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『7』

『7』

 死んだ気になれば、何だって出来るじゃろう。その域に達した己の未来を見てみたくはないかーー。

 かつて一度だけ聞いたウルディングの言葉が響き、それと共にタラン・バーズは覚醒した。見覚えのない天井だった。どうやら長床に寝かされているらしい。

 タランは記憶を探った。すぐに、まるで悪夢のような出来事が蘇り、慌てて上半身を起こすと、辺りを見回した。

 いたーー。

 溢れる安堵感で柔和になった眼差しの先、並ぶように置かれたもう一つの長床に少年は寝かされていた。微かに上下する胸の辺りが、少年もまた生きていることを伝えている。タランの安堵は、さらに増した。

 声をかけて起こそうかと思ったが、あまりに美しい少年の寝顔を見て、思いとどまった。

 再び自身の記憶を辿った。

 大荒れの海原で現在地を見失った。視界もほぼ奪われ、舟を転覆させぬようにただただ必死に耐える時が続いた。風雨に打たれ、身体は冷え切り、意識も朦朧としていった。

 死んだ気になれば何だってできるーーかつて、全てを喪い、全ての路が閉ざされた過酷な運命に翻弄され、海へと身を投げようとしていた自身を救ってくれたウルディングの言葉。心内に蟠踞し続けた恩人の言葉も消えかけ、生への諦めに支配され始めた。

 そしてあの瞬間、自身の前に背を向けて座っていた少年が振り返り、何かを口にしたように見えた。そこから先、タランの記憶は途切れている。

 一体どうやって助かったのだろう。ここは一体どこなのだろう。疑問の解を探すべく、タランは再び辺りを見回した。

 そこでふと気付いた。僅かではあるが、揺れている。よくよく観察すると、部屋全体が揺れていた。

 舟の中だ。タランはすぐに思い付いた。

 ランスオブ島で様々な品を仕入れ、それを舟でユジ島まで運び、島民たちに売る。それが現在のタランの仕事だった。日常的に舟に乗る者だからこそ、この短時間で解に至ったと言えよう。

 この規模の船室を備えた舟ならば、小型船ではない。船室の数にもよるが、この揺れから察するに、それなりの大型船だとタランは当たりを付けた。たまたま近くを航行していた大型船に発見されて救われた。そう考えるのが妥当だ。

 あの悪い視界の中で、よく発見してもらえたものだと、自身の僥倖に感謝の祈りを捧げたい気持ちになった時、ふと視界に入った少年の姿に、「いや、俺じゃないな。きっとこいつだ」と独りごちると、少年へ向かい手刀を切っていた。

 助かった過程に見当がつくと、ウルディングのことが脳裡に浮かんできた。真っ先に恩人のその後に思いを馳せられなかった自身を恥じたが、気にするなーーと笑ってくれるであろうウルディングの面影がタランの心をそっとほぐした。

 誰かに話を聞かなくては……そう思って長床から出ようとした瞬間、船室の扉が開いた。

 船室へと入室してきたのは、三十代後半くらいに見える男だった。銀色の短髪と日に焼けた肌が精悍さを表し、温かみを帯びているが、理の深淵その全てを見てきたような深い眼差しが強く印象に残る。

 「いやぁ、あの嵐の中で、よく舟を転覆させずにいたなぁ。素晴らしい」

 小舟での荒天時の航行に叱責や怪訝を示すのではなく、称賛の言葉を贈られ、タランは戸惑い、語を継げなかった。そんなタランの戸惑いなどお構いなしで、男は続けた。

 「隣の…少年もそろそろ目を覚ますだろう。あんた、腹は減ってないか?何か温かいものでも持ってこよう。そうそう、あんたらの乗っていた舟は収容できなかった。今頃、海の底だろうな。すまん。だがまあ、あんたらが海の底に行っちまわなくて良かった良かった」

 畳み掛けるとは、こういうことを指すのだろう。相手に返答させる隙すら与えなかったが、不思議と心地は悪くなかった。

 そんな心地良さが気持ちも緩め、タランは「あんた、何も咎めないんだな?」と、訊いていた。

 「咎める?誰を?何を?」心底分からないという態で、男は質問に質問を重ねた。

 「いや、だから…あんな荒天時に小舟で海に出ていたこととか……」

 「それ程のことだったんだろ」

 打って変わって男の表情には真剣味が帯びていた。その変化にタランの鼓動は一つ跳ね、それがウルディングの面影を再び運んできた。

 「そうだ!実は知り合いの爺さんが…」

 「分かっている。ウルディングの爺さんだろ?」大事を告げようとするタランを制した男の言葉は想定外だった。

 「えっ?」と言ったきり瞬きを繰り返すだけのタランに、温かい眼差しを向けた男は、「もう大丈夫だ」と断言した。

 さらに、「同船していた医師と俺とで診に行った。そのまま医師が爺さんの家に残った。落ち着くまで傍にいるって言ってたから、奴がこの船に戻ってきた時には爺さんも元気になってる筈だ。俺はつい今し方、戻ってきたところだ。天気も嘘みたいに回復しているよ」と続けた。

 「何故、ウルディング爺さんのことを…?」

 当然の疑問が口をついた。それには即答せず、男は徐にタランから視線を外した。タランも、その視線の先を追った。果たしてその先には、まだ眠ったままの少年がいた。

 「こいつが……」

 「そう。この少年さ。救出した時、途切れ途切れになる意識の中で、何度もウルディングさんを助けてくれって繰り返していた。自分も死の淵にあるってのに他人の心配ばかり繰り返すもんだから、さすがに俺も胸を打たれてね。まあ、ウルディング爺さんとも知らぬ間柄じゃないしな」

 誇らしげに語る男の姿に、タランの身内にも嬉しさが込み上げていた。「そう…だったのか」

 「ああ。やはり大した男だったよ」

 「まったくだ」

 タランは改めて少年を見た。まだ十代であるのは間違いない。だが、意図せずとも他者を巻き込んでいく力を備えている。魅力と言い換えてもいいその力を備えるのに年齢は関係ないのだと思っていると、「名前を訊いてもいいかな?」と男が訊ねてきた。

 「いや実は、こいつは記憶を失っているらしく、自分の名前も思い出せないらしいんだ」

 その言葉に、男は微かに怪訝な表情を浮かべたが、次の瞬間、豪快に笑い声を挙げた。その姿にタランが戸惑っていると、男は「すまん、すまん」と繰り返した後、「少年のは大丈夫だ。そうじゃなくて、あんたの名前だ」

 「こいつはいけねえ。忘れてたな。タランだ。タラン・バーズだ」

 「タランか。俺はミーシャルール・ユウリ」

 名を告げ合った二人はどちらからともなく手を差し出し、握手を交わした。その時、まるで機を見計らったように少年が目を覚ました。

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