた。記憶は無くしていようとも、身内に蟠踞する性根に直接響くことを祈った。その刺激が記憶を回復へと導く端緒となることを願った。

 少年の正体を知っている自身が、それを告げることは難しいことではない。だが、ミーシャルールはそうしようとは思わなかった。

 少年には自ら記憶を取り戻してほしい。その段階を踏むことで、この少年は一回り成長する。そんな確信がミーシャルールの中にあった。

 弟もきっと同じことをするだろうーー目を閉じてふと湧き上がった思いにつられ、目蓋の裏に弟の姿が浮かぶと、ミーシャルールは「俺には弟がいた」と口にしていた。

 「いた?」これには少年ではなくタランが反応した。

 ミーシャルールはタランの方を向くと、「ああ。今はもう死んだ」と事実を明かした。

 そして再び少年へと向き直り、その眼差しを受け止めてから続けた。

 「その弟も俺と同じ考えを持っていた。世界を周り求める俺とは異なり、奴は頂に近付き、そこに新たな兆しを求めた。或いは自ら育成しようとしていたのかもしれん。だが、求めているものは同じだった筈だ」

 「頂って?」とタラン。

 「神皇帝一族さ。だが、志半ばで死んでしまった。その無念を思うと、痛嘆の極みだ。だから俺は、弟の意志も受け継がねばならん。そんな必要ないよって言うに決まってる奴なんだが、それがせめてもの弟への餞、色々と面倒をかけた弟に、兄として出来る最後の弟孝行だと思っていたところだ。そんな俺を弟が導いてくれたのだろう。今日、俺は運命というものに触れたんだ」

 その運命とは、お前さんのことだーーと続けたくなる衝動を、ミーシャルールは辛うじて飲み下した。少年は好奇の色を滲ませたままの表情ではあったが、その運命が自身を指しているとは夢にも思っていないようだ。

 そしてまた記憶に関しても、このやり取りをきっかけに僅かでも好転したかのような兆しは見えない。そう簡単にはいかない、と痛感させられた。

 時間をかけても自身の力で記憶を取り戻してほしいという思いが基本的にはあるが、ここ数年来の探し物の解かもしれない者を前に、記憶の回復を逸る気持ちも確かに存在した。やはり、あの人に会わせるしかないかーーその美しい顔を思い浮かべながら、その美しさを常よりも少しだけ身近に感じたミーシャルールは、その要因が目の前にあることに気付くと、得心したように微笑んだ。


 船内の自室に戻ったミーシャルールは、大きく一つ息を吐くと、壁際の長椅子の中央に腰を下ろした。

 弟の話をしたからだろうか。或いは同じ年頃の少年を前に話をしたからだろうか。ミーシャルールは、あることを思い出していた。離れ離れになって十五年近くになる息子のことだ。

 離れ離れになってから今日まで、その姿を目にしたことは一度もない。世界を周る仕事をするようになってからも、意図的に息子の周辺だけは避けた。だが、どこで何をしているかは、その都度都度できちんと把握してきた。

 ミーシャルールは弟を介して、息子と共にあるために離れ離れの妻へ定期的に金を送っていたが、その度に妻からは手紙が送られてきた。その内容はほぼ全て、息子の近況報告に終始していた。妻の文字を目の当たりに出来、そして息子の近況を知ることが出来た手紙のおかげで、離れ離れの寂寞を多少は緩められた。

 また、妻と息子を家に残し、離れ離れになる決意を告げた時も、妻は何一つ文句も言わず、「あなたの思うがままに」と笑ってくれた。

 今は亡き妻への感謝は一言ではとても語り尽くせない。妻を思うと、今も胸のあたりにじわりと込み上げてくるものがある。

今も変わらず愛している。

 妻が死んだ後、今現在に至るまで息子の前に姿を現さずにいるのにも理由がある。

 「志に従い、思うがままに生きるのなら、志半ばで私達の前に姿を見せないでください」

 妻と交わした約束。その約束を違えるわけにはいかない。

 そして、志に到達した暁には、胸を張って息子に会いに行く。

 今の息子の顔を知らない。息子も父の顔を知らない。だが、会えばそれと気付く。自身も、息子も。家族とは、血の繋がりとはそういうものだと信じている。

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