『10』
『10』
セルジーン・マッツァニルが政大将軍の職を更迭されて約一月が経過していた。更迭の理由は、心神喪失により是非善悪を弁別する能力を欠いたこととされた。
自室に篭り、何かに怯えて常に「怖い、怖い」と譫言のように繰り返す様は尋常な姿ではなかった。心神喪失の程度は公にはされていなかったが、セルジーンが常軌を逸した状態にあることは、次第に皇宮内、そして皇国街へと漏れ伝わっていった。
多くの皇国民は、政大将軍の激務に耐えかねて心を病んだと憐憫の情を催したが、同時に権力者、成功者であるセルジーンの没落に欣喜雀躍する者もあった。この心貧しき行為の背景には、貧富の差による暮らし全般、さらには出生や死亡における格差の拡大が蟠踞しており、健全な生活環境から皇国が少しずつ逸脱してきている証左とも言えた。
また本来、政大将軍まで務めたセルジーンの不調を知れば、病状ゆえに面会は難しくとも、見舞いに訪れる者が後を絶たない状況が想定されるも、そうした者がほぼ皆無である現状には、さらに上にある者の意向が関与していることが示唆された。
程なくして、セルジーンの身は皇宮からも退去させられ、皇国街の北のはずれにあるこじんまりとした一軒家に移された。共した者はたった二人という寂しさであった。
クリスタナは、今回の一連の出来事に、神皇帝フガーリオが何かしら関与しているというジェレンティーナの推察を、疑念の一切を自力で排除し鵜呑みにした。主がそう考えるならば、側仕である自身は他の誰よりもそれを信じるまでだ。そう強く思い、愚直に行動へ移した。
とはいっても、神皇帝に直接問い質すなど夢のまた夢で、そこに近しい者達に話を聞くことも至難を極めた。微小な疑念を一つ抱かれ、それが神皇帝の耳に届き逆鱗に触れれば、神皇帝皇子側仕という職など、いとも容易く葬られてしまう。従ってクリスタナは、遙か遠くの外堀から少しずつ埋めていくような途方もない行動に終始した。
そもそも、一連の出来事の発端とも言えるオッゾントール殺害に神皇帝が関与する理由は何か。
オッゾントールは、神皇帝自らが招聘した相談役を務めていた。二人のやり取りを直接聞いたことはないが、オッゾントールのあの性格である。相談や話し合いの中で贅言を重ねたことも考えられる。
だが、皇国随一の天才と称された男に、真に越えてはいけない一線への分別が備わっていない筈がない。すると、何ら意図せずに発言した言葉が、神皇帝を嚇怒させたか、或いは神皇帝の秘中の秘に触れたか。
「秘中の秘か…」
声に出してみると、急速に真理である気がしてきた。確証は無く、勘のようなものだったが、妙に身内でしっくりと収まる感がある。
クリスタナは、この勘のようなものに従ってみようと決めた。それが導いている先、ゴンコアデール院へ足を向けた。
ジェレンティーナは、最近のクリスタナが一人で何かしらの行動を起こしていることを知っていた。
デルソフィア及びハーネスの消息について、クリスタナの中にも希望と諦めが混在しているのは間違いないだろうが、それらは今現在、どのような塩梅であるのだろうか。こうした状況下では本来、日を追うごとに希望は薄れて諦めの色が濃くなるものだが、そうした様子は、クリスタナからは窺えない。希望一辺倒で身内を満たせるわけでもなく、諦めと希望の狭間で激しく揺れざるを得ない中でも、自身に芯を通して進むクリスタナに、ジェレンティーナは改めて腕っぷしだけではない真なる強さを感じた。
無理や無茶を続ければ、身体だけでなく心も疲弊し苦痛を抱えるが、無理や無茶をするべき時、それが必要な時が人生にはある。無理や無茶に耐え、貫く信念が路を拓くこともある。
実弟の消息に確たるものを得られぬまま、暗く打ち沈んでいた日々を重ねた。希望一辺倒に心内を転換できるわけもない。それでも立ち上がり、希望と諦めの狭間で揺れる態でも歩み出す。クリスタナが示す真なる強さに触発された面は否めないが、主従である前に親友であることが前面に来るクリスタナならば、それも構わない。
そして何よりも、デルソフィアがあれだけ必死になったオッゾントール殺害の真犯人を突き止めたいという想いは、他の誰でもない自身が引き継がなければならない。使命感と共にジェレンティーナは再び立ち上がった。クリスタナとは別に一人で行動を起こした。
皇子という身分に加え、何かにつけて目立つ存在である。デルソフィアに続き、ジェレンティーナがオッゾントール殺害の犯人を探り始めたという噂は、瞬く間に皇宮内へも広まった。
デルソフィアにも当て嵌まるが、自身の皇宮内における存在の大きさに、ジェレンティーナもまた、当人であるが故にその意識が希薄だと言えた。皇宮内に噂が広まるということは、その関与を自らが推察した神皇帝フガーリオの耳にも届く可能性が極めて高いということになるが、ジェレンティーナもまた、それを意識することは無かった。
クリスタナが側にあれば、一言告げるだけでジェレンティーナの意識を促すことができた筈だが、別行動を取ることも多くなっていた現状において、このやり取りは行われていなかった。行動を起こしてから数日の後、ジェレンティーナの周囲には、絶妙な距離感をもって追随する一つの影があった。
皇宮内の神皇帝の居室には、抜け道が存在した。抜け道の存在を知る者はごく僅かに限られ、実際に通ったことのある者となると、神皇帝を除けば、ほぼ皆無だった。
この抜け道は、皇宮の遙か地下へと通じた。そこは皇宮の地下三階よりも遙か下方に位置し、神皇帝の居室とは正反対の質素でこじんまりとした居室となっていた。室内には木製の机が一つと、上座と下座にそれぞれ椅子が一つずつ備えられているだけだった。
権力の頂にある者は孤独であることが多い。第十一代神皇帝のパドゥーバ・デフィーキルが、皇国の、世界の行く末を、一人で思案するために極秘で造らせたと伝わっている。以降、歴代の神皇帝とその周囲のごく限られた者にだけ伝わり、現在に至る。権力の頂にある者が地下に潜るといった皮肉が、地下室の存在を永らく秘匿し得た一面もあるだろう。
この抜け道を今、神皇帝ではない者が歩いていた。黒装束を纏い、仮面を付けた短身痩躯な姿形は、闇に溶け込んでいる。足下も覚束ないような暗闇の中を、灯りも持たずに歩めることが、この者が備える尋常ではない能力を物語っていた。
黒装束は地下室の前まで来ると、何ら合図もせず扉に手を掛けた。重厚な扉が不快な軋み音と共に開き、室内が露わになった。
そこには、現神皇帝のフガーリオが一人で椅子に座っていた。上座には座っていたものの、神皇帝を待たせ、かつ来訪の合図すらなく室内へ入ってくる無礼を、この者に対してフガーリオが許していることが、ニ人の関係における特異性を示していた。
黒装束は、フガーリオの向かい側の椅子に座った。ほぼ無音で進行する所作が不気味さを増長していた。
「仮面は取らぬのか?他には誰もおらぬぞ」フガーリオの重低音が室内に谺した。
これに黒装束は何の言葉も返さず、微かに口元を歪めた。そんな反応もフガーリオが咎めることはなかった。
「ここで会うのはニ度目か。他に気付かれぬためとはいえ、あのような僅かな合図によく気付けるものだ。まあ、お前が皇宮内にいることが多いからこそ可能であるとも言えるがな」
「次は、誰だ?」
黒装束が初めて発した言葉は短く、どこか現実離れした響きがあった。
「ふっ、余計な言葉を交わす気はないか。それで良い。言葉数の多い暗殺者に信など置けそうにないからな」
傲岸不遜な笑みを称え、続けて黒装束の名を口にしようとしたフガーリオは、一瞬口籠った。仕切り直すように下唇をひと舐めすると、「ニチェンテ・フルナブル……、その姿の時はそう呼ぶのだったな。フルナブル族の末裔よ」と口にし、新たな者の名を告げた。
深夜、常であれば既に就寝している時間だったが、ウィジュリナは起きていた。相変わらずデルソフィアの消息に対する思いが、心内の大半を占めていたが、ここ数日、もう一つ気になることがあった。まだ、誰にも話しておらず、自身の心内だけで自問自答を繰り返していた。
以前のウィジュリナなら、戸惑いや悩みの類はすぐに側仕のスカーレット、或いは実兄のジェレンティーナなどに打ち明けていた。そうしていない点が、クリスタナが評するウィジュリナの変化・成長であろう。
窓際に歩み寄ったウィジュリナは、高くて形の良い鼻に触れた。それは無意識の所作だった。ウィジュリナが気になっていること、それはある者から微かに漂った匂いのことだった。




