9話・幸せのはじまり(後日譚最終話)
◇
「事前に連絡をいただければ、もっと腕によりをかけたディナーが用意できましたものを。質素で申し訳ございません」
「十分豪華なディナーだ」
「ええ。とてもおいしいわ」
メインダイニングで悲しそうに頭を下げる料理長に、フィンは優しく言葉をかけシェイラもにこりと微笑んだ。
あの後、雷雨に見舞われた一行は丘から十数分で着く別邸に辿り着いた。
別邸といっても、ここはかつて城として使われていたこともある場所だ。石造りの外壁に守られ、貴族の館とは比べ物にならないほど大きい。常にたくさんの使用人が常駐し、いつでも使える状態になっている。
「それにしても。私が転移魔法の魔法陣を描くと言ったでしょう? 明日は休日ではないのに。ここに泊まっていくだなんて」
「いいじゃないか。この別邸は、女王・アレクシアが少女の頃に長期休暇で滞在していた場所だろう」
フィンの言葉に、シェイラは唇を少しだけ尖らせた。
雷雨は数時間で止んだ。けれど、この別邸に来て思うところがあったらしいフィンは、ここで一晩過ごすことに決めてしまったのだ。
(私だって……少し浮かれているわ。だってここはクラウスと過ごした場所だもの。だけど……)
純粋に、突然の旅行として楽しんでいいのか戸惑うシェイラに、食事を終えたフィンが悪戯っぽく笑いかけてくる。
「この後、一緒にライブラリーに行かないか」
フィンからの誘いに、さっきまでの躊躇はふっとんだ。シェイラは瞳を輝かせて答える。
「行く! 行くわ、もちろん!」
この広い館には、南の端にライブラリーが備わっている。当然、一般的な貴族の家にあるものと全く違う大きさだ。
100年以上前、前世でまだ少女だった頃のアレクシアは、長期休暇でこの館に来る度にライブラリーへ入り浸っていた。
「寝るときはベッドで寝てください」と小言をいうクラウスを引っ張り出して、朝までここで過ごしたこともある。
この別邸のライブラリーは、たくさんの思い出が詰まった大切な場所なのだ。
「すごいわ。あの頃と、全然変わっていない」
ライブラリーに一歩足を踏み入れたシェイラは、目を輝かせた。
壁一面に収納された本たちと、ドーム型の丸い天井。細長い作りのこのライブラリーは突き当りがガラス張りのガーデンルームになっていて、ここから庭に出ることも可能だ。通路の中央には、長椅子や大きめのソファがたくさん配置されている。
夜なので照明は落とされていて、ソファの周りにスタンドタイプの灯りが置かれていた。
「……ふかふかの、大きなソファが増えている気がするわ?」
「100年も経てばな。……昔、ここに入り浸って夜を明かしたお転婆な王女がいたと申し送りがされていたのかもしれないな」
きょろきょろと周囲を見回した後、懐かしい思い出にシェイラとフィンは顔を見合わせてくすくすと微笑んだ。
「……そういえば、これには何が入っている?」
さっき、ライブラリーへ来る前に侍女のアビーから手渡されたバスケットをフィンが掲げる。
「……飲み物と、軽食と、ブランケットですって」
(そういえば、あのカタログも入っているわ……)
客間に置いてこなかったことを後悔しつつ、シェイラはバスケットを受け取ってフィンからなるべく離れた場所に置いた。これの蓋をあけるのは、自分だけにしておきたい。
それから、一番大きなソファに腰を下ろす。優に、二人は寝転がれそうな特大ソファである。
フィンも一緒に座れるように半分は空けておいたのだけれど。彼はそのすぐそばの床に座り込んでしまった。
「絨毯が敷かれているけれど、そこは固くて冷たいわ。私の隣へ」
「いや。何となくここがいい気がして」
その言葉に、シェイラは思い出す。
(そういえば、前世では同じ椅子に座るなんてこと、なかった)
フィンも彼なりに思い出に浸っているのだろう。シェイラは無理に座れと促すのをやめにした。本を開き、目を落とす。
「……何だこれは?」
どれぐらい時間が経ったのだろう。不思議そうなフィンの声に顔を上げると、彼も本を読んでいる様子だった。
(フィンは優秀だけれど……ライブラリーに来れば、彼にも知らないことがあるのね……)
そんなことを思いながら彼の手もとを覗き込むと。
そのページには、布面積少なめのナイトドレスが並んでいた。――とはいっても、デコルテが隠れているうえに、丈も膝上ぐらいのものだけれど。
間違いなく、サラのカタログである。
「かっ……か、返して!」
慌ててフィンの手もとからカタログを奪還しようとする。けれど、ひょいとカタログを持ち上げられてしまって、シェイラはフィンを睨んだ。
「あ、悪い。反射的に、つい」
「これ! サラ様のなの。お返ししないといけないから、返して」
「やはりそうか。飲み物を取ろうとしてバスケットを開けたらこの本が見えた」
「そう。サラ様のなの!」
顔を真っ赤にして念押しするシェイラに、フィンは後宮でどんなやりとりがあったのか察したらしい。優しく笑ってカタログを返してくれた。
「……後宮の皆は、本当に仲が良くていいな」
「ええ。……でも、こういうドレスを見て驚かないの?」
「……この立場だろう? 縁談の催促は、手段を選ばないえげつないものもあったからな。全部うまくかわしたつもりだが」
「……」
(とっても気になるけれど……詳しくは聞かないことにするわ。聞いても、悲しくなるだけだもの)
前世、アレクシアにだって求婚してくる男性は大勢いた。しかも、クラウスの目の前で権力を振りかざして。
クラウスはそれを見ても、表情を変えることはなかった。
(きっと、あの頃のクラウスは今の私と同じ気持ちだった)
お互いの想いを掬い上げることができなかったあの頃。今ならいつだって、と思うけれど。
そうしているうちにソファの反対側が沈んで、フィンの声が近くで響いた。いつのまにか、彼は床からシェイラの隣に座り直していた。
「……そういえば、“シェイラ”はフォックス男爵家のサイモンと婚約をしていたと聞いたな」
「名ばかりのものよ。婚約破棄される瞬間まで、婚約していたことすら知らなかったわ」
「前世ですら……君は誰とも婚約をしていなかったのに」
少し嫉妬を帯びた声に、シェイラはふぅと息を吐く。
「……前世でも、好きな人がいたから」
「その相手は、君よりもずっと君のことを想っていたな。縁談が持ち込まれるたびに、冷静に振る舞いながら心の奥底は悲惨な状態だったかもしれない」
「……そうなの?」
初めて聞く『クラウス』の心情に、シェイラは思わず顔を上げた。あのポーカーフェイスの裏に、そんな感情が隠されていたなんて。
「……ああ」
「心を渡さなくても罪悪感のない相手との縁談があったら受けていたかもしれない。でも、あの時受けなくてよかった、って今心から思ったわ」
「君は優しいからな。もし結婚していたら、絆されていたんじゃないか?」
今日のフィンは、何だか執拗な気がする。懐かしい想い出が残る別邸のライブラリーというこの場所が、そうさせているのかもしれない。
けれど、なんだか自分の気持ちを疑われているようにも思えて、シェイラは声を落とす。
「そんなことないわ。……もういいでしょう?」
すると、自分の後頭部にフィンの手が回ってきた。そばにあるスタンドライトの橙色に照らされた彼の顔は、しまった、というように困惑している。
「……酷いことを言った。すまない」
「いいえ、いいの。これはあの頃できなかった会話だから。フィンもずっと引っかかっていたんでしょう?」
「違う。これはただの、嫉妬だ」
と同時に、ソファがさらに沈んでフィンからの口づけが降ってくる。昼間に、唇の端を舐められたのとは様子が違う、心のこもったキスだった。
「ねえ」
一瞬、唇が離れた。急なことに息が整わず「待って」と告げようとするシェイラに、フィンは唇に息がかかる距離で熱っぽく言った。
「今は、誰も見てない」
きっと昼間のことを言っているのだろう。違うそうではない、シェイラはそう言いたかったけれど。
記憶の隅に微かに残る本の匂いと、薄暗い明かりと、フィンから向けられる想いの熱さに。今日はもう、身を任せることにしたのだった。
◇
それから数週間が経った。
王宮内の端、普段はあまり使われない応接室で、シェイラ・フィンとキャンベル伯爵家の面々は同じテーブルを囲んでいた。二人の結婚にかかわる顔合わせのためである。
「先日、サイモンが関わっているフォックス商会への営業許可が取り消されたところだ。フォックス男爵家には、その他複数の犯罪行為への疑いもある。正妃を出す家の品位を保つため、縁を切って欲しい」
きっぱりと言い放つフィンに、シェイラの父親が汗をかきながら頭を下げる。
「も、もちろんでございます。この度は心配をおかけして本当に申し訳ございません」
「今後、彼女にかかわることも遠慮してほしい。今回のキャンベル伯爵家への措置は寛大な対応を、というシェイラの意思を特に強く反映させたものだ。そのことを肝に銘じてくれ」
「陛下……!」「母上、事の重大さがわからないのなら黙っていてください」
フィンの言葉に継母が何か言おうとしたのを、長兄ルークが緊迫感を持って窘める。
(ルークお兄様も目を覚ましたみたいでよかったわ。お父様は頼りないしお母様は論外だけれど、これでキャンベル伯爵家はきっと大丈夫)
そして、シェイラの真向かいには義姉・ローラがぽかんとした顔で座っていた。視線は、シェイラの後ろの壁に向いている。
その隣の席についているジョージは、ローラをちらちらと横目で見ながら笑いを耐えている様子だった。
「話はこれでお終いだ」
フィンの言葉を皮切りに、キャンベル伯爵家の面々が椅子から立ち上がり別れの挨拶をしてサロンを退出していく。
継母ですら「陛下はお話すればローラの方がいいとわかってくださる」「いいから早く出るんだ」そんなやりとりをしながら、兄や父親に引きずられて出て行った。
けれど、最後まで部屋を出ようとしなかったのがローラである。
「ローラお姉様、皆お部屋を出て行かれましたわ」
「いいのよ。もう少しだけ、ここに」
シェイラの声掛けに上の空で応じるローラの視線の先には、大きな一枚の絵が飾られていた。
その絵は、この前王宮内の倉庫を片付けていたときに出てきたものだった。
この絵を甚く気に入ったフィンが執務室に飾ろうとしたのを、シェイラが本気で怒って引き留め、結果あまり使われることのないこの応接室に置かれることになったのだけれど。
じいっ、とその絵に見入るローラを眺めて、シェイラは顔を引き攣らせため息をついた。
謁見の間で手を差し出して佇む高貴で可憐な王女と、その前に跪く少年騎士。
前世で描かれ、あの襲撃の夜と長い年月を乗り越えて倉庫でずっと眠っていたその絵は、間違いなくアレクシアとクラウスを描いたものである。
「これ……アレクシア様よね……素敵だわ……」
(何も言わないでおこう)
恍惚とした表情のローラを、シェイラは何ともいえない思いで見つめる。
「あ! ローラ、まだこんなところに! 帰るぞ」
「嫌よ! もう少しだけ」
「いいから。……シェイラ。俺はまた来るな。商会のこととか、いろいろ」
「ええ。ジョージお兄様」
ジョージがローラを引きずって消えた後で。厳しい表情をしていたフィンがぷはっと噴き出す。ずっと笑いを堪えていたらしい。
「……あれは、面白いな?」
「ええ。いつか、私の知らないところで気付いてくれたらもっと面白いわ。これがローラお姉様への報いと思うことにしたの」
「王女のそういうところが好きだ」
悪戯っぽく言いながら、絵の前でフィンはシェイラに跪く。
シェイラも微笑んで手を差し出した。
100年前とは違う、幸せで満ち足りた感情の中に身を置きながら。





