【1000文字小説】 桜の木の下で
『私を忘れないで』
俺は夜が好きだった。
深夜にこっそり親が寝たのを確認して外に出る。
そこに人はいない。まるでこの世界に自分しかいないような感覚だ。
ぶらぶらと歩きまわる。やがて踏んでいる地面はアスファルトから土へと変わる。土の上にはポツポツと桜の花びらが落ちていた。
久しぶりに空を見上げる。それはもう見事な桜が咲いていた。
どうやら知らない公園まで歩いてきてしまったらしい。
「何してるの?」
前に女の子がいた。
「桜を見ているんだ」
「そう、私もよ」
俺と女の子の間にはかなりの距離があった。まるでそこに川でも通っているかのような距離である。
しばらく桜を見る。桜は風に吹かれて時折、綺麗な花吹雪を見せてくれた。
女の子も今は俺と同じように桜を見ているのだろう。
いつもは自分しかいない世界。しかし不思議と女の子の存在は不快ではなかった。むしろなんだか心地が良かった。
「あなたはよくここに来るの?」
不意に女の子がそんなことを聞いてくる。
「いや、初めてだ」
「そう」
返事はそっけない。だが続きがあった。
「私は何度もここに来ているの。何度も、何度も。」
「それは羨ましい。俺ももう少し早く来たかったよ」
「あなたはこれからどうするの?」
「そうだな。そろそろ家に帰るよ、もうすぐ夜が明ける」
すると、女の子は少しだけ目を丸くする。ほんの少しだけだ。意識しなければ気づかないほど。
あれ?
いつの間に俺は女の子を見ていた。思えば人をじっくり見るなんていつぶりだろうか。
「あなたは家に帰るのね」
「ああ、親にばれてしまう」
「だったらもう行きなさい」
「あ、ああ、分かったよ」
少し冷たかった。まあ、そうだ。他人なんてそんなものだろう。
俺は桜に背を向けて歩き出す。
「なあ」
しかし、なんだか胸騒ぎがして思わず声を出た。
俺は振り返って女の子を見る。
「俺たち、また、会えるよな?」
女の子の表情は遠くて見えない。
長いような短いような間を開けて、女の子は言った。
「そう、ね。きっとまた会えるわ」
今までよりも強い風がビューっと吹く。
俺は再び背を向ける。
桜の木が風に揺れ、葉同士が擦れ合う音が聞こえる。
まるで手を振り、お別れを言うかのように。
もう一度振り返ろうとして、やめた。
今度は前を向いて歩き出した。
誤字やおかしい部分があったら教えてください。ぺこり。