夜3
「ほら、逃げない」
「ちくしょう」
虎視眈々と脱走の機会を狙うスグリは、その度にやんわりと翁に阻止されていた。これから食われるかもしれないのに逃げ出そうとしない人なんていないだろう。
どう転がってもスグリは被食者なのだ。いざとなったら抵抗せずに逃げるしかない。
「おや、」
「へぶっ」
目的の扉を目の前にしたとき、翁は唐突に止まった。ぼんやりとしながら次はどうやって逃げようかと考えていたスグリは気が付かず翁に思いっきりぶつかった。
翁はスグリを振り返ると、新しいおもちゃを見つけた子供のようにはしゃいだ声で言った……が、スグリにとって問題なのは紡がれた言葉だ。
「スグリ、良かったね。客人が既に一人いるよ」
「全くよかないわよ。邪魔にしかならないと思うから、私はここで帰らせて頂きます~」
スグリはありのままの気持ちを吐いた。客人なんてそんなこと、塵芥埃にも望んでいない。スグリは逃げないよう掴まれた腕を振りほどき、今日何度行ったのか分からない回れ右をした。
こんな事になるなら、貰うもの貰って、逃げ足早くとっとと帰ればよかったのだ。
「うぐっ」
スグリは振り向きざま、思いっきり壁に顔をぶつけた。何を隠そう、先ほどまで……何ならつい数秒前まで歩いてきたはずの道がない。本来道があるべき場所にこんにちはしていたのは壁だった。岩肌剥き出しの壁。冷たく固い触感のそれはどう考えても岩であり、壁であった。
スグリは今日二個目のたんこぶをさすり、思わず浮いてきた涙を拭った。
──こんなの、あんまりではないか。
いったい、今までの人生でスグリが何をしたって言うのか。
「性格が悪いわよ!」
「だって仕方ないだろう? 君がことごとく逃げ出そうとするから」
「こちとら賢者様から死ぬほど脅されて育ってきたのよ? 怯えない理由が見当たらなくってよ!」
翁の表情こそ見えないものの、肩が小刻みに揺れているので色々察する。羞恥と屈辱、はたまたそれ以外でなのか。スグリは己の顔に血が上っているのをしかと感じた。
その時、きぃって音がして目的だった扉が唐突に開かれた。奥の部屋の灯りがなだれ込み、一気に薄暗かった道が明るくなる。スグリの視界は一瞬真っ白になった。少しずつ目を開けて、明るさに慣れようとした時、宙に浮かんでいる二つの猫目と眼があってしまった。
黄色の猫目と少し見つめ合った後、
「お化け」
スグリは綺麗に気絶した。気絶する寸前にスグリが思ったことは、今日は厄日決定ということ。何でこんな短時間で苛め抜かれなければならないのか。
ゾッとするほど冷たい目をして、お化けは言った。
「翁、何です。その失礼な鼠は。今夜の晩御飯ですか」
今は蒼というストッパーがいない。今すぐ凍り付いてしまいそうなほどの明確な不機嫌を隠さないのは瑠雨。その視線の先には一匹の気絶した白い鼠がいた。
瑠雨に柔らかいまなざしを向けると、翁はそっとくたりとした鼠を持ち上げた。心臓が早鐘を打っているのが手にありありと伝わる。
「驚きすぎて人型を保てなくなったのか。ちょっと待っておくれ、瑠雨。そっちに行くから」
「コーヒー、入れなおしておきましたよ」
翁にそう返答した瑠雨の声は柔らかくなってはいたものの、その眼光は殺意をはらんで鋭いままだった。
「うん、ありがとう」
一枚板のテーブルを挟んで、二人は椅子に座った。翁は清潔な布の上に鼠を寝かせると、瑠雨から遠ざける様にテーブルの端に置く。
静かにコーヒーに口を付けてはいるものの、不機嫌そうにリズムを刻む瑠雨の指の先では氷の結晶がちらついていた。翁がいるから手を出さないだけであって、今この場に翁がいなかったら瑠雨はイラつきに任せてスグリを喰っただろう。
無言が続いた。時計の歯車が懸命に動く音が微かに感じられ、衣擦れ音が今だとばかりに静かに空間を支配する。ことりとコーヒーカップを置く音が響き、結晶の生成音が宙を駆けた。
瑠雨が少し落ち着いたころ合いを見計らって、翁はコーヒーを飲み干した。そして静かに倒れたままの鼠を見て、瑠雨に視線を向ける。
慎重に止まっていた空気を動かし始めた。
「賢者様、って言って分かるかい?」
「そりゃもちろん、直接会ったことはあんまないですけど」
──あぁ、なるほど。
「それは最近賢者様が、暇つぶしに飼い始めたっていう非常食ですか」
瑠雨に説明なんぞ要らない。軽く誘導してやれば、直ぐに答えを導く。
「とっとと起きて人の姿に戻ってくれないと困ります」
瑠雨は少し不愉快そうにスグリを見た。
「さっきまで白夜も一緒にいたんですけど、白樹の所へ寄ってから来ると言っていたので蒼のことも呼ぶように頼みました。戻ってくるまで何とかしてもらえないと白夜が死にます」
「それもそうだね」
翁はおっとりと言った。
今、この場にいない白夜は大の鼠嫌いだ。白夜の過去のことを思えばそれも仕方の無いことなのだが。恐らくテーブルの上で鼠がすやすや眠っている現場を見られたら手の付けようが無いくらいに暴れるだろう。
瑠雨は呆れたように短く息を吐き出した。
「それで? 賢者様の所に良くいるのは、こいつではない方ですよね」
瑠雨は白鼠を思い出しながら言った。
白鼠。前からちょくちょく存在は感じていたが、ここ最近特に先のことがあってからことさら踏み込んでくるようになった。
蒼やローリエ達に度々接触していると聞くあたり、瑠雨の事は故意に避けているようだが。それ程のことが分かるのなら、鼠の区別などつかなくても分かる。
目の前にいるのは白鼠では無い。別の何かだ。
「今日捕まえられたのがいっぴ……彼女だけだったからね。聞いた話、この子は君たちのことを〝人喰い蝶〟だと脅されて育ったんだとか」
「────はっ」
〝人喰い蝶〟
瑠雨は笑った。賢者様のことだから、からかっているだけなのだろう。だが皮肉なことに言いえて妙で、否定はできない。瑠雨も先程二、三人程白夜達と食べてきたところだ。愉快痛快不愉快なことにそれは、瑠雨達という存在を的確に表した言葉なのかもしれない。
「あまり脅さないであげてね」
翁はここで来て初めて釘を刺すように言った。だが、瑠雨は反抗的な態度を崩さない。
「それはそれ、これはこれです。人の顔見て失礼なこと言った挙句、気絶する方が悪いんですよ。まだ僕は死んでませんし」
「こらこら」
「知ったこっちゃないですね。ま、幸いなことに僕はそこら辺の区別はちゃんとしてるので安心してください」
それに、と瑠雨は続けた。
「一番の暴れん坊は今日来ないですから」
曖昧に翁は微笑んだ。純粋な強さだけで言ったら、抜きん出ていると自他ともに認める〈蝶〉がいる。普段は枷が付いていて、実力を垣間見ることもなかなか無いのだが。
こいつは幸運だ、と瑠雨は鼠を見た。もしこの場にいるのが瑠雨ではなく彼女だったのなら、主の止める間もなくそれは鼠を呑み込んだだろう。
瑠雨達は捕食者だ。被食者はその身を晒したのならなら、常に捕食者の機嫌を取ることを考えなければならない。──鼠ことスグリの場合は翁に無理やり晒されたのだが。抵抗? そんな事は許されない。まぁ、スグリの場合、華麗な気絶をキメた時点で、無抵抗になるしかないという哀れな末路が待っている。
「そう言えば、」
翁は瑠雨の話を遮った。スグリが意識を戻し始めている。これ以上、この話を続けるのは可哀想だ。スグリの反応を見る限り、賢者様に思ったよりも脅されている様だし、その態度でこれ以上瑠雨が刺激されるのも避けたかった。
鉱物を少し差し出しながら、翁は言った。
「少し前に雪斗と朱里が来たよ」
少し落ち着いたとはいえ、かなり殺気立っていた瑠雨の目元が少し和らいだ。
「おや……二人そろって、こことは珍しいですね。おおかた口喧嘩でもしに来たんでしょうけど」
瑠璃色を食む。
朱里と雪斗の二人は昔からお互い衝突していた。お互いどこか通ずるものがあって、組ませた時の相性は最高なのだが何せ思考回路がまるっと違う。似て非なると言うよりは〝非なりて似る〟とでも言おうか。喧嘩するほど仲がいいを体現している二人でもある。
「当たり。ついでに紅も姿を現してたけど、これまた不機嫌でね。雪斗は腕を取られかけていたよ」
「雪斗に何か手を出したら僕が直々に相手します」
そう言う瑠雨の眼は本気だ。強さでは紅に負けるが、瑠雨の得意なところは戦闘ではない。ねじ伏せる方法などいくらでもある。
そんな瑠雨を翁は少し安心したように見た。
──昔から何も変わっていない。まるで時が止まったように。
「相変らず特に雪斗に対しては瑠雨も過保護だね。白夜のこと、言えないんじゃないのかな」
「……そりゃ僕にとって弟みたいなものですから」
「弟みたいじゃなくて、最早弟だろう」
翁は優しく目を細めると言った。本人達は気がついていないのかもしれないが、瑠雨と雪斗は良く似ていた。最適解を直ぐに導く論理的な思考回路、面倒見が良いところ、広く深い知識。瑠雨の背中を雪斗がずっと見て育ったというのもあるのだろうが……それだけでは言えない何かがある。
照れているのか瑠雨は顔を下に向けた。
不意に翁は話題を変えた。
「リゼちゃんもだいぶ落ち着いたと聞いたよ」
──この短期間で。
翁の言いたいことを察した瑠雨は顔を上げた。
「元々素質があった、で済ますのが一番楽なんですけど。残念なことにそれは無理です」
「瑠雨はどう見てるんだい?」
「……何となく考えていたのは、色んなことがありすぎて無意識に〝諦め〟をしていると言う仮説だったんですけど」
リゼがこの短期間で虐め抜かれたことは言うまでもない。新たに作られた赤ん坊な人格のリゼ、兄弟を亡くし、紫晶庭に閉じ込められて昏睡。紫晶庭の中でも平穏な日々は過ごせなかったらしく、ダメ押しと言わんばかりに〈蝶使い〉にさせられた。
あまりに波乱万丈すぎる。なのにあの落ち着き具合。あまりに不気味だ。
その為、瑠雨はリゼが喋るだけのお人形さんになってしまったのではないか、精神を何かに喰われたのではないかとそんな仮説を立てていた。ローリエに聞かれたらぶっ飛ばされそうな話である。
瑠雨は冷めたコーヒーを飲んだ。
「……それは無さそうでした。ただの人形があんな表情豊かに笑えるはずがないです」
白鳩夫婦を頭と肩に乗せて、箱庭を見学するリゼの目は凄くキラキラとしていた。あれが人形な筈がない、その時瑠雨はそう確信したのだ。
次の言葉を切り出す時、瑠雨の目付きが険しくなった。
「リゼは記憶の取捨選択を行ったんじゃないか、そう考えています。アポトーシスと呼ばれるそれみたいに」
〝アポトーシス〟
細胞が自殺すること。主の体をより良くする為に細胞が自分で死ぬことを選択する。白血病は簡単に言えば、細胞がバグり、アポトーシスが起こりまくって発症してしまう病気だ。
瑠雨はリゼの場合、細胞ではなく記憶が自殺、もしくはそれに近い何かが起きたのではないかと考えている。
「思い出の小瓶を使ったんじゃないかと」
「えぇ、翡翠も良く使っていますし可能性としては零ではありません」
ただ、
「翡翠が使わせるとはさすがに思えないんですよね」
瑠雨はどこか自嘲気味に笑った。有り得ない可能性を示唆する。
「──だから、影で誰か手助けしたんじゃないかと今は考えてます」
気づけば翁も険しい顔をしていた。瑠雨の言葉を否定も肯定もせずに翁は問うた。
「蒼は」
瑠雨は雨色を指で弄んだ。答えるまでもない質問だ。
「蒼もどうせ同じ意見でしょう。蒼と後でちゃんと話しますけど。あぁ、犯人探しはちゃんとしますよ。邪魔者だったら即排除します」
瑠雨の冷たい言葉が空気を貫いた。そしてどこを見るでもなかった黄色の猫目がついと一箇所を指す。
「……うっ、」
暫く気絶していたスグリが目を覚ました。
「ようやくお目覚めですか」
瑠雨の目は翁に窘められたとは言え、あくまで冷たいままだった。
スグリの赤眼と瑠雨の猫目がバチりと交差した。
「────疑っておいでですか」
どこか遠く、近く、高く、瑠雨と蒼の手が届かないところ。
凛と響く歌声は、夜の闇で悪戯をしていた。




