40話・最終話
午前中の条約調印式は無事に終わったらしい。
シェイラは、カーテンを間仕切りに使いサロンの一角に設けられた小部屋で一人、紅茶を飲んでいた。
(見返りのおまけ、って。このシチュエーションからして、ろくなことではない気がするわ)
このカーテンは分厚いけれど、端には隙間がある。これから行われる二人の懇談の内容はきっと丸聞こえになるだろう。
(それよりも、早く会いたい。きっと彼は私の寿命にかかっていた契約が解けたばかりだと誤解しているだろうけれど)
そもそも、前世での心残りが『好きな人に想いを伝えたかった、あの日キスをした瞬間に契約は解けた』と素直に打ち明けられるのだろうか、という不安にも襲われる。
(情けないけれど……難しいような……だって恥ずかしくて絶対に無理……。何と言っても、彼は私の心残りが世界平和だったと疑いなく思うぐらいにアレクシアのことを神聖化しているのよ。もう……なぜあの日に勢いで言えなかったのかしら)
考えるだけで耳まで真っ赤に染まったのが分かる。
(無理、これは本当に無理)
頭を抱えているうちに、カーテンの向こう側に人の気配がした。
「!」
入ってきたのは、フィンとアルバートの二人である。ケネスもアルバートの側近もいない。プリエゼーダ王国とゼベダは、今日から友好国である。その二国の、年齢の近い国王と王太子が懇談をするのに人払いをするのは決して不自然ではなかった。
(最後に会った夜よりも、少しだけ顔色が悪い気がする)
きっと、疲れているのだろう。一歩でも、すぐにでも、近くに行きたい。けれど、アルバートが言う『おまけ』も少しだけ気になるところだった。
「今朝は転移魔法を使い、何か所の経由を?」
「今日は四か所です」
「ああ、前回の私もそうでした。しかし今日からは友好国です。国境間と王都入り口の、二か所だけにできましょう」
「それは楽しみだ」
二人は、当たり障りのない会話をしている。外交の域を出ない、形式的な会話にホッとしたシェイラが安堵の息を吐きかけたとき。アルバートが、いきなり本題に入った。
「シェイラ様に、結婚の申し込みをいたしました」
(……!)
吐きかけた息を呑みこんで、シェイラは息を止める。
「……そうですか」
けれど、フィンは動揺を見せない。
「フィン陛下とシェイラ様は正式な婚約を交わされていないようですね。でしたら、私にもチャンスがあるのではと」
「いいえ。今世でも口約束はしていますし、一番初めの約束は119年前に」
「陛下の前世が、アレクシア様の側近であったクラウス様だということは聞いています。つまりそれは前世でのお話ということですか。シェイラ様はそうはお思いではないようでしたが」
(119年前……心当たりがないわ)
カーテンのこちら側で、シェイラは両頬を押さえたまま青くなる。けれど、フィンがアルバートの追及をかわすために嘘を言っているようにはどうしても思えない。
「王女自身はそう思っていないかもしれませんが……クラウス・ダーヴィト・ワーグナーが王女アレクシアの専属護衛騎士に任命されたのは14歳のときでした。本音を明かすと、私はそれを拒絶したかった。けれど、後日王女は言ったのです。一生、ずっと隣にいるように、と」
「……それは、確かに結婚の約束と言っていい」
納得したようなアルバートの声が聞こえて、シェイラは叫びたくなった。
(119年前って、あのわがままのこと……! でも、我ながら酷いわ……絶対に相手が断れない立場でそんなことを言うなんて)
偶然にも一か月前、霧に飲まれた日。シェイラは王城裏の森でその日のことを思い出していた。
専属護衛騎士に任命されたことに不満を漏らすクラウスに対し、アレクシアが答えた『ずっと隣にいなさい』。なぜかその後の彼の表情が見られなかったのは、それだけの空気があったということなのだろう。
その頃のアレクシアは、自分がクラウスに抱いている独占欲が恋だとはまだ気がついていなかった。それを知るのは数年後、彼に家柄の良い令嬢方との縁談が持ち込まれるようになってからである。
自分の恋心には気がつかず、一生側にいてほしい、と求婚にしか思えない我儘をいうアレクシアの側に、クラウスはずっといてくれた。侯爵家の嫡男として求められたであろう家と自身の名誉には目もくれずにである。
当然、アレクシアが自分が彼に持つ感情は特別なものだと気がついてからも、クラウスはずっと適切な距離を保ってくれていた。あとは、知る通りだった。
(それなのに。転生した後、彼はその時のことをこの上ない幸福感を持ったと私に話してくれた。)
(あの時間をやりなおしたい……全部、結婚の約束の上にあったのだとしたら。もっともっと、彼に見返りをあげたかった)
衝撃の事実に混乱するシェイラの耳に、さらに驚くような話題が飛び込んでくる。
「ところで、私は今朝彼女に精霊との契約を解いていただきました。契約が解けたことがどうやったら分かるのか不安でしたが、彼女が教えてくださった通りでした。胸の奥でカチッ、と音がすると」
(……!)
「……それは彼女が自分で?」
フィンの声は落ち着いているけれど、さっきまでよりも早口になっていて、明らかに動揺が感じられた。
それはそうだろう。フィンの中で、シェイラの寿命に関わる契約は今日昼前に条約に調印した瞬間に解けたはずだったのだから。
「ええ。そうですよね? シェイラ様」
(え)
その瞬間、薄暗かったはずの小部屋が一気に明るくなった。
「……王女」
フィンが立ち上がる。その瞬間に、シェイラはやっとアルバートが間仕切りのカーテンを開けたのだと理解した。
「あとはお二人で。少し誤解があるようですから」
部屋を出て行こうとしたアルバートだったが、思い出したようにシェイラに向き直る。そして、手に軽くキスを落としながら言う。
「シェイラ様。私は、貴女の幸せを願っています」
(この方は、どうしてこんなに)
「……アルバート殿下。ありがとうございます」
シェイラは、そう答えるのが精一杯だった。思いがけない『おまけ』の内容は、見返りをくれた彼自身の心を踏みにじるものだった。
(ここで泣いてはアルバート殿下に失礼だわ)
奥歯を噛みしめて何とか微笑むシェイラを数秒見つめた後、アルバートは満足げに部屋を出て行ったのだった。
アルバートが出て行き、二人きりになったサロンでフィンはシェイラを抱きしめる。
「君が、他の男のために泣いているのを見るのは気持ちがいいものではないな」
もっと近くに行きたくて、シェイラはフィンの胸に顔をうずめながら言う。
「……元気だったかとか待たせてごめんとか、ほかに言うことはないの。一か月ぶりよ?」
「すまない。まさか寿命が動き出しているとは思わなかったんだ。驚きの方が大きかった。気遣いの言葉が遅れたな。……大丈夫だったか? 心配した」
まるで取ってつけたような言葉に、シェイラは笑う。
「こんなことがなければ、私は本当のことを言えなかったかもしれないわ。アルバート殿下に感謝しなきゃ」
「どういうことかはほぼ理解した。正直に言って、今ものすごくうれしい。でも一度、君の口から聞いておきたい」
さっきまでカーテンの後ろで『無理』を連呼し頭を抱えていたシェイラは、絶望的な気持ちになる。
「それは……無理よ?」
「王女は、俺に求婚したことを理解していなかっただろう? 酷いと思わないか。その時の気持ちを、あらゆる意味で分かるか。まだ14歳だったんだぞ、俺は」
「……!」
あまりにも逃げ場のない正論に、シェイラは固まった。けれど、久しぶりに覗くフィンの瞳は優しさに溢れていて。少し疲れたように見える顔と相まって、少しでも報いたいと思った。
「私の心残りは、」
「心残りは?」
はっきり言うと決めたものの、いちいちフィンが繰り返すので、シェイラの頬はますます熱を持っていく。
(恥ずかしい。けれど、今でないともう一生言えない気がする)
タイミングを逃すと想いを伝える言葉をすんなり口にするのが難しいことを、シェイラはこの数か月でよく知っていた。覚悟を決めて顔を上げ、震える声で告げる。
「私はただ、あなたとキスがしたかったの」
シェイラの言葉に、フィンの金色と紺碧の瞳が揺れる。そして、こつんと額同士がぶつかった。
「……想像以上だった、これは」





