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誰が為の黄昏  作者: あめ
【3章】 空を見上げ
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夜2


「邪魔よ。避けて」


 高いヒール音を響かせながら、短く整えられた銀髪を持つ少女は吐き捨てた。その双眸はいっそ美しいくらいに紅く、唇もまた赤く染められていた。薄手で赤のドレスに身を纏いと縹色のショールは白い肌を更に際立たせていた。胸元で揺れるネックレスは、今はショールで隠されている。

 お人形さんの様に整えられたその顔は、見るもの全てを圧倒していた。


「おいおい、お嬢。こんな真正面から来るなんていったいどうしたんだよ」

「うるさいわね。通しなさい」


 苛立たしげに指を動かしながら、少女は僅かに作られた隙間を通り抜けた。髪は後ろに軽く舞い、ドレスの裾はヒラヒラと踊っている。


 薬、犯罪の香りが漂うその区域にわざわざ入ろうとする者など、殆ど居ない。コンクリートの壁は不良共がペンキで描き、書いた残骸で溢れかえっている。地面は塵芥、酸化した血で彩られており、至る箇所に何かの骨が散乱していた。割れたガラスは言わずもがな。

 少女が道を選んでいるからまだ良いものの、踏む場所を一歩間違えれば死神が足を掴む。手ぐすね引いて、今か今かと待ち侘びている死神が。間違えてはならない。それは天から伸びる糸では決してない。

 少女は蝶や鼠の死骸を避けることなく、躊躇うことなく踏み潰しながら歩いていた。蜂の死骸は踏まない。刺されたりしたら嫌だから。


 少女の視界の隅にようやく探しものが見えた。────大きな酒樽。トタンに隠されているように存在しているそれに、気が付く者はまずいないだろう。

 その酒樽の近くに秘密の扉があるという事実を知る人は、そこまで多くない。


 少女は扉の前まで来ると、ネックレスを外した。胸元でずっと揺れていたのは、くすんだ金のコイン。表には狼が、裏には何かを運ぶ鼠の姿が描かれている。側面は読めない単語が置かれている。少女はくるくるりと指で弄ぶと、それを大事そうに握りしめた。


 こん こん、と少女は白く長い指の関節で扉を叩いた。間を置かずに名を小声で名乗ると、直ぐに扉が開かれた。カラン、と場に似つかわしくない軽やかな音が響いき、埃が舞った。


「おや、珍しい」


 開けたのは一人の老人。少女がその隙間に身を滑らせると、老人は音無く扉を閉めた。薄いショールをぱさりと脱ぎ捨てると少女は周りを見渡した。ここに最後に来たのはいつだっただろうか。随分久しぶりな気がする。ざっと五、六年ぶりくらいか。

 少女と老人がいるのは兎穴入口に続く道。決して高くない天井には、所狭しと薬草らしきものが吊るされている。道を静かに照らす光源は一つのランプだ。この暗い道の唯一の灯り。

 はっと息を吐くと、場所に似合わず新鮮な空気が静かに動いた。


「久しぶりね。今回は賢者様のパシリよ。思い出の小瓶があと数年で切れるから貰ってこいと」


 人使いが荒い、と少女は愚痴を呟いた。老人──(おう)の後を追い、歩く。


「話は聞いているよ。まさか君が来るとは思わなかったけれどね」

「本当ならあの子に頼むつもりだったのよ。けど今、全員出払っていていなかったし」


 少女は動くたびに裾が揺れるスカートを抑えた。さすがに服を間違えたかもしれない。久しぶりにこの姿になったからと、調子に乗ったのが迂闊だった。


「それはお疲れさま。ゆっくりしていくのかい?」


 翁は見えてきたもう一つの扉に手を駆けながら言った。

 木製の扉だ。上の方には鮮やかな色彩を持つステンドグラスが埋められている。それは奥の部屋の明かりを少し受け、床に幾何学的な紋様を描いていた。


「いや、悪いけどすぐに帰らせてもらうつもりよ。生憎な事にこの姿だと落ち着かなくて。ここにいる間は気にしなくてもいいんだけど、戻った時に困るのよ」


 少女は先ほどのコインを翁に渡しながら答えた。確かに、と肯定すると翁は扉をグイッと押す。暗闇に静かな光が溢れた。

 ガラス戸を持った棚。深い茶色の棚。

 その奥できらりきらりと輝くのは大量の小瓶共。夜空を思わせる深縹(こきはなだ)色、早朝の空を現す薄茜、夕暮れの黄昏を思わせる色もあれば、大きな海洋を浮かばせる海色もある。見た限り、決して同じ色は無い。どれもこれも固有の色を持ち、時たまに同じ色かと思うのもあるが、隣に並べればそんな思考は撤回される。


 赤眼の少女はほうっと溜息をつくと素直に感心した。いつも綺麗だと称賛される己の白が、今は酷くくすんで見えた。


「相変らず見事ね」

「手入れは欠かさずにしているからね。ここの部屋は特に最近、出入りが多いし」

「私と賢者様達以外にもここに来る人がいるの?」


 思わず少女は聞き返した。自分達以外にも出入りする人物が現れた、というのは少々意外な事実。それはこの小瓶の使い道を知っている者が、他にもいると言う事で。

 少し、興味が湧いた。


「あぁ、出入りが多いとは言っても年に一回程度だけれど。……この部屋だけで言ったらの話だけどね。それでも君たちが訪れる頻度に比べたら断然多いよ」


 翁は手近にあった小瓶を取った。小瓶の色は、とっぷりとした夜空を思わせる深い藍色。小指程のその瓶は、少女の手の平に置かれるとしゃらんと一つ輝いた。まるで手に取られるのを心待ちにしていた、とでもいう風に。


「賢者様カラーだろう。その子」


 楽しげに翁は言った。


「今すぐ割りたくなるくらいに見事ね。……あら? この液体……昔から入っていたかしら?」


 少女はランプに小瓶を空かした。半分……いや、六割程度までさらりとした液体が入っている。小瓶の色で良く分からないが、恐らく色透明。


「あぁ、それは最近の工夫だよ。前までは空だったからね。賢者様にも教えてあげてもらえるかな」

「どういう工夫?」


 翁は瑠璃色の小瓶を手に持った。好奇心で眼が輝いている少女にも見せ、その小瓶の中にも液体が入っていることを確認させる。そして、色ガラスで一羽の鳥が描かれている蓋に指をかけた。摘まむようにしてそれを取ると、小瓶の中で小さな星がキラキラ舞った。


「手を出して」


 翁は何か掬う様に宙に置かれた手の上で、小瓶を躊躇いなく逆さまにした。さらりとした液体が小瓶から溢れ出た。


「思い出が逃げないようにするための工夫だよ」

「逆さまにする必要はあったのかしら」

「実際に触った方が早いと思って。──どうだい?」

「手が全く濡れないわ。物凄い違和感ね」


 器用に少女は液体を小瓶の中に戻す、という表現は間違っているか。小瓶の口を近づけたら、巣穴に戻る蛇のように液体が小瓶に戻った。


「思い出とか記憶が逃げられないようにするための工夫だよ。実際、使ってみたら逃げ出そうとする思い出はいなくなった」


 長生きをする人がいる。体は衰えないし、姿形も変わることが無い……言ってしまえば化物。そんな者にとって、毎日嫌でも積み重なる記憶は厄介物でしかない。

 どこかで記憶を選別し、捨てなければ、メモリがいっぱいになる。放っておくと寿命ではなく記憶の重みで死んでしまうのだ。

 蓄積できる記憶の容量にも限界がある。それは仕方が無いことであり、諦めるしかないこと。


 ────長く生きたいのならば、記憶を捨てなくてはいけない。でも要らない記憶なんてない、思い出を忘れたくない。でも行きたい。

 そんな矛盾から生まれたのが、この小瓶だ。記憶を捨てるのでもなく、忘れてしまうのでもなく、()()()()。小瓶の中に。


 記憶達は殆どが主に従順だ。でもたまに小瓶なんかに入りたくないという記憶もいる。そういう奴等は小瓶に入る寸前、するりと外の世界に逃げだしてしまう。そして塵となって死んでしまう。小瓶の中に入れられても、最期の足掻きだとでも言う様に自滅する記憶(もの)もいる。


 最悪なのはそんな奴らに限って、とっても大事な思い出だったりするということだ。賢者様はそうやって、大事な思い出を失ってきた。


「使い方はいつもと同じだよ。賢者様にもよろしく伝えといてね。あとこれは君の分」


 翁は少し高い場所に置かれていた小瓶を一つとると、少女の片手に置いた。それは夕焼け空が、稀に持っている見事な緋色の小瓶。少女の双眸の色だった。

 少女は困ったように眉を寄せると言った。


「……私はまだ余裕があるから大丈夫よ」

「一応持っていなさい。そんな余裕があるからとギリギリの生活をしていたら、もしもの時にみんなが嘆くだろう」

「…………はい」


 渋々、とでも言うように少女は自分のポケットに一つ入れた。翁は別の部屋へと繋がる扉を開けながら、少女を見た。その目はどこか悪戯そうである。


「スグリ、少しくらいは時間があるだろう」

「あるにはあるけれど」


 少女は名をスグリと言った。由来はそのまま、植物のスグリだ。真っ赤な実を房状にならす低木樹。静かな宝石のように己を誇示するのだ。

 スグリはチラリと壁にかけられている時計を見ながら続けた。


「今はもう夜中の十一時よ。老人は寝るのが正解じゃなくって?」

「ちゃんと寝ているから大丈夫だよ」


 疑いを隠さない赤眼がじっと翁を見た。誤魔化すように翁は言う。


「こんな真夜中に押しかけて来た人にそんなこと言われてもねぇ」

「本当なら、朝まで時間を別に潰す予定だったのよ」


 スグリは翁から目を逸らすと、手元の小瓶を逆さまにした。小瓶は相も変わらず控えめにしゃらんと言う。スグリは思わずため息をついた。予定が狂ったのは賢者様のせいだ。次の日の昼間に行くと言ったスグリに今すぐ行けと命じたのだ。気分屋にも程がある。

 ──全てはこいつのせいだ。

 小瓶からしたら理不尽な話である。


「朝が来るまでここに居ようと思ったけれど、やっぱり帰るわ。あなたがそうやって引き止める時はろくな事がない。既に今日は厄日よ」


 スグリはくるっと華麗に回れ右した。つられて舞った銀髪の合間から、赤の耳飾りが覗く。今日は寄り道しないでこのまま直帰しよう。そう強く語っていたヒール音は途中でピタリと止んだ。


「……! ちょっと!」


 再び回れ右したスグリは、叫んだ。次いで悔しそうに翁を見る。スグリが指さした場所、入ってきたはずの扉が綺麗さっぱり消えていたのだ。もとよりこんな所に扉なんかありませんでしたけど、とスグリは壁に言われた気がした。小馬鹿にしたように口笛も吹かれた気がした。

 扉があったはずの場所が、柔らかい白の漆喰で塗られた壁に変わっていては、帰りようがない。


 ──嵌められた。


 スグリは思わず床にがくりと膝をついた。こんなのあんまりではないか。止めるにしてももっとやりようはあった気がする。何もこんな超物理的手段に出なくても。


「生憎この部屋に存在できる扉は一つだけでね」


 翁は楽しそうに笑いながら、隣の扉をノックした。翁が扉から目を逸らした時、扉に『バカ』と書かれたことをスグリは一生忘れないだろう。翁が目を向けた瞬間にその文字が消えたことも憎い。


「普通その場から扉は動かないし、自我も持たないわよ!」


 そう叫びたい気持ちをスグリは必死に堪えた。反応したら負けである。相手にしてはならない、例え無機物のはずの扉に煽られても。

 翁はスグリの脇に来ると、屈んで視線を合わせた。


「君達はまだ幼いから、〈黄昏〉の〈蝶〉とやらに会ったことがないだろう」

「せめて若いって言ってちょうだい」


 年齢不詳の翁に言わせれば、スグリは確かに赤ん坊と同じ年齢だろう。この場合、年齢感覚が狂っているのは長生きの翁であってスグリでは無い。強いて言えば、スグリ達は同族と比べたら遥かに長生きしている。これは賢者様やその住処の影響のせいでもあるが。


「会ったことないだろう?」


 翁はギャーギャー喚くスグリに圧をかけるように聞き直した。


「そりゃ無いけれども……それならあの子も呼んだ方が良いわよ」


 狙いを察したスグリはぐっと暴れまわりたい気持ちを抑えた。仕方ないと早々に諦めて翁の隣へと向かう。翁は何を勘違いしたのか、片手をひらひらと振るとスグリをなだめた。


「大丈夫大丈夫、喰われることはないから」

「賢者様に人喰い蝶って散々脅されたんですけど」


 スグリに肉食獣のような鋭い牙があったら、翁の首筋に躊躇いなく向けていただろう。


「大丈夫大丈夫、ここに来るときの彼らはだいたい食事を終えてから来るから。満腹だよ」

「何の猛獣なわけ」


 スグリは今日この日、兎穴を訪れたことを後悔し始めていた。今思えば、急かすだけではなく賢者様も珍しく途中まで送りに来てくれていた。その時点で不穏な空気は感じ取っておくべきだったのだ。あの人のことだ。知っていた……話を合わせていたに違いない。


「大丈夫大丈夫、彼らはちゃんと理性があるから。目の前にあるものすべてを取って食ったりはしないよ」

「大丈夫大丈夫って連呼しとけば誤魔化せると思っているでしょう。そうは問屋が卸さないわよ」


 翁に促されるまま扉の向こうへと足を踏み出す。先程の部屋のどこか温もりを感じるひんやりとした空気とはまた別にこちらははっきりとした冷気を感じた。

 道なりに細い廊下を進み、長く、緩やかな階段を下る。

 暫く無言で時が進む。やがて嗅ぎ慣れたコーヒーの香りが漂ってきた。


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