『14』
『14』
その存在は当然知っていたが、実際に足を踏み入れるのは初めてだった。ゴンコアデール院。神皇帝一族を頂に冠して皇国を統治している皇宮の中枢を担う者たちを数多く輩出している、全世界で最も秀れた育成機関と言えよう。
神皇帝あるいはその一族だけで、皇国の政や軍事の全てを掌握し、推し進めるには限度がある。もちろん、神皇帝を筆頭に一族の意向は何よりも優先されるが、全ての事柄に関わりを持とうとする神皇帝や一族の者は少なく、ある程度の裁量を与えられた幹部たちが決定権を持つ分野も少なくない。
現在、そうした幹部の大半もゴンコアデール院出身者が占めている。神皇帝皇子の側仕として皇宮にあるクリスタナは、幹部たちの仕事を目の当たりにしてきたが、犀利で尤物な者の多さに舌を巻くことも度々だった。
逸材を次々と生み出すゴンコアデール院の威容を前に、クリスタナの中に奮い立つものは確かにあったが、臆する気持ちは無かった。そこは、齢二十にして既に皇国内で五指に数えられる武を誇る猛者の面目躍如である。
近しい者にいたために、極めて稀有な存在であることを見誤りそうになるが、一人で全てを兼ね備えた天賦の才は、それこそ奇跡のような確率でしか人に宿らない。ならば、自身が得手とする箇所を錬磨し進捗させていくことも大いなる意味を持つ。それで自身の周囲に十二分に貢献できることをクリスタナは知っており、得意とする武を磨き続けてきた結果が今であると自負している。
クリスタナは、ゴンコアデール院の正門から堂々とした足取りで、院内へ入った。ゴンコアデール院はちょうど昼休憩時のようで、院内のあちこちに院生の姿を見て取れた。談笑している者、一人で書を読んでいる者、複数人で武具の稽古に精を出している者たち、中には庭掃除や窓拭きなどに勤しんでいる者もある。自身より若干年少である彼らが未来の幹部候補かと思うと、真っ直ぐ逞しく成長してほしいと願った。
そうした院生の一人を捕まえ、事務方のいる部屋の場所を聞いた。的確な説明だったため、クリスタナは迷うことなく、事務方のいる部屋へ辿り着いた。
扉を開ける前に、一つ深呼吸をした。自身の推察が、果たしてどこまで立つか。その土台ともいうべき見立て。
あの日、オッゾントールの使者を騙り、ハーネスの許を訪ねてきた者は、偽物の院生。変更された待ち合わせ場所のシュバンツ礼拝堂は、オッゾントール側にもデルソフィア側にも同様に伝えられたが、待ち合わせ時間は微妙にずらしていた筈だ。デルソフィア及びハーネスを第一発見者にするつもりだったのだろう。そこには、第一発見者が疑われるという側面も考慮されている気がする。
偽物の院生をハーネスが本物だと信じた要因は、本物の院証を提示されたからだ。偽物が本物の院証を持っていたということは、偽造したか、或いは本物の院生から盗み出したか。
仮に盗み出したのだとすれば、被害に遭った院生が訴え出ている可能性がある。それを確かめに、ここへ来たのだ。
クリスタナは扉を開け、事務方が居並ぶ部屋へ足を踏み入れた。室内には六人の事務方がいた。突然入室してきた見知らぬ男に、六人は揃って怪訝な表情を浮かべ、推し量るような視線を向けてきた。
「クリスタナ・ジェズスといいます。お訊ねしたいことがありまして、皇宮より参りました」
クリスタナが自身の素性を語ると、6人の怪訝な表情は緩んだ。手前に座る女の二人は微笑を浮かべてもくれた。それでもクリスタナは、神皇帝皇子の側仕であることは伏せた。だが、無駄だった。
「皇宮のクリスタナって、あのクリスタナさん?」手前に座る女の一人が、微笑を興味津々な表情に変えて訊いてきた。
「あの、とは?」
「あぁ、ごめんなさい。院長…前院長がよく話されてました。ジェレンティーナ皇子の側仕にクリスタナという男がいるが、武の力量は凄まじく、いずれ皇国一の武人になるだろうって」
「オッゾントールさんが、そんなことを…」
素直に嬉しかった。天才と呼ばれていた男からの高評価がではなく、友人だと思っていた男がきちんと自身を見ていてくれたことを改めて思い知らされたからだ。
大丈夫、お前の推察は間違っていないー-そう背中を押された気がして、クリスタナは院証の件を切り出した。クリスタナの話に反応を示したのは、手前に座るもう一人の女だった。
「確かに、その時期に院証の紛失を申し出てきた院生がいました。あの事件があって、とても落ち着かない日々でしたが、それ故によく覚えているのかもしれません」
やはり、そうか。推察の土台は構築できた。次は、当事者の院生を教えてもらい、詳細を訊こう。そう思った矢先、同じ女がさらに続けた。
「ただ、しばらくしてから、院証は見つかりました。たまたま拾ったと届けてくれた者がいたのです」
「えっ、それは誰が?」思わず声が大きくなった。
クリスタナの勢いに女は驚いて肩を上下させたが、それで失念してしまうことはなかったようだ。
「同じ院生です。ロビージオ・マクマンという名で、今は最上級のプレミアに属しています」
ロビージオという院生は、案外簡単に見つけられた。どうやら院内ではなかなかの有名人らしく、訊ね歩いた二人目で、その居所が知れた。
ロビージオは院内の裏庭と呼ばれる場所で、長椅子に腰を下ろし、隣に座る女と眼前に立つ女との三人で談笑していた。三人に近づく中で、談笑とは言えないかもしれない、クリスタナはそう思った。笑ったり話しをしているのは二人の女ばかりで、当のロビージオはあまり表情に変化が無く、無表情といってもよかった。
近づいてくる者の存在に最初に気が付いたのもロビージオだった。ロビージオに釣られて隣の女が視線を向け、次いで立っている女が振り返った。
「君がロビージオかい?」
クリスタナが問うと、ロビージオは立ち上がってから頷いた。無言だった。
「あなた、誰?」
代わりに訊いてきたのは隣に座っていた女だった。どうやらこちらは立つ気がないらしい。見知らぬ者への警戒感も窺える眼差しを向けてくる。クリスタナは苦笑しながら、素性を明かした。
「俺はクリスタナ・ジェズス。皇宮から来た者だ」
皇宮と聞いて、女二人の表情が変わった。警戒感は薄れ、羨望に似た色が滲む。だが、ロビージオだけはここでも表情を変えなかった。
ロビージオと相対したクリスタナは、不意に湧き上がってきた感情に困惑した。それは、眼前の年少者を厭悪する気持ちだったからだ。
彼の何が?
彼のどこが?
解は導けなかった。だからといって、このまま無言でいるわけにはいかない。推察を推し進めるため、「訊きたいことがある」と口にし、半歩分ロビージオに近付いた。
「以前、君が届け出たゴンコアデール院の院証のことなんだが…」そこでロビージオの表情を窺ったが、無表情は変わらなかった。クリスタナはそのまま続けた。
「どこで手にした?」敢えて、拾ったという文言は使わなかった。
「家から院に向かう道中で拾いました。院証には名が記されており、当該の者が落としたと考えるのが妥当であり、その日のうちに事務方へ届けました。当該の者に直接届けることも考えましたが、生憎と私はその院生と面識がなかったので」
淡々とした口調だったが、言っていることは筋が通っており、説得力もあった。具体的な場所を問うクリスタナに、ロビージオは再び淡々と答えたが、その答えも理路整然としていた。これが全て嘘、創作であるならば、なかなかの役者だが、そう断ずる証は見出せなかった。
「分かった。ありがとう」
礼を言って、その場を離れた。一度だけ振り返ってみたが、ロビージオは長椅子に腰を下ろしていた。こちらには一瞥も寄越さず、再び女二人との会話に戻っていた。一度だけ立っている女が振り返ったので、クリスタナは会釈を返した。
クリスタナは院の正門近くまで戻ると、そこに設置されている長椅子の一つに腰を下ろした。ロビージオの話が真実ならば、落ちていたという院証は、用済みになったことで暗殺者或いは協力者が捨てたものだろう。処分せずにそうしたのも、うっかり落としたものを誰かが拾って届けるという一連の流れは、十分に起こり得ると判断したからだ。
この線だけで辿っていくことが難しくなったと、クリスタナは理解していた。
次は院証を紛失したという院生に話しを聞こう--そう思い再び事務方のいる部屋を訪れるべく腰を上げた時だった。前方で手招きしている者の姿が目に入った。
その者の正体はすぐ知れた。つい先刻、ロビージオと語らっていた二人のうちの一人で、彼と向き合うように立っていた女だ。別れ際に一度、クリスタナの方を振り返った女でもある。
クリスタナが歩み出すと、女も歩き出した。この距離を保ったまま付いて来い--と語っている背中を追った。
女はそのまま建物の中に入った。クリスタナも続いた。一定の距離を保ちながら、しばらく建物内を歩いた後、女は徐に一つの部屋へ入った。随分と慎重だなと思ったが、クリスタナもそれに倣い、辺りに注意を払ってから入室した。
室内には誰もいなかった。この部屋の使途はクリスタナには不明だが、慎重を期す眼前の女が選んだ部屋なら、この後も入室してくる者はいないとの見立てなのだろう。
そんなクリスタナの心を察知したかのように女は、「ここは普段、講義などには使われない部屋です」とした上で、「だからといって誰も入ってこないという保証はできません。鍵もかからないですし。なので、用件だけを話します」と続けた。クリスタナは首肯することで返事とした。
「私はパラ・ニルヴァといいます。ロビージオと同じプレミアに属しています」
急いでいる中でも自己紹介という礼儀を失することのない姿勢に、この者もまた将来の幹部候補なのだと、その資質をクリスタナは高く評価した。クリスタナは再び首肯することで、先を促した。
「単刀直入に言います。先刻、ロビージオはあなたに嘘を語りました」
「嘘?」
「はい。院証の件ですが、たまたま拾ったというのは嘘だと思います」
「何故、そう思う?」
「見たんです」
「何を?」
「ロビージオが、女性から院証を受け取っているのを」
「それは、いつ?」
「前院長が殺害された少し後です」
「なるほど」
ロビージオと共にいた者が、わざわざ後を追ってまで告げる話はロビージオに関することだろうと思っていたが、これは想定を超える話だった。
何故、ロビージオは嘘を吐いたのか。それは、真実に触れられたくないから。そして、真実が内包する疚しさのようなものを感じ取ったからではないか。
「君は、ロビージオにそのことを訊ねてみたのかい?」
「いえ、何となく訊きそびれてしまって。それに、その女性がロビージオの前に現れてから、ロビージオは変わりました。上手く説明できないのですが、気持ちとか感情のようなものが少しずつ削ぎ取られていってるみたいで。一緒に話したり過ごしていても、心ここにあらずな態だったり…」そう言ってパラは俯いた。
仄かな恋心--それをクリスタナは感じ取ったが、もちろん今は触れない。
「その女のことなんだが…」
「はい。見覚えのある女性でした」
「そうなのか?!」声が大きくなったが、パラは特段驚いた様子を見せなかった。
「はい。以前、ロビージオが意識を失った状態の女性を抱き抱えて、院内の医務室を訪れたことがありました。たまたま医務室にいた私と、先刻も一緒にいたキズンが介抱しました。その女性でした」
「ロビージオがその女を抱き抱えて医務室まで運んできた経緯は?」
パラは当時を回想するように右上に視線を向けた。「確か、院の正門のところで突然倒れたと言っていました。ただ、その女性は院生ではありませんでした。素性が分からないまま、三人で目が覚めるまで待つつもりだったんですが、その後に起きた変事で目を離している間に、いなくなってしまったんです」
「変事?」
「前院長が殺害されたという報告が院にも届いたのです」
「あの日のことなのか?」クリスタナの鼓動が一つ跳ねた。核心への接近を自覚する。
「はい。それと、他にも気になることがあったんですけど…」
「それは?」
「前院長の殺害とは関係ないと思うんですが、その女性の介抱、濡れた服を着替えさせたりしたのは私とキズンでした。その際に、微かですけど血の匂いがしました」
「血の匂い…」呟くような言葉が洩れた。
無関係などではない。その女が、オッゾントール殺害の犯人だ。クリスタナは直感し た。
一連のロビージオの行動は、その女に利用されているが故のものだ。また、ジェレンティーナの推察が正しいとするならば、その女と神皇帝は繋がっている。さらに、オッゾントールに当日の待ち合わせ変更を告げに来た者が顔見知りとするならば、それは顔見知りの女ということになる。
誰だ?
一体、誰なんだ?
「その女の特徴とか、何か覚えていることはないか?」胸の高鳴りと相まって口調が早くなった。
パラは少し思案した後、女の特徴を語った。それは微に入り細にわたる描写ではなかったが、クリスタナには充分だった。
オッゾントールの顔見知りの女で、かつ自らも知悉している者の特徴と一致する。みるみるうちにクリスタナの表情が歪んでいった。驚愕よりも痛嘆ともいうべき色が濃く滲む。
「何故なんだ……」
零れ出た思いはその語尾が掠れ、室内に溶け込むように消えていった。




