『11』
『11』
荒れに荒れた天候から打って変わり、空はどこまでも澄んだ青を称えていた。太陽は頂に近づく途上にあり、豊富な陽射しが室内に注ぎ込んでいる。
目を覚ましたウルディングの視界に、真っ先に入ったのは面識のない男だった。
「気が付きましたか。良かった。もう大丈夫でしょう」
男は柔和な笑みを浮かべ、それに負けないくらい穏やかに話しかけてきた。白衣を纏っている。医師のようだ。
男が医師であると認識すると同時に、ウルディングの追憶の扉が開いた。
日課とする朝の散歩に出た。いつもと同じ道程を、いつもと同じように歩いた。常と変わらない自身の朝の過ごし方だった。
異変があったのは道程の中間地点を折り返してすぐだったと記憶している。突如、頭に激しい痛みを覚えると、右半身に痺れが走り、息苦しくなった。蹲り、歯を食い縛り、痛みをやり過ごそうとした。
ややあって、痛みや痺れは治まり始めた。だが、記憶があるのはそこまでだった。どうやら、その後に意識を失ったらしい。
記憶が無いのなら訊ねるしかない。
「儂は、どれくらい気を失っていたのじゃろうか?」
「ちょうど、まる一日ですよ」
「まる一日……」
思ったより短かった。ということは一日の間に、倒れているウルディングを見つけ、ここへ運び込み、医師のいないユジ島から医師のいるランスオブ島まで渡り、医師を連れてここまで戻ってきたというのか。それを担った者の顔が浮かんだ。
「自身の記憶も失っているというのに…」思わず独りごちると、心内に込み上げてくるものがあった。
同時に上半身を起こして室内を見回したが、目当ての者は見当たらなかった。医師に訊ねようとした矢先、「まだ無理をしてはいけません」という言葉が飛び、長床に横になるように促された。
それに従うと、続いて真顔となった医師からの説明が始まった。救ってもらった手前、それを無下に遮り、自身の欲求を満たすような真似はできない。ウルディングは逸る気持ちを抑え、医師の話に耳を傾けた。
「頭の中にある、血が流れる管が少し詰まりかけていたようです。幸い、程度は軽いもので、また、発症した当日のうちに私が診ることができました。血の流れを良くする薬草を煎じ、一定間隔で複数回服用させました。
今後、症状は改善に向かっていくでしょう。ただ、程度は軽かったとはいえ、発見が遅れる、或いは医師に罹るのが遅れていれば、もっと重篤な結果を招いたかもしれません。本当に良かった」医師は再び柔和な笑みを浮かべた。
ここでようやくウルディングは訊きたいことを口にした。
「少年は?儂と一緒に少年がいた筈なんじゃが…。恐らく、儂を発見し、ここまで運び、あんたを呼びに行ったのも、その少年じゃと思うんじゃが…」
「はい、無事ですよ」
「無事?」
医師の返答が意味するところが分からず、鸚鵡返しで訊いていた。
医師はウルディングの質問にも得心した顔で頷き、「そうですね。きちんと説明しておいた方が良いですね」と、柔和な笑みを崩さず返した。
「無事」という言葉と医師の穏やかな表情が交錯し、さしものウルディングも混乱を来した。先を促す意思表示で再び上半身を起こしかけたが、医師に制された。
「私が知る限り」と前置きした上で、医師は話し始めた。
長床に横になりながら医師の話を聞いていたウルディングは、込み上げてくるものを抑えるため、何度も強く目を瞑ることになった。話し終えた医師は、ウルディングからの言葉を待つように黙っていた。ウルディングもまた言葉を発することが出来ずに沈黙したが、心内には幾つもの想いが溢れた。
自身に関する記憶を失っても絶望することなく、むしろ恬然とし、従容とした態でいた。
日に日に前向きとなり、最近は凛乎とした佇まいに、はっとさせられる時もあった。
歳相応の好奇の感情も持ち合わせ、教えや指導を請うた際にはきちんと謝意を示し、得た知識には喜びを隠さなかった。
渇いた心を再び潤すような刺激を齎す一方で、共にありたいという感情を抱かせ、全て上手くいくと安堵させる器の深さ・大きさがあった。
畢竟、只者ではないという結論に至るが、当初ほど、その正体を明らかにしたいという気持ちは希薄になっていた。ただ、少年自身のために記憶が蘇ってほしいと願っている。
「心だけでなく、身体……いや、命までもか…。感謝しかないのう」
そう呟いた次の瞬間、家の扉を外から叩く音がした。




